フランス風懐石料理中華風: 2014

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第9回 イーグル寄席

第9回 イーグル寄席

桂華紋 「道具屋」
旭堂南左衛門 「赤垣の婿入り」
笑福亭仁嬌 「高津の富」
内海英華「女道楽」
桂枝女太 「けんげしゃ茶屋」


2014 11 /9 第36回柳谷観音・泰聖寺講談会

久しぶりの講談会です。
体調をくずしてから、すっかり出にくくなってしまいました。


「六代目横綱・阿武松緑之助」  旭堂 南左衛門
「石塚久四郎」旭堂 南鷹
「水戸黄門・江戸物語」旭堂 南舟
「難波戦記・後藤と塙」旭堂 南斗


旭堂 南左衛門さんの講談はもちろんですが、旭堂 南鷹さんの講談の出来が非常に良かった!
素人意見で申し訳ないのですが、抑揚、メリハリ、引くとこ、押すとこ・・・目の前に石塚久四郎がたしかに居ました!だから講談って素晴らしいんですよね。
貼扇ひとつで戦国時代へひとっとびできるんですから!



2014 11/1 近況2

どうも体調がよくないのです。。

おもいきって会社を3か月くらい休んで治療に専念したら
良くなるのだろうけれど、それもままならない。

なかなか悩ましい状態です。

2014 10/19 第23回三国アシスト寄席

まだまだ体調が芳しくない中での2か月ぶりの落語&講談となりました。
それでもおもいっきり気晴らしになり、多少の無理をしても参加してよかったって思っています。
三国アシスト寄席も今回で23回目となり、本年最後の開演となりました。
秋晴れのせいか若干空席がありましたがそれでも、熱気のある会になりました。

旭堂南斗さん「有馬御難」
笑福亭仁嬌さん「まめだ」
桂枝女太さん「天災」
旭堂南左衛門さん「真柄のお秀」


「まめだ」は<特選!!米朝落語全集 第十四集> で何度も聴いた大好きなお噺。
私的にはこのお噺は落語ではなく、大阪ミナミの民話のようにおもえるようなすごく「しっとり」とした内容です。
悪戯子狸(まめだ)と大部屋役者の息子と膏薬売りの母が織りなす内容で、ふとしたことから、
傷を負った子狸が陰気な少年に化けて膏薬を買いにくるけれどその使い方がわからずに
ついに三津寺さんの境内で絶命。
その噂を聞いてすぐにお寺へ駆け付けた大部屋役者の息子と母とそして和尚さんの会話が
聞かせどころでホロっとさせるヤマ場のシーン。情感たっぷりな観の中に
さやさやと秋風にのって落ち葉がお線香を供えたばかりの菩提の前に集まってくる・・。

上方落語にはめずらしい秋のお噺でした。

2014 10 /2 卑怯者


弁護士事務所から連絡がありました。

私の愛車をめちゃくちゃにした上に、頸椎捻挫でいまだに苦しんでいる加害者に対する
対応が決まったとの事。
保険会社としては、加害者名義の財産は何もないことから動きようがないために
今以上に対応しないとの事。

裁判にも出席せず、その後再三の督促になんらかの申し入れもすることなく
家も車も自分名義ではなく逃げたままで社会的制裁を受けることがないようです。

結局、金も無く、無責任な奴は車に乗るな! 東大阪の〇〇!


http://sweet-mikan.blogspot.jp/2012/07/2012-717.html

2014 10/1 近況

数か月前から色んな予定をキャンセルさせていただいており、
各所にご迷惑をおかけしています。本当に申し訳ありません。

わつか市に四天王寺のお勉強会、そして朝日カルチャーの歴史と人間講座に、泰聖寺さん講談会も彦八祭もことごとくキャンセルです。

というのも8月に引き起こした【急性腎盂腎炎】の余波がまだ続いていて、実は完全に治ったわけではなく、体の中に爆弾をかかえた状態のおかげで、また一つ定期的に通わなければならない病院が増えたためです。

趣味を犠牲にすると近い将来にまぢで私の体が壊れてしまうことから
通院を最優先としたおかげで、お勉強会や落語・講談等、すべての予定を欠席としました。

仕事が早く終わった時にだけ通っている交通事故の後遺症完治のためのリハビリや、
隔週のクリニック通い、そして毎週土曜日のクリニックに毎週のマシントレーニングが入り毎日が大忙しです(;´Д`)

この生活は当分続くようで、早く元気になりたいものです。


2014 9/13-14 余呉キャンプ

今年の余呉キャンプは昨年より数か月遅れで実施!
そのおかげで、7月・8月の土日の雨天を避けることができ、おもいっきりの快晴に恵まれました。

当日10:30に大阪を出発したものの天王山から京都東まで激しい渋滞に巻き込まれ、途中の大津SAも激混みでしたが運よくスムーズに昼食をいただき現地到着は14時前。

◎写真は大津SAからのぞむ琵琶湖の風景


木之本ICで下車、最寄りの大型スーパーで食材を買い込んで目的地の【ウッディパル余呉】へ到着です。





昨年宿泊したロッジと全く同じなので安心!
部屋はとても清潔でお手洗いもお風呂も完備です。


【ウッディパル余呉】 http://woodypal.jp/



2014 9/7 大阪市中央体育館トレーニング室

この数年の怠惰な生活のためか、一念発起してジムへ通うことにしました。
といっても最近みかけるジムは月額費用がそこそこするし
私のライフサイクルからしてどう通ってもひと月に2回が限度。となるとやっぱり公共のジムで
1回利用が可能な施設となります。
そこで目を付けたのがここ!【大阪市中央体育館トレーニング室】
初回講習ということで1時間かけて
ストレッチの後にエアロバイク・チェストプレス・ラットプルダウン・レッグエクステンション・レッグカール・アブクランチの使用方法を教えていただきました。この初回講習が終わっただけで充分に運動をした気分です。
一休みした後にやっぱり気になる下腹部引き締めの為にアブクランチを一杯頑張りました!

なんとか月2回は通うように頑張ります!

2014 8/31 第22回 アシスト亭

早いものでアシスト亭は今回で22回となりました。
この会の趣旨は、師匠さん方各位が落語ブームとなったことで噺数を増やすために
昔覚えられた噺や、最近覚えられた噺を本高座へかけられる前に予行演習されるとの趣旨で、
会場はアシストという喫茶店なので客数に限りがあることと、毎回ステキなむしやしない(おやつ)を出していただけて1500円というリーズナブルさに毎回ほぼ満席となります。
また前座には毎回初々しい噺家さんが登場されるのも楽しみの一つです。
さて、今回のアシスト亭は下記の通り。

林家染八 延陽伯
まだまだ初々しさが残る林家染八さん。
それでもサラブレッドの如く堂々とした延陽伯を演じられました。将来が楽しみな噺家さんです。
桂枝女太 二人癖
きっちりと仕上げておられた感のある二人癖!
「つまらん」「一杯飲める」の応酬がとても楽しかったです。
旭同南左衛門  大石順教尼物語(第2章) 太左衛門橋の逡巡~狐狸窟彦兵衛作
堀江6人斬り事件から3年が経過。芝居裏通りで松川屋の割烹女将となった大石よね。
さまざまなエピソードを軸にした第2章でした。
笑福亭仁嬌 らくだ
弥猛の熊五郎と紙屑屋の会話の対比が非常に面白く、命令される形で紙屑屋が「長屋の月番」「大家」「漬物屋」へ名代として行かされた後、
微妙な力関係が入れ替わってゆく会話の面白さも十分!また威勢の良い前半に対して、どうしても後半は尻つぼみになる話ために
途中で切り上げる場合が多いのですが、本来のお話のサゲまできっちりと演じられました。
1時間程度ネタですが若干短めになったものの笑福亭仁嬌さんのらくだを堪能いたしました。

2014 8/15 復帰

救急処置をしていただく直前の血液検査で、びっくりな数値が出ていました。
CRPが14.7で白血球数も相当多かったらしい。
※ちなみにCRPが15で【重体な疾患の発症の可能性が検討される範囲】らしい。

麻酔だけは何度経験しても不思議。
まるで、私の中の生命スイッチをパチッとOFFられたようにしかおもえず、その間は夢を見ることもなく再びONになるまではまったく時間が経過したという自覚がない。
でも実際は数時間以上経過しているのだから本当に不思議です。

もう、これで最後にしたい。

ホントに。

ええかげんにして・・私のこまった体。

2014 8/9 入院

7日の夕方にいきなり激しい寒さが襲ってきました。

寒くて震えが止まらない。

蒸し暑い倉庫に居たからたぶん
熱中症?
震える手でサイトを調べてみると
体温調整が出来無くなっているようで
早く病院へ行く事を勧める記事が沢山。

脇や首筋を氷で冷やし少しマシになった隙に帰宅する事に。

高速道路だと30分で帰宅できるはず!
ということで、慎重に運転してなんとか自宅の駐車場に着きました。

ところが、身体に力が入らなくて車から降りられなくて迎えに来てもらったくらい体力が消耗していたようです。

すぐに横になり体温は38.7度。

ひたすら水分補給とお手洗いを繰り返して一夜が明けました。

激しい頭痛に定期的にやってくる震えからかかりつけを医院へいったのは夕方になりました。

この時の体温は37.0度。
血液検査用の採血と、点滴をしていただき、熱がさがらない時は連絡とのことで帰宅しました。
しかしその夜も翌朝も激しい寒さがまた襲ってきました。

そして9日の13時30分に異変が起こりました。

尿意があったからお手洗いに行ったのですが、でている感じがなく残尿感が消えたのです。

激しい寒さが襲ってきた時についに家族に説得されてかかりつけ医へ連絡すると、赤血球と白血球に異常があるので
大きな病院へ行く事を勧められたと同時にまたお手洗いへ。

おしっこがまったくでていない!
えぇ?
なんで?あかんがな!

病院へ連絡、タクシーをよび、準備もそこそこにすぐにでかけました。

18時30分。
いろんな救急措置で、待合室にも聞こえるくらいの悲鳴を上げたおかげでなんとか持ちこたえました。

措置は詳しくはかけない位のグロさで(-_-;)

で、そのまま入院に。

一夜が明け平熱のようですがまだ
予断は許さないようです。




2014 8/6 シートカバー!ポチッとしちゃった♪

楽天市場で開催していたお買い物マラソンにあわせて
ついシートカバーを買っちゃいました!


あとで商品のレビューを読んでびっくり!

