フランス風懐石料理中華風: 我が家の残る戦争の爪跡

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我が家の残る戦争の爪跡

 昭和20年の1月の空襲に加え、その後、昭和20年3月13日、B29大型爆撃機が100機以上飛来した空襲だけでも6月1日・6月7日・6月15日・6月26日・7月10日・7月24日・8月14日とあったそうです。  

 港区でベビー関連の縫製工場を営んでいた祖父と祖母の言いつけで、私の母は3月13日の空襲後すぐに滋賀県の祖父の本家(近江八幡 市辺村)へ疎開。続いて祖父、祖母も避難してきたそうです。当時の家計を支えていた商売道具ともいえるミシンとそして古いアルバムを数冊・・そのおかげで今の私がいて次の世代に伝える事ができました。


1回目の空襲では当時の家の向かい側までが全て全焼。そして6月1日の空襲では私の家も全て焼けて何も残りませんでした。
 戦争が終わって母は、祖父と祖母に連れられて港区の当時の家を見に行ったそうで、焼け野原と瓦礫が積まれている焼け野原に自分の家の冷蔵庫だけがポツリと立っていたのを寂しそうに話してくれました。

  当時港区は大阪から南方に出兵する兵隊さん達のターミナルでもあり、水や食糧を補給する寄港地の役割を果たしておりその労役に従事を強いていた人足として捕虜収容所が存在していました。
また物資を蓄える倉庫も豊富にあったので攻撃の対象になっていたのでしょう。
その爆撃でくさんの方々が亡くなられその中には当時の私達家族と親交の深かった方々やお世話になった方々が多くおられたことでしょう。
  2008年3月頃から実家の写真を整理していたら数多くの港区での生活を偲ばせる写真が出てきたのをきっかけに当時の住んでいた場所を探すことになりました。残念ながら当時の家は木津川の中でしたがいろんなご縁で毎年6月1日にこの港区で戦難にあわれた方々の供養塔があり毎年ご法要をされていることを知りました。

戦後50回忌までは慰霊塔の前でしたが以降は西栄寺でおこなわれており、この2008年6月に初めて参加させていただきました。 毎年6月1日の11時より行われます。
また2008年7月26日(土)27日(日)の両日、港区の区民センターにて〔戦争展〕が開催されるそうです。





戦争展 (2008/7/26~27)


大阪市港区にある近隣センターで開催されました。今年で28回目となるそうで今年初めて参加させていただきました。主催者側で参加されておられる方はおそらくボランティアだとおもいますが、よくここまで様々な資料が集めてくださいましたと涙ぐむばかりでした。戦争の悲惨さを後世に伝えなければならないっていう使命感がひしひしと感じられるイベントでした。





《B29から撒かれたビラ》

ニッポンのみなさん
戦局は悪くなっています
ガム・テニヤン・サイパン・硫黄島も陥落しました。
無益な戦争を止めて平和な生活に戻りたくはありませんか
アメリカ大統領も平和を望んでいます
よく考えてください
アメリカ合衆国 ツルーマン大統領 1945年

B29から大量のビラが投下された。 もっていると憲兵に咎められた。




我家に残る戦争の爪跡
〔我家で保管している写真です。掲載のため画質を低下させていますが、ご希望の方がおられましたら高解像度写真も用意していますのでお申し出ください。〕



《S14年頃 港区石田呉服町 空襲に備えた練習》
※石田呉服町1丁目と思われます。九洲軒という理美容店の看板が読み取れます。この写真の向い側に私の祖父・祖母と母が暮らしていました。私の祖母が写っています。



《呉一会(石田呉服町1丁目)の旅行》
※場所は不明です。戦争の色が日増しに強くなるにつれ服装が変化してきます。



《呉一会(石田呉服町1丁目)の旅行》
※三重県の二見ケ浦 夫婦岩です。



《呉一会(石田呉服町1丁目)の旅行》
※奈良県若草山です。私の祖父が写っています。



《呉一会(石田呉服町1丁目)の旅行》
※岡山県栗林公園だと思われます。



《昭和20年石田幼稚園》
※私の母が写っています。真ん中の男性は園長先生でしょうか?軍服姿にゲートルを巻かれています。