フランス風懐石料理中華風: 2013-01

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2013 1/27 第70回めふ乃寄席

第70回めふ乃寄席に行ってまいりました。およそ1年ぶりとなりました。
このめふ乃寄席は林家竹丸さん・桂阿か枝さん・林家染左さんがレギュラーメンバーで毎回ゲストを迎えてのお値打ちな寄席です。
会場は阪急電車売布神社前下車すぐ。駐車場もあるしオススメです。

毎回、一月席は開場時に「しころ打ち」を聞かせてくださいます。
なかなか華やかで良い趣向です。


桂團治郎「狸賽」
身長の高さをつかみに手堅くきっちりとした口調でネタに。非常に高感度の高い噺家さんって印象でした。

林家竹丸「延陽伯」
竹丸さんの延陽伯はじつはめふ乃寄席では2回目。前回同様に「ぽ~りぽりのバ~リバリ!チンチロリンのが~さがさ!」で会場が盛り上がりました。


桂阿か枝「祝いのし」
桂阿か枝さんの喜六キャラ!むっちゃ好きです。そのボケぶりがほんと、愛されキャラなのです。
この祝いのしにも登場する喜六さん。相変わらずのお惚けぶりを発揮してくださいました。

 
林家染左「浮かれの屑選り」

今回のめふ乃寄席へ久しぶりに行こう!って話になったのは実はこの[浮かれの屑選り]が演じられるからなのでした。
義経千本桜や狐忠信、女道成寺等の古典芸能のエッセンスがふんだんに取り込まれており
座布団や扇を舞台からほり投げたり、前転したり、中腰でなんども部隊の上を歩き回ったりで演者さんも汗だくになるハードなネタ。
林家のお家芸といわれているようで、染丸さんを筆頭に、染二さん、染雀さん、染左さんの「浮かれの屑選り」を拝見してきましたが今日のは秀逸!ちゃんと客席にまで通じていたようで長いこと拍手が鳴りやみませんでした。

 さて、一月席好例の抽選会。いままで必ずなにかを頂戴しているラッキーな私!ことしは
演者さん全員の寄せ書きをありがたく頂戴いたしました!ほんとにありがとうございました。

2013 1/20 りっくぷち寄席 染丸一門会

毎年恒例のりっくぷち寄席 染丸一門会。この会は指定席なので安心。
しかも毎年おもいっきり前の席なので臨場感たっぷりです。


林家愛染 狸の鯉

狸との出会いは割愛、そのかわりに服屋の掛取りのシーンあり。
笑顔が印象的な噺家さんですねー。


林家染吉 兵庫舟

マクラは国勢調査ネタ。おもいっきり会場が盛り上がり。
色んな地域へ行かれた話から旅の噺の兵庫舟へ。
櫓をこぐ仕草と、喜六のボケた表情がとても印象的でした。


林家染太 ふぐ鍋

多彩なまくら。ふぐ鍋の熱さと大橋さんの印象がとても良い感じ。


林家染丸 ちはやふる

昨年10/31に脳梗塞で入院され、その2週間後には紫綬褒章受章。
その時のエピソードで会場は大爆笑。
上方落語に珍しくお茶(白湯)を時折飲まれながらの高座でした。
「まだ、なにをしようか決まってへんねん」と話され、会場はさらに盛り上がり^^

ネタはちはやふる。
すこし語尾に不安が残りますがその不安を十分カバーする話力と所作で、大爆笑のうちに
板付で幕が下がりました。


私のお正月の過ごし方で、毎年1/1と1/3は松蕎さんと染丸さんで明けるのですが今年は会が中止になりました。それから林家染丸さんのお姿を見かけることがなかったので心配していましたがゆやく少し安心しました。あとは松蕎さんの元気なお姿を見るのが楽しみです。

2013 1/19 歴史と人間 幕末維新編  関鉄之助と桜田烈士

桜田烈士は襲撃をした18人の刺客を指すが定義はなく曖昧。
刺客18人の中に唯一薩摩藩の有村以外はすべて水戸藩

水戸は藤田東湖の表現によると[水戸っぽ]と呼ばれるように横着で荒っぽく人を愛す気持ちに乏しいと自戒の念を込めて書かれている。実際に高杉晋作が北関東を旅した際も同様の表現がされている。

