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2013/01/19

2013 1/19 歴史と人間 幕末維新編  関鉄之助と桜田烈士

桜田烈士は襲撃をした18人の刺客を指すが定義はなく曖昧。
刺客18人の中に唯一薩摩藩の有村以外はすべて水戸藩

水戸は藤田東湖の表現によると[水戸っぽ]と呼ばれるように横着で荒っぽく人を愛す気持ちに乏しいと自戒の念を込めて書かれている。実際に高杉晋作が北関東を旅した際も同様の表現がされている。

1858年に大老(幕府政治の中心的役職)となった井伊直助。彼が目指したのはすべての権力が幕府が掌握していた時代の江戸時代。3代の家光までは将軍職が独裁政治で鎖国を実施したのは家光。もちろん天皇への報告などはない。

6/19には日米修好通商条約を締結。 天皇LOVEな井伊直助は勅許をもらうために、固執したがダメだった。。また6/25には継嗣問題を片づけた。13代の家定は衰弱し口がきけなかった状態であったが「次の将軍は慶福に・・・」と言ったと発表。これは後の家茂(14代)。

この行いに非常に不安を抱いた政治大好きな孝明天皇は、今までに無かったことを行う。
これが「戊午の密勅」。この内容は今回締結した条約を非難し、今後の政治は御三家(尾張・水戸・紀州)・三卿(清水・田安・一ツ橋)・家紋(松平)・列藩(大名)による合議をせよと書かれていた。いわば議会政治の原型。それまでの政治は譜代大名の一部の政治であった。ちなみに外様大名は関ヶ原の戦いで負けた大名ではなく、関ヶ原以前の三河時代より徳川につかえていた大名以外を指す。
この戊午の密勅は2通つくられ1部は幕府へ。そしてもう1通は水戸藩に下りた。しかも水戸藩用にはもう1行が書き添えられていた。それは、「この内容を三家・三卿・家門に伝達せよ」とのこと。

この内容を知った井伊さん。
8/29には伝達を禁ずる命令を出す。
8/30には水戸の重役らに処分を言い渡した。これに反発したのが水戸の若者たち。これに乗じたのは中央進出をもくろむ薩摩藩。

この少し前の7/16には島津斉彬さんが死去したために擁護していた精中組。過激で時代を武力で解決しようと考えていた。

そしてついに9/7に安政の大獄がはじまる。

今回の条約で勅許が出ないように仕組んだものを根こそぎ弾圧しようとして梅田雲浜(朝廷の公家とお仲良し)・頼 三樹三郎・橋本佐内らが処刑された。全体で100人くらい。で、吉田松陰さんは梅田雲浜との関係を疑われたために捕まった際に余計なことを話して処刑されてしまう。。

井伊の狙いは、すべては水戸の陰謀であり、徳川斉昭が現在の幕府を倒そうとしているのではないか?と推理。そのために天皇に条約のNGを進めているのでは?と考えていた。

勅許をもらうのに失敗した老中の堀田 正睦(佐倉藩藩主)をクビにして間部 詮勝(鯖江の殿様)を老中にして京都へ派遣。弾圧の式を取らせた。

ここで、西郷さんから日下部伊三治への手紙の中には「間部 詮勝が暴発したら京都へ挙兵、その後彦根白を落とす」との過激な文がある。しかし日下部も大獄で捕まり、西郷さんは鹿児島へ逃げてしまう。

11/12 水戸の中心人物の金子 孫二郎・高橋多一郎・関鉄之助らが江戸で会合を開いたが、薩摩と水戸で襲撃の譲り合いで話がつかなかった。

長野主膳が、水戸に勅を返納させるための勅を出させることに成功。
12/6には井伊の右腕の安藤 信正(のぶゆき)が現在の後楽園のある水戸藩邸に行き、勅を返納しない場合は勅に背くことになるが構わないのか?と迫る!そこで水戸藩は、返納は幕府に返すのではなく、天皇にそのままお返ししたいと返事をするがもちろんこの案はNG。

返納は、幕府に負けたのではなく、井伊直弼に負けたことを意味する!

