フランス風懐石料理中華風: 2013

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2013 12/15 幕末/明治の講談

上方講談に関する文献を発見!

京阪にあっては、特に文化年間に市中の諸所に講釈場が出来、落語もそこへ出演するようになった。京都は四条河原町・四条道場・蛸薬師・華堂等の境内或いは北野社頭などにあり。大坂は難波新地・法善寺・和光寺・天満天神・御霊・座磨・博労稲荷等にあり。昔は生玉の社頭には比類おおくありて賑わしきよし、近世は衰微して平日は寂莫たり。また坊間諸所にあり。
(---守貞漫稿・雑劇下・京坂講釈場---)
勿論、当時といえども辻噺が全く廃絶したわけではないが、名人とよばれ上手と目される落語家が、次々と講釈場に入ることになれば、辻噺などはジリ貧状態に自滅へ向かったであろうことは象象に難しくない。

当時の講釈場の内部は通例次のようになっていた。

正面が講座でとこのまに土間を通す。
昭和6年当時、大阪に唯一一軒残っていた日の出席(西区松島町1の25)の内部が、口座を正面にして客席が三列に割ってあり。客席と客席の間は通路兼履物脱ぎ場であったのも想到できる。守貞漫稿の図は大きい講釈場の内部を示したのであろう。

上方の席では講釈・落語のみであった。当時の落語は「昔ばなし」と「落としばなし」の二大別され、前者は虚実ともに実話のようにはなすものをいい、後者は滑稽をむねとする文字通りの落とし噺をいった。「落としはなし」は専ら前座が演じ、「昔はなし」は真打ちの担当であった。
嘉永三年大阪板「滑稽噺の咲きわけ」上巻の口絵をみると、ギッシリ詰まった客席の正面、高座には鉄瓶をかけた火鉢を中にして左右に噺家が座っている。二人とも机ではなく読書用の見台を前にしているがその見台には、大判の白紙に一方には「昔噺シ」、他方には「滑稽」と書いて貼り下げてある。往古は講釈同様、落語家も本を前にしてしゃべることがあったものと考えてよかろう。
(上方落語の歴史 昭和33年発行 前田勇著)

講談は明治初期、玉龍亭一山・松林伯円らが名高く明治前半期に活躍した。
(幕末維新の大阪 1984年北崎豊二著)


文化年間はさまざまな庶民文化が発展した時期。
たしかに大阪には沢山の講釈場があったことは講釈師がでてくる落語のネタ「くっしゃみ講釈」や「不動坊」からも想像がつくことでしょう。また師匠ではなく先生と呼ばれるのもそのルーツが落語とは違うからだとのこと。
講談ネタが落語に引き継がれたものとしてはどんなネタがあるのでしょう?
簡単に思いつくのは「寛政力士伝」「義士銘々本伝/銘々伝/外伝」「左甚五郎漫遊記」「水戸黄門漫遊記」あたりからの移植か?私の大好きな<木津の勘助>は何に相当するのでしょう?

また、上方落語は今のような見台では無かったようで驚きです!


日の出席を調べていたらどんどんと興味が!松島遊郭と切り離せないお話のようで
これはまたの機会に!

2013 12/8  第19回アシスト寄席

早いもので第19回となりました。

定刻よりもすこし早めに到着。席はいつもの下手側。


桂三語「狸さい」
はじめてお目にかかる初々しい噺家さん。 2009年ご入門とのこと。
とても元気でフレッシュな声!さすがに元体育会系噺家さんです。
こんな元気な狸賽も久しぶり!将来が楽しみです。


桂枝女太「荒大名の茶の湯」 

先月たまたはNHK【日本の話芸】で落語家さんによるこのネタを聞いたばかり。
その時の感想は「そうかぁ。。講談ネタを落語家さんもされるんだなぁ」と感心。
講談と落語・・似ているスタイルだけど異なる話芸だけにこれだけ違うのかと納得。


旭堂南左衛門「「大石順教尼物語~カナリアの教えに導かれて~」
本邦初演の時からずっと聞かせていただいているこのお話。
1回目は関係者だけ。2回目は講談Funの前。そして今回は講談が初めてのお客様で、しかも落語も楽しみにこられているお客様の前だけに反応がすごく楽しみでした。
途中、観客席を見渡すと、皆が 南左衛門の一挙手を食い入るように見つめておられ
その眼差しは涙さえ浮かべておられる方もおられました。
はやくこのお話の続きの完成が待ち遠しいものです。

笑福亭仁嬌「天王寺詣り」
私の思い入れのあるお話の一つです。
中でも見どころは四天王寺の境内の雰囲気や彼岸の境内の賑やかお店の描写をどうされるです。特にお話の中のお店は現代にはまったく存在しないお店ばかりなところをどう説明されるか。。本当に演者さんによって違いを楽しむことができるお話です。クロの戒名もスッと流された感じでしたがそれでも大ネタ!楽しませていただきました。

さて、会が終わり3人の楽しいお話の時に気になったのが【釈ネタ】。いろんなお話が講談から落語に転じているそうで、私の大好きなお話の【木津の勘助】や【鼓ケ滝】【竹の水仙】は噺家さんが演じられていたのを聞いた覚えがあります。
同じネタでも講談と落語しかり、演者さんが違うと本当に解釈が違ってまた楽しむことができます。

2013 11/27 マザーテレサの言葉

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

 言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

 行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

 習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
 
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 

2013 11/2 第二十九回柳谷観音・泰聖寺講談会

「第二十九回柳谷観音・泰聖寺講談会
~創作講談特集~中野順哉・有本隆・狐狸窟彦兵衛の世界」


「大石順教尼物語~カナリアの教えに導かれて~ 狐狸窟彦兵衛 作」 旭堂 南左衛門 「藤堂高虎~中野順哉 作」 旭堂 南青 「宮本武蔵~播州三番勝負~有本隆作 」旭堂 南舟

「天才剣士・宮本武蔵見参!~中野順哉 作」 旭堂 南斗 今日の泰聖寺講談会も大入り満員でした。この1年間くらいはずっと満員で 本当に嬉しく参加させていただいています。
さて、今回は創作講談特集ということで宮本武蔵も藤堂高虎もとても面白く 楽しませていただきました。
そして最後を飾られました南左衛門さんの【大石順教尼物語】。
これは 1ヶ月ほど前に九度山の大石順教尼記念館にて身内だけの発表会を経て本日が2回目となります。

この1か月間でなんと素晴らしい講談に仕上がった事か!
より洗練され、磨き上げられ、強弱が付き、そしてフリが加わったおかげで 観客の中からもすすり泣く声や嗚咽が聞えてくるほどでした。

恒例の終演後の茶話会で聞いた話では、今日の参会者のお一人がこの演目の途中に 大石順教尼さんも聞きに来られていたと話されたそうで本当に驚きでした。
健常者だから気が付かない当たり前の幸せは障害者となってはじめて気が付く、 それでも笑顔でたくさんの方々の魂を奮い立たせた大石順教尼さんのお話は 沢山の方々に知ってもらいたい!本当にそんな気持ちでいっぱいです。

会が終わり、一部の方と大阪四天王寺さんにある中川萬次郎さんのお墓へ 参拝に行って、今日の講談のご報告をしてまりました。

2013 11/9 大収穫祭 in 九度山

毎年恒例の大収穫祭in 九度山へ行ってまいりました。

来年5月には会場に道の駅ができることから、今回の収穫祭は規模が例年になくコンパクトになった分だけその熱気もすごく、その気迫が伝わるものでした。

朝7時過ぎに大阪を出発し9時過ぎには町役場に到着。
今回は最寄りの駐車場よりマイクロバスでの送迎との事で早めに出発したおかげで余裕の会場入りです。

町の角々には揃いの半被を来た方々が立たれ、また案内の方々も多く会場にはその良い意味での手作り感のある運営から、町と行政が力を合わせた素晴らしい祭だと感じました。

会場では沢山のブースで富有柿を販売!また姉妹都市提携の信州上田市のリンゴもお目見えし大人気となっていました。

さて、定刻の10時になるとオープニングセレモニー開始です。
いつもにこやかな笑顔が素敵な岡本町長さんのご挨拶を経て盛大に大収穫祭が開催されました。



さて、九度山に来たらいつもランチは同じお店です。
橋本市にある【やっちょん広場】の2階にある食菜館です。

オープンして間もなくすぐに行き、その素晴らしさに驚いています。



地元で収穫されたお野菜を使ったお料理の相違工夫にお味の良さ!
いずれも驚かされています。

母はB定食のメイン料理 「五目豆腐」を、そして私はA定食のメイン料理 「揚げ里芋のあんかけ」
をいただきました。


ここの週替わりの定食は絶対にハズレはありません!
ぜひ近くまで行かれたら必食してください^^

2013 10/27 ぬ・抜けた・・・・えぇぇ?

途中の道の駅の駐車場で車の切替しをする為に【D】⇒【R】へ入れ直したその時!!
 
 
シフトレバーの取っ手がスポッと抜けました。
 
「えぇぇ!?」
 
車内に居た方々も絶句!一瞬なにが起きたのかわかりません!
 
とりあえず、抜けた箇所を見ると中が二重になっている鉄の棒、その真ん中のでっぱりを押すと
どうやらギアチェンジはできる模様。
 
そのまま広い駐車場へ移動して同乗いただいていた方に直していただきました(;^ω^)
と言っても中の隠しネジがアホになっているみたいで空回り。。
とりあえず、引っ張らなければ抜けない!ってことからそのまま九度山へ向かいました(笑)
 
まさか、そんなんが抜けるなんてww
 
運転中でなくて不幸中の幸いですねー。
 
昨夜、ディーラーの担当者さんが様子を見に来てくださって、この週末に修理となりそうです。
 

2013 10/27 旧萱野家~大石順教尼の記念館 又旅会発会式 大石順教尼講談お披露目式

2013 10/27 旧萱野家~大石順教尼の記念館 又旅会発会式 大石順教尼講談お披露目式
 
 
いまからちょうど3年前に初めて大石順教尼様のお名前を知りました。
そして館長さんのご厚意と、様々なご縁のおかげをもちまして2012/4月開催の【祖母さまのお手々はだるまのお手々】の発刊式、そして今回の講談のお披露目式に参加となりました。
 
大阪より演者の旭堂南衛左門様と脚本を執筆されました狐狸窟彦兵衛さんとともに
九度山町の旧萱野家へ向かいました。今日は台風一過の大阪マラソンの日でもあることから相当経路を吟味したおかげで無事予定の小一時間前に到着し離座敷にて色んなお話を賜りました。
 
様々な試練を超えた大石順教尼様の生涯はあまりに膨大過ぎて1本の講談に収まりきれるはずもなく今回はその発端の部分として創作講談「大石順教尼物語 ~カナリヤの教えに導かれ~」が
無事ご披露されました。その後、萱野館長様・旭堂南衛左門様・狐狸窟彦兵衛様とのトークショーを終え無事に散会となりました。
 