取り付けるのに色々な工具が必要らしいんだけど、私の家にはなぁんにもない(;´Д`)

しかも取り付けるのに7時間かかった方もおられたようで。。

この週末、チャレンジしてみるけど・・あんまし自身ないです(汗

2014 8/3  当家のしきたり

我が家のしきたりで、毎年8月の第一日曜日は法事です。
これは私の祖父母が亡くなってからずっと続けられており三十三回忌となりました。

通例では三十三回忌をもって最後の年忌にするのですが、当家に来てくださっている尼僧さんとのご縁で来年以降も続けることになりました。

尼僧さんの母と私の祖母が親しくしてくださっていたご縁で今日までそのご縁が続いています。
本当にありがたいことです。

わが家の江州の本家は浄土宗で、本来当家も浄土宗であるべきですがいろんなご縁で曹洞宗式の法要をしていただいておりますが、今回は修証義の中の4章 発願利生と第5章 行持報恩を報じていただきましたがやはり身の引き締まる思いがします。

2014 7/30 第51回 秋季大学 受講申込 受付中



 この数年間、欠かさず参加している四天王寺秋季大学が今年も開催されます。
場所は四天王寺本坊 五智光院で、めったに入ることのできない場所でもあります。
開講挨拶 12:50~13:00 瀧藤 尊淳(四天王寺 執事長)
第1講目  13:00~14:20 千田 稔 先生(奈良県立図書情報館館長)
『亀について考える-飛鳥酒船石遺跡・中宮寺天寿国繍帳・四天王寺亀井堂-』
第2講目  14:40~16:00 筒井 寛昭 猊下(華厳宗管長・東大寺別当)
『東大寺創建と復興』
第3講目  16:20~17:40 小野 功龍 先生(相愛大学名誉教授[元学長]・天王寺楽所雅亮会楽頭)
『「秦姓の舞」~天王寺舞楽の特質』
■お申込み


2014 7/26  8代目愛車 ランディくん♪

8代目の愛車のランディくんとご対面。

灼熱の日、無事に納車式(笑)をすませてきました。




 で、新旧のランディくんと記念写真を撮影して、7代目から8代目へと乗り換えです。


 


ランディはニッサンセレナのOEM車なので特に宣伝もされていないので、
街中でめったに出会うことはありません。
2013年は セレナ96,407台に対して1,555台。
セレナと違い、グレードも3種類しかありませんが、スズキならではの良さがあります。

 第一印象は「車って電化製品なんだ・・」って感じさせるくらいに装備が色々あり
頑張って乗りこなすようになりたいって思っています。

今回の購入タイミングではモデルチェンジしたノアという選択肢はありましたが、
やっぱりランディが好きっ!

今回でスズキアリーナ内環店では4台目の購入で、私のカーライフの半分はこのお店でお世話になっています。これってやっぱ【人】なんですよね!
前任のご担当者さんから、今のご担当者さんいなられたときはなんとなく不安でしたが、
今ではすべてをお任せすることができるご担当者さんの気持ちが通じるサポートがあったから
この車に出会えたんだって感謝しています。今後ともよろしくお願いします。!

スズキアリーナ 内環店
http://s27227294.suzuki-dealers.jp/

2014 7/20 第33回柳谷観音・泰聖寺講談会

第33回柳谷観音・泰聖寺講談会~
太平洋改め旭堂南鷹改名披露&旭堂南青芸能生活10周年記念披露~

会場の13時をすこし過ぎた頃に到着。

ほんの数年前までは、この会場の半分も埋まらなかった事もありましたが
今ではもう常にほぼ満席。やっぱり講談ブームの予兆なのかもしれませんね。

 「太閤の生い立ち」旭堂 南斗
なんとかお聞きしたお話ではあるものの
最近は余裕を感じます^^
 
「わらしべ長者」旭堂 南舟
日本の伝承民話も講談になるのですね!しかも安芸の国から京都清水観音さんという明確な舞台設定までされていて
講談の奥深さを感じました。
 
 <鼎談> 旭堂南左衛門/南鷹/南青
 
南鷹さんの御一門入り!おめでとうございます。
講談を続けていく上で切磋琢磨が自己成長につながる大切な要素になるんですよね。
今後の御活躍を楽し見にしています。
また南青さんの13年目に向けての200万のお話(笑)大変だとおもいますが
ますますのご活躍を期待しています。
最後になりましたが旭堂南左衛門さん!還暦おめでとうございます!赤いちゃんちゃんこ姿が見たいものです^^
これからも御一門をぐいぐいと引っ張っていただき、上方講談だけでなく講談界全体の繁栄を目指してご活躍くださいませ。
 
 「初代淀屋」旭堂 南青
「龍馬翔る・勝海舟との出会い」 旭堂 南鷹
 
ご自身の創作講談の中でも非常にポピュラーなシーンを演じていただきました。
勝さんのイメージはすこし歴史をかじったものであればだれもが描きやすい人物像なだけに
自信家で江戸言葉を巧みに操る勝さんと、意気揚々と現れた竜馬がだんだん勝さんの
魅力に打たれていく、その流れが巧みでした。
 
※参照 歴史と人間 勝海舟
 
まさにお芝居の一シーンを見ているかのような講談でした^^
 
「赤穂義士外伝・天野屋利兵衛」 旭堂 南左衛門
7月3日より【びいなす見聞録 千島列島と神秘のフィヨルド・ロシア探求の旅】で
ペトロパブロフスク・カムチャッキーにいかれたとの事、いろんな楽しいお話を
聞かせていただきました。
 
後半、捕縛された利兵衛の取り調べからエンディングまでは
まさに押し殺したようなタメと情感たっぷりの講談。

途中の緊張したシーンの中に偶然にも鳴り響く雷の大音量があり場内はすごい緊張感に包まれました。




2014 7/19 歴史と人間 大給恒

大給恒(おぎゅう ゆずる)という名前を私は知りませんでした。
このお名前は維新後であり、幕末は松平乗謨(まつだいら のりかた)という名前。

幕末史は薩長を中心とした勝者の歴史であり、幕臣についてはメジャー何処以外には
スポットが当たることはありません。
それだけに魅力のある人物が沢山。この大給恒さんもそんな中のお一人です。


長野県佐久市臼田町には五稜郭があります。というかありました。。
五稜郭と言えば函館が有名ですが長野県にも存在していました。
星形陵堡式の城郭でJR小海線臼田駅下車徒歩15分くらいの場所にあります。

【佐久市ホームページ】

http://www.city.saku.nagano.jp/cms/html/entry/783/262.html





三河奥殿藩はわずか1万6千石の小大名。
大名の格式は【国主-準国主-城主-城主格-無城】で、大給松平家は無城格の大名。
領地は飛び地となっていて岡崎市の奥殿に4千石、そして信州に1万2千石。
ここでいう領地とは土地を所有しているわけではなく、年貢を徴収する権利を有しているという意味で、奥殿藩は代々平和な藩。江戸時代を通じて処刑は2回のみ。


天保10年(1839)11月13日に江戸麻布にある藩邸で生まれる。(高杉晋作さんと同い年)
幼少の頃からとても利発で秀才。
フランス語を学び、特にフランス兵学に興味を示す。

13歳で家督を継ぐ。/20歳で婚姻(下館藩主の姉)


文久3年(1863年)~1月には大番頭(おおばんがしら)⇒若年寄。そして8月には縫殿頭と出世。
幕府には番方組織があり、大番は12組で構成。主戦力を担い老中に属する。平常時はお城の番人。書院番と小姓組番は10組で構成し、馬廻り役等、殿様のボディーガード的役割で若年寄に属する。ちなみに老中は今で言う大臣クラスで奉行らを配下とし、若年寄は副大臣クラスで目付や書院、小姓組を配下としていた。

当時の若年寄の中に積極的な開国は4人。そのため元治元年1月には罷免されたものの、6月には再任されている。しかし乗謨は9月には自らが辞職をしておりそこに時代に逆らう信念を感じる。

文久2年には大名への統制が緩くなり参勤交代も各年ではなくそれよりも国防が優先となることから乗謨は信州に陣屋を移すことを考えた。これは奥殿は東海道に面しており当時の情勢から非常に争いに巻き込まれる可能性があったことやどこかに西洋式の城郭を作ってみたいという乗謨の欲求が強かったのでしょう。

そして文久3年11月には信州佐久の田野口に建設をすることとなった。これは田野口側は城郭ができることを喜んで土地を献上した。しかし藩主が不在となる奥殿藩は激怒、一時的な暴動が起こるがなんとか乗り越えて龍岡城が出来上がった。
67000平方メートル。周囲は700m程度。堀の幅は7m。この城は戦闘用ではなくやはり乗謨の趣味の延長であったのか、裏山に上ると城内は丸見えで、通常星形の鋭角部分に砲台を設置するはずが龍岡城はわずか1機のみ。

1865年 陸軍奉行に任命(5月)当時の幕府はフランスより士官を招いていたことで乗謨は直接フランス語で会話ができた。士官の胸にある勲章に非常に興味を示しこれが将来の伏線となる。
乗謨はちょんまげ嫌いだし、刀の2本差しも気に入らない。サーベル風の刀を帯刀していたらしい。

1866年(慶応2年)6月には老中に大出世。12月には陸軍総裁となる。
老中は15万石~3万石しかなれなかったので乗謨は弱小藩なので、特別的な存在。これは、長州や薩摩にあるような有能なものを積極的に人材登用するという流れがあった。

当時老中は毎日出仕していたわけではなく月番制であったために職務の質に偏りがあった。
また小藩で老中になったのは乗謨だけではなく、もう1名いた。

稲葉正巳(安房館山藩第4代藩主。3代藩主稲葉正盛の長男。)は1万石。

二人で幕府改革を着手!まずは月番制を廃止し五総裁制を導入する。
これは専門分野別に分け今の内閣組織の原型ともいえる。
国内事務総裁は今の総理大臣。会計総裁、外国総裁、陸軍総裁、そして海軍総裁となる。
また大名行列も廃止となった。

慶応2年に4月には若年寄が6人が選ばれたがなんと全員が旗本であり今までではありえない人材の登用。いわば身分の乱発ともいえる。

慶応3年4月には念願の龍岡城が完成!地域住民へらへの見学会等を実施。
そして10月に大政奉還が行われた。
そこで稲葉正巳と松平乗謨の二人は慶喜さんへ面談、有力大名らでの中央集権を提案するもNG。大政奉還では全員が王臣となるが、多くの藩主は【忘恩の王臣よりも、全義の陪臣になる】と反対の声が上がったために、慶喜さんより格大名を説得する役を与えられた。

12月9日には王政復古、そして鳥羽伏見の戦いへと進んで行く。
そして松平乗謨は老中を退役し名前を大給と改める。(2月)
新政府より当然狙われるが、「勤王のほかにニ心無し」と誓詞を提出するも謹慎。
予てから目をつけていた大久保利通は大給恒を参内させ謹慎をとかせた。

そして龍岡城は1871年に解体。その後競売にかけられ、現在は小学校となっている。

大給は明治政府へ出仕。賞勲事務局に勤務。(勲章制作に携わる)

そして明治10年には博愛社の創生に尽力。
尼崎藩主の松平忠興とともに参加しこれがのちの日本赤十字社へとなってゆく。

2014 7/19 スズキランディ C25 とお別れ

2年間ありがとうございました。

いろんな思い出をつくった7代目の愛車【スズキ ランディ C25 】と今日でお別れ。

小雨が降る朝から、撥水洗車をしてきれいにしてからディーラさんへお渡ししました。

2年で3万キロを走破!




当分は代車生活となります。

で・・・もうすぐ8代目の愛車【スズキ ランディ C26】が登場します!

2014 7/8 えぇ?・・車に乗られへんやん。。

 
いつものように早朝6時。
 
車で出勤するために駐車場へ行くと、左前タイヤでセミさんが孵化真っ最中!
 
 
 
えぇぇ?
 
どうしよう。。。
 
やさしーく見守ってたけどどうしようもない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
素手で触るのは怖いし。
 
で、ぽいっちょするのはかわいそうだし。。
 
てなことを考えながら10分経過。
 
遅刻リミットが迫ってきてるので、落ち葉でやさしくツンツンしたら
うまく乗ってくれたのでそのまま近くの木に移動してもらい一段落!
 