1858年に大老(幕府政治の中心的役職)となった井伊直助。彼が目指したのはすべての権力が幕府が掌握していた時代の江戸時代。3代の家光までは将軍職が独裁政治で鎖国を実施したのは家光。もちろん天皇への報告などはない。

6/19には日米修好通商条約を締結。 天皇LOVEな井伊直助は勅許をもらうために、固執したがダメだった。。また6/25には継嗣問題を片づけた。13代の家定は衰弱し口がきけなかった状態であったが「次の将軍は慶福に・・・」と言ったと発表。これは後の家茂(14代)。

この行いに非常に不安を抱いた政治大好きな孝明天皇は、今までに無かったことを行う。
これが「戊午の密勅」。この内容は今回締結した条約を非難し、今後の政治は御三家(尾張・水戸・紀州)・三卿(清水・田安・一ツ橋)・家紋(松平)・列藩(大名)による合議をせよと書かれていた。いわば議会政治の原型。それまでの政治は譜代大名の一部の政治であった。ちなみに外様大名は関ヶ原の戦いで負けた大名ではなく、関ヶ原以前の三河時代より徳川につかえていた大名以外を指す。
この戊午の密勅は2通つくられ1部は幕府へ。そしてもう1通は水戸藩に下りた。しかも水戸藩用にはもう1行が書き添えられていた。それは、「この内容を三家・三卿・家門に伝達せよ」とのこと。

この内容を知った井伊さん。
8/29には伝達を禁ずる命令を出す。
8/30には水戸の重役らに処分を言い渡した。これに反発したのが水戸の若者たち。これに乗じたのは中央進出をもくろむ薩摩藩。

この少し前の7/16には島津斉彬さんが死去したために擁護していた精中組。過激で時代を武力で解決しようと考えていた。

そしてついに9/7に安政の大獄がはじまる。

今回の条約で勅許が出ないように仕組んだものを根こそぎ弾圧しようとして梅田雲浜(朝廷の公家とお仲良し)・頼 三樹三郎・橋本佐内らが処刑された。全体で100人くらい。で、吉田松陰さんは梅田雲浜との関係を疑われたために捕まった際に余計なことを話して処刑されてしまう。。

井伊の狙いは、すべては水戸の陰謀であり、徳川斉昭が現在の幕府を倒そうとしているのではないか?と推理。そのために天皇に条約のNGを進めているのでは?と考えていた。

勅許をもらうのに失敗した老中の堀田 正睦(佐倉藩藩主)をクビにして間部 詮勝(鯖江の殿様)を老中にして京都へ派遣。弾圧の式を取らせた。

ここで、西郷さんから日下部伊三治への手紙の中には「間部 詮勝が暴発したら京都へ挙兵、その後彦根白を落とす」との過激な文がある。しかし日下部も大獄で捕まり、西郷さんは鹿児島へ逃げてしまう。

11/12 水戸の中心人物の金子 孫二郎・高橋多一郎・関鉄之助らが江戸で会合を開いたが、薩摩と水戸で襲撃の譲り合いで話がつかなかった。

長野主膳が、水戸に勅を返納させるための勅を出させることに成功。
12/6には井伊の右腕の安藤 信正(のぶゆき)が現在の後楽園のある水戸藩邸に行き、勅を返納しない場合は勅に背くことになるが構わないのか?と迫る!そこで水戸藩は、返納は幕府に返すのではなく、天皇にそのままお返ししたいと返事をするがもちろんこの案はNG。

返納は、幕府に負けたのではなく、井伊直弼に負けたことを意味する!