その壮絶な人生の転機を乗り越えることができた暁には自分の強みとする事が出来るものなのでしょうか。
突然に背負った障害を強みに変えることができるその勇気を他の方々へも分け与え、
また心の拠り所となるように生きてこられた順教尼様のその素晴らしさを再認識いたしました。
色んな悩みをもってこの萱野家にお越しになられる方が、元気になって帰って行かれると
九度山の岡本町長さんのお話も本当に実感!
どうぞすこしでも沢山の方にその存在を知っていただきたいと思っています。
 
今はただ、その素晴らしい出会いに感謝です。
 
 
御可笑拵処「東雲堂」 狐狸窟彦兵衛 
 
 
旧萱野家(大石順教尼の記念館)
 
 
環翠軒にて in九度山 大石順教尼記念館

2013 10/19 歴史と人間 久坂玄瑞

私たちが知っている幕末の歴史の糸口の大半は、司馬遼太郎の小説やNHK大河ドラマであることは否めません。
戦前は講談士であり政治家であった伊藤痴遊の功績が大きい。
全国にFunがいてファンクラブに相当する痴遊会が存在。
全国ツアーを実施していた。

井上馨は明治になりいろんな事件があったために公爵になることができなかった、
しかしそれでもその功績を讃えてもらいたいために、静岡県沖津の自宅で明治40年に快気祝いの際に台座を含めると10mくらいの銅像を自分で建立し、その席で伊藤に袖付橋の御難を演じさせたらしい。
さて、今日のテーマは久坂玄瑞。
天保11年生まれ(1840~1864)25石の医者の家に生まれる。
三男坊だが次男は早くして亡くなったために次男として育てられた。長男は久坂玄機といい二十歳年上。北浜にある適塾の塾頭の秀才。
嘉永三年の14歳の時に母が亡くなる。
そして安政元年の15歳の時に玄機と父が亡くなる、そして玄瑞は天涯孤独となってしまう。
その後、藩の寮生活の後、三回忌を済ませた安政3年に九州の遊学へ出発。
途中で宮部鼎蔵を訪ねる。宮部はご存じ松蔭先生が東北視察を行った際のパートナー。
宮部は松蔭に会うことを勧めた。ちょうどその頃は松蔭先生は自宅謹慎中。
そんな時に久坂より鼻息の荒い手紙が松蔭先生に届く。
幕府の行った条約締結は間違っている!そんな使者は斬り殺してしまったらよい!とのこと。
その意見に対して松蔭先生は『議論浮法思慮粗浅』と非常に厳しい内容。

今の言葉に直すと、考えは上っ面で考えが浅すぎ。人にはそれぞれの立場がある、まずその立場から考えること。また実践の伴わない言葉は評価しないし、浮ついた考えの人物は嫌いだ!とのこと。
玄瑞は、論ずるに立場は関係ない!と反論。

松蔭先生はさらに
対抗する。和親条約はすでに締結していおるのだから破ってはいけない。北海道を開拓し琉球を植民地としてアジア各国をひとつにまとめて団結させるという説。
※この内容は韓国併合における現代社会にも問題となっており原文と韓国語訳、そして再度日本語に直すとまったくニュアンスが違っている。
玄瑞はさらに反論!そして松蔭先生は『それなら存分にやってみるがよい』と体をかわす。
もちろん久坂にはできるはずがない。
入塾に至った玄瑞は松蔭先生の思った通りで防長年少中第一流と評価しており、高杉と競わせて実力をつけてゆく。

そして安政4年には松蔭先生の末の娘が嫁となり親戚関係となる。
そして安政6年10月27日に松蔭先生は伝馬町で処刑、小塚原に埋められた。
現在の小伝馬町駅十思町公園にあるお堂が相当、南千住駅の小塚原は20万体以上の遺体が埋まっており現在でも遺骨がでてくる。
文久二年1月には龍馬が訪ねてきて10日間びっしりと話し合いその後、龍馬は脱藩!
武市へあてた手紙には『諸侯や公家もあてにしてはだめだ!我々が力をあわせておこなうんだ!』と記載。しかも『尊藩も大義なれば滅んでもかまわない』と書いたあとに『尊藩も(幣藩も)』と書き足している!
長井雅楽の失脚、久光の状況から長州藩の方針を『奉勅攘夷』で一本化。久坂も賛同している。
その後、松蔭先生の改葬に扮装、ついに桜田門外、坂下門や安政の大獄に関わったものを大赦令を出させることに成功、ただし寺田屋事変の9人のみは例外とした。
復権を果たし、世田谷区の若林の藩のと土地に遺骨を移し松蔭神社となる。これにより松蔭先生は神格化!藩のシンボルとなってゆく。
すぐに父、百合之助の復権、松蔭先生の資料を藩へ提出しその後明倫館の教科書となる、また吉田家の断絶を取り消した。
さらに松蔭先生の弟子たちは全員位が上がった!
そんな時に長州藩に事件が起こる。
攘夷の実行で下関で砲撃~七卿落ちへつながってゆく。
元治元年2月 周防上関の義勇隊が、田布施沖に停泊中の薩摩の商船を焼き払い船長の大谷仲之進を殺してしまう事件が起こる。
その月末に大阪南御堂さんの門前に、この大谷の生首と二人の人物の切腹した死体があった。
その二人は山本誠一郎と水井精一。そして斬奸状には『大谷は外国と貿易を行っており綿や油を販売し利潤をあげていた』とかかれている。
その数日後、義勇隊の隊長が上関で切腹を していたという事件があった。
この事件により長州の株が大いに上がった。薩摩に天誅を喰らわしたのだから長州は庶民を助けたヒーロー扱いとなる。
それにより山本、水井と隊長の高橋は上関三士と呼ばれ靖国神社に合祀されている。
さて、この事件には大いなる裏事情があった。
山本誠一郎の著「帰正弁」によると24歳で全国を視察、国防に興味があったが下関で楼閣にはまってしまい事件をおこしたあげくに2年近く禁固、外国船を攻撃した久坂に共鳴下とのこと。
久坂が目を付けて、山本、水井に大谷の首を大阪へ運ぶように依頼、その後、二人を無理矢理切腹させたらしい。 薩摩商船を襲ったら当然長州と薩摩は一触即発。その回避と地に落ちた評判をあげる奇策であったに違いない。

久坂元瑞は恐るべし頭脳明察で策士であったのでしょう。

2013 10/5 第50回 四天王寺秋季大学



今年も参加!素敵な会場でわずかな費用で幅広いお話を聞くことができました。

第1講目 13:00~14:20
髙橋弘次氏(大本山金戒光明寺御法主)「念佛発祥の寺、金戒光明寺」

なぜ黒だにさんと呼ばれるのか?また法然が最初に浄土宗を布教を行った地であることに因んで、後小松天皇より「浄土真宗最初門」の勅額を賜っている。
また法然さんが入滅の前に、一枚起請文を認めており現存している。
その後小松天皇のご落胤があの一休宗純。
法然上人を生き如来と讃え一枚起請文をもっとも奇なるかなと賞賛されています。
さとりはいらぬものじゃ。
あみだのご誓願のお念仏一遍にて無量無辺の罪さえ滅ぼし候うえは
、さとりたりというきゃつめが胸になにがある。
へんてつもなきあばら骨皮。
九年までさせらんずるこそ無益なれ。まことのときは阿弥陀の一声。
そのあらかたの意味は下記の通り。
さとりはいらない。
阿弥陀のみ旨にそう念仏があればいい。
悟った人の胸にはなにもない。
あるのはへんてつもないあばら骨と皮ではないか。
面壁九年の座禅修行も無益である。
まことの教えはただ南無阿弥陀仏にある。
とてもユニークな僧侶で、そのエピソードは『狂雲集』(柳田聖山著)にかかれている。
有漏路より無漏路へ帰る一休み。
雨ふらば降れ 風ふかば吹け。
十年、鼻の下、芳盟を理む。
一段の風流、無限の情。
惜別す枕頭児女の膝、
夜深こうして雲雨、三世を訳す。
これが辞世の詩といわれている。

第2講目 14:40~16:00
入澤崇氏(龍谷大学教授・龍谷ミュージアム館長)「大谷探検隊とシルクロード」

日本最初の学術調査隊である大谷探検隊。
1902年~1914年に三回にわたり調査に行っているが詳しい資料は残っておらず謎が多い。
その中心人物の大谷光尊(明如上人)は西本願寺派で1850年~1903年。
廃物稀釈の吹き荒れる中、仏教界のリーダー的存在。
西洋の教育制度に着目して調査研究を推進していた。
数回にわたり中国、インド、ビルマへ派遣し学術的な成果を残した。
第3講目 16:20~17:40
肥塚隆氏(大阪大学名誉教授)「仏教遺跡ボロブドゥルの謎」
1991年に世界遺産に指定、8世紀頃にシャイレーンドラ家が造営。
日本では東大寺の建立の頃になる。
120mの正方形に5層の方形テラスと3層の円形テラスを重ねて、頂上にストゥーパを築いている。すべてが回廊となっておりゴーダマシッタルダの様々な物語をなしている。
それぞれのパネルをスライドで拝見させていただき、とても興味深いものでした。

2013 9/29 第7回イーグル寄席 

はやいもので第7回となりました。
今回より会場は元のパーティールームへ戻り、落ち着いた雰囲気での開催となりました。
この回は中堅以上を担う方々のお三人の会で確実に笑わせてくださるほんとにお買い得な会で、できるだけ毎回参加したい落語&講談会です。
 
 
「兵庫船」月亭 天使
見せ場はなんといっても船の中で繰り広げられる謎かけのシーン。オーソドックスな展開でしたがきっちりとした口調で好感が持てました。


 「太閤の初陣」旭堂 南斗
独特の雰囲気がある南斗さん。
その秀吉がまだ駆け出しであったことの様子が感じられました。
 
 
「悋気の独楽」桂 枝女太
マクラではいろんな会場での落語会でのエピソード、会場を爆笑にしました。
ネタのほうでは特に丁稚定吉の困った様子が印象的で、またお竹どん、ご寮さん、旦那等が繰り広げる江戸商家の様子が感じられました。
 
 
「阿武松緑之助」旭堂 南左衛門
マクラでは秋場所のお話から本題へ。
2回目であるためか、前回よりもストーリーがスッと頭に入ってきました。
 
「崇徳院」笑福亭 仁嬌
 
<瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ>
たっぷりと笑わせてくださいました。サゲは鏡が割れるパターン。

2013 9/21 歴史と人間 勝海舟

今日の歴史と人間講座は勝海舟さんに関する考察。

いろんな書籍やドラマにも登場しているメジャーな方な印象だけどまだまだ知らなかったことがいっぱい。

勝海舟さんのいろんなお話は「氷川清話」を手掛かりに知ることができるけれど、勘違いや思い違い、また誇張があるのでそのまま信じるのは危険です。
晩年、東京の氷川には、東京朝日の池辺三山、国民新聞の人見一太郎、東京毎日の島田三郎らがしょっちゅう訪れて、海舟の談話を聞き書きし「氷川清話」としたそう。その内容を編集しなおして吉本襄が大正3年に日進堂から刊行した『氷川清話』が有名。