今日も素敵な一日になりますよーに(^^)v

2014 7/5 なわて落語会

毎年恒例の落語会。
 このメンバーで前売り2000円は絶対にお買い得!

でも大きな難点が。
 それは全席自由席なので会場2時間前に行ってもすでに10人以上並んでおられ、加熱ぎみ。
数百人が蒸し暑いロビーで長蛇の列。ようやく座席に座れた頃はもうヘロヘロ。。。
指定席にならないものでしょうか。



桂小鯛 平林
小鯛さんはおそらく3回目。田辺寄席(つる)/めふ乃寄席(強情灸)。
威勢も元気も良い 小鯛さんの良さがでていたお噺だと感じました。



桂吉弥 風邪うどん
真室川音頭の出囃子で登場の吉弥さん。
数日前にテレビを賑わした西宮県議さんや小保方さん、佐村河内さんと時事ネタをうまくマクラに
使われてお客様の心をぐっと掴まれました。また三波春夫さんの『船方さんよ』を替え歌に披露。
また夏の売り声から風邪うどんへ。おもいっきり冬の噺ですが、それでもうどん完食の演技が光ります。


桂ざこば 文七元結
まくらではなつかしい月亭可朝さんとの思い出話。 可朝さんらしいエピソードを聞かせていただきました。ネタは何度か聴いたことがある人情話の文七元結。活きな江戸っ子のキップの良さとしっとり感のある元ネタが、新町~長堀橋あたりを中心にした上方版になっていました。
それも途中でざこばさん独特の話術で笑いをひっぱりだすような演出で、しっとり感は無いものの
なんともいえない無骨ながらも人情味あふれる長兵衛さんとなっていました。


桂 南天 動物園

導入の就職条件部分や見せ場である虎の歩き方は割とあっさりと流された感じ。
「こごろうさん時代」になんどか動物園を聞かせていただいた記憶がりますがあっさり感の動物園でした。


桂南光 胴斬り

胴斬りのラストへ向かうシーンから、「みんな、ついてきてますか!」と共に『犬の眼』の噺に大きく転換。そしてまた本題のサゲに向かうシーンへ戻りました。たしかに奇想天外な噺だけにその世界観を周知させるには良い方法なのでしょう。
大喝采のうちに今日の落語会が終了しました。

2014 6/29 超高速!参勤交代 鑑賞

超高速!参勤交代鑑賞。

現在の福島県いわき市にあった湯長谷藩が1年ぶりに江戸から戻ってきたその数日後、江戸から連絡が舞い込む・・それは5日以内に参勤交代せよとの知らせが。

どう考えても日数も足らず、貧乏藩であるがゆえにお金が無い。それに人数も足らない。。
それでも江戸にいかねばお取り潰しになってしまう。
奇想天外な方法で江戸へ急ぐ大名をはじめ家老らの奮闘を描く。

何度もくすくすって笑ってしまうポイントがおおい楽しい映画でした。





2014/6/22 愛車の不調対策!

数か月前からなぜかシフトレバーをRにすると、ごくたまにレバーがガクガクって激しく上下します。
はじめてこの症状が出たときは、何かに憑りつかれている?っておもえるくらいに気持ち悪くて・・。
で、いったんNにしてからRにしたり、もう一度PからRにしたら正常に戻ります。
で、ディーラさんにもっていったらたぶん入院?・・
だけど8月が車検だから7月になるまではと我慢してたのですがついに辛抱できなくて。。。。



写真は今の愛車!ランディ君!



はい!
買っちゃいました!
次の車!ヽ(°▽、°)ノエヘヘヘヘ
納車は7月4週目!
免許をとって17年で8台目の愛車です!
詳細は・・また後日!

2014 6/21 歴史と人間 周布政之助

周布は島根県の浜田市にある地名で、豪族益田家の流れを汲んでおり、その先祖は藤原実頼。
長州藩には永代家老は2家あり、一つは福原家で毛利の親戚筋。そしてもう一つは益田家で関ヶ原の戦いで毛利輝元に仕え長州へ移動した。

周布政之助を語るには長州は幕末に大きく二分した事をしる必要があり、これは正義派と俗論派と呼ばれている。これは後に手動を取った正義派による呼称にすぎず、以降の歴史は事ごとく正義派により消されてしまっている。

周布政之助は周布兼翼(かねすけ)、文政6年3月23日(1823年5月3日)生まれ。
しかし3月25日には父が死去、続いて7月9日に兄が亡くなっていることからわずか0才で家督を継ぐこととなる。末期養子のため
家督は半分の68石。馬廻り八組(大組)。

母の実家である長門市 三隅町浅田の集落で幼少を過ごしたため、現在の浅田小学校に像があるそう。

8才~萩明倫館で学ぶ。
21歳~居寮生となる。
24歳~嚶鳴社を設立。(弘化3年)時事問題を討論しあうグループ。
25歳~蔵元検使暫役(出納補佐)
26歳~明倫館拡大
27歳~都講に抜擢(嘉永2年)
31歳~ペリー来航

長州藩は大森海岸警備(今の羽田あたり)にくわえ、三浦半島相模の警備も行う。


当時の長州藩の財政は厳しく、1838年(天保9年)に家老村田清風による天保の改革がおこなわれた。これは非常に急進的で三七ヵ年賦皆済仕法(借金37年払い)等が行われたが、病気に倒れ家老の坪井九右衛門のゆるやかな改革に実権をとられた。その後、後継者である椋梨藤太による安政の改革へ引き継がれてゆく。

35歳~大津郡を分割し先大津へ。(宰判)・・行政区ごとに年貢を集めるSYSTEMで区役所的な感覚。ちなみに市役所は勘定場に相当する。

このころ、鯨の漁獲高が減っていた。これは潮の流れ等ではなく諸外国による捕鯨の影響らしい。

さて、小浜藩武士の梅田雲浜は坪井九衛門へ、長州の産物を上方へ輸送することを提案し実施。
政務やくとなり第二次安政の改革(36歳で安政5年)を実施。
・軍制改革~農民兵の徴用~横浜の交易は失敗するから戦争が起こるかもしれなという考え。
・文武引立
・政治条例と家来中への親愛
・民政の事

周防大島の櫨の実や綿織物を藩直営としたが、実態は商人への販売価格よりも安く買いたたかれ農民は激怒。<悪魔退散一揆>が起こる。

39歳~文久元年 長州は長井 雅楽 航海遠略策を藩是としたものの、2年後には奉勅攘夷に変更!これは破約攘夷であり、楠公湊川の決意で行くという信念で押し通したもの。
武士道が当時の藩士の美学となる。

41歳~5/10 ついに下関で攻撃が開始。
ところが12日には長州ファイブのロンドン密航を行っているところが長州らしい!

40歳~文久2年 梅屋敷事件~横浜へピクニックに来ている西洋人を惨殺するプランが土佐藩士より山内容堂公⇒毛利定広へ漏れてしまい現在の京浜急行 梅屋敷下車、京浜第一国道(国道15号線)歩いて5分ほどにある梅屋敷へ高杉晋作・久坂玄端らを呼び、酒を飲ませながら若殿様自らが説得をした。
そこに周布政之助が泥酔し馬上から『容堂公は攘夷をちゃらかしなさる』と暴言!土佐藩士は激怒。
周布を処分しようとしたが長州藩は周布は処分したといい切る。実はすでに麻田公輔と名を変えている。

麻田は幕府に対し摂海防備対策を説いており細かい条項を提案している。これはなんとか阪神地区を長州管轄にしたいという思い入れがあったらしく、芦屋付近は毛利家にとっては先祖の地。

文久3年8・18の政変から9/1に脱藩後も10/5には復権。
しかし42歳で自決している。

当時の志士の良い相談相手であり先達として慕われたよき先輩というイメージか。

2015 6/8 第21回 三国・アシスト亭

桂 優々 田楽食い

桂雀々さんのお弟子さんで6年目。
テレビ番組の上方演芸ホールで雀々さんの「田楽食い」を思い出される所作口調で
師匠さんと練習をずいぶん積んで来られたのだなと感じました。
将来が楽しみな噺家さんです。


旭堂 南左衛門 般若時の焼き討ち

久しぶりの師匠さん。
<淀君の威勢>からネタを変更されました。
徳川家康や真田幸村がイキイキと動き出しました。


笑福亭 仁嬌 道具屋
軽めの「道具屋」。ポンポンと噺が進み、これくらいの軽妙さがあるとかえって素直に笑えるました。


桂 枝女太 百年目

なんといっても今日の目玉は「百年目」。

元噺は並木正三氏の「手代の当惑」(宝暦12年(軽口東方朔))を元に焼き直しした明和7年上方板「軽口片頬笑(かるくちかたほえみ)」第一巻所収〔うろたえても気転〕を改作したものと思われる。
上方落語の歴史 昭和33年 前田勇著

桂米朝さんの百年目はもう何度も聞いてきました。といっても音源は同じ。
なのでどうしても比較してしまいますが、それでも今日の桂枝女太さんの「百年目」はよく演じられたと思います。
もちろん、今の世には「百年目」という言葉はもはや通じないことから上手くマクラに組み込まれおまくサゲへと繋げられた工夫や、越後獅子のハメモノを再現するために、アシスト亭はじめての生三味線に拘られたこと等大変だったと思います。
旦那さんの赤栴檀と難莚草の件と、そのあとに続く「遠慮は外でするもんや」「ちょうど孫の太鼓があるよってに、ちょっとここで踊ってみてや」の微妙な旦那の心遣いの描写がお見事でした。すこし旦那さんがお若い感じであったようですが、それでも番頭の恐縮したその心理がうまく出ていました。桂文枝さんの百年目は聞いたことの無いのが悔やまれます。本当にお疲れ様でした。
ちなみに帰り際に桂枝女太さんは、「いやぁ・・まだまだです」と言われていたのが印象的でした。



2014 6/1 大阪市港区戦災死者慰霊法要

昭和20年の1月の空襲に加え、その後、昭和20年3月13日、B29大型爆撃機が100機以上飛来し空襲だけでも6月1日・6月7日・6月15日・6月26日・7月10日・7月24日・8月14日とあったそうです。   港区でベビー関連の縫製工場を営んでいた祖父と祖母の言いつけで、私の母は3月13日の空襲後すぐに滋賀県の祖父の本家(近江八幡 市辺村)へ疎開。続いて祖父、祖母も避難してきたそうです。当時の家計を支えていた商売道具ともいえるミシンとそして古いアルバムを数冊・・そのおかげで今の私がいて次の世代に伝える事ができました。
1回目の空襲では当時の家の向かい側までが全て全焼。そして6月1日の空襲では私の家も全て焼けて何も残りませんでした。
 戦争が終わって母は、祖父と祖母に連れられて港区の当時の家を見に行ったそうで、焼け野原と瓦礫が積まれている焼け野原に自分の家の冷蔵庫だけがポツリと立っていたのを寂しそうに話してくれました。
  当時港区は大阪から南方に出兵する兵隊さん達のターミナルでもあり、水や食糧を補給する寄港地の役割を果たしておりその労役に従事を強いていた人足として捕虜収容所が存在していました。
  また物資を蓄える倉庫も豊富にあったので攻撃の対象になっていたのでしょう。
その爆撃でくさんの方々が亡くなられその中には当時の私達家族と親交の深かった方々やお世話になった方々が多くおられたことでしょう。