実は数か月前の10月には勅は水戸に運ばれていたので江戸にはなかった。

12/23には返納を反対する下級武士ら数百人が、水戸の交通の要所になる長岡(茨城県)で、返納阻止を目的に集結。

安政7年には、水戸の重臣らは、武力突破を決定。
長岡一党は、楠正成をイメージに耐えている。実は1/下には関西で挙兵することが決まっていたらしい。

2/18 高橋・関・角谷・矢野の4人が長岡一党を先導しているということで水戸藩より出頭命令が出るが高橋親子は大阪へ!関・金子は2/20に江戸へ脱出している。

そのため長岡一党は幹部がいなくなってしまい2/19に解散となってしまった。

2/26には金子は薩摩と打ち合わせ。
3/1には日本橋の山崎楼へ集合し打ち合わせ。
ここで、関が隊長。斎藤が自訴状を提出すると決まる。
3/2には品川土蔵相模(妓楼)でお別れ会。朝まで酒を飲んだらしい。

ついに運命の3/3・・。

9時より襲撃。。

彦根藩邸から桜田門までは数百メートル。行列は60人程度。朝からの大雪。

ついに襲撃が行われわずか3分程度で終わった。。

蓮田市五郎が処刑されるまでの間に克明に手記を残しておりその文章を読ませていただいた。

 
野口勝一「桜田義挙と其一党」より。
襲撃に加わった名簿と前日から当日の襲撃が終わるまでの経緯。
襲撃後色んな動きをしたその反省。
取り調べの骨子。

蓮田は、取り調べ内容を幕府の都合の良い風に進み、自分たちの熱い思いがうやむやにされないように記載したのでしょう。これが現代までに残ってるとは驚きです。

幕府は何が何でも徳川斉昭の差し金としたかったようで陰湿な誘導尋問を行ったことが書かれていたことがびっくりです。

そして最後に驚いたのは
明治14年まで生存したものと、明治36年まで警察官になって生き延びたものが居た事。。




 下記WIKIより引用)

関鉄之介(徒士格。現場総指揮。斬り合い不参加、逃亡後捕縛、文久2年(1862年)斬罪。享年39)
斎藤監物一徳(神官。自首後、傷により死亡。享年39)
大関和七郎増美(大番組。自首後、1861年斬罪。享年26)
広岡子之次郎則頼(小普譜。重傷負い自刃。享年21)
黒澤忠三郎勝算(馬廻組。自首後、病死。享年33)
佐野竹之助光明(小普譜。自首後、傷により死亡。享年21)
森五六郎直長(自首後、文久元年(1861年)斬罪。享年24)
森山繁之介政徳(町方属吏。自首後、文久元年(1861年)斬罪。享年27)
山口辰之介正(重傷負い自刃。享年29)
広木松之介有良(町方属吏。逃亡後、文久2年(1862年)自刃。享年27)
蓮田市五郎正実(寺社方。自首後、文久元年(1861年)斬罪。享年29)
杉山弥一郎当人(留付列。自首後、文久元年(1861年)斬罪。享年38)
鯉淵要人珍陳(神官。重傷負い自刃。享年51)
稲田重蔵正辰(郡方。金子に京への同行を命じられたが、本人の希望により固辞して襲撃参加。闘死。享年47)
海後磋磯之介宗親(神職。逃亡後、菊池剛蔵と改名。維新後警視庁・水戸県警察本部勤務。1903年(明治36年)没。享年76)
岡部三十郎忠吉(検視見届役。斬り合い不参加、逃亡後捕縛、文久元年(1861年)斬罪。享年44)
増子金八(逃亡後、1881年(明治14年)没。享年59)
有村次左衛門兼清(薩摩藩士。重傷負い自刃。享年22)

2013 1/13 NHK 日本人は何を考えてきたのか  大本教について

江戸末期から明治初年に様々な宗教が開かれています。金光教や天理教もこの時期。
時代が大きく変化する不安定な時・・民衆の大多数を構成する貧しい方々が心のより所を求めていたのでしょうか。

先日から色んな縁で、興味をもった大本教。たまたまNHKの番組があったので録画して鑑賞。

艮(うしとら)の金神さんより出口なおさんが言葉をいただいてはじまった宗教。
幕末期に貧しい農村に生まれ、貧しく辛い日々。綾部に嫁いだが苦労の連続。
出口なおと上田喜三郎がで出会う。
金明霊学会が生まれ、なおの娘のすみさんと結婚し、出口王仁三郎となる。日露戦争勃発。なんとか持ちこたえて得た勝利で日本は進む道を誤ってゆく。
大日本修賛会となり発展してゆく。