本名は義邦、通称は鱗太郎。文政6年1月30日生まれ。
海舟という号は、佐久間象山の書『海舟書屋』からいただいたものだそう。
http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0189204082&sr=%8A%43%8F%4D

海舟のさまざまな資料を収集していた方のおかげで現在も見ることができる。両国にある江戸東京博物館へ行ってみたいものです。

さて、海舟さんはご存知下級旗本の家に生まれます。もともと彼の祖父は越後国刈羽郡長島村字平沢出身で現在の新潟県おじや市。米山平蔵(よねやまへいぞうは盲目)であったが17歳で江戸へ出てくるが幕臣の家の前で行き倒れとなる。その幕臣の家を賭場として貸していたことが縁で商売の才覚を得て財産を築き9人の男の子を設ける。この3男が海舟の父の小吉。また末子の平蔵に3万両で男谷家の株を買い継がせたことで士族となる。
小吉は7歳の時に勝家(41石)の養子となりその後婚姻。海舟が誕生している。
(勝家の祖先は物部氏に通じているとのこと)
さて父は小普請組。ほぼ無職!そのためか道場破りや道具屋や刀の目利きをしていたそう。ここでいう目利きとは小塚原の罪人の死体で試し切りをすることだそう。
22歳の時に麟太郎誕生。大奥につながりがあったらしく7歳の時に江戸城見物に行くときに人生の転機がやってきた。
なんと11代将軍家斉に眼を付けられ、孫の遊び相手として初之丞(發之丞、後の一橋慶昌)の遊び相手として西丸御殿へ出仕することになる。
9歳の時に犬に睾丸を噛まれ70日もの間に生死の境をさまよう。父は水垢離をして回復を祈った。(妙見堂=現存)
天保9年16歳の時に小吉(37歳)は隠居!家督を継ぐこととなる。

最近になってようやく海舟の胸像ができたらしい。
H15に墨田区区役所内。そしてもう一か所、これは能勢妙見堂東京別院(安永3年=1774年に創建された、大阪能勢妙見山の唯一の別院)の境内にある勝海舟翁之像。
意外と少なくて人気が無いのでしょうか。

さて、剣術は従兄弟の男谷精一郎の道場と島田虎之助の道場で修行。直心影流の免許皆伝。また弘福寺で4年間の間に禅の修行をおこなっている。また永井青崖に蘭学を習ったがこの洋学はすなわち西洋兵学を指している。
適塾でも有名なズーフハルマ(当時60両)を1年10両で借受て、2年かけて写し取っており1部は売却している。

28歳で父の小吉が亡くなる(脚気49才)。2年後、海舟の妹が佐久間象山と結婚。そして31歳の時にペリーの来航となる。

この時に求められた意見書がきっかけで幕府へ入ってゆく。
この意見書は5条からなり、鎖国か開国かを説く内容ではないことから注目された!

後に洋学所の準備室長となり大阪湾(摂海)防備の視察に来ている。その後長崎海軍伝習所へ行く命を受ける。
ペリーが来てすぐに幕府はオランダに軍艦を1隻発注している。その折にオランダからはもう1隻と教習官付でプレゼントされることとなりその場所を長崎としたため。
この伝習所には薩摩藩、長州藩や佐賀藩等総勢174人もいた。勝は4年を過ごしている。

安政4年春。
江戸にも伝習所を作る話が持ち上がり移動することになりそうだったがオランダの教官も帰国し入れ替わることから勝は長崎にさらに2年残った。
この時に咸臨丸で航海練習。島津斉彬との会談を行っている。

ようやく江戸に帰り海軍の教授となっている。その時、江戸は安政の大獄の風が吹き荒れている。

勝はとても運が強い。
井伊直助の性格からして藩の重役であったならば、安政の大獄の餌食となっていただろうが、勝が長崎へ行くときは小十人組(年100俵)。長崎に2年残ったことがラッキーだった。

その後咸臨丸にて47日かけて品川からサンフランシスコへ行く。
乗員は100名程度。
アメリカの技術には驚かなかったが身分制度の無いことに非常に驚いたらしい。

氷川清話引用

 「ここにおかしな話がある。何も時事を諷するわけではないが、俺が初めてアメリカへ行って帰朝したときに、御老中から『その方は一種の眼光を具えた人物であるから定めて異国へ渡りてから何か眼を付けたことがあろう。詳らかに言上せよ』、とのことであった」 「そこで俺は『人間のすることは古今東西同じものでアメリカとて別に変わったことはありません』と返答した。
 ところが『左様であるまい、何か、変わったことがあるだろう』と言って再三再四問われるから、俺も『左様、少し眼に付きましたのは、アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、皆その地位相応に怜悧で御座います。この点ばかりは、全く我国と反対のように思いまする』と言ったら御老中が目を丸くして『この無礼者、控え居ろう』と叱ったっけ」

文久2年 軍艦奉行並 1000石

勝の対外政策はおもしろい!
兵庫、対馬、朝鮮、支那の三国連合を作り欧米に対抗するというもの。

文久3年 家茂と摂海の視察
その後に大阪西本願寺で過激攘夷の姉小路公知と会談を行っている。

2013 9/15 第28回柳谷観音・泰聖寺講談会 ~講談と落語を楽しむ会~

第28回柳谷観音・泰聖寺講談会  ~講談と落語を楽しむ会~

 
台風18号の到来で朝から風雨が強く客足が心配されましたが、なんと会場は超満員!
1年位前まではお客様もまばらだったのに、ありがたいことです。 

開演の5分まえよりご住職さんのお話がありました。
来週よりお彼岸となりますがみなんさんは供養をしていますか?の問いでした。
供養は回向ともい読み替えられますが本来はお接待の事だそう。
あの世から帰ってきてくださったご先祖様をお接待し喜んで帰っていただくという意味と
捉えられますがお接待と捉えることで、互いにお接待をし合うという事もあり得るということで納得です!


「藪井玄意・孝行の妙薬」 旭堂 南斗
十三まいりのお寺として有名な大平寺さんにある北山不動明王 は名医の北山寿安(北山友松子)が建立している。この方が藪井玄意のモデルだそう。
ある家の嫁が姑のいじめに耐えかねて毒殺を企て、名医の藪井玄意先生に相談にいくが。。。

 
「水戸黄門・牛盗人」 旭堂 南舟
貧しい暮らしの百姓家。牛泥坊をした父を、その息子が代官所に通報したという。
その意図は。。


釈芝居「赤穂義士伝・八百屋甚兵衛
何度か楽しませていただいたこの講談のお話を南青さんを中心に南舟さん、南斗さん、そして南左衛門さんが実際に演じるという釈芝居。
講談話なのでセリフがちゃんと割り振られている上に、普段からちゃんと話分けているからこそできる釈芝居なのでしょう。
見どころ、笑どころがいっぱいでした。


「楠木正成の初陣」 旭堂 南青
生まれたときから利発であった多門丸。のちの楠木正成。13才になったときにあまりの利発さから、付け狙われることに。数々の危機を逃れついに初陣をむかえることに。


  「住吉駕籠」 桂 雀松
2013年10月に3代目桂文之助を襲名予定の桂 雀松さんの住吉駕籠。
やっぱ楽しいですねー。ストーリーもそのあらかたのセリフまでわかっているのに
心の底から笑ってしまう!演者さんによってこうも違うのですね。

 
「阿武松緑之助」 旭堂 南左衛門
【おおのまつみどりのすけ】は実在の人物であったらしく石川県能登の出身。
武隈部屋を追い出され、自害を決意し宿屋に飛び込んだがその亭主とのご縁で
別の部屋で出直すことに。
そのユニークなエピソードとラストを飾る取組の一番は。。

2013 9/11  松陰先生の言葉

己れを以て人を責むることなく、
一を以て百を廃することなく、
長を取りて短捨て、
心を察して跡を略らば、
則ち天下いづくにか往くとして隣なからん。
 
 
 
 
とっても心に沁みる松陰先生の言葉です。
 
つい他人を自分の尺度で判断してしまって、その人のことを批判し決めつけてしまったり、
つまらないレッテルを貼ったり、色眼鏡で見てしまったり。
 
誰にでも長所や短所があるのは当然、
相手の気持ちになって物事をすすめてゆきたいものですね。
 
そうすることで知らず知らずのうちに自分は成長するのでしょうね。
 
怒りは身を滅ぼすものです。



人の巧を取って我が拙を捨て、人の長を取って我が短を補う

といったのは桂小五郎さんです。

2013 9/1 彦八まつり・わつか市

この1か月間のドタバタ騒ぎと溶連菌疑惑で不参加。
しかも大阪は鉄砲雨で今日は体力温存(m´・ω・`)m ゴメン…

2013 8/24 歴史と人間 桂小五郎

国内にはいろんな観光地があるが、それぞれにその土地や人物でのエピソードを柱として成り立っている。とくに幕末には誰々がXXをした場所であったり、柱傷であったりそんなエピソードが盛りだくさん。ところが当時にはそんな建物はなかったり、事実を証明することができなかったりというように観光偽装があるようです。

さて今日は桂小五郎について。

萩城下の江戸屋横丁の和田家(医者)の家に生まれる。この家は藩士で20石。父は和田昌景(まさかげ)。彼は周南のよぶさかで生まれている。もともと和田家は毛利家につながり後妻の間に生まれたのが小五郎。(天保3年6月)前妻の長女の旦那に和田家を継がせていたので彼は次男として育てられた。
8歳の時に近所にすむ桂家の家が断絶しそうということで養子として迎えられる。この桂家は八組に属し非常に名門。末期養子という立場のために60石を減じられ90石となる。
この桂家も毛利(大江)と繋がっていることから非常に誇りをもっていたよう。
小五郎の書に時折<大江孝允>と書かれていることがある。孝允は所謂ところの諱。

10歳で漢学を学び始め明倫館へ通う。
14歳で藩主の前で詩をつくる。

この時に父に『日本外史』『日本政記』(いずれも頼山陽)を買ってもらい読破。皇室の衰えを感じたと同時に皇室とのつながりを感じたらしい。

1854年和田昌景が亡くなり遺産が入る。

このタイミングで明倫館が拡大し、小学校から大学までの機能を保有。

その3年後、斉藤新太郎がやってくる。彼は神道無念流の剣術化の息子で、剣術の修行のために萩へやってきて明倫館の腕利効きと試合を行うが、明倫館側はことごとく負けてしまう。
※この背景として、この時期は黒船騒ぎで空前の剣術ブーム!江戸での道場の宣伝として道場破りのようなスタイルがあったらしい。
この試合に明倫館側が負けたことで藩側が5人を選んで1年間、官費で江戸へ修行に出すことを決定。しかし小五郎は腕が無くて選考に漏れてしまった・・そこで彼は自費で3年間の修行の許可を藩よりもらうことになる。

江戸での小五郎は練兵館の塾頭となる。塾頭は剣の腕だけではだめで人間的な魅力等が必要であったそう。

嘉永6年の黒船騒ぎから、江戸湾品川に砲台を建築する(品川台場)ために採用された江川太郎左衛門のプランに沿うためにコネを探して小五郎は従者となりいろんなお手伝いをすることができた。

また、12月には藩主に対し「現在は兵力が不足している。地元農民を兵士として採用し外圧をはねつけては?」という意見書を出している。⇒騎兵隊?