  2008年3月頃から実家の写真を整理していたら数多くの港区での生活を偲ばせる写真が出てきたのをきっかけに当時の住んでいた場所を探すことになりました。残念ながら当時の家は木津川の中でしたがいろんなご縁で毎年6月1日にこの港区で戦難にあわれた方々の供養塔があり毎年ご法要をされていることを知りました。


来年は70年目。。どうぞ法要の灯が絶えることがありませんよう。



〔 我が家に残る戦争の爪痕〕
http://sweet-mikan.blogspot.jp/p/blog-page_7391.html



2014 5/25 第32回柳谷観音・泰聖寺講談会 ~真田幸村・大坂入城400年記念~


開場の30分ほど前に到着。
その後続々とお客様がお越しになり38名!
会場は30名限定なので超大入り満員の講談会となりました。

「関東軍総敗軍」旭堂南斗
「般若寺の焼討ち」旭堂南舟
「大助駿府の使者」旭堂南青
「槍摺りの鎧」旭堂南左衛門


終演後はいつもの茶話会ではなく「徳川家康をののしる会」を開催!
3代目南陵さんの発案で脈々と受け継がれている会との事。



家康のここがキライ!というお題でまぁ色々と出てくる!
上方ならではのイベントです(笑)
2016年の大河ドラマ「真田丸」では上方の講談師を絶対に出演させるべきでしょう。
これほどまでに大坂の陣に精通している方々はありえない。。
もしNHKの方がこのBLOGをご覧いただいているのならぜひご検討ください。


それにしても講談会にたくさんのお客様が来てくださるようになり
本当にうれしい限りです。

2014 5/24 第71回国立文楽劇場寄席 上方演芸特選会

久しぶりの国立文楽劇場。

地下鉄日本橋から近くという便利な立地だけれど愛車で移動のために、いつも駐車場で苦労します。

今回はラッキーな事に、真裏にある¥400/1hの駐車場が空いていてラッキー!
開場1時間半前には余裕で到着。




「落語」笑福亭 喬介 金明竹
「曲芸」揚野 バンリ  曲芸
「浪曲」春野 恵子  両国夫婦花火
「講談」旭堂 南左衛門  徂徠豆腐

「落語」桂 楽珍 蒟蒻問答
「浪曲」松浦 四郎若 応挙ゆうれい図
「漫才」三吾・美ユル 漫才

上方の名人芸が勢ぞろいというなんとも贅沢な会。

前座の笑福亭 喬介さんはほんとに久しぶり。
その明るい陽気なキャラで会場は笑い声に包まれて行きました

ネタは私の大好きな金明竹!

http://sweet-mikan.blogspot.jp/2011/12/2011-1211.html

揚野 バンリさんのジャグリングはおもいっきり新鮮!失礼な話で恐縮ですが先日某場所で見た路上で行われている大道芸とは大違い。その緊張感と軽妙なトークの掛け合わせが心地よい。

半年ほど前に入手した初代幸枝若さんの数枚のCDから浪曲の面白さに目覚めた館のある私。春野 恵子さんも松浦 四郎若さんもとても興味深くそれぞれの世界にすっと入って行けました。

さていよいよ旭堂 南左衛門さんの登場!ベストなタイミングで「まってました!」の声がかかりました。この徂徠豆腐はもう何度も聞かせていただいたはずなのに、会場の空気感が普段の講談会では無いために不思議な緊張感が漂っていました。さすが大喝采のうちに終了。

桂 楽珍さんは田辺寄席等で何度か楽しませていただきましたが、まぁさすがに面白い方!徳之島ネタで盛り上がったせいか、ネタはうまく短縮して大爆笑で終了。

三吾・美ユルさんの漫才はナマでは初めてです。コントや早口な漫才が多い中で脈々と続いている上方のしゃべくり漫才の三吾・美ユルさんの漫才はテレビの演芸番組で見た記憶があります。
かしまし娘さんやフラワーショー、宮川左近ショー等のネタはおもわず懐かしくまた、親子であることをうまく漫才に取り入れられて大喝采で演芸会は無事終了となりました。


上方ならではの演芸の数々!また機会がありましたらぜひ参加させていただきます。


2014 5/23 幕末維新の城 - 権威の象徴か、実戦の要塞か

一坂太郎先生の新刊が発売になりました。

amazonでぜひお買い求めくださいね!



2014 5/18 第六回会佛願寺講談会

第六回会佛願寺講談会
 
午前中は7月に開催されるなわて寄席のチケットを購入するために四条畷へ。
そのまま一路大和高田へ!おもっきり北→南の大移動となりました。
定刻より1時間ほど早く到着したもののお客様が次々とお越しになられ50人以上の大入り満員状態。
 
定刻となり「太平洋改メ旭堂南鷹改名披露口上」が始まりました。
南鷹さん記念すべき口上は南青さんの司会。南左衛門さんのご挨拶では
南鷹さんのお名前の由来は、いろいろと宇紆余曲折あったが鷹揚な気持ちで構えていただきたいとの事、
私もぜひ些細な事にこだわらずゆったり、のびのびと講談界の将来を担う講談師さんになって欲しいと願っております。
 
「怪談・江島屋騒動」 白夜亭 一林
いつもの落ち着かれた口調以上に今日はゆったりと噛みしめるように読まれた一林さん。
情景たっぷり・・・その所作、表情もお見事!
 
「安倍晴明伝」旭堂 南青
マクラからググっと観客をお話に引き込む南青さん。
爆笑からそのまま本題へ・・そしてマクラで振った話に戻ります。
 
「難波戦記・大助駿府の使者」旭堂 南鷹
はじめて南鷹さんの講談を聞かせていただきました。
古典は久しぶりであるとの事、きっとだいぶお稽古をされたのでしょう。
その苦労を感じさせることの無い見事なお話でした。
南鷹さんの描かれる家康・幸村・大助はそれぞれの表情や口調がそれぞれが違い
明確なおかげでスッとお話の世界に入って行けました。
 
「西行法師・鼓ケ滝」  旭堂 南左衛門
7月にフィヨルドツアーに行かれるそうで、その繋がりから、豪華客船飛鳥でのクルージングでの
南青さんとの思いで話をされました。
本題の鼓ケ滝のお話は何度か講談、落語にテレビ等でもおなじみなネタ。
それでも毎回新鮮に楽しませていただくことができます。

2014 5/17 歴史と人間   アーネスト・サトウ

今回の大河ドラマの次の2015年は「花燃ゆ」で松陰先生の妹がヒロインだそう。
で、再来年の2016年は先日発表がありましたが三谷幸喜さん脚本の「真田丸」。
真田幸村が亡くなって401年の記念すべき年に・・・・はぁ?・・・?
401年?むちゃくちゃ違和感を感じているのは私だけでは無かったようです。
噂では震災の復興をテーマに2013年の「八重の桜」はまだ良かった。
そして2014年の姫路城のリフレッシュ公開と合わせた軍師官兵衛VS大阪の陣が勃発した真田幸村となるかの対決で
大阪方は【真田幸村を大河ドラマにする会】を発足していっぱい署名を集めてきたけれど
残念ながら軍師官兵衛に決定。。
そこで不思議な・・とっても不思議なことが起きました。
どこからか、松陰先生をテーマに大河ドラマを作りなさいってお声があったようです。
数回前の講義で、吉田松陰先生が一時的に書籍として取り上げらた時期があると言われていました。
強烈なまでの尊王思想で過激的であるが故に斬首となり罪人となったが、
ある時期から神とまでに奉られている松陰先生の言葉が修身の教科書に載ったそう。
そして数年後にも掲載されるらしいですが・・そのもてはやされた時期は?・・・さぁいつでしょう。。
中国やロシア、北朝鮮のキナ臭い動きを鑑みて集団的自衛権の行使容認で憲法解釈の変更を唱えた事になにか関係があるのかも?


アーネスト サトウはSir Ernest Satow で1843年ロンドン生まれ。
Satowの父はドイツ東部からの移民。佐藤ではない。。

18歳の時に兄が図書館でローレンスオリファント著のエルギン卿遣日使節録を読む。この本には日本は東洋のおとぎの国のように書かれていた。
また、ペリーの書いた書物も読んでいる。
運の良いことにUCL(大学)で中国と日本へ行く学生募集の広告を見て即応募!主席で合格している。

1861年8月に任命され、まず北京に数か月滞在。
今からみると変なのですが、日本語をマスターするためには中国語をマスターする必要があるとされていたらしい。これは当時の常識との事。。

1862年9月に日本へ。通商条約後なので当時の横浜の印象は「外交官の掃き溜め」とのこと。

1861年に品川にあったイギリス公使館が襲撃を受けて横浜へ逃げている。これをきっかけに当時の外交官のオールコックは本国へ帰国。そして代理として軍人の〔ニール〕が来日。東禅寺を公使館としたが1862年にまたもや襲撃されている。これは日本人警備員が外人を殺害している。

そしてサトウはこのニュースを北京で聞いている。日本の治安に不安を抱いたサトウは鉄砲を購入、これは明治2年まで常備していた。

1962年9月には領事館付日本語学生という肩書で来日。

当時、品川御殿山に領事館を幕府により新築建設中。
ここは上野に並ぶ桜の名所でもあり東京湾を見下ろせる軍事的な要所。
もちろん孝明天皇は建設に大反対。ニールに中止を申し入れたがもちろんNG。
※実はこの交渉の際に幕府は「朝廷と戦争になったらイギリスは幕府側についてくれるか?」という交渉もされていたそう。
そして3日後には放火事件が発生!犯人は不明とされてるが実は伊藤博文ら13人は犯人。もちろんニールは幕府が裏で糸を引いて焼かしたのではないか?と疑っていた。

流暢な日本語のサトウはアメリカ宣教師のブラウン氏・ヘボン氏に習っていた。
裏話でサトウは芝居を見に行ったそう。
当時は外国人料金で法外な値段でありしかも悪い席。
その不平等さを流暢に啖呵を切ったらしい。小屋主は、サトウがその良い席に座るのなら芝居をはじめない!と言ったもののついに根負けしたらしい。それくら日本語は流暢。。

8/21に生麦事件が勃発。これはサトウにとっては日本人の考え方をしるチャンスと捉えていた。そして薩英戦争が始まる。
ここで参考になるのは「一外交官の見た明治維新」この書籍は長い間出版禁止。おもいっきり孝明天皇の崩御されたことも書かかれている。。割愛された書籍をへて岩波より完全版が発行されている。

今日の講座では、この「一外交官の見た明治維新」を読みながら日本側の記述と対比して薩英戦争のその捉え方の違いを確認していきました。

この戦争を通して薩摩は英国に急接近。留学生派遣や軍艦購入へ進んで行くと同時に長州も門戸をひそかに開いているのが面白い。

2014 5/16 「お家さん」

読売テレビで放映された「お家さん」を鑑賞。数分間の出だしをみて思い出しました!
 あ・・・私・・・そういえば城山三郎さんの「鼠」!若いころに読んでいました。







ドラマの中の「鈴木よねさんと金子直吉さん」はとっても新鮮に脳裏に描かれました。

明治7年はおもいっきり幕末の余波が吹き荒れる頃に創業された小さな砂糖問屋。
一代で築いた鈴木商店店主の金子岩次郎と婚姻したよねは、
当時の風潮であった従業員は徹底的に使い倒すという店の方針に逆らい
人こそ財産であり待遇の改善を行う。

