フランス風懐石料理中華風: 2014-06

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2014 6/29 超高速!参勤交代 鑑賞

超高速!参勤交代鑑賞。

現在の福島県いわき市にあった湯長谷藩が1年ぶりに江戸から戻ってきたその数日後、江戸から連絡が舞い込む・・それは5日以内に参勤交代せよとの知らせが。

どう考えても日数も足らず、貧乏藩であるがゆえにお金が無い。それに人数も足らない。。
それでも江戸にいかねばお取り潰しになってしまう。
奇想天外な方法で江戸へ急ぐ大名をはじめ家老らの奮闘を描く。

何度もくすくすって笑ってしまうポイントがおおい楽しい映画でした。





2014/6/22 愛車の不調対策!

数か月前からなぜかシフトレバーをRにすると、ごくたまにレバーがガクガクって激しく上下します。
はじめてこの症状が出たときは、何かに憑りつかれている?っておもえるくらいに気持ち悪くて・・。
で、いったんNにしてからRにしたり、もう一度PからRにしたら正常に戻ります。
で、ディーラさんにもっていったらたぶん入院?・・
だけど8月が車検だから7月になるまではと我慢してたのですがついに辛抱できなくて。。。。



写真は今の愛車!ランディ君!



はい!
買っちゃいました!
次の車!ヽ(°▽、°)ノエヘヘヘヘ
納車は7月4週目!
免許をとって17年で8台目の愛車です!
詳細は・・また後日!

2014 6/21 歴史と人間 周布政之助

周布は島根県の浜田市にある地名で、豪族益田家の流れを汲んでおり、その先祖は藤原実頼。
長州藩には永代家老は2家あり、一つは福原家で毛利の親戚筋。そしてもう一つは益田家で関ヶ原の戦いで毛利輝元に仕え長州へ移動した。

周布政之助を語るには長州は幕末に大きく二分した事をしる必要があり、これは正義派と俗論派と呼ばれている。これは後に手動を取った正義派による呼称にすぎず、以降の歴史は事ごとく正義派により消されてしまっている。

周布政之助は周布兼翼(かねすけ)、文政6年3月23日(1823年5月3日)生まれ。
しかし3月25日には父が死去、続いて7月9日に兄が亡くなっていることからわずか0才で家督を継ぐこととなる。末期養子のため
家督は半分の68石。馬廻り八組(大組)。

母の実家である長門市 三隅町浅田の集落で幼少を過ごしたため、現在の浅田小学校に像があるそう。

8才~萩明倫館で学ぶ。
21歳~居寮生となる。
24歳~嚶鳴社を設立。(弘化3年)時事問題を討論しあうグループ。
25歳~蔵元検使暫役(出納補佐)
26歳~明倫館拡大
27歳~都講に抜擢(嘉永2年)
31歳~ペリー来航

長州藩は大森海岸警備(今の羽田あたり)にくわえ、三浦半島相模の警備も行う。


当時の長州藩の財政は厳しく、1838年(天保9年)に家老村田清風による天保の改革がおこなわれた。これは非常に急進的で三七ヵ年賦皆済仕法(借金37年払い)等が行われたが、病気に倒れ家老の坪井九右衛門のゆるやかな改革に実権をとられた。その後、後継者である椋梨藤太による安政の改革へ引き継がれてゆく。

35歳~大津郡を分割し先大津へ。(宰判)・・行政区ごとに年貢を集めるSYSTEMで区役所的な感覚。ちなみに市役所は勘定場に相当する。

このころ、鯨の漁獲高が減っていた。これは潮の流れ等ではなく諸外国による捕鯨の影響らしい。

さて、小浜藩武士の梅田雲浜は坪井九衛門へ、長州の産物を上方へ輸送することを提案し実施。
政務やくとなり第二次安政の改革(36歳で安政5年)を実施。
・軍制改革~農民兵の徴用~横浜の交易は失敗するから戦争が起こるかもしれなという考え。
・文武引立
・政治条例と家来中への親愛
・民政の事

周防大島の櫨の実や綿織物を藩直営としたが、実態は商人への販売価格よりも安く買いたたかれ農民は激怒。<悪魔退散一揆>が起こる。

39歳~文久元年 長州は長井 雅楽 航海遠略策を藩是としたものの、2年後には奉勅攘夷に変更!これは破約攘夷であり、楠公湊川の決意で行くという信念で押し通したもの。
武士道が当時の藩士の美学となる。

41歳~5/10 ついに下関で攻撃が開始。
ところが12日には長州ファイブのロンドン密航を行っているところが長州らしい!