さて、幕末には欠かせない人物の吉田松陰先生は3歳年上。18歳のときに明倫館で教授を行っている。誤解されているが桂小五郎は松下村塾塾生ではなく、松陰先生は小五郎を同志として接していた。松陰の密航に関する件も小五郎には相談をしていた。

この時期にプチャーチンの船が大破して帰国できないというトラブルから日本は伊豆に
造船所を作っている。

1855年4月萩へ帰国。翌月、藩へ造船製造技術を学ぶためへの許可を藩へ願い出ている。

***人の巧を取って我が拙を捨て、人の長を取って我が短を補う。***という手紙を松陰先生へ送っている。

安政5年8月10日26歳になり、お城へ初出仕。 大検使役で櫓方の管理。(米等の出納管理)
そこで松陰先生の死を知ることとなり伊藤俊介の従者となって遺体を受け小塚原へ埋葬をする。

その後、桜田門外の変がおこり、全国の大名による合議制の政治をおこなうべきと政治家を目指すこととなった。
小五郎は独自のネットワークを築き、丙申丸(長州藩の船)で水戸藩士と成破の約を交わす。(個人的な約束)

井伊直助亡き後の安藤久世政権は、いわゆる朝廷の権威を幕府へ取り込むことで力を強めることを目指すために和宮降嫁を行おうとしていた。これは対外的にも朝廷と幕府は一つであるというポーズであり、朝廷に対しては鎖国攘夷を行うことを約束していた。これは現代にもよくある手法で国内の怒りの矛先を他へ向けるために方策。これにより水戸と彦根の衝突を回避することができた。

ところが坂下門外の変で安藤が失脚。島津の1000人の兵の上京で、公家の力をつかって幕府を動かした事で毛利との対立が表面化。毛利は奉勅攘夷を藩のテーマとして掲げ楠公湊川の決意で臨むことを決める。特筆すべきは当時の太平記と現代の太平記は微妙にニュアンスが違っているが、精神力でしか勝てない相手と戦う時に菊水や奉勅、皇国等とあらわされることがある。

周布政之助は「攘は開なり 開は排なり」と言っている。そんな裏で長州ファイブが出現する。まさに不思議な藩である。


下記は松陰先生の言葉。
己れを以て人を責むることなく、一を以て百を廃することなく、長を取りて短捨て、心を察して跡を略らば、則ち天下いづくにか往くとして隣なからん。

2013 07/27-28 ウッディパル余呉

先週末はちょっと奥琵琶湖へ避暑へ行ってまいりました。

大阪から車で2時間ちょいとはおもえないくらいで適度な山奥感のある余呉。

BBQはほんと久しぶりでみんなで夜遅くまで楽しみました。

お借りしたロッジは不思議なくらい虫一匹いない清潔そのもののの室内。

お手洗いもお風呂場もそこらのビジネスホテルよりキレイです。

1棟ごとにBBQスペースが目の前にあるのですごく便利!

これでお値段が 6人部屋で¥18,000ですからすごくお値打ちっ!
また秋口には行ってみたいものです。




2013 7/24 講談「サムライの洋行」「袖解橋の御難」

下記の記事が一坂太郎先生のHPに掲載されていましたので転記いたします。
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○講談「サムライの洋行」「袖解橋の御難」

長州ファイブ密航留学150年記念。
若き日の井上馨らを主人公とした旭堂南左衛門氏の講談2本にそれぞれ一坂の解説が付きます。とくに元治元年9月の事件を扱った「袖解橋の御難」は井上本人の監修を経ているとされる貴重なものです。

日時 平成25年10月20日(日) 16:00~18:00(予定)
場所 萩の御厨高大(萩バスセンター裏手)
お問い合わせ・お申し込みは 萩市観光課(TEL0838-25-3139)まで
会費等未定。定員100人


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http://www.h2.dion.ne.jp/~syunpuu/html/jyouhou/jyouhou.html


開催が土曜日だったら行ったのに。。。残念  orz


2013 7/20 歴史と人間  武市半平太

今日の講義の内容は武市半平太に関してでした。NHK大河の龍馬伝の時、武市半平太の役は大森南朋。 彼の印象がすごく強かっただけにとても興味ある内容でした。
小説の月形半平太は、福岡藩士の月形洗蔵とこの武市半平太をMIXした名前であったそうですがこの月形 洗蔵さんは、非常に立ち回りがうまいことから「武市半平太みたいなやつだ」という軽口があったらしく 実はすでに月形半平太と呼ばれていたという説があるそうです。

この土佐藩は特殊な成り立ちをしている藩で、関ヶ原の戦いの恩賞により西軍についた前藩主の長宗我部盛親から 山内一豊が藩主となったものの、一領具足と呼ばれた旧部下の反乱が多かったために 山内一豊は新しいルールを定めその定着を図った結果下記のような上士と下士という身分制度が出来上がった。

藩主(山内家)・・>上士(士格)<家老 - 中老 - 物頭 - 馬廻 - 小姓組 - 留守居役>・・>白札・・> 下士<郷士 - 用人 - 徒歩(かち) - 組外 - 足軽 - 庄屋>
文政12年9月27日(1829年10月24日)~慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)。号は瑞山で諱は小楯。 さて、武市は土佐国仁井田郷吹井村に生まれ、この生家はいまでも残存しており、観光ルートには入っていないものの その住居や暮らしを感じられるくらいだそう。もともとは郷士だったが祖父の働きで白札に昇格。 剣術に生きる為に12歳になると剣術家へ弟子入り。20日の時に相次いで父母を亡くし残された祖母の為に 妻の富子と結婚。 高知城下へ転居してさらに著名な剣術家の元でさらに修行を重ね、腕を上げてゆきます。
安政元年の大地震で家屋が倒壊したものの再建し道場を建設。非常に繁盛し門下生にはあの 中岡慎太郎や岡田以蔵等もいた。

安政3年8月になると藩より江戸で著名な桃井春蔵の道場へ剣術修行へ行く。当時著名な剣士である鏡心明智流の士学館(桃井春蔵)へ入門。頭角を現し塾頭となる。この時期は剣術がブーム。

ここで事件が勃発。塾生である山本琢磨(土佐藩)が酒に酔ったはずみで町人よりロシア製の金時計を奪いその時計を売却してしまった。
塾頭の武市は、なんとか江戸を脱出、北海道へ逃げた。そして腕を認められたことがきっかけとなって沢辺琢磨となる。そこでキリスト教の洗礼を受けて日本人初の司祭となり、御茶ノ水にあるニコライ大聖堂の建設運営に携わった。

安政6年。安政の大獄により、容堂公は蟄居、謹慎。

そして32歳。藩より西国筋形勢視察の任務をいただき数か月の間旅を行い、帰国した彼は平田 銕胤の著書の霊の真柱(たまのみはしら)を 持ってたそう。この旅により武市は何かを掴んで帰ってきたことを伺わせられる。

文政元年33歳。江戸行で吉田松陰先生の門下生の久坂玄随らと会い剣豪としてではなくどんどんと政治色を強めてゆく。この時に松陰先生の有名な掛け軸を見ているらしい。
長州藩や薩摩藩との交流から和宮降嫁に対し水戸が阻止するというや安藤信正の暗殺の話があるがこれを大反対!藩をあげて勤王となるべきという案を持ち、文久2年の春にはそれぞれの藩主を入京させて朝廷を背景として幕府に攘夷を迫るという密約を交わした。
そして有名な一藩勤王を目的とした土佐勤王党を結成。ところがこの原本は現存しておらず瑞山会にある写しのみとなっている。これは下士が中心で内容は容堂公の罪を晴らし、意思を受け継ぐというもの。

容堂公は藩の重役として、吉田東洋を参政。彼は土佐藩は関ヶ原の戦いによる徳川への恩があることを背景に開国・公武合体を説いていることから武市とは意見が会うことはかった。
藩の中でも吉田東洋の失脚をねらう山内大学・山内兵之助・山内民部、家老の柴田備後・五島内蔵助らにそそのかされ、ついに東洋暗殺を決意。那須信吾(その後の天誅組)・大石団蔵(英へ留学)・安岡嘉助(その後の天誅組)が暗殺をおこなった。

文久2年に島津久光の1000人の兵を連れた上洛
そして寺田屋事件が起こってしまう。

続いて6/28に参勤交代で土佐を出発。(いつもは200人ていどだが今回は2000人)
ところが姫路を通過するときに、なんとはしかが大流行!その結果大阪で1か月近く足止めとなった。さて・・京都へ行くか大阪へ行くか・・・容堂公より京都へ向かうように指示があった。(8/25)

8/1 他藩応接役となる。ちなみに薩摩藩の応接役は本田弥右衛門と藤井良節。
この時点ではまだ半平太は病気で臥せっていたところに田中新兵衛が面会にきている。

この後、田中新兵衛や岡田以蔵らによる京都で暗殺が横行。

天皇の権威を使うことで幕府さえも動かすことができる事がエスカレートし、青蓮院宮より命令をもらい土佐藩の改革を行うことを目指したものの容堂の怒りを買う・・そして8・18が勃発。その後土佐勤王党の解散・・38歳で切腹させられてしまった。
介錯人は妻・富子の実弟島村寿太郎と義理甥小笠原保馬。
ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり 

介錯をした島村のお墓は天王寺の夕陽丘・齢延寺にあるそう。

今回のレポートは予定がいっぱいでUPが遅くなりました・・しかもまとまりがなくて・・・
(・_・;)ごめんなさい。

2013 7/13 お食事会

もともとは懇意にしてくださっている旭堂南左衛門さんとランチをするという趣旨でしたが、ぜひともご紹介をさせていただきたい方がありまして、このチャンスを生かさねば!とご一緒していただきました。

先日、九度山の住民クラブ代表の阪井様より連絡があったINGEARのご代表の方で
熱くその思いをお聞かせいただき意気投合いたしました!