土佐から縁があって鈴木商店に入社した金子直吉との出会いがあったものの、
岩次郎に嫌われ社を後にするがよねが土佐まで迎えに行きなんとか思いとどまらせる事に。
そんな中、数年後、店主が急死した後は店をたたむものと思われたがなんとよねが店主となり
鈴木商店を引き継ぐこととなりました。

商才のあった金子直吉を中心にすさまじい勢いで商いを拡大。

そしてついに日本を代表する総合商社に成長。そんな鈴木商店を不幸が襲います。
実話をもとに明治初期~昭和初期を駆け抜けた鈴木商店の
一部分をドラマでは知ることができました。


また城山三郎さんの「鼠」では米騒動の原因となったのは鈴木商店による米の買い占めによるとされていた風潮を三井と朝日新聞による関与があったと結びつけています。

そして 今、栄華を誇る大企業の数々は鈴木商店につながっているのです。

金子直吉氏の句 <初夢や太閤秀吉那翁 >

その壮大さと自分にはできない事が無いという無限の可能性のその力強さを感じます。


鈴木商店ミュージアム
丁稚が創った「国家予算を超える会社」
金子直吉伝

2014 5/7  サンボアの思い出

事情があり詳しいことが書けずに残念だけど、今朝の読売テレビで放映された『カレー特集』。
メインが松尾貴史さんなので、ひょっとしたら・・と思いましたがやっぱ出てきました!
西宮北口にありました『サンボア』。

あきらかに入店を拒むかのような古びたショーウンドー横の内開きの戸。
一種独特の店内の臭いが立ち込める。
そんな店内は薄暗くカウンター席のみで10席程度で、店内の壁の上には赤い缶入りのカレー粉が並んでいる。

当時メニューは二種類で『インベロ』と『ピラフ』で値段は250円。
インベロは白いごはんの上にカツが入っているかいないか未だにわからないカツが数切れ乗っていてシャバシャバのカレーがかかっている。その横にはキャベツの千切りと、フレンチドレッシング。
ピラフは型押ししたご飯を卵でかすかに巻いように見える上にカレーがかかっていましたが
私が通い始めてすぐにピラフは無くなりインベロのみとなりました。

銀色の楕円形の浅いお皿に盛られたカレーは本当に不思議な味で
初めて行ったときの正直な感想は『こんな不味いカレー屋へは二度と行かない!』でした。
ところが数日経つとあの強烈な味が思い出されてきて、猛烈に食べたくなってくる。
で、その時の感想は『やっぱ、美味しくない』と再確認。

ところがなぜか数日後になると強烈に食べたくなってきて
そして3回目を食べた時はもう中毒で、毎日でも食べたくなるそんな不思議な味でした。
個性的なおばちゃんのその高い早口なしゃべりと、厨房で調理するめったに店頭には姿を見せないご主人とのお二人のお店できりもりされているお店ですが決して繁盛している風ではなく、
月に何回か開催される西宮競輪の時に入店しようとした中年の男性に対して
『うちの店は学生専用の店やからあかん』と入店を断っているところを見かけたことがあります。

そんなおばちゃんの手を煩わせないためにもたしか『お水のお代わりは禁止』というローカルルールがありましたっけ。


サンボアについて書かれているサイト
『私たちのサンボア』
そんなサンボアのカレーが芦屋に復活したらしい!
これは絶対にいかなきゃ!

まっててね!愛しのインベロ!



2014 5/4 真田祭と食彩館

毎年ゴールデンウイークは和歌山県九度山町で過ごしています。
真田三代が過ごされた九度山では真田祭が開催。同時に信州上田市や今年は大阪市の天王寺公園でも開催されていますが
やっぱり九度山町が大好きです。
 
この4月末には念願の道の駅がオープンしたこともあり大盛況の人出。
そう規模は大きくないのですが、この辺りにお住いの方々は日々のお買い物をするところがないことから
産地直結型のスーパー業態の[よってって]をメインに展開し利便性の向上に貢献しているようです。

 
定刻になり、いつもお元気な岡本町長さんとお写真を撮らせていただいたのちに
開会式を経て真田鉄砲隊の演舞が開始!その迫力は満点でした!










 
お昼ご飯はもちろんいつもの食彩館へ。
食べログに掲載されたようでさっそくカキコしました!
お近くにいかれた節はぜひお寄りくださいませ^^
 
 



2014 4/26 滋賀県のお出かけ【ブルーメの丘・太郎坊宮】

今のお仕事に就いてからゴールデンウイークにはまったく縁がない私ですが
さすがの良いお天気に背中をおされてどこかへふらっと出かけたくなりました。
目指すは一面の菜の花畑!
ありました!滋賀県ブルーメの丘!大阪から名神で2時間もかからずに到着です。




ゴールデンウイークということで、家族連れで大賑わい!
今の時期は満開のチューリップ畑だけでなく目的の菜の花がわんさか!
おもいっきり癒されてきました。










で、次に向かったのは車で15分ほどの場所にある【太郎坊宮】さん。



写真の山の中腹あたりにあるお宮さんで正式には阿賀神社さん。
実は私がまだ小学生の頃、いろんなご縁でこのお宮さんには
何度か来たことがあり思いで深い場所です。

大阪弁のイントネーションで「たろぼーさん」と呼んでいましたww
いまはすぐ本堂の下まで車でいけるので大丈夫なのですが
もちろん当時はそんな駐車場はありませんので700段以上の石段を登っていったのを覚えています。
本殿の手前に巨岩(男石・女石)があるのですが子供のころはその岩の間を通る時に
悪しき心の者が通るとと途中で閉まると思い込んでいたようです









眼下には滋賀県ののどかな風景が広がります。



2014 4/19 歴史と人間 真木和泉

久留米藩21万石の大名、有馬家の家臣だが、本職は水天宮の神主さん。
水天宮さんは水難避けの神様で、本宮は久留米にあります。
東京にあるのは、久留米藩藩邸の中にお祀りしていた宮がそのまま残ったのもの。
大阪には末社がキタの露天神さんにあります。

真木和泉は22代目となり、その祖先は平清盛につながっているとか。
150石の馬廻り役なので良い暮らしをしていたのでしょう。諱は保臣(やすおみ)で
文化10年3月7日(1813年4月7日)生まれ。

神職が本職なために非常に保守的な考えで天皇が政治を行う王政復古(復古論)が強いために古いタイプの志士と言える。
実際に維新を行った際の政治の進め方のモデルについてを過去の日本に求めた時に
考えられるのは建武の新政・・これはどうもイメージが良くない。。( 後醍醐天皇は朝廷の政治を復権しようとしたが、1336年(建武3年)に足利尊氏により政権崩壊)
つぎに大化の改新。。(中大兄皇子(天智天皇)が蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした。首都をを飛鳥から難波宮に移し、飛鳥の豪族政治から天皇中心の政治へ移行した。)これもどうも血なまぐさい。。なので登場したのが神武天皇をモデルにした明治国家を目指した。

和泉としては、徳川幕府は全面否定!天皇を崇敬。自らが政治を行うことを理想とした。
とくに影響を与えた書物は「絵本楠公記」。これが思想の基礎を決定し楠公さんを崇拝していた。

11歳で父が死去。
本来、江戸政権の神職でもお寺が仕切っている檀家制度に属しているために仏式での葬儀がきほんではあるが、和泉はむりやり神式で葬儀を執り行った。

32才
水戸学の影響が強く、実際に水戸まで出かけている。
水戸学は、徳川家も天皇崇拝を前提としているが、和泉の意見とは食い違ってる。

34才
藩政改革の意見書を提出。
徳川を無くし神代の時代へ戻るべきで言論を開き、久留米藩を王政復古のモデルにしようという内容。
この意見書を懇意にしていた藩主の有馬頼永は取り上げたものの25歳で急死。藩主は弟の頼咸(よりしげ)となり、彼は和泉の考えを天保学と呼び危険視していた。
その後、政治を混乱させたとの罪で嘉永5年(40才)で蟄居となる。
嘉永6年6月の黒船騒ぎの時、8月には山梔窩(さんしか)〔くちなしのや〕と名付けその後11年も住み暮らしている。


さて、世間では開国したことにより輸出入のバランスが崩れ、物価が上昇!
五品江戸廻送令が出たものの、実際は横浜へ直で持っていくことで利益を上げた商人が続出!
これは生糸、雑穀、水油、蝋、呉服の五品目は問屋を介して販売すことを義務付けた法令。
長野県や群馬等の生糸産地より横浜へ行く裏道は現在の東京の町田市を通る必要があり、この道は現在は「幕末のシルクロード」と言われているそうですがオカルト的な話も多いようです。

ここで一坂先生より、来月発売の〔幕末維新の城〕についてのお話があり、いかに当時の生糸相場の暴騰により利益をあげた商人がいたかという実例をお聞きしました。

さて、蟄居も終盤の1861年12月に清河八郎が訪ねてきた。
幕府の弱体化や政治の混乱を説いたことから触発され〔義挙三策〕を書く。

上策は、諸侯義挙を進めて事を挙げる。
中策は、諸侯の兵を借りて事を挙げる。これは大阪城、二条城を乗っ取り。。。
そして下策は義徒を募る策。現代の感覚からすれば、とんでもない作戦でびっくり!
新政権樹立のためには京都は焼け野原になっても良いという感覚。。
〔経緯愚説〕はおもいっきり天皇崇拝で神武天皇政権をイメージさせている。

2か月後には蟄居を抜け出し挙兵をするという噂の島津久光に会いに行くもNG!そのまままた久留米で拘置。その後出獄の後、寺田屋事変が起こりその後幽閉生活。
八月十八日の政変により七卿とともに長州へ・・。
そして禁門の変へ参加したものの追い詰められた天王山で切腹となった。

辞世の句が小さな短冊に書かれて木につるされていたそう。

大山の 峰の岩根に埋めにけり 我 年月の大和魂

2014 4/4 交通事故

通算4回目の交通事故にあいました( ;∀;)

今までの事故をまとめてみるとこんな感じ。。


2010年1月 某川の土手道で信号待ちの時に追突される。。
2012年4月 大阪市内で信号待ちの時に追突される。。
2012年7月 八尾市で信号待ちの時に追突される。。

そして今回も。。

2014年4月 八尾市で信号待ちの時に・・・となったのですが
今までとはちょっと状況が違い、対向2車線の交差点で信号待ち。

乗用車が、なぜか歩道を走ってきて、その車が車線に戻るときに
私の愛車の左前にぶつかって走りさろうとしていました。

クラクションを鳴らし続けて追いかけて、数百メートル走行後に
停車。。

てな感じです。


ぶつかられた瞬間は、正直な感想・・・「あ~またかいな。。。」って思いました(;^ω^)

で、19日にようやく愛車が復活!

