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2013/04/20

2013 4/20 歴史と人間 幕末編 長井雅楽

今日の歴史と人間~幕末編の人物は『長井雅楽』。幕末を語るうえで欠かせない人物の一人だけれど実際はよくわかっていない。

歴史関連の書籍でも有名な『航海遠略策』を考えた人だが藩の方針が変更となって切腹させられた程度の知識でした。
 で、今日の一坂先生の講義ではホントにびっくり!長井雅楽さんの人物像がぼんやりだけど見えてきた気がしました。


文政2年5月1日(1819年6月22日)の松本村(中ノ倉)生まれで300石取りの家系。
諱は時庸(ときつね)、雅楽以外にも隼人や右近という名前があった。

長州藩の組織は【一門】【永世家老】【寄組】【大組(八組)】があり、長井や高杉、また周布政之助さんや井上馨も八組出身。長州藩はすぐれた人材で才能があればどんどんと取り立てる実力主義で、8つの組に分かれており、平生は江戸の江戸藩邸や萩の城を警護。また有事の際は藩主のそばを守る馬廻役となる。

 さて、この長井さんはとっても優秀な方で、1837年(天保7年)毛利慶親(敬親)の小姓役で、今でいう秘書のお仕事をする。
1850年(嘉永3年)には奥番頭格(藩の副大臣)
 
 藩主の跡継ぎとして<ろくのじょう>(12歳)⇒の教育係として長井と高杉小忠太が任命。
定広 元徳となる。

さて、桜田門外の変で井伊大老がなくなった後、幕府のかじ取りをしていたのが老中の安藤信正と老中の久世広周の打ち出した公武一和。和宮降嫁の件があって
文久元年(1861 3/28)中央政府へ乗りこもうとする毛利家をうまく利用しようとする幕府にも狙いがあった。

長州藩を含め幕府の中も大変な時に藩是を決めることに。その際に長井雅楽が出した建議書の【航海遠略策】をベースとして、周布政之助さんが清書し、決議案とし、これを藩の意見として定めた。
※決議案と建議書は微妙に内容が違っているのに注意!


 藩主の毛利慶親よりこの内容でまず幕府を説得するための根回し(周旋)するために江戸に行くるように指示される。
 
ところがなぜか長井さんは、5/15には途中の京都へ立ち寄り、正親町三条実愛さん(おおぎまちさんじょうさねなる)に会い、藩是を説明した。
このこの内容は藩是の方ではなく、自分が考えた建議書の方だった。

正親町三条実愛さんは賛同し、ぜひ書面にして提出するように言われたために建議書の末尾に自分の署名(陪臣大江時庸(ときつね)謹上)を行い自分の意見であることを記した。この内容が公明天皇のもとにも届き賛同を得た結果、食器と扇7本等を拝領!(これはオフィシャルな意見ではなくあくまでも天皇個人の見解であったことに注意!)
これにより、天皇は鎖国にこだわっているのではない!と実感!

この一見でおそらく長井は有頂天だったろう!

江戸へ向かう長井雅楽。
実はこの時にこの建議書が色々と流出。。。攘夷派をおもいっきり刺激していたことを本人は知らない。。
 
 
7/2には久世広周へ面談をし説明!続いて安藤信正へも説明!
幕府側も朝廷とおなじように好感触!
さっそく8/28に萩へ戻り毛利慶親さんの江戸行きをお伝えせねばと急いだ。

 9/16には参勤交代で藩主が江戸へ向かうことに。ところが途中で病気となり保養をすることに。

10/1には長井は江戸へ向かい10/24に到着。

12/8に幕府へ建議書を提出しOKを得てさっそく12/30に藩主へ報告。

文久2年1/15には京都へ向い朝廷のOKをもらうことにする。

ところが・・・・坂下門外の変がおこり、安藤信正が襲われるという事件が起こる。
3/19には朝廷へ提出。この時には自分の署名「陪臣大江時庸(ときつね)謹上」の無いバージョンを提出。

ところがすでに流出している資料で薩摩や攘夷派はすでに激怒状態!

4/5にはあの久坂玄随さんも状況!長井を斬る!と息巻いている!

4/14には長井は江戸へ向かう。
4/27には久坂が反対の書を出す!

そして時代は動いてゆき幕府や朝廷の意見をひっくり返してしまった。
朝廷へ提出してわずか40日だった。

6/18には長井は萩へ帰国。翌年2/6には切腹(45歳)となった。

長井が自分の意見ではなく、藩の決定版の意見を出していたのなら切腹にはならなかったのでしょう。彼は3回の建議書を提出している。
その相違点は

1.天皇の意思を第一に考える事
2.条約を認めていないこと
3.違勅~幕府が締結した条約は天皇が望んでいないこと
4.有志あるものは幕府に怒っていること
5.戦う道もあること

そして長州藩は【君臣湊川 奉勅攘夷】へと方向を転換していくことになってゆく。