大阪はさまざまな歴史に培われてきた古の地。ところが現代の若者はまったく振り返ろうとせず単に新しいものを追いかけている有様。
行政も、古い物があるから新しいものがあるという理屈がわからずに、単に箱ものを積み重ね、予算ありきで小手先の対応を行っているように思える。

猛暑の中、西区のなにわ亭を舞台に3人であつ~く2時間近く語りあいました。

さて、この舞台となったなにわ亭。ぐるなびや食べログでもしっかりと宣伝されている、なんとなく昔懐かしい香りのする素敵な洋食屋さん。

http://tabelog.com/osaka/A2701/A270105/27011894/
http://www.e-shops.jp/local/nsh/photo/3813099115.html
http://www.osaka-nishiku.com/shop/shop_11/index.html
 

旭堂南左衛門さんのオススメのお店だけあって、その味は最高!
エビフライ+ステーキ・エビフライ+ハンバーグや自慢の一品をいくつかと
お昼間でしたが冷えたビールと泡盛をいただきました^^とってもおいしゅうございました(´∀`)

2013 7/6 なわて落語会

開演は13時30分となっていますが、この数年間の混雑具合から、会場へは11時20分に到着。
すでに10人近くが並ばれていました。
この灼熱の灼熱の中に並ぶのは中々難儀なもので特に年配の方が多いのだから、事故が起こらないうちに早々に指定席にされるべきでしょう。
10分前に会場し、あっというまに客席700席は満席となりました。


桂そうば  手水まわし
3回目となるひろばさんの手水まわし。2008年10月の田辺寄席/2009年7月のめふ乃寄席、そして今回となります。ひょっとしたらTVの上方演芸ホールでもこのネタであったような記憶があります。しかしながら回数を重ねられるともうすっかりこなれた感がありいっぱい楽しませていただきました。

桂歌之助 片棒
2012年3月のおばやし亭で聞いた安定マクラ+安定ネタ、またそうばさん同様にテレビでも拝見した記憶があります。笑いところがはっきりしていてとっても楽しいネタです。次は違ったお噺を楽しんでみたいです。


桂ざこば 遊山船
マクラはいつもの孫ネタ。会場は大爆笑!危ういシーンもありましたがざこばさんのキャラで順に描いて行かれます。喜六と清八のキャラがざこばさんのキャラとかぶっている箇所があり目新しさがありました。


桂吉弥 質屋芝居
先日、違う演者さんでこのお話を楽しませていただいたところで、どうしても比較してしまいます。。
歌舞伎に知識の薄い方前提の話なので、下地のない方には面白さが伝わっているのか。
師直が塩治判官高定を鮒侍であるといびり倒し、つい短刀に手を掛けて切りつけてしまう。そんな主人の一大事のときに早野勘平はお軽と逢瀬中・・。そんなシーンの描き方もこのお話の楽しみ方でしょう。

桂南光 火焔太鼓
太鼓を買うのが大名ではなく鰻谷の住友さんということで、どうやって侍を出すのか・・・あぁなるほどっていう持って行き方で納得。残念だったのは最後のサゲまでいかずに途中で切ったこと。


今回の寄席の途中に何度も色んな方の携帯が鳴るハプニングが。
しかもうち一人は大阪のおばちゃんで、「もしもし・・・いま、寄席の最中やねn・・」って会話する人がいてびっくりです。

2013 7/4 北御堂

先日、北御堂さんへ行ってきました。
北御堂さんは浄土真宗本願寺派本願寺津村別院で
ちなみに南御堂さんは浄土真宗大谷派 難波別院が正式な名称。

我が家の本家筋は本来は浄土宗ですが当家は訳あって曹洞宗です。
また、講談会でお世話になっている泰聖寺さんは浄土宗西山派。

 
現在、親鸞聖人750回御遠忌法要で工事をおこなっていましたので
すこしだけ迷路のような感じでした。本堂でお参りを済ませた後、下記のような
言葉の書かれている用紙を頂戴いたしました。

 
人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり        武者小路実篤

 

花は誰かに見られることを意識しているから美しく咲くわけではない。
花は周りに惑わされる事無く咲くから美しい。
という感じでしょうか。

 誰しも二面性のある生き方をしているとおもいます。
あの人には・・・あの場所では・・会社では・・自宅では・・自分の部屋では・・・
社会生活上では必要なことかもしれませんが
できるだけ自分を見失うことなく、冷静に、沈着に過ごして行きたいものです。

 

2013 6/30 第26回柳谷観音・泰聖寺講談会 ~日越国交樹立40周年記念事業~

大阪の夏の始まりをしらせる愛染祭が開催。愛染坂を下った箇所にある泰聖寺にもお参りをいただきたいものです。
 
さて、今日は珍しいベトナム講談ということで作家のさんもお越しくださいました。
日本ではまったく知名度のないベトナムの国民文学的作品の金雲翹のお話で
幸せに暮らしていた王族の家庭に不幸が舞い込みヒロインが辛い目に会いながらも苦難を乗り越えて成長してゆくというストーリーでした。
 
「序章・王翠翹、金重との別れ」 旭堂 南斗
「廓からの脱出と束其心の恋」 旭堂 南舟
「鬼か蛇か!恐怖、宦姐の悋気」 旭堂 南青
「希望と絶望…そして旅の果て」 旭堂 南左衛門
 
 
なかなか興味深いお話でしたがとっつきにくい箇所もちらほら。
なにか下地があればより理解できたのではとおもいました。
 

 

 

 

2013 6/23 第38回りっくぷり寄席〜おもしろ落語カタログ〜

毎回参加のお値打ち寄席。

広々としたホールでゆったりとした雰囲気のとっても感じの良いホールです。
今回も早めに到着しましたので1Fの図書館で色々とお勉強させていただきました。

 
林家染吉 みかん屋
前座さんでこの噺だからどうしても駆け足気味になっちゃうのか。それでも
染吉さんの惚けたような話術で会場はとっても良い雰囲気に仕上がりました。

 
桂竹丸 ハンカチ
2011/1のめふ乃寄席で竹丸さんのハンカチをお聞きしておりました。
たしか二丁拳銃の小堀さんの作で、面白い中にもしっとりとした夫婦の愛があるお話。
大好きなネタです。
 

林家染雀 質屋芝居
マクラはスーパームーンのお話からうまく仮名手本忠臣蔵の下地の無い方にはキツイかもしれないと、前フリをちゃんとされた染雀さん。
芝居物の描写が秀逸で、ついつい歌舞伎の三段目を見ているような空気になったとたんに
質屋のお客さんを出してくる!その対比が楽しめました。
 

笑福亭福笑 葬儀屋さん
落語でお腹が痛くなるくらい笑うってことがめっきりなくなっていた私でしたが、
今日はまぢでお腹が痛くなりましたww
代書屋を思い出させるような、葬儀屋さんと3人兄弟の大爆笑の会話がツボで
その後繰り広げられる奇想天外な風景!やっぱ笑福亭福笑さんってすごいです!

2013 6/18 シトラスカッターのススメ!

シトラスカッターを導入!
なんでもっと早く買わなかったのかなって思えるくらい超便利!







これで私の柑橘系ライフがいっそう充実まちがいなし!
なんせ一口大に切れるんだから、もう分厚い皮むき作業はまぢ不要です!

2013 6/16 大阪市内薩摩藩邸跡

昨日投稿の田中河内介さんにまつわる大阪市内にあった薩摩藩邸の場所を調べてみました。

1枚目は1863年の地図。天誅組の変や8.18の政変、馬韓戦争のころ。

 
 


2枚目は昭和18年の地図。






今の大阪には古き良き地名が皆無です。
本当にさみしい限りです。

2013 6/15 歴史と人間 幕末維新編 田中河内介

志士という言葉はたしかに一坂先生が言われるように、勝者の言葉であり敗者に志士という言葉は使われていない。歴史の舞台に登場した者は皆、熱い思いをもっていろんな志を持っていたのに、歴史が二分してしまい、勝った方にのみ志士という称号を与えたのでしょうか。

田中河内介さんのお話が書かれている書籍は少なく中々知られていることにない方だがその背景は驚くべきものがある。

明治維新には二つの流れがある。
一つは外様大名雄藩を中心とした動き、そしてもう一つは在野の人たちを中心とした動きで、
今回は在野に相当する。

1815年(文化12年)~1863年(文久3年)
但馬の国出石郡神美村香住(豊岡市香住)の小森家(医者)の家出身。
この但馬には古くから、天皇家の末裔が移り住んだという話があることから、家庭境域が行き届いているという言い伝えがある。

元々は小森正造(和歌山出身)が移り住み教信(もりのぶ)という農家の青年だが熱心なので養子として医者を継がせ2代目となる。その子供が信古と河内介とのこと。
河内介はとても勉強熱心で21歳(天保六年 1835年 )、で京都へ行きざまざま著名な儒教家に入門。そしてついに念願の私塾を開く。
非常に評判が高いことから尊攘派公卿の中山大納言忠能(ただやす) 卿に仕えることとなる。
その後、家臣の田中近江守綏長(あやなが)家に入り婿となり、田中姓となる。
中山大納言忠能(ただのり)には忠愛(ただなる) という長男(後の右中将)・次女の慶子(よしこ)(後の明治天皇の母) 、そして忠光(ただみつ)(天誅組で有名)という次男が居た。

河内介には長男の左馬介(磋磨介)が誕生。非常に賢くて9歳で詩を作り出すくらい。


嘉永五年(ペリー来日の1年前)忠能の次女の慶子が妊娠する。彼女は孝明天皇の側室である。
妊娠を知った河内介は安産祈願で大阪本町にある座磨神社へ祈願に行っている。
そして無事誕生!祐宮睦仁が誕生。
通例では女官が養育するが河内介は女性を全員排除し、男性ばかりの環境で河内介自らが5歳になるまで養育を行う。

河内介は毛利と薩摩は特別視をしている。
元々天皇家は200石程度の生活基盤であるが、毛利、薩摩は多額の献金をしている。

さて、ペリー来航の条約勅許のドタバタ騒ぎのときには中山忠能はまったく動いていない。日和見的な立場であったのか。国家の一大事である時勢の対応に対し不満をもった河内介は辞表をだして仕えることを辞めてしまう。(安政4年8月)
※わざと辞めた恰好としていろんな密命を与えていたという説あり。
そして九州旅行へでかけている。
目的は真木和泉に会うこと。ところがタイミング悪く会えなかった。その後、島津斉彬に会うことができて武力での進軍を提案している。
そう簡単に動くわけはない。

そこで忠愛(ただなる)を通じて青蓮院宮に働きかけて斉彬に動くように働きかけた。うまくいくように見えたがなんと斉彬が急死してしまう。
そこで、親交があった大分県岡藩の小河一敏、薩摩の是枝柳右衛門(誠忠組)へ働きかける。
誠忠組は和宮降嫁反対・春嶽・慶喜の復権を望んでいる過激グループ。

鎮西義動・・九州には沢山の同志がおり、みんなで立ち上がることを目的に河内介の説得が始まる。そのために勅許をを得るか、青蓮院宮より指示をいただいた形にするか、もしくは大原三位と同行し薩摩をけしかけるか・色々と検討したがいずれもNG。結局は忠愛(ただなる)の手紙をもち各藩を廻り決起を促すことに落ち着く。
そして出発するその直前で意外な客がやってくる。
それは薩摩藩士柴山愛次郎/橋口壮助。彼らは安藤信正が死んだという情報(坂下門外の変)と島津久光が1000人の兵隊を連れて上京するという話をした。
実際は安藤信正は死んでいないし、上京の目的は別にある。
そして討幕のチャンスは今しかない!と吹き込んで行く。

すぐに河内介は小河一敏、真木和泉へ決起を促す手紙を送る。

その後、京都の薩摩屋敷に各藩より有志が集合するがあまりに目立つために京都ではなく
大阪の薩摩屋敷(二十八薩摩屋敷)へ集合させる。そして京へ移動。そこへ久光らが到着・・・征伐せよとの指令により寺田屋事件が起こる。。。。。