愛車くん。。痛い目にあってしまったね。。ごめんね。。


2014 3/23 更新の遅れ・・いいわけ。。

さすが期末ですね。
今年は4月からの消費税UPということで、連日超早朝に起床して15時間後に帰宅。

こんな状態が3月にはいってからずっと続いているためにBLOGの更新がおもっきり遅れています。

なので基本土日もドタバタな私もちょっとお疲れ気味。

更新が遅れちゃってもうしわけありません。。

2014 3/15 歴史と人間 近藤勇

歴史好きな人がきっと見ている「BS歴史館」が急に中止となり新番組が始まるそう。
4月14日の放映で一坂先生ご出演とのこと!見逃せません

また2015年の大河ドラマの「花燃ゆ」の制作発表会の資料をいただきました。
ご存知、吉田松陰先生の妹の文が主人公。演じるのは井上真央。。
さぁ・・どなることやら。。

また再来年より道徳の教科書に吉田松陰先生が取り上げられるらしい。これは戦前の修身の教科書依頼とのこと。
松陰先生は私も大好きだけど、強烈な天皇崇拝部分のみを取り上げる描き方には問題があるとおもう。一坂先生いわく松陰先生が強烈に取り上げられた時代があるという。
それは昭和11年~19年。この時代にたくさん出版されたがどれもクズのような転載、再掲載の内容ばかりで、当時の時代性に沿った内容であったらしい。

新撰組は思想のない単なる人斬集団でそこには政治的なビジョンなんでない!とされていた。
そのためまったく研究的な価値がないとされていたが近年はちょっと趣が変わってきた。

私を幕末史に夢中にさせるその魅力とは、その不可思議な点にあるとおもいます。
長州藩はその成り立ちから公家の流れを汲んでいるけれど朝敵となり、そして官軍となる。。
幕府の中枢であった慶喜さんやその成り立ちから忠誠を尽くした会津藩がいつのまにか朝敵となる。。これはひとえに大きな計り知れない歴史の流れがあり、どちらが良いか悪いかだけでは判断できない点にあります。
今日の近藤勇もこの大きな歴史に流された人物です。

天宝5年1834年 武州多摩川調布村に生まれた近藤勇。宮川家の三男で、家は豪農。
よく苗字について言われるが苗字は殆どの人は持っていた。ただ公認さえていなかっただけ。
この地域は天領だけど関八州で治安がよろしくないエリア。よく講談や浪曲で語られる股旅物のお話の「天保水滸伝」「座等市」や用心棒のお話でも登場している。
そのため農民らも警護のために剣術の稽古をしており天然理心流が盛ん。

嘉永2年~近藤周斎の養子となり理心流を継ぐ(近藤は4代目)となり試衛館を造った。

文久3年2月に「浪士組」の募集が行われる。
これは当時の危険分子であった不平浪士を集めて京都へ送り家茂の警護をさせるのが目的であった。そのため試衛館のメンバーも多数参加。

小石川にある徳川家の菩提寺伝通院に参集し2月23日に入京。壬生村へ分宿。近藤勇は八木家に泊まる。

ところが実際の目的は違っていた。
すぐさま御所に対し尊王攘夷の建白をおこなっている。その内容は家茂の上洛に際し攘夷の周旋を行い尊王を貫くことや、幕府のおかげで入京したけれども天皇のために働くという内容。
もちろん天皇は大感激!

2月29日には速やかに攘夷を行えという勅とともに、清川らは生麦事件の対応のために江戸に帰ることに。もちろん近藤や芹沢らは大反対。
そのため京へ残る残留組の16人以外は全員江戸へ帰ってしまった。
3月10日には松平容保に対し、京都へ残りたい旨の嘆願書を提出。それは天皇の守護や将軍上洛の警備と攘夷の実施を旨として12日に受理され正式にOKがでた。

3月23日には、16人が24人に増えた。
ドラマでは2グループだが実際は3グループあった。
それは試衛館メンバー・水戸浪人中心の芹沢グループ・下総浪人グループでこれは殿内義雄をリーダーとしていた。

しかし3月25日には近藤が四条大橋で殿内を殺してしまい下総グループは壊滅。
4月21日には、家茂上洛のために大坂へ移動し5月11日には入京。
5月25日には35人連名で鎖港を行うべく意見書を提出している。
この頃から土方らが近藤を批判。「近藤、天狗になり候」これは芹沢がいた水戸天狗党に絡んでいるともされている。

局中法度を定めその内容は士道に背いてはいけないなど。これは武士への憧れが強く感じられる内容であるが実際は、幹部連中が乱暴や狼藉を行っていた。
なかでも相撲取りとの乱闘騒ぎや商人へのゆすり行為や焼き討ちなどむちゃくちゃ!!

文久3年の8.18の政変では58人が蛤御門へ駆けつけたが会津には知られていなかったことからなかなか中へ入れてもらえなかった。その後、御所の警備を行った。

新撰組or新選組・・・どちらの表記が正しいのかは不明・・もちろん命名者も不明。。しかし名前が与えられたことから公認となりその地位が確立。

8月21日には京見廻りが決定。「手あまりの節は斬り捨て御免」というとんでもないこと!
しかし内部の紛争もあり9月半ばには祇園で切腹されたれたメンバーや芹沢の暗殺なども行われた。そして近藤の独裁体制が進められてゆく。
9月23日には周斎の様態悪化から近藤は江戸行きを願い出たが却下。

10月10日には祇園の一力楼で「国家之議論集会」が開催。薩摩、会津、土佐らの各藩の中に近藤が参加し、今の国港攘夷ではだめであり、海国攘夷を行うべし、そのためには公武合体が急務と意見、各藩の賛同を得る。

そして家茂の二回目の上洛で、守護職が容保から春嶽となる、このときに新撰組は松平容保に着いてゆくことが明確となり4月7日には容保が再任。弟の定敬(さだまさ)は桑名藩主で京都所司代。
一会桑体制が確立した。

元治元年5月7日 家茂は江戸へ帰ってしまうが、長州の処分や攘夷が決まっていないことに対して近藤は激怒。われわれは京を見廻るために着たのではない。新撰組を解散するとまで言い出し、早急に長州への攻撃と横浜の鎖港を決めてほしいと言い出す。

5月20日 天満橋で内山彦次郎を暗殺。大塩関連で手柄をあげた幕臣で新撰組VS相撲取りとの一件で新撰組を糾弾した人物。

5月末には周斎へ手紙を送る。
当時15歳の周平(昌武)という養子をもらう旨。自分はいつ死ぬかわからないために急いだ様。
周平はM34年神戸元町で53歳で亡くなる。山陽電鉄事務所勤務。

池田屋事変~22時頃から5人で乗り込み二時間も激闘!

そして12月25日に天皇の崩御・・長州が朝敵であるとしたまま、また兵庫の開港を決めないままの崩御であっただけにその後歴史の渦はどんどんと進んでゆく・・・・。

2014 3/8 第48回秋桜寄席

毎年、この日は宝塚の小林で開催される小林亭へ行ってたのですが
今年に限り桂 雀三郎さんがご出演とのことなので貝塚へ。

開場までまだ2時間近くあるのにもう並んでおられる方がちらほら。
笑福亭福笑さんの人気ぶりはすごいです!


「子 ほ め」 笑福亭智六

 「初 天 神」 笑福亭たま


「はてなの茶碗」 桂 雀三郎

 「紙 入 れ」 桂  春蝶

 「神 通 力」 笑福亭福笑

2014 3/2 第8回イーグル寄席


最近は日曜の早朝にラジオで流れている浪曲にはまったおかげで、
レンタルで初代京山幸枝若さんのCDを会社の良き帰りに聞いているという熱中ぷり!
なのでなんだか落語が新鮮です^^

会場は新大阪イーグルボウルの5階。落ち着いた良い会場ですが
残念ながらお客様の入りが少なかったようで・・もったいないことです。
ぜったいにお得な寄席で参加必須です。


「初天神」露の雅
2009年の秋に田辺寄席ではじめて聞かせていただいてから5年。
落語に一生懸命取り組まれている感があって好感が持てました。

「貧乏花見」笑福亭 仁嬌
東京では「長屋の花見」。
春になるとなんどか聞かせていただく爆笑噺。


「質屋蔵」桂 枝女太

久しぶりのお噺。
質屋の蔵に夜な夜な化け物がでるという。
人様のいろんな情念のこもった物を預かるのだから当然だという。
その正体は。。
枝女太さんの表現力ってやっぱ上手いです!

「寛永三馬術・梅花の誉れ」旭堂 南左衛門

何度か楽しませていただいたこの講談。なんどきいても感激です。
馬術の名手は馬に乗るのではなく、乗せてもらっているというくだり・・心に染みる言葉です。





2014 2/23 DIYに挑戦!

3ヶ月くらい前から私のお部屋の壁の電気のスイッチが切れなくなりました。
左へパチッと押しても、すぐに右にパチッと戻ってしまう。。。

それならと電気を入れっぱなしにしておいて 照明機器側でこまめに入れたり消したりをしたら良いかとやり過ごしていました。
すぐに修理に来ていただいたら 良いのだけどたしか数年位前にお風呂場の電気スイッチが壊れた時に業者さんに来ていただいて修理をしたら 5000円くらいかかったからどうも二の足を踏んでいました。


そしたら今度は娘の仕事部屋のスイッチもおかしくなりました。
この部屋はスイッチを入れても勝手に切れてしまうようで、テープを貼ってなんとか凌ごうとしていましたが もう限界!

ネットで検索したらけっこうDIYされているようで、それならと私もチャレンジ!

私の家のスイッチはパナソニックの【スイッチB(方切)】のようなので埋込スイッチBを2個購入してきて 作業開始。
ちゃんとブレーカーを落としたので感電することもなく意外と楽勝!
一番手こずったのは黒と白のケーブルを端子から抜くところでしたが一回り大きなマイナスドライバを 突っ込んだら簡単に抜けました。

2014 2/15 歴史と吉田稔麿

吉田稔麿(としまろ)とは中々凝った名前ですが、これは短い生涯の中でほんの一時した使用されていない名前だそう。
実際は栄太郎という名前がメインで稔麿は亡くなる前年の1年のみ。

天保12年閏1月24日 松本村生まれ。よく間違われるが松陰先生とは親戚でもなんでもなく無関係。

父の吉田清内(せいない)は十三組中間。栄太郎には11歳違いの妹の「房(ふさ)」がいた。
おもな仕事は参勤交代の時の宿の手配や荷物もち。城の門番に江戸藩邸の茶室の手入れなどが下級武士の仕事で、藩の政治にはノータッチ。

清内の父は喜兵衛(きへい)。大坂勤務で十三組中間。
酒楼で火鉢にあたりながら浄瑠璃を語りながら亡くなったらしい。


栄太郎は上昇志向が強くいつかは抜け出してやるという意欲があった。
9歳の時に近所に同年の少年の利助が引っ越してくる。二人で木登りをしたり書物の貸し借りもしていたらしい、利助は伊藤博文。彼は青ひょうたんというあだな。(栄養が悪く青い顔をしており青洟を垂らしていた)。

8歳の時より久保五郎左衛門主催の2代目松下村塾に入り学問を習っていた。
ちなみに初代は玉木文之進。
13歳にときに利助が入門。

栄太郎は10代で3回も江戸へ行っている。
1回目は1853年 13歳の嘉永6年(今の小学校6年くらい)で黒船を目撃。
長州は大森海岸の警備を命ぜられるが栄太郎はだめ。