なおさんは三千世界の建て直しを説き、王仁三郎さんはそれらを実践をしてゆく。
第一次世界大戦の陰でアジアへ進出すると、国内の貧富の格差がどんどん開いてゆく。
政治と宗教の分離により祭政一致を唱え、皇道大本、天皇親政を推進する政治思想となることで軍人が入信をする。これが世界を一つにする神政復古、帝国主義に発展してゆく。
大正7年、富山県で米価高騰による米騒動が勃発した同11月に81歳で出口なおさんが亡くなる。ロシア革命による社会主義の成立から大正デモクラシー運動による民衆運動の高まりで教団は支部を拡大。それは台湾までも広がることになる。
大正9年、協会への弾圧が開始。不敬罪で王仁三郎さんが逮捕されてしまう。
そのためなおさんの言葉ではなく、自分の霊界体験を全面に表現してゆく。これが有名な霊界物語。全81巻。

またエスペラント語を普及。人類同胞主義を説くために必要な手段として採用。
五四運動をへて、日本は中国進出と同時に教団も進出。
満州事変勃発。世界の統一を理想とし日本を世界の中心とする思想と、世界大恐慌に重なり民衆に浸透してゆく。

国際連盟脱退から宗教家から政治家へかわってゆく王仁三郎さん。
昭和神聖会となり政治色が濃くなってゆく。天皇機関説の廃絶を唱え、大本は拡大を続け国家主義を進んでゆく。信者800万人。全国支部は414。あまりに拡大したために国家から危険団体としてついに弾圧を受ける。
本部は破壊。全国の支部も破壊。1500のダイナマイトを3週間かけて破壊。王仁三郎は再び捕らえられた。
なおさんのお墓は荒らされ、遺骨は持ち去られた。大本信徒の墓石は削られている。
太平洋戦争勃発。戦局悪化し終戦。
施設再建を目指し人類同胞主義を見つめな直す。世界平和は軍備撤廃を唱える。
S23、王仁三郎さんが亡くなった。


先日の、『何を言うやら蜜柑やら』がここまで広がるとは思わなかった(^_^)

2013 1/12 西宮戎さんと清荒神さん


十日戎には欠かさず参拝していましたが、今年は転職したので無理でした。
長年の習慣を絶つのって辛いですね。

で、今年は残り戎の終わった12日に参拝することにしました。
せっかくなので今年は西宮戎神社へ。

境内では昨日までの喧騒を思い出させるような屋台の撤去のタイミングと重なって
車やトラックがいっぱい!

なんとか参拝を終え、テレビ中継でおなじみの赤い門の前で記念撮影^^この門の前からたくさんの方々がダッシュされてるんだなーって思うと感慨深い思いが。。



清荒神さんもいつも参拝をしているのですが、前回前回お参りした時には改装工事中で入ることができなかった富岡鉄斎さんの美術館にどうしても行きたくって・・。「鉄斎 -喫茶の楽しみ-」と題して書画や茶器が展示。
勢いのある水墨画や繊細に書かれている線に論語が書かれている掛け軸や茶器に目を奪われました。
そして横にある奥ノ院の滝でしばしクールダウン♪

ステキな日本画を見ると、また足立美術館に行きたくなってきました。
今年中には行って来ようかなー。
参道をぶらぶら歩いているとステキな竹細工のお店発見!お店の中には白蛇さんが!おもわず記念撮影してステキナ週末の一日を終えました。

2013 1/10 自分の感受性くらい

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自分の感受性くらい

                       作:茨木のり子

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

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2013 1/1 年頭



これは2007年の年末から2008年のお正月にかけて喉の手術で入院した際に
病院のロビーに掲げられていた額の言葉です。

この時は泣きそうなくらい辛くて・・さみしくて。。悲しくて。。。。

でもこの額の言葉を読んですごく自分が恥ずかしくなりました。

今年1年は謙虚に過ごしたいとおもいます。