河内介らは助かったが翌日捕縛。
大阪天保山より船に乗せられて薩摩へ送られる途中神戸の垂水沖で息子の左馬介とともに惨殺、その亡骸を海に投げ込まれてしまい、その後小豆島に流れ着く。。

辞世は・・・ながらえてかわらぬ月を見るよりも 死して払わん世々の浮雲

法要が行われたニュースがありました。
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/20110503000127



さて、その後、戊辰戦争が勃発。その真っ最中の1868年(慶応4年)3月26日に明治天皇の臨席で天保山沖で「軍艦叡覧(日本初の観艦式)」が行われている。その後、座磨神社へ参拝にいかれた明治天皇は宮司より、田中河内介の文章を目にする。。
側近に、『河内介』の所在を聞いたが誰も知るものがなかった。

それから数年後、明治天皇と内閣らが会食の最中に河内介の話が出た。
そこで、誰も話さない中で、当時堺県知事の小河一敏が、真相を話してしまうと同席していた
大久保らの顔が青ざめた。。そりゃそうだ。。
自分を5才まで養育してくれた河内介を薩摩藩がひそかに殺害しているのだから。
その後小河は閑職を転々とさせられたらしい。

2013 6/8 大阪市立美術館 ボストン美術館展

このドタバタのような1週間がすぎて、朝寝を楽しみたかったのですが、朝4時30になると目覚めてしまいます。習慣とは本当に恐ろしいもので結局いつもどりの規則正しい生活を楽しんでします。

さて、ボストン美術館展がそろそろ終盤をむかえるので今日は久しぶりに大阪市立美術館へ。

途中はお定まりの幕末の崇高な国学者さん、佐久良東雄さんの碑へお参り。
この碑に気づく方はまず居ないくらいのはずれの場所にあります。

大阪市立美術館の正面に背を向けて右手の坂道の途中の茂みの中にあります。
ぜひ行かれた方はご確認ください。

花の嵐に散るを見て 
事しあらば我が大君の大み為 
人もかくこそちるべかりけり



さて、ボストン美術館ですが、さすがに大入り満員!
列をなしてぞろぞろと動くような流れで2時間!その素晴らしい仏教美術や日本画を堪能してきました。



なんといっても曾我蕭白(しょうはく)さんの雲龍図!この迫力に圧倒!
これが本当に水墨画?って思うくらいの筆使いにその構図と表情。

いちおうLINKです。↓

http://www.boston-nippon.jp/highlight/05.html

これが生で見れちゃうんですからお値打ちですww

もちろん伊藤若冲さんの龍虎屏風図もすごい迫力でした。

さて、帰りは久しぶりの慶沢園へ寄って。。
あれれ・・なんとも奇妙な風景!ハルカスがにょきっと顔をだしています。


これも時代の流れなのでしょうねー。。

2013 6/8 北神ぎょうざ

天王寺でお昼ご飯!

あまりに久しぶりなのですっかり様変わりしている阿倍野界隈。


で、入ったお店は北神ぎょうざのお店。

餃子丼 500円なり。

熱々の餃子に若鶏の蒸し焼きがのっていておいしいタレがかかっています。
でもこのお店の餃子のタレは特性のお味噌+食べるラー油+醤油ベースのタレのミックスです。
これをかけて食べるともっちゃ美味です。

2013 6/7 福福ラーメン


福福ラーメンの期間限定 肉醤油ラーメン。

あっさり醤油にもみじおろしがアクセント。食べ応えのある豚肉に、しっかり細麺がスープに
馴染んで食がすすみます。
他にも餃子とから揚げとビールを飲んじゃいましたww

お弁当生活になって1年。休日前の晩御飯はたまにはガッツリ!えへへww

2013 6/2 わつか市

先日5/14のニュースアンカーに、わつか市が取り上げられました。
まぁ世間ではやりの手作り市の紹介程度かな?と考えていましたがそれは大きな間違いでした。

安全な食に支えられる事の大切さを誰もが3・11以降に気づき、それならと自らがムーブメントを起こす。

そんな由来に支えられたコンセプトがわつか市で、手作りの味や生産者の顔が見え、そこにはいろんなこだわりと信頼と安心を求めてお買い上げいただいている訳です。

 わつか市はホントに色んな縁をくださいました。


私も今回は『ねむねむや』と『宇口農園』のご縁で参加をさせていただきました。
朝早くからの設営と販売/撤去の合間にいろんなショップの方々とお話しをさせていただけました。

本当にありがたいことです。
 

7月はわつか市はお休みとの事。なので次回は8月4日になりますのでご注意くださいませ^^


 
 



 

 

2013 6/1 大阪大空襲 港区戦没者法要

毎年6月1日は大阪港区にある西栄寺さんでの法要に参加させていただいています。

http://sweet-mikan.blogspot.jp/p/blog-page_7391.html


昨年の法要では、いままでのご住職さんがお亡くなりになられ息子さんに変わられました。
そして今回は新しい代となって2回目。
 
正信偈を朗々と唱えてくださいました。
 
このBLOGのどこに書いたか忘れましたが、私の本家筋は浄土宗で、我が家は分け合って曹洞宗。
宗派によってお経はずいぶんちがいますがそれでも亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度と悲劇を繰り返してはいけない気持ちを新たにすることができました。
 
この法要は特にご案内があるわけでもなく、口コミで伝わっています。
もしお身内の方やお知り合いのかたで大阪市港区で戦死を遂げられたかたがおられましたらせひお声をかけてください。
 
 
 


 
 
 

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2013 5/26 第17回 東三国 アシスト寄席

早いもので第17回となりました三国アシスト寄席は、お勉強会+交流会的な意義のある落語会でしかも限定30人でデザート付。これで前売り¥1500は絶対にお買い得です!

 

今回はちゃんと13時過ぎに到着!

いつも表から賑わっているはずなのになんとなくひっそり!
 旭堂 南左衛門さんと笑福亭 仁嬌さんが午前中に営業とのことで超人手不足だったそう。
定刻14時になりいつも通りにオーナーの長谷川さんのご挨拶で幕が開きました。

 

 「大安売り」    桂 三河さん

まだまだ初々しさの残る三河さん。
マクラでは、桂文枝さんの出演されるホカ弁のコマーシャルの件や、文枝さん襲名ドキュメント番組の件を話をされました。
ネタの方ではすぅーっとさらわれた様子。
今後のご活躍を楽しみにしています^^

 

「三人旅」  笑福亭 仁嬌さん

東の旅シリーズで真ん中にあたるこの三人旅。途中での下げとなりましたが
それでも仁嬌さんの喜六さんには味があります^^

 

 「おいにょ」    桂 枝女太

NHKの日本の話芸だったとおもいますが江戸前の噺家さんが演じられていたのを思い出しました。
すっごく説得性のある口調と表情で話される枝女太さん。
微妙な女房の心理がちゃんと読み取ることができました。


 

「新島襄の妻・八重」   旭堂 南左衛門さん

この講談は2回目となりました。
前回と比較するとずいぶんこなれてきてすっきりと磨かれてきた感じがありました。
ちょうど今週当たりの大河で放映されたシーンとかぶるところがあって
脳裏にイメージがはっきりと浮かび上がりました。
 
 
この寄席の良さは演者さんとの距離が近いこと!
おそらく2mも離れていません。だからこそ微妙な表情や所作、汗などもはっきり見えちゃいます。
やっぱ落語、講談って良いですねー。

2013 5/19 豊崎神社 フリーマーケット 








 
 



今回で2回目となりました大阪市北区の【豊崎神社さんの境内でのフリーマーケット】。

宇口農園のお二方のみの対応で私は自由行動ですww。

それにしてもいつも精力的な活動のお二人には頭が下がる思いです。

いろんなご縁でつながっている大切な方々です(´∀`)

2013 5/18 朝日カルチャー 歴史と人間 ~ 島津久光

今日の一坂先生の講義のテーマは島津久光。
いままでよく名前は出るもののザックリしたイメージしか無かった久光さんの色んな事がわかりました。

生まれは文化14年10/24(1817年12月2日)。
島津家27代当主で薩摩藩10代藩主の島津斉興(なりおき)と側室のお由羅の間に生まれました。 11代藩主の島津斉彬は兄にあたり幼名は普之進(かねのしん)

小説にもなったお由羅騒動(お家騒動)は、なんとか久光を藩主にしたいというドタバタ劇。当の本人は知らなかったらしい。
元々は島津斉興が藩主の座をなかなか譲らなかったために起こる。

これは薩摩藩の経営難にもよるもので、全体の30%を占める武士人口の多さや桜島の噴火による凶作、そして幕府から嫌がらせにように押し付けられた木曽川の治水工事が起因している。
このために83万両の負債・・当時の藩の収入は14万両。。


島津家25代当主で薩摩藩8代藩主の島津重豪(しげひで)は非常な西洋かぶれで蘭癖大名といわれ 大変な借財をつくってしまい89才で大往生。
この借財を引き継いだ 島津家26代当主で薩摩藩9代藩主の斉宣は15歳で家督を継ぎ財政改革に着手。
そして10代藩主となった島津斉興(なりおき)は、腹心の調所広郷(ずしょ ひろさと)とともに、 当時の薩摩藩は500万両にもおよぶ借財で危機的状況であったが強引な手腕で再建!借金は250年ローンに無理やりさせたり 琉球を通じた清国との密貿易で反対に蓄えをつくる程となった。



お由羅と調所は仲良し・・なぜか斉彬の子供はみな早死にをしてしまい家内を調べてみると修験者の牧仲太郎の呪いの文字が書かれた札が見つかったらしい。
また、幕府より密貿易が暴かれ調所は切腹。斉彬はいっさい歓喜無いということで藩は無罪放免となった。

43才の斉彬、ようやく念願の藩主となった。さっそく国防、軍備を拡張!幕府の阿部正弘に働きかけ大船建造を申し入れOKを取る。
そして50歳で病死・・枕元に弟の久光を呼び話したそう。
 
 長男の忠義を藩主とし、斉彬の娘と結婚させてほしい。。

そして忠義(茂久⇒将軍の家茂から字をもらう(偏諱:へんき:かたいみな))の時代。。
斉彬のおこなってきたことを否定。。。


さて本題の久光さん。
文久2年3月
前回の講座であったように毛利家は中央へ乗り込み周旋活動を活発化。
10月には慶喜さん、春嶽さんの復権を幕府へ打診するもあっさりとNG。
12月には近衛家に進言。

天皇より詩をいただき感激!

そこで1000人の兵を引き連れて京都へ進軍
 
これって当時のルールは完全無視の暴挙!ところがこれを幕府は止められない。
4/16 近衛家と会い、建白書を出す。天皇曰く『浪士鎮撫をせよ』の言葉!
 このことを精忠組ら過激攘夷派が勘違い。。
4/23 寺田屋事変が起こる。このことを天皇はたいそう喜ばれたそう。
5/22 大原重徳(しげとみ)を勅使として立てることに成功し江戸行きへ。
  
   江戸にいた毛利はこっそりと中山道を使って鉢合わせをしないように
   帰国。途中中津川で大会議をおこなったらしい。

6/10 家茂と会い慶喜さん、春嶽さんの復権が実現。
結局外様でも天皇の意を使えば将軍は逆らえないということを実感。

そこで久光さんは。慶喜さん、春嶽さんに自分に官位を出すように働きかけたが
8/18にはNGの連絡。。ショックだった久光さん。
当時の階級を飛び越えた無理やりのルール無視はダメ!