中国はアヘン戦争で南京条約を締結させられた。
もともと儒教の考え方で、統治は武力ではだめであり徳で治めるのが本当・・・文官が上で武官は下という考え方が強い。。

1854年1月14日にはペリーが再来日。これを横浜の本牧へ見に行っている。(14歳)
その後和親条約締結・松陰密航失敗から長州への帰国など栄太郎は知っていた。


2回目は安政2年9月2日 茶室のした働きとして江戸へ向かい10月3日に到着するはずの前日
10月2日に埼玉県中仙道の蕨宿でM6.9の安政の大地震に遭遇。
このため藩邸はもうむちゃくちゃ!熱心に後片付けをしている姿を毛利定広(若殿様)が見ておりその熱心さが目に留まった。2月19日に帰国した。

その頃ご近所だった松陰先生が野山獄から出獄。自宅で講義をさせていたところ、近所の子供が聞きに着ていたという。
安政3年10月には増野徳民とともに聴講に参加。

安政3年11月25日には栄太郎の入門。増野と共に勉強を行う。
この頃の勉強の方法は1、素読 2、講釈 3、会読(対読)でこれが当時の勉強方法。
残念ながら明治維新後はテストのための勉強でひたすら暗記。。自分のための勉強ではなくなって島しまった。

安政14年1月2日西洋地理書の『坤輿図識』(箕作省吾のヘベストセラー)を読み、独立国や附属国のあることを知る。

諱名(本名)は秀実、字名(あざな;学問名)は無逸。
松陰先生は増野と共に無窮(吉田)、無咎(増野)の名をもらう。

3回目は17歳。安政4年9月5日。
行きたくなかったが家計の事情から働きに行くことになる。
ちょうどこの頃松陰先生から、お前は後継者である旨の手紙をもらう。
 江戸では将軍の後継者問題にハリスの貿易問題が勃発。
黒村文左衛門へ宛てた手紙には、アメリカの外圧に言い込められた事や九条公家へ88人が反対運動を起こした事など時代の情報を察知していたが、その立場は朝廷側であったことがポイント。

安政5年 松陰先生を再投獄。
この頃は過激な松陰先生を止めなければならない願う。
藩の命令をやめさせるために役人の家に押しかけた結果8人は謹慎処分となる。
清内からも付き合い禁止を言い渡される。

12月30日には士分の5人は解かれる。翌1月25日には軽卒の3人が解かれる。

松陰は栄太郎に執着があり何度も手紙を送っているが、なかなか辛辣な内容もある。
お前の葬式を行ったぞ。心が死んだ者は惨めだ。。。

万栄元年10月 行方不明に。。全国の八幡様へお参りをする。。。⇒脱藩。
※藩は黙認?

文久元年 江戸 なんと幕府方の家に入る・・妻木田宮500石取りの家来(茨城県鹿島に領地)となり、松里勇と変名を使う。非常に重宝がられた。ついに6月2日には身分を明かして藩に帰る。

文久三年
士雇(1代限りの武士)となり、氏が必要となる。本人は栄太郎で良いのだったが藩にはすでに存在していたために年麿となった。

屠勇取り立ての意見書~部落開放の祖という意見もあり。

7月24日~陽丸丸~幕府の施設を暗殺

奇才は一世を傾け、妙略は千人を弄ぶ

5月22日 京都南座で市川一蔵の芝居を見る。
6月5日 池田屋事変 京都守護に見つかり死亡。

2014 2/11 大阪城の城内焼亡埋骨墳

慶応四年1月、明治維新によって旧幕府が本拠としていた大阪城が新政府軍に引き渡されるに際し、これをいさぎよしとしない幕臣たちが、城内に火を放ち自害いしたという。
新政府軍の主力だった薩摩・長州両藩の有志たちは彼らの遺骨を埋葬し武士の鑑とたたえて同年7月にこの石碑を建立した。のちのこの碑は「残念塚」・「残念さん」と呼ばれ、どんな願いもかなえてくれる神様として人々の信仰を集めた。





2014 2/11 大阪城の梅

梅の花を愛でるのは今の時期がちょうどいい。

がんばって寒い冬を耐えたんだよ。

精一杯の力を振り絞って咲いたよっ。

そんな誇らしげな気持ちが感じられます。



2014 2/9 第20回アシスト寄席

第20回アシスト寄席に行ってまいりました。
早いもので5年・・第一回目からできるだけ参加させていただいているとってもお得な会です^^

桂小梅 始末の極意
 
梅団治さんの子息とのことで、そういえば目元や輪郭がそっくりです。
張りのある若々しい声って良い物ですね!

笑福亭仁嬌 花筏
この噺には個人的に思い入れのあるお噺でつい比較をしてしまいます。
クライマックスの土俵のシーンでどれだけ笑いをとることができるかなかなか難しいお噺です。

桂枝女太 紙入れ
日本の話芸で聞いただけで、生で聞くのははじめてでした。
枝女太さんのその女形を演じる時の目元や口調は見事なもので、そのスリリングなやりとりが秀逸でした。

旭堂南左衛門 三村の薪割り

昨日の【三村の薪割り】には感動しました。 
あらすじは下記のとおり。
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吉良の様子を探るために色んな姿へ身を変え江戸へ潜伏する赤穂浪士の面々。
三村次郎左衛門も江戸へ出たがその不器用さからか町人や商人に化けることができない。
なんとか武士でもできる仕事をと考えた仕事が薪割屋。
そこへ江戸で有名な刀砥名人の竹屋喜平次のお店より薪割の依頼がはいり、武士の腕前をもって器用に薪を割って見せる。
その腕前に竹屋喜平次はいたく感動したことがきっかけとなって、色んな大名から刀砥を依頼されても気が向かないと仕事をしない竹屋と腕の達つ侍の三村次郎左衛門の間に人に友情が芽生える。
酒を酌み交わしていたある日、竹屋の床の間に置いてある白木で作った何も書かれていない看板が三村の目に止まり、書道の腕も確かな三村は一息に書き上げ、立派な看板が出来上がりおかげで竹屋の店は大繁盛。
そして後日、三村は自分の刀の砥を依頼すると二つ返事で仕事に取りかかってくれた竹屋。歴々の大名の仕事を後回しにして取りかかってくれたその気持ちが嬉しい。3日後に砥が終わり、刀をお渡ししたいが住まいをしらないことから来店をまつ竹屋の元に数日後に立派な武家が現れる。
よく見ると三村。話を聞けばどうも士官が叶って江戸を離れるとの事、砥がおわった刀で試し切りをしてその出来栄えに驚くとともに竹屋は武士としての出世を非常に喜んだ一日となった。

さて翌早朝のこと・・赤穂浪人による仇討があったと聞き、その行列を見に出かけた竹屋が見たものは・・・・。

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何がすごいって竹屋喜平次さんは江戸生まれの店主さん、そして主人公の三村次郎左衛門は関西の武家人。ということでそれぞれはおのずと言葉使いや所作、目配りが違い、南左衛門さんは見事に表現されていました。
この使い分けや描き分けが積み重なって、私の目の前には、雪がまばらに降る早朝に両国橋をわたる四十七士の中に三村次郎左衛門さんと竹屋喜平次さんのその姿がはっきりと描き出されていました。演目が終わると私の目から大粒の涙がポロリ・・・。やっぱ講談ってスゴイです!!

2014 2/6  徳之島産 たんかん

徳之島産の【たんかん】を頂戴しました

 ポンカンとスイートオレンジの自然交配でできたらしい。美味しくいただきました(´∀`)
 
 

2014 2/1 石切神社と参道

久しぶりの石切神社さんにお参りにいってまいりました。



この参道はナイトスクープをはじめ色んな番組でも取り上げられるくらいの特色のある参道です。
今日は心斎橋筋商店街くらいの人手で大賑わい!



途中のおもちゃやさんで発見!超なつかしいポスターです。



はじめてみました!宝塚
音楽学校の生徒募集ポスター!


2014 1/26 第5回佛願寺講談会

「第5回佛願寺講談会」が開催されました。

いつもの通りすこし早めに到着!
座席の背面に私の名前を貼って予約席としてくださっていました!大感謝^^
また、佛願寺さんのいろんなお気遣いが感じられるとっても素敵な会場です。


開演前あたりから続々とご来場くださりほぼいっぱいの動員!ホントに嬉しい限りです。

「水戸黄門・長屋の出世」白夜亭一林

講談をお聞かせいただく毎にその練習の成果が見て取れる一林さん。
なんとなく余裕も感じられるように見えました。

 「山内一豊とその妻」 旭堂 南斗
 何度となくお聞かせいただいたこの講談。
途中なんどかクスッとするようなシーンも盛り込まれていました。




「左甚五郎・京人形」旭堂 南青
マクラではさざんかホールのお話を盛り込んで、初めからお客さんの心をぐっとつかみ
本題へ。初めて聞かせていただきましたが題材の京人形は歌舞伎とはすこしお話が違うようで
すが懇談では甚五郎ら3人の友情や太夫との恋、そして甚五郎へとんでもない願いをし、
それを「うん!」という人情。そして意外な結末・・。 と
喜怒哀楽が凝縮された難しいお話を明確に演じられた南青さん!
やっぱ上手いですねー!


 「寛永三馬術・梅花の誉れ」旭堂 南左衛門
午年にちなんでということでおめでたいお話。なんとかお聞かせいただいたこの講談。
曲垣平九郎のその優れた馬術を題材としており、「馬術に秀でている者と、馬術の名人」との心得の違いがその成功を左右するという内容。

終演後は汗いっぱいの 南左衛門さん!お疲れ様でした。ご一門の皆様!ありがとうございました。

2014 1/24 吉田松陰先生 絶筆の2通目発見<読売新聞>

私の吉田松陰先生好きな事を知ってくださっている方が送付してくださいました。
ありがとうございました^^


2014 1/18 歴史と人間  小笠原長行

2014年は午年。あと12年後の午年は丙午。
人口の統計グラフでも有名なように丙午は人口がぐっと減る。これは丙午の女性は男を不幸にするという言い伝えがあるからで、その原因は江戸初期におこった実話(?)の「八百屋お七」が原因。私の愛読書であった井原西鶴『好色五人女』で一気に有名になったらしい。
今から48年前の丙午の年も同様に人口が少なくなってることから、当時の方々はその迷信を信じていたことがうかがえる。
皇女和宮も丙午の女性であり、公武合体作に難色を示した孝明天皇も和宮降嫁の根回しの際に、丙午の女性であることを理由に反対したそう。

昨年11月/12月の講座に参加できないことから久しぶりのお勉強会。
今日は小笠原長行(1822-1891(M24/1/25))。
最後の一歩を踏み込まなかった為に歴史の表舞台に出てこなかった数奇な運命の方です。

父の小笠原長昌(ながまさ)は陸奥棚倉藩の第3代藩主。国替えにより唐津藩(肥前)の初代藩主で長男として生まれたのが長行。幼名は行若(みちわか)。
藩主の長男として生まれたのだから将来は約束されたようなものだけど、運命はとんでもない方向へ進んで行く。

唐津藩は島原藩とともに譜代大名として長崎の警備を行うという重責と外様大名を監視する役目があったために、すこし特殊なルールがあった。
それは藩主が幼い時は国替えを行い別の藩主と交代するというもの。
当時の唐津藩は6年前に陸奥棚倉藩から国替えをしたばかりなので莫大な借財を背負っていた。
そんな時に藩主の長昌が急死(28歳)する。当時、行若はわずか2歳。このままではまた国替えとなり借財が増えてしまう。もともと行若は側室の子供であったので幕府へ届けていないことを良いことにして他藩より養子を迎えて乗り切ろうとした。


