フランス風懐石料理中華風: 2013-10

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2013 10/27 ぬ・抜けた・・・・えぇぇ?

途中の道の駅の駐車場で車の切替しをする為に【D】⇒【R】へ入れ直したその時!!
 
 
シフトレバーの取っ手がスポッと抜けました。
 
「えぇぇ!?」
 
車内に居た方々も絶句!一瞬なにが起きたのかわかりません!
 
とりあえず、抜けた箇所を見ると中が二重になっている鉄の棒、その真ん中のでっぱりを押すと
どうやらギアチェンジはできる模様。
 
そのまま広い駐車場へ移動して同乗いただいていた方に直していただきました(;^ω^)
と言っても中の隠しネジがアホになっているみたいで空回り。。
とりあえず、引っ張らなければ抜けない!ってことからそのまま九度山へ向かいました(笑)
 
まさか、そんなんが抜けるなんてww
 
運転中でなくて不幸中の幸いですねー。
 
昨夜、ディーラーの担当者さんが様子を見に来てくださって、この週末に修理となりそうです。
 

2013 10/27 旧萱野家~大石順教尼の記念館 又旅会発会式 大石順教尼講談お披露目式

2013 10/27 旧萱野家~大石順教尼の記念館 又旅会発会式 大石順教尼講談お披露目式
 
 
いまからちょうど3年前に初めて大石順教尼様のお名前を知りました。
そして館長さんのご厚意と、様々なご縁のおかげをもちまして2012/4月開催の【祖母さまのお手々はだるまのお手々】の発刊式、そして今回の講談のお披露目式に参加となりました。
 
大阪より演者の旭堂南衛左門様と脚本を執筆されました狐狸窟彦兵衛さんとともに
九度山町の旧萱野家へ向かいました。今日は台風一過の大阪マラソンの日でもあることから相当経路を吟味したおかげで無事予定の小一時間前に到着し離座敷にて色んなお話を賜りました。
 
様々な試練を超えた大石順教尼様の生涯はあまりに膨大過ぎて1本の講談に収まりきれるはずもなく今回はその発端の部分として創作講談「大石順教尼物語 ~カナリヤの教えに導かれ~」が
無事ご披露されました。その後、萱野館長様・旭堂南衛左門様・狐狸窟彦兵衛様とのトークショーを終え無事に散会となりました。
 
その壮絶な人生の転機を乗り越えることができた暁には自分の強みとする事が出来るものなのでしょうか。
突然に背負った障害を強みに変えることができるその勇気を他の方々へも分け与え、
また心の拠り所となるように生きてこられた順教尼様のその素晴らしさを再認識いたしました。
色んな悩みをもってこの萱野家にお越しになられる方が、元気になって帰って行かれると
九度山の岡本町長さんのお話も本当に実感!
どうぞすこしでも沢山の方にその存在を知っていただきたいと思っています。
 
今はただ、その素晴らしい出会いに感謝です。
 
 
御可笑拵処「東雲堂」 狐狸窟彦兵衛 
 
 
旧萱野家(大石順教尼の記念館)
 
 
環翠軒にて in九度山 大石順教尼記念館

2013 10/19 歴史と人間 久坂玄瑞

私たちが知っている幕末の歴史の糸口の大半は、司馬遼太郎の小説やNHK大河ドラマであることは否めません。
戦前は講談士であり政治家であった伊藤痴遊の功績が大きい。
全国にFunがいてファンクラブに相当する痴遊会が存在。
全国ツアーを実施していた。