ショボンとして帰国する久光さんらはあの生麦村で事件が起こってしいこれが引き金となり
薩英戦争と発展してゆく。

2013 5/19 サービスに関する所感  鳥貴族

先日、鳥貴族の社長さんがテレビ出演されていました。

 
社長さんが話されていた鳥貴族のうぬぼれをはじめ、専務さんの事等
様々な方針に感動!ステキなお店なんだなーって
おもってぜひ行ってみたいって!


で、やっと念願がかなって5月10日の夜に柏原店を予約していってきました。
清潔な店内、元気の良い店員さん、美味しいお料理でしかもお安いので
会話もはずみ、ついつい長居してしまいました。
とにかく素晴らしいお店でもう嬉しくて嬉しくて!

 
で、こんな良いお店なんだからと、18日の夜に地元大阪市内の鳥貴族〇〇〇店へ。
19:30にということで、事前に電話で予約して行ったまでは良かったのですが、
おもいっきり後悔しました。

 注文違いが連発。
よっぽど忙しかったのかお店のなかはドタバタ!


オーダーを取りに来てくれないし、呼び出しを押しても
3回連続で見事にスルー!呼び出しランプって一定時間で消えるのかな?
また、私だけ飲み物が無いままに放置プレー!

柏原店なら、気を配ってくださって声をかけてくれたよ。

奥まった座席じゃないんだし通路側の席だから見えるのに。

速攻ででてくるスピードメニュー料理も出てこないしさ、
ステキなお店だからと連れて行った家族もがっかり。。

いっこうにオーダーしたのが来ないくせに
他の席のオーダー分が届いたり。。

で・・やっちゃダメなんだろうけれど2回目までのミスには我慢したけど
3回目のミスがあった時にキレちゃいました。。。。

あぁぁ。。。せっかくネコかぶっていたのに。。

充分なサービスができないんだったら、予約を取らなかった良いのに。
無理して予約をうけたばかりに信用や信頼を失墜させることになるんだからさ。

それにしても素晴らしい社長さんの鳥貴族だけど
支店ごとにサービスの質にばらつきがあるんですね。

2013 5/12 泰聖寺講談会 ~旭堂南左衛門一門会

泰聖寺講談会が開催されました。
今日はおもいっきり好天に恵まれ、会場は満席!
本当にありがたいもので時代は講談!って感じです。



 

 
とくに今日は私の大好きな難波戦記特集。
大阪夏の陣と大阪城落城という悲しい歴史ではありますが
真田幸村公が大活躍される講談はホントにロマンがあります。


定刻少し前にご住職さんよりご挨拶をいただきました。
当麻曼荼羅のお話で、泰聖寺の宗派の西山聖人様との所以をお話しくださいました。

 
「関東軍総敗軍」旭堂 南斗
イキイキと語られる南斗さんの講談。

 
 「大助の初陣」旭堂 南舟
5月5日に九度山の真田祭に行かれたとの事。
幸村庵の宣伝も含めて、もっともっと九度山がメジャーになりますように。

 
「幸村の入城」旭堂 南青
冒頭からぐっとお客様の心をつかむ南青さん!
父や妻を亡くした為にすっかり落胆した幸村公と、実はその姿は世を忍ぶ姿であったその対比が
見事でまるでドラマを見ているようでした。

 
「般若寺の焼討」旭堂 南左衛門
徹底的に苦しめられる徳川家康。
演者さんによって講談ってこうも違うものなのですね。
納得の迫力でした! 

今日の終演後に、お客様をご紹介いただきました。
その中に萩市よりお見えいただいた方や、東京からの方もおられました。
もっともっと講談がメジャーになりますように祈っています。
 

2013 5/6  落書き

みかんの落書き> でお見せしたお蜜柑へのイラストが今度は木工のニャンコの
顔になりましたww きもかわいい感じの左と愛らしい右ニャンコ。
書いてくださったのは【ねむねむや】のオーナーのmine(みね)さん
 
 
 
 
 
実際にねむねむやさんでいろんなグッズを買ってくださったかたの
パソコンの上に飾られているようです。
 


2013 5/5 わつか市 【宇口農園】【ねむねむや】

5月5日のわつか市では初参加の【ねむねむや】さんとお馴染みの【宇口農園】さんのお手伝いに入りました。

朝7:45に四天王寺さんに到着!すでに会場は設営で大忙しの様子。

実は朝いちばんからの設営は初めてで、【ねむねむや】さん用のこの日の為に買ったテントやテーブルがうまく建てられるか心配でしたww。

 

それでもなんとか設営完了!無事開店できました。



 
 
で、開店してしまえば私は楽なもので【ねむねむや】さんのオーナの方にお任せしてふらりふらりといろんなお店を見て回り

衝動買いばっかりしてました。

 

今回はなんといっても好天に恵まれたおかげで宇口農園さんの甘夏ジュースの美味しいこと!

爽やかな酸味でシャキ!っと気持ちが引き締まります。 

わつか市の魅力っていろんな個性豊かなオーナーさんと直接お話ができることに尽きますよね。

 

商品への愛情やこだわりがあって、また無から有を生み出すオーナーさんってみんなステキです。

私もなにかできたら良いんだけどなー。

2013 5/4 九度山  第20回真田祭 




毎年必ず訪れている九度山の真田祭。
例年は5/5なのですが、今年は四天王寺さんで開催されるわつか市への参加のために
今日の参加になりました。

なんとか定刻の10時前に到着。

開会式では岡本町長さんのなんとも明るい笑顔と元気さがとても心地よく
舞台から手を振ってくださいました。
感激です^^

九度山に行くたびに、町が元気になっていると感じます!

今回は初登場!真田鉄砲隊!

初めて聞いた火縄銃、短筒、そして大筒の銃砲!
それは大迫力で、また皆様のその勇壮な兜姿に感動しました。

そんな鉄砲隊のデビューに立ち会えた事ってすごくありがたいことだって感じました。

2013 4/22  みかんの落書き



この落書きの作者のお店が5月5日のわつか市に出店決定! なんともほのぼのとしたキャラクターのポストカードやトートバック等がお目見え予定です。。 私も今回はみかん屋さんではなく、この方のお店【ねむねむや。】のお手伝いに入るつもりです!

2013 04/21 新鮮野菜&手作り市 ファーマーズ朝採りマーケットin豊崎神社


宇口農園初参加の【新鮮野菜&手作り市 ファーマーズ朝採りマーケットin豊崎神社】です。

当日は早朝まで雨模様でしたがなんとか開始の9時には時折晴れ間の見えるようなお天気となりましたが4月半ばとは思えないくらいの寒さには閉口しました。

今回は人手が足りないということも無いことから、私的には販売員ではなくたんなる賑やかしな存在でした。

 どうしても商品供給が乏しくなる春夏シーズンはとっても大変です!

それでもちゃんと将来的なことまで見据えて計画されている農場主さんはすごいです^^


11時からは阪大「せせくらせ」の皆様による人形劇がありました。
 久しぶりにみた人形劇!とっても新鮮でした♪

子供たちの真剣な眼差し!
条件の悪い野外での人形劇なので、色々と工夫が必要ですがきっと場数を熟してがんばればもっともっと素敵になれえると思います!

がんばってくださいね!

2013 4/20 歴史と人間 幕末編 長井雅楽

今日の歴史と人間~幕末編の人物は『長井雅楽』。幕末を語るうえで欠かせない人物の一人だけれど実際はよくわかっていない。

歴史関連の書籍でも有名な『航海遠略策』を考えた人だが藩の方針が変更となって切腹させられた程度の知識でした。
 で、今日の一坂先生の講義ではホントにびっくり!長井雅楽さんの人物像がぼんやりだけど見えてきた気がしました。


文政2年5月1日(1819年6月22日)の松本村(中ノ倉)生まれで300石取りの家系。
諱は時庸(ときつね)、雅楽以外にも隼人や右近という名前があった。

長州藩の組織は【一門】【永世家老】【寄組】【大組(八組)】があり、長井や高杉、また周布政之助さんや井上馨も八組出身。長州藩はすぐれた人材で才能があればどんどんと取り立てる実力主義で、8つの組に分かれており、平生は江戸の江戸藩邸や萩の城を警護。また有事の際は藩主のそばを守る馬廻役となる。

 さて、この長井さんはとっても優秀な方で、1837年(天保7年)毛利慶親(敬親)の小姓役で、今でいう秘書のお仕事をする。
1850年(嘉永3年)には奥番頭格(藩の副大臣)
 
 藩主の跡継ぎとして<ろくのじょう>(12歳)⇒の教育係として長井と高杉小忠太が任命。
定広 元徳となる。

さて、桜田門外の変で井伊大老がなくなった後、幕府のかじ取りをしていたのが老中の安藤信正と老中の久世広周の打ち出した公武一和。和宮降嫁の件があって
文久元年(1861 3/28)中央政府へ乗りこもうとする毛利家をうまく利用しようとする幕府にも狙いがあった。

長州藩を含め幕府の中も大変な時に藩是を決めることに。その際に長井雅楽が出した建議書の【航海遠略策】をベースとして、周布政之助さんが清書し、決議案とし、これを藩の意見として定めた。
※決議案と建議書は微妙に内容が違っているのに注意!


 藩主の毛利慶親よりこの内容でまず幕府を説得するための根回し(周旋)するために江戸に行くるように指示される。
 
ところがなぜか長井さんは、5/15には途中の京都へ立ち寄り、正親町三条実愛さん(おおぎまちさんじょうさねなる)に会い、藩是を説明した。
このこの内容は藩是の方ではなく、自分が考えた建議書の方だった。

正親町三条実愛さんは賛同し、ぜひ書面にして提出するように言われたために建議書の末尾に自分の署名(陪臣大江時庸(ときつね)謹上)を行い自分の意見であることを記した。この内容が公明天皇のもとにも届き賛同を得た結果、食器と扇7本等を拝領!(これはオフィシャルな意見ではなくあくまでも天皇個人の見解であったことに注意!)
これにより、天皇は鎖国にこだわっているのではない!と実感!

この一見でおそらく長井は有頂天だったろう!

江戸へ向かう長井雅楽。
実はこの時にこの建議書が色々と流出。。。攘夷派をおもいっきり刺激していたことを本人は知らない。。
 
 
7/2には久世広周へ面談をし説明!続いて安藤信正へも説明!
幕府側も朝廷とおなじように好感触!
さっそく8/28に萩へ戻り毛利慶親さんの江戸行きをお伝えせねばと急いだ。

 9/16には参勤交代で藩主が江戸へ向かうことに。ところが途中で病気となり保養をすることに。

10/1には長井は江戸へ向かい10/24に到着。

12/8に幕府へ建議書を提出しOKを得てさっそく12/30に藩主へ報告。

文久2年1/15には京都へ向い朝廷のOKをもらうことにする。

ところが・・・・坂下門外の変がおこり、安藤信正が襲われるという事件が起こる。
3/19には朝廷へ提出。この時には自分の署名「陪臣大江時庸(ときつね)謹上」の無いバージョンを提出。

ところがすでに流出している資料で薩摩や攘夷派はすでに激怒状態!