 出羽国庄内藩主酒井忠徳の子の長泰/小笠原長保の次男の長会/ 大和国郡山藩主柳沢保泰の九男の長和など17年間で養子を4人迎えたが次々と隠居や亡くなるという不幸が続く。
そして信濃国松本藩主松平光庸の次男の長国が藩主として迎えられた。

当時行若は敬七郎(21才)。完全にスルーされている本家筋の敬七郎は江戸へ出てゆき学問に励む毎日。
そんな唐津藩の西脇多仲という家老が敬七郎を世に出す為の工作を行い、敬七郎を長国の息子という事を考え土佐の山内容堂らを使って成功。これにより息子の方が父よりも2歳年上という親子関係が成立した!(1857 9/21幕府よりOK)
もちろん、松本藩をはじめ長国派の家老の前場小五郎よりクレームを受けたが押さえ込んでしまう。
この時に敬七郎から長若を経て長行(ながみち 36才)となり幕府より図書守を命ぜられる。

安政5年正月に容堂(22歳)より誘いがあったが、わずらわしい人間関係は苦手とこれをスルーする。これが4回続く。そして5回目。ついに江戸土佐藩邸へ出向いた。
しかし容堂公は出てこない。そのまま3時間待たせた挙句にべろんべろんに酔った容堂が、きつい嫌味を言って去って行ったらしい。そして翌日容堂公より、この非礼を詫びる手紙が届いたそうで、これは長行の人物観察が狙いであったらしい。

4/26に江戸を出て唐津に戻り藩主名代という役職に就く。
この翌月より時勢は安政の大獄旋風が吹き荒れた。
唐津では当時藩政改革の一環で引き割りという政策が行われていた。これは給料の2割をカットして3年前の大地震で倒壊した江戸の唐津藩藩邸の復興を目的としていた。
引き割りを中止させようとした長行はまたしても前場小五郎と対立。

様々な改革を行う相談や結果を江戸にいる長国へ手紙で事細かに知らせていたが
ある日ぷっつりと返事が途切れる。
そしてついに「容堂公を使ってわたしを隠居へ追いやるのは卑怯だ」というような手紙が届き長行は驚いた。これは前場小五郎らが企んだ陰謀であることを突き止め隠居させ関係者らも処分した。

文久元年(1861 3月)江戸に呼ばれる(40才)
当時の長行は、開国はしょうがないことだが、安政の大獄には否定的。そのため彦根藩に対する処分を意見として持っていた。

6/7 島津久光が大原重富とともに江戸城へ入り 、薩摩の軍事的圧力を背景に攘夷の決行や、一橋慶喜(徳川慶喜)を将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽を政事総裁職に任命することをむりやり承諾させた。

7/21 長行は奏者番を任命され、名実ともに幕府の一員となった。
8/10 奏者番廃止論を提出。
8/22 奏者番を廃止。この時期は無駄を省くという流れがあった。
    ※文久3年1月には奏者番は復活している。
8/19 若年寄となる。これは異例の大出世!
9/11 老中格となる。これにより1万俵+屋敷をGET!
10/1 外国御用掛 これにより大名行列の際には2本道具(槍を立てる事)をゆるされる
    この時に井伊家に対し10万石を削る処分を行う。
10/28 勅使が来て将軍家茂に対し攘夷の返答を迫る。そして家茂自らが京都へ出向く事に。

先行して長行が下見を命ぜられた。その際に現在の神戸の摩耶山に登り周囲を見渡しこれを八州峰と命名している。


翌年、将軍が入京の予定の3/4。朝7時に出発し午前中に到着する時に事件が起こる。
当時の京都は攘夷派が京都を引っ掻き回しており彼らの陰謀により
京都の公家らが伊勢へ参拝するために東海道を使ってはダメという知らせが未明に到着。
これは、途中、公家らにすれ違った時に難癖をつける陰謀そのもの。
すぐさま長行を朝の4時に呼び寄せ相談。結果1時間後の5時に出発することとして無事に回避。
9時に入京となった。

3/7 家茂さん、御所入り。
3/11 家茂さん、行幸のお供をさせられる。帰りたくてしょうがない。
 そのため無理やり攘夷の期限を5月10日と約束させられてしまう。
3/13 長行に、すぐに江戸に行き生麦事件の処理をするように命令が下る。

当時、幕府では全員一致で賠償金の支払いを決めていたが、このまま決定してしまうと
京都にいる攘夷派が激怒すること必死で将軍が危ない。
かといって賠償金を払わなければ英国との戦争が起こり、横浜は火の海になる。
長行はわざと支払反対派としてできるだけ時間を稼ぎ、ついに26万9060両(10万ポンド)を支払うことを決定。

5/30 そしてすぐさま京都にいる将軍の救出を目的として5隻の船に1600人の兵隊を載せて大坂に向う!
京都には将軍の入京のときの3000人の兵がいるから合わせて4600人の軍隊が出来上がり、そのまま尊王攘夷派を蹴散らそうとしていた。
枚方から淀へ進軍していたその時に、家茂より手紙が届く。その内容は、入京してはいけないとの命令が書かれていた。
そしてついに断念。これが実行されていれば間違いなく歴史は変わっていただろう。

6/6には差控処分が下された(謹慎処分)図書守から壱岐守となる。
9/4老中となり長州征伐担当、軍制改革をおこない小倉口の担当となる。
激戦があったものの晋作らに翻弄されたと同時になんと家茂急死の知らせが入る。すぐさま孝明天皇より休戦の命令を出していただきあっけなく軍は解散へ。
唐津藩は新政府側についたものの、長行は長国との縁を切り奥羽列藩同盟から五稜郭への戦いへと舞台を移す。

明治2年から5年までは行方不明で7/5にふらっと新政府軍げ自首。その言い訳は行方不明の間はアメリカに渡っていたとのこと。実際は東京妻恋坂付近に潜伏していたらしい。そのまま政治に翻弄されることなく明治24年まで生きた。
息子の長生(ながなり)は明治海軍の中将。


時代は戻るが文久三年。
坂下門外の変の姉小路公知が襲撃された事件で有力犯人の田中新兵衛はいきなり割腹自殺をしてしまう。
実はこの少し前の4月には海舟らと摂海の視察に同行している。
ひょっとしたら長行はこの時に公知と密約をしていて、軍隊を率いて入京した際には公家側からの応援の約束を取り付けていたのかもしれない。


辞世の句がユニーク。。

夢よ夢
夢てう(ちょう)夢は
夢の夢
浮世は夢の
夢ならぬ夢

まさにあと一歩を踏み出していれば間違いなく時代は大きく変わっていたことだろう。







  








2014/1/12 第30回柳谷観音・泰聖寺講談会~講談と落語を楽しむ会~

定刻よりも早くに到着と同時に以降沢山のお客様がお見えになり
あっというまに開場は満席になりました。
数年前のあの閑散とした会が嘘のように思えてなりません。


今回は太閤記特集ということで

「藤吉郎の子守奉公」 旭堂 南斗
「秀吉と易者」 旭堂 南舟
 「金龍縄張問答」旭堂 南青
落語「風呂敷」 桂 九雀
「桃山風流」 旭堂 南左衛門
という番組でした。
 桂 九雀さんのマクラでつかわれた小噺は非常にユニークなもので
明治33年の娼婦によるストライキを題材とした流行歌の東雲節(しののめ節)を
テーマに豊臣秀吉と、そっくりな猿を用いて話が進みます。

♪なにをくよくよ 川端柳 焦がるる なんとしょ
川の流れを 見て暮らす東雲の ストライキ
 さりとはつらいね てなこと おっしゃいましたかね♪

帰宅してじっくりと思いだしてみましたが、
話の運びが非常に難しい小噺であることに感心!楽しませていただきました。



2014/1/11 今宮恵比寿神社

今宮恵比寿神社「えべっさん」へ行ってまいりました。

大阪に生まれたからはと子供の頃からずっと欠かさず参拝しています。



ナンバからぶらぶらと鳥のから揚げ串を食べながら道中を南へ行きます。
で、ようやく目的地の今宮恵比寿神社さんへ到着!

まぁ残り福とはいえ超満員です。 正面から巨大な賽銭入れめがけて投げ入れ手を合わせたあとは かならず拝殿の裏にまわって、吊るしてあるドラを張りながら「えべっさん、たのんまっせ!」と 言い聞かせないと願いは叶いません(笑)
もちろん私もしっかりやってきました!




で、せっかくここまで来たのだからと一路新世界へ!

途中、懐かしいテリーマンやウォーズマン、キン肉マンの巨大像がありました。







新世界といえばもちろん串カツ! 久しぶりに堪能しました。





2014 新年に寄せて

新年あけましておめでとうございます。
旧年中はお世話になりありがとうございました。

新しい職場に入り一年半が経過し、その重責に潰されそうになりながらも
毎日を有難いことと過ごしております。
しかしその反面このBLOGをはじめ色々なライフワークが滞るのも中々辛いもので
やきもきとした気持ちを抱えながら書いています。

大好きな落語「天王寺詣り」の一説で、お彼岸の中日にお参りするのではなく、すぐにお参りに行こうと口説くシーンです。

小野小町が言ぅてまんがな!「人間は風前の灯火、明日をも知れぬ身の終わりかな」
一休禅師がどぉ言ぃなはった「今をも知れぬ身の終わりかな」
御開山が何とおっしゃった「明日あると思う心のあだ桜、夜わに嵐の吹かぬものかわ、ただ南無阿弥陀仏」
大爆笑の落語なのですが、この箇所はすごい奥義が語られています。
たしか浄土真宗のお経の白骨の御文章にも<朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり>とあります。また一休さんはこうとも言っています。
門松は 冥途の旅の 一里塚 馬駕籠もなく泊まり屋もなし。

時間はすべての人に平等にあり、その使い方次第でその生き方の質が決まります。また、やらねばならないことはすぐにやらねばならない!明日すればいいなんて考えではだめと。明日はないかもしれないのですから。


さて、ついに妙齢に突入した私は常々考えていたことがあります。
それは次の3点です。

自分を育ててくれた母や家族とご先祖へ、地域社会へ、生きる糧を与えてくれている会社へ
それぞれに感謝の気持ちと恩返しをしてゆきたいと思います。
母や家族やご先祖様へは常識ではあるものの私は色んなモノを自ら背負っているだけにその責任は重いと感じています。2番目の地域社会へは単なる居住区という意味ではなく広義の意で捉え、古典芸能としての講談や落語、そして様々な偉人の足跡や文化、歴史を研究することが当てはまると考えています。

そして3番目は一番難儀なもので、ご縁があってお世話になっている会社ですがきっといずれの企業でも様々な問題があるかとお思います。そして歴史を積み重ねてきた企業であればあるだけに歪んだままで積み重ねてきた歴史の部分があります。
これから先も愛される企業になるために微力ながら持てる力を出してゆきたいとおもいます。・・そうなると今年もこのBLOGは中々書けないかもしれません。

私はあと何年生きるのか分かりませんが、日頃からQOL(生活の質)を上げるために、時間を上手な使い、何をするのか?が問われる一年となるのでしょう。

また忙しい1年が始まりました。
どうぞ今年もご指導、ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。