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2013/03/16

2013 3/16 歴史と人間 ~清河八郎~

清河 八郎は天保元年10月10日(1830年11月24日)生まれ。
天保元年といえば吉田松陰先生と同い年。
東北の庄内藩出身で幕末の志士の象徴的な人物。

私の知るところでは新撰組の母体となった浪士組をまとめ、京都へ送り込んだ中心人物という理解だけでした。

そんな幕末の志士のまったく違ったイメージのお話。
安政2年(1855年)に母を連れて西日本を旅しており、その母のために読み返すことを前提とした日記を書いている。実際、母は15歳の時に生んでいるのでこの旅行の時は母は40歳くらいか。。

元々清河八郎は出羽の国清川村の造り酒屋 斎藤元司の裕福な家に生まれている。
18歳で家出をして江戸へ。古学 東条一堂を師と仰ぎ国学を学んでいる。のち、昌平坂学問所へでも学んでいる。また剣術は北辰一刀流で有名な千葉周作に学ぶ。

この旅行記は1855年3月19日に出発し9月10日に帰国。【西遊草】に纏められている。

この日記は実に当時の大坂文化を感じることができ、また志士の代表的な清河八郎の考え方を推察することができる。

6月1日
唐物屋で唐紙を購入。
本願寺(津村別院)前の風呂敷播磨屋で100まいを購入。京都の商人を酷評。陶器も同じく京都を酷評。
四ツ橋のうなぎ屋を東京のうなぎ屋と比較し批評。上方風のウナギはよろしくないとのこと。

3日
難波 大津屋の茶屋へ。四天王寺、大阪城の天守閣、難波の米蔵を眺める。

5日
日本橋から三十石へ乗り京都へ向かう。上り舟のために船頭らの苦労をねぎらう。
途中の風景描写がとても優雅。
八幡、淀の城下へ入り船頭が2人追加。京都へ入ると祇園祭の鉾が見えてきた。

7日
祇園祭の初日。
豊臣秀吉のかけた三条大橋の擬宝珠の薀蓄。
本能寺の信長のお話。
関白秀次の経緯をもとに『天下をたなごころの中に握るほどの衆にすぐれた人物だから、かえって矛盾するような性格があるのだろう』

幕末の人物が、戦国時代をどう見ていたかを知ることができる。

知恩院さんの忘れ傘。
有馬へ向かい、温泉にまつわる歴史的な武将の噺が続く。
蓬莱峡の奇岩に感動をする。

24日
大坂に入る。目的は天神祭。
難波橋の夕涼みの描写。

25日
天神祭の当日。
あまりの混雑に、宿屋の火の見台で酒肴を楽しみながら見物した。

26日

難波橋付近の遊山船の情景。
花火。
大坂の大金持ちを皮肉る。米屋平兵衛兵、鴻池らがケチだから
大塩平八郎の話もでてくる

27日
生玉明神へ。
天保山、港の帆柱のにぎわい。
堺の町まで見えた。

28日
舟遊び。

29日
午前10時に地震!
舟で逃げるという常識を非難。地震の恐怖を外夷にたとえる。
俗人は天下の憂いに気が付かず、有識者は前兆が現れない前からわかっている。

<参考ページ>

大地震両川口津浪記石碑
http://sweet-mikan.blogspot.jp/2011/06/2011-617_3937.html


擁護璽
http://sweet-mikan.blogspot.jp/2011/03/2011-322.html



30日
堺住吉明神の祭。

この詳細な様子は東洋文庫、岩波文庫から『西遊草』が出ているので
さっそく買い求めた。
本の到着が楽しみ。

※生玉神社の風景や三十石は落語にもなってる。
大坂のイキイキした当時の様子を知る貴重な手がかりとしたい。