実は数か月前の10月には勅は水戸に運ばれていたので江戸にはなかった。

12/23には返納を反対する下級武士ら数百人が、水戸の交通の要所になる長岡(茨城県)で、返納阻止を目的に集結。

安政7年には、水戸の重臣らは、武力突破を決定。
長岡一党は、楠正成をイメージに耐えている。実は1/下には関西で挙兵することが決まっていたらしい。

2/18 高橋・関・角谷・矢野の4人が長岡一党を先導しているということで水戸藩より出頭命令が出るが高橋親子は大阪へ!関・金子は2/20に江戸へ脱出している。

そのため長岡一党は幹部がいなくなってしまい2/19に解散となってしまった。

2/26には金子は薩摩と打ち合わせ。
3/1には日本橋の山崎楼へ集合し打ち合わせ。
ここで、関が隊長。斎藤が自訴状を提出すると決まる。
3/2には品川土蔵相模(妓楼)でお別れ会。朝まで酒を飲んだらしい。

ついに運命の3/3・・。

9時より襲撃。。

彦根藩邸から桜田門までは数百メートル。行列は60人程度。朝からの大雪。

ついに襲撃が行われわずか3分程度で終わった。。

蓮田市五郎が処刑されるまでの間に克明に手記を残しておりその文章を読ませていただいた。

 
野口勝一「桜田義挙と其一党」より。
襲撃に加わった名簿と前日から当日の襲撃が終わるまでの経緯。
襲撃後色んな動きをしたその反省。
取り調べの骨子。

蓮田は、取り調べ内容を幕府の都合の良い風に進み、自分たちの熱い思いがうやむやにされないように記載したのでしょう。これが現代までに残ってるとは驚きです。

幕府は何が何でも徳川斉昭の差し金としたかったようで陰湿な誘導尋問を行ったことが書かれていたことがびっくりです。

そして最後に驚いたのは
明治14年まで生存したものと、明治36年まで警察官になって生き延びたものが居た事。。




 下記WIKIより引用)

関鉄之介(徒士格。現場総指揮。斬り合い不参加、逃亡後捕縛、文久2年(1862年)斬罪。享年39)
斎藤監物一徳(神官。自首後、傷により死亡。享年39)
大関和七郎増美(大番組。自首後、1861年斬罪。享年26)
広岡子之次郎則頼(小普譜。重傷負い自刃。享年21)
黒澤忠三郎勝算(馬廻組。自首後、病死。享年33)
佐野竹之助光明(小普譜。自首後、傷により死亡。享年21)
森五六郎直長(自首後、文久元年(1861年)斬罪。享年24)
森山繁之介政徳(町方属吏。自首後、文久元年(1861年)斬罪。享年27)
山口辰之介正(重傷負い自刃。享年29)
広木松之介有良(町方属吏。逃亡後、文久2年(1862年)自刃。享年27)
蓮田市五郎正実(寺社方。自首後、文久元年(1861年)斬罪。享年29)
杉山弥一郎当人(留付列。自首後、文久元年(1861年)斬罪。享年38)
鯉淵要人珍陳(神官。重傷負い自刃。享年51)
稲田重蔵正辰(郡方。金子に京への同行を命じられたが、本人の希望により固辞して襲撃参加。闘死。享年47)
海後磋磯之介宗親(神職。逃亡後、菊池剛蔵と改名。維新後警視庁・水戸県警察本部勤務。1903年(明治36年)没。享年76)
岡部三十郎忠吉(検視見届役。斬り合い不参加、逃亡後捕縛、文久元年(1861年)斬罪。享年44)
増子金八(逃亡後、1881年(明治14年)没。享年59)
有村次左衛門兼清(薩摩藩士。重傷負い自刃。享年22)