井上馨は明治になりいろんな事件があったために公爵になることができなかった、
しかしそれでもその功績を讃えてもらいたいために、静岡県沖津の自宅で明治40年に快気祝いの際に台座を含めると10mくらいの銅像を自分で建立し、その席で伊藤に袖付橋の御難を演じさせたらしい。
さて、今日のテーマは久坂玄瑞。
天保11年生まれ(1840~1864)25石の医者の家に生まれる。
三男坊だが次男は早くして亡くなったために次男として育てられた。長男は久坂玄機といい二十歳年上。北浜にある適塾の塾頭の秀才。
嘉永三年の14歳の時に母が亡くなる。
そして安政元年の15歳の時に玄機と父が亡くなる、そして玄瑞は天涯孤独となってしまう。
その後、藩の寮生活の後、三回忌を済ませた安政3年に九州の遊学へ出発。
途中で宮部鼎蔵を訪ねる。宮部はご存じ松蔭先生が東北視察を行った際のパートナー。
宮部は松蔭に会うことを勧めた。ちょうどその頃は松蔭先生は自宅謹慎中。
そんな時に久坂より鼻息の荒い手紙が松蔭先生に届く。
幕府の行った条約締結は間違っている!そんな使者は斬り殺してしまったらよい!とのこと。
その意見に対して松蔭先生は『議論浮法思慮粗浅』と非常に厳しい内容。

今の言葉に直すと、考えは上っ面で考えが浅すぎ。人にはそれぞれの立場がある、まずその立場から考えること。また実践の伴わない言葉は評価しないし、浮ついた考えの人物は嫌いだ!とのこと。
玄瑞は、論ずるに立場は関係ない!と反論。

松蔭先生はさらに
対抗する。和親条約はすでに締結していおるのだから破ってはいけない。北海道を開拓し琉球を植民地としてアジア各国をひとつにまとめて団結させるという説。
※この内容は韓国併合における現代社会にも問題となっており原文と韓国語訳、そして再度日本語に直すとまったくニュアンスが違っている。
玄瑞はさらに反論!そして松蔭先生は『それなら存分にやってみるがよい』と体をかわす。
もちろん久坂にはできるはずがない。
入塾に至った玄瑞は松蔭先生の思った通りで防長年少中第一流と評価しており、高杉と競わせて実力をつけてゆく。

そして安政4年には松蔭先生の末の娘が嫁となり親戚関係となる。
そして安政6年10月27日に松蔭先生は伝馬町で処刑、小塚原に埋められた。
現在の小伝馬町駅十思町公園にあるお堂が相当、南千住駅の小塚原は20万体以上の遺体が埋まっており現在でも遺骨がでてくる。
文久二年1月には龍馬が訪ねてきて10日間びっしりと話し合いその後、龍馬は脱藩!
武市へあてた手紙には『諸侯や公家もあてにしてはだめだ!我々が力をあわせておこなうんだ!』と記載。しかも『尊藩も大義なれば滅んでもかまわない』と書いたあとに『尊藩も(幣藩も)』と書き足している!
長井雅楽の失脚、久光の状況から長州藩の方針を『奉勅攘夷』で一本化。久坂も賛同している。
その後、松蔭先生の改葬に扮装、ついに桜田門外、坂下門や安政の大獄に関わったものを大赦令を出させることに成功、ただし寺田屋事変の9人のみは例外とした。
復権を果たし、世田谷区の若林の藩のと土地に遺骨を移し松蔭神社となる。これにより松蔭先生は神格化!藩のシンボルとなってゆく。
すぐに父、百合之助の復権、松蔭先生の資料を藩へ提出しその後明倫館の教科書となる、また吉田家の断絶を取り消した。
さらに松蔭先生の弟子たちは全員位が上がった!
そんな時に長州藩に事件が起こる。
攘夷の実行で下関で砲撃~七卿落ちへつながってゆく。
元治元年2月 周防上関の義勇隊が、田布施沖に停泊中の薩摩の商船を焼き払い船長の大谷仲之進を殺してしまう事件が起こる。
その月末に大阪南御堂さんの門前に、この大谷の生首と二人の人物の切腹した死体があった。
その二人は山本誠一郎と水井精一。そして斬奸状には『大谷は外国と貿易を行っており綿や油を販売し利潤をあげていた』とかかれている。
その数日後、義勇隊の隊長が上関で切腹を していたという事件があった。
この事件により長州の株が大いに上がった。薩摩に天誅を喰らわしたのだから長州は庶民を助けたヒーロー扱いとなる。
それにより山本、水井と隊長の高橋は上関三士と呼ばれ靖国神社に合祀されている。
さて、この事件には大いなる裏事情があった。
山本誠一郎の著「帰正弁」によると24歳で全国を視察、国防に興味があったが下関で楼閣にはまってしまい事件をおこしたあげくに2年近く禁固、外国船を攻撃した久坂に共鳴下とのこと。
久坂が目を付けて、山本、水井に大谷の首を大阪へ運ぶように依頼、その後、二人を無理矢理切腹させたらしい。 薩摩商船を襲ったら当然長州と薩摩は一触即発。その回避と地に落ちた評判をあげる奇策であったに違いない。