40歳~文久2年 梅屋敷事件~横浜へピクニックに来ている西洋人を惨殺するプランが土佐藩士より山内容堂公⇒毛利定広へ漏れてしまい現在の京浜急行 梅屋敷下車、京浜第一国道(国道15号線)歩いて5分ほどにある梅屋敷へ高杉晋作・久坂玄端らを呼び、酒を飲ませながら若殿様自らが説得をした。
そこに周布政之助が泥酔し馬上から『容堂公は攘夷をちゃらかしなさる』と暴言!土佐藩士は激怒。
周布を処分しようとしたが長州藩は周布は処分したといい切る。実はすでに麻田公輔と名を変えている。

麻田は幕府に対し摂海防備対策を説いており細かい条項を提案している。これはなんとか阪神地区を長州管轄にしたいという思い入れがあったらしく、芦屋付近は毛利家にとっては先祖の地。

文久3年8・18の政変から9/1に脱藩後も10/5には復権。
しかし42歳で自決している。

当時の志士の良い相談相手であり先達として慕われたよき先輩というイメージか。

2015 6/8 第21回 三国・アシスト亭

桂 優々 田楽食い

桂雀々さんのお弟子さんで6年目。
テレビ番組の上方演芸ホールで雀々さんの「田楽食い」を思い出される所作口調で
師匠さんと練習をずいぶん積んで来られたのだなと感じました。
将来が楽しみな噺家さんです。


旭堂 南左衛門 般若時の焼き討ち

久しぶりの師匠さん。
<淀君の威勢>からネタを変更されました。
徳川家康や真田幸村がイキイキと動き出しました。


笑福亭 仁嬌 道具屋
軽めの「道具屋」。ポンポンと噺が進み、これくらいの軽妙さがあるとかえって素直に笑えるました。


桂 枝女太 百年目

なんといっても今日の目玉は「百年目」。

元噺は並木正三氏の「手代の当惑」(宝暦12年(軽口東方朔))を元に焼き直しした明和7年上方板「軽口片頬笑(かるくちかたほえみ)」第一巻所収〔うろたえても気転〕を改作したものと思われる。
上方落語の歴史 昭和33年 前田勇著

桂米朝さんの百年目はもう何度も聞いてきました。といっても音源は同じ。
なのでどうしても比較してしまいますが、それでも今日の桂枝女太さんの「百年目」はよく演じられたと思います。
もちろん、今の世には「百年目」という言葉はもはや通じないことから上手くマクラに組み込まれおまくサゲへと繋げられた工夫や、越後獅子のハメモノを再現するために、アシスト亭はじめての生三味線に拘られたこと等大変だったと思います。
旦那さんの赤栴檀と難莚草の件と、そのあとに続く「遠慮は外でするもんや」「ちょうど孫の太鼓があるよってに、ちょっとここで踊ってみてや」の微妙な旦那の心遣いの描写がお見事でした。すこし旦那さんがお若い感じであったようですが、それでも番頭の恐縮したその心理がうまく出ていました。桂文枝さんの百年目は聞いたことの無いのが悔やまれます。本当にお疲れ様でした。
ちなみに帰り際に桂枝女太さんは、「いやぁ・・まだまだです」と言われていたのが印象的でした。



2014 6/1 大阪市港区戦災死者慰霊法要

昭和20年の1月の空襲に加え、その後、昭和20年3月13日、B29大型爆撃機が100機以上飛来し空襲だけでも6月1日・6月7日・6月15日・6月26日・7月10日・7月24日・8月14日とあったそうです。   港区でベビー関連の縫製工場を営んでいた祖父と祖母の言いつけで、私の母は3月13日の空襲後すぐに滋賀県の祖父の本家(近江八幡 市辺村)へ疎開。続いて祖父、祖母も避難してきたそうです。当時の家計を支えていた商売道具ともいえるミシンとそして古いアルバムを数冊・・そのおかげで今の私がいて次の世代に伝える事ができました。
1回目の空襲では当時の家の向かい側までが全て全焼。そして6月1日の空襲では私の家も全て焼けて何も残りませんでした。
 戦争が終わって母は、祖父と祖母に連れられて港区の当時の家を見に行ったそうで、焼け野原と瓦礫が積まれている焼け野原に自分の家の冷蔵庫だけがポツリと立っていたのを寂しそうに話してくれました。
  当時港区は大阪から南方に出兵する兵隊さん達のターミナルでもあり、水や食糧を補給する寄港地の役割を果たしておりその労役に従事を強いていた人足として捕虜収容所が存在していました。
  また物資を蓄える倉庫も豊富にあったので攻撃の対象になっていたのでしょう。
その爆撃でくさんの方々が亡くなられその中には当時の私達家族と親交の深かった方々やお世話になった方々が多くおられたことでしょう。

  2008年3月頃から実家の写真を整理していたら数多くの港区での生活を偲ばせる写真が出てきたのをきっかけに当時の住んでいた場所を探すことになりました。残念ながら当時の家は木津川の中でしたがいろんなご縁で毎年6月1日にこの港区で戦難にあわれた方々の供養塔があり毎年ご法要をされていることを知りました。


来年は70年目。。どうぞ法要の灯が絶えることがありませんよう。



〔 我が家に残る戦争の爪痕〕
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