久坂元瑞は恐るべし頭脳明察で策士であったのでしょう。

2013 10/5 第50回 四天王寺秋季大学



今年も参加!素敵な会場でわずかな費用で幅広いお話を聞くことができました。

第1講目 13:00~14:20
髙橋弘次氏(大本山金戒光明寺御法主)「念佛発祥の寺、金戒光明寺」

なぜ黒だにさんと呼ばれるのか?また法然が最初に浄土宗を布教を行った地であることに因んで、後小松天皇より「浄土真宗最初門」の勅額を賜っている。
また法然さんが入滅の前に、一枚起請文を認めており現存している。
その後小松天皇のご落胤があの一休宗純。
法然上人を生き如来と讃え一枚起請文をもっとも奇なるかなと賞賛されています。
さとりはいらぬものじゃ。
あみだのご誓願のお念仏一遍にて無量無辺の罪さえ滅ぼし候うえは
、さとりたりというきゃつめが胸になにがある。
へんてつもなきあばら骨皮。
九年までさせらんずるこそ無益なれ。まことのときは阿弥陀の一声。
そのあらかたの意味は下記の通り。
さとりはいらない。
阿弥陀のみ旨にそう念仏があればいい。
悟った人の胸にはなにもない。
あるのはへんてつもないあばら骨と皮ではないか。
面壁九年の座禅修行も無益である。
まことの教えはただ南無阿弥陀仏にある。
とてもユニークな僧侶で、そのエピソードは『狂雲集』(柳田聖山著)にかかれている。
有漏路より無漏路へ帰る一休み。
雨ふらば降れ 風ふかば吹け。
十年、鼻の下、芳盟を理む。
一段の風流、無限の情。
惜別す枕頭児女の膝、
夜深こうして雲雨、三世を訳す。
これが辞世の詩といわれている。

第2講目 14:40~16:00
入澤崇氏(龍谷大学教授・龍谷ミュージアム館長)「大谷探検隊とシルクロード」

日本最初の学術調査隊である大谷探検隊。
1902年~1914年に三回にわたり調査に行っているが詳しい資料は残っておらず謎が多い。
その中心人物の大谷光尊(明如上人)は西本願寺派で1850年~1903年。
廃物稀釈の吹き荒れる中、仏教界のリーダー的存在。
西洋の教育制度に着目して調査研究を推進していた。
数回にわたり中国、インド、ビルマへ派遣し学術的な成果を残した。
第3講目 16:20~17:40
肥塚隆氏(大阪大学名誉教授)「仏教遺跡ボロブドゥルの謎」
1991年に世界遺産に指定、8世紀頃にシャイレーンドラ家が造営。
日本では東大寺の建立の頃になる。
120mの正方形に5層の方形テラスと3層の円形テラスを重ねて、頂上にストゥーパを築いている。すべてが回廊となっておりゴーダマシッタルダの様々な物語をなしている。
それぞれのパネルをスライドで拝見させていただき、とても興味深いものでした。