4/5にはあの久坂玄随さんも状況!長井を斬る!と息巻いている!

4/14には長井は江戸へ向かう。
4/27には久坂が反対の書を出す!

そして時代は動いてゆき幕府や朝廷の意見をひっくり返してしまった。
朝廷へ提出してわずか40日だった。

6/18には長井は萩へ帰国。翌年2/6には切腹(45歳)となった。

長井が自分の意見ではなく、藩の決定版の意見を出していたのなら切腹にはならなかったのでしょう。彼は3回の建議書を提出している。
その相違点は

1.天皇の意思を第一に考える事
2.条約を認めていないこと
3.違勅~幕府が締結した条約は天皇が望んでいないこと
4.有志あるものは幕府に怒っていること
5.戦う道もあること

そして長州藩は【君臣湊川 奉勅攘夷】へと方向を転換していくことになってゆく。

 

2013 4/14  第5回「端午の節句~町家の人形めぐり」

先週の突然の胃腸炎から1週間。
昨日からやっとまともな食事ができるようになったので、お腹の中を1週間ぶりにアルコール消毒!

さて今日は九度山へ。目的は旧萱野家~大石順教尼の記念館の萱野館長さんにお会いすることと、九度山住民クラブのご代表の阪井様にお会いすること。

行きは、阪和道阪南から風吹峠を抜けて岩出~九度山へ。およそ90分くらいのドライブで到着。
今日の九度山は団体の方がお越しになられるとの事なので甲冑対の方々も待機されていて、ラッキーでした。
この甲冑は旧萱野家~大石順教尼ホントに見事で隊の方々の手作りと聞いてびっくり!
せっかくなので記念写真撮影していただきました!

九度山へ初めて行った時とは大違いで、町がどんどん元気になっている気がします!というか間違いなく元気になっています!
真田幸村さんをキーワードにした歴史のある九度山にはとてつもない魅力がたっぷりです。

家々に伝わる古いお人形が優雅に飾られた事で、其々のお人形のお顔が喜んでいるようにも見えるこの「町屋の人形めぐり」は早くも第5回。


すべての展示物が素晴らしく優劣つけがたいけれど中でもこれは素晴らしかった!



このイベントにかける情熱がひしひしと伝わってきます。

九度山の端午の節句~町家の人形めぐり

http://www.k-matsu.com/kudoyama/



さて、旧萱野家~大石順教尼記念館では突然の訪問にも関わらず快く歓迎してくださり、また様々なお話をお聞かせくださいました。
久しぶりに鑑賞した大石順教尼さんのDVDに涙し、また萱野家に伝わる様々な美術工芸品に目の保養をさせていただけました。
なかでも私の大好きな富岡鉄斎さんの掛け軸!
いつもは清荒神さんにある鉄斎美術館でしか見ることができない書画を目の前にして思わずその筆に感動!













せっかくなので人物部分をUPで撮影させていただきました。
こんな機会はまず無いでしょう!


賛文が読めなくて残念だけれど、牛にのる賢人、供の者が二人と鹿。その屈託のない表情がイキイキと書かれていておもわず微笑んでしまいます。




さて、お昼ご飯は「やっちょん広場」。でここの2階に数年前にOPENした食菜館がまじオススメ!
なかでもAランチもしくはBランチ!

地産地消の考えに基づいたお店は多いけれど、ここまでレシピとそれそれの栄養素や味付けにこだわったお店は珍しい。
毎回、行くたびにここのお料理には感動させられます!
おそらく、栄養士さんとシェフさんががっちりと完璧に組み合っているんじゃないかと思われます。
素朴な田舎味だけではなく、相当お勉強されているのでしょう。

絶対に立ち寄りたいお店です。



2013 4/8 えらい目にあった

えらい目にあった


4月7日の朝食後、梅田へ向かったその帰りになんとなく胃が重く感じました。
一旦帰宅した後次は11時に天王寺へ向かうが明らかに体調が変。
せっかくの宇口農園のお二人との昼食も話が弾んだもののお食事自体があまりおいしくない。。
一旦帰宅して梅田へ向かい、その直後から猛烈な嘔吐感。
早々に帰宅してからがもう大変。。
嘔吐と下痢で思わず寝込んでしまいました。

 

6日の夕食はおかゆさんを大匙一杯。
そのままお風呂に入ったのが良くなかった。
案の定湯あたりしたようで、強烈なめまいで倒れ洗面所に突っ伏して倒れていた。
家族を呼んだものの動く事も出来ないままにちょっとずつ体を拭いてそのまま倒れこむようにして就寝。
しかし、夜中になんども訪れる下痢と嘔吐で睡眠不足のまま8日(月)朝4時30分の起床の時間。

 
もしも体力が回復したら・・とおもいいつも通りお弁当を作ったものの
朝食すら食べることができず冷やしてあったゼリーを一口食べて1時間かけて出勤。
頭がさっぱり動かない。。

 
昼食はパウンドケーキ1個。でも直後に吐いて戻してしまいました。
ついに会社の近くの病院へ行き、点滴をしていただいたき高速道路を使って急いで帰宅。

夕食はクッキー一つ。
生ぬるい経口補水液がなんとも気持ち悪い。

 
大好きな紅茶やコーヒーはカフェインが入っているのでよくないらしい。
今夜は入浴も止めて20時に就寝。

 夜中に2回お手洗いへ。これがあると睡眠不足に拍車がかかり朝がとてもつらい。

 

9日(火)の朝はいつも通り4時半に起床!からだがだるい。。
朝食は生ぬるい経口補水液とクッキー一つ。
会社の行きしなにコンビニに立ち寄ってウイダーインゼリーとポカリを購入。

昼はウイダーインゼリーとポカリスエット。

 
夕方頃に空腹感があったので夕食からはなんとか復帰かとおもったが
48時間の絶食後なので重湯を1杯だけ。
 

それでもやはり夜中にお手洗いに。。

 ずいぶんましになったが、なんと3月の最高体重からするとマイナス5キロ以上!体脂肪2%以上のダウン!
前の会社ならたぶん休んでいただろうけれど、今回は無理をしてでも出勤した。
この差はいったいなんなのでしょう(笑)

2013 3/31 「第24回柳谷観音・泰聖寺講談会〜講談と落語を楽しむ会〜 」

午前中の雨模様も回復し、わずかな肌寒さが残る程度の良いお天気になりました。
久しぶりの泰聖寺講談会!今日はなんといっても桂 阿か枝さんがゲストということで
楽しみな会でした。
 
会場は満員!初めての方が大勢お越しになられたようで、これは講談の時代が来たか!!って(笑)
 
定刻前よりご住職さんのご挨拶。
泰聖寺さんが経営者のための雑誌に掲載されたとの事。
ペット供養や講談会等を核に現在のお寺のビジネス面でのお話をしてくださいました。
お寺も講談も貴重な文化・・・廃らせてしまうことは絶対にダメ!なんとしてもたくさんの方々に支えていただけるような魅力を伝えてゆきたいと感じました。
 
 
「秀吉と利休」 旭堂 南斗
携帯の電源をお切りください!を必ず2回言う南斗さん。
あとから思えば残念ながら 阿か枝さんの大切な箇所で鳴ってしまったのが悔やまれる。
講談の方は、利休が説く茶の湯の効果は・・・秀吉はなんとか利休に参ったといわせようとするが。。。
 
 
「宮本無三四」 旭堂 南舟
南舟さんの持っているほんわかムードの独特のマクラ。
講談の方は箱根の山越えを徒で行くはずが無理やりに、力自慢の雲助の籠に乗ることに。
途中で見知らぬ所で下され・・・・。
 
 
「星 亨」 旭堂 南青
実在の人物「星 亨」(ほしとおる)の講談。横浜税関を担当しているが開国直後は脱税が横行。なんとかしようと苦心。公使のパークスが出てきて・・・。
 
 
「金明竹」 桂 阿か枝
 2009/7の田辺寄席で初めて阿か枝さんの金明竹を聞いて以来数回楽しませていただく機会がありました。
一番の聞かせどころの説得力が数段パワーアップしているように感じました。
決して早口言葉ではなく使いにきた者が、丁稚やごりょんさんへ話している様子が目の前に浮かんできました^^

2011 12/11 金明竹?錦明竹? (参照
http://sweet-mikan.blogspot.jp/2011/12/2011-1211.html
 
 
「新島襄の妻・八重 〜有本隆作〜」 旭堂 南左衛門
書下ろしとのこと。
幕末フェチな私もそうだったのですが、この一番ややこしい時代は背景説明が非常にややこしい。
潔い演出でドラマのワンシーンを見ているような仕上がりでした。
   
   
終演後に頂戴しました昆布茶が美味!
気に入ったモノは是非入手してじっくりと味わってみたいと、ご挨拶!

浪花昆布茶本舗 さんのご提供でした。
http://www.konbu-cha.com/

さっそくホームページを拝見!
OEM生産を賜っておられるとのこと・・・。
なんとか入手してみたい一品です。
私の関わってる某農園さんとなんとか生かせないものだろうか。。
 
   

2013 3/30 塩元帥

うん!おいしかったぁ!

本店塩元帥
大阪市淀川区木川東3-6-24
TEL 06-6886-3331

駐車場5台なので気を付けて!
---------------------------------------------
人の短所は指摘しない事
自分の長所を自慢しない事
人に行った施しは他人に言わない事
自分の受けた施しは忘れない事

自分の人生で起こるすべてのことは
自分の行動が起因している

ニュアンスは違うかもしれませんがこのような言葉が書かれていたのが印象的でした。


http://shiogensui.com/

2013 3/30 ジャパンペットフェア

 
 

ジャパンペットフェアに行ってまいりました。
むっちゃ楽しかったぁ!

会場では犬を連れた方がいっぱい!普段見ることの無い犬種がいっぱい!
いろんなブースでいっぱいサンプルを頂きました!

ありがとぅございました^^

http://j-p-f.jp/

2014 3/23 第92回公民館寄席 旭堂南海 講談の会 おばやし亭

第92回公民館寄席 旭堂南海 講談の会 おばやし亭です。
この会はいつもNHK大河ドラマをズバッと切る対談が楽しくてもう何度目になるでしょう。
今回は ~新島八重の時代と兵庫~ でした。

もちろん幕末大好きな私にはたまらないテーマ!
しかも南海さんの洒脱な講談に田辺先生の巧妙なお話!堪能した2時間余りでした。


旭堂南斗 将棋大名
無難に前座をこなされた感のある南斗さん。
ますますのご活躍を期待しています!


対談 田辺眞人 さんvs 旭堂南海さん 「兵庫の明 治維新と文明開化」を語る

会津藩の祖となった保科正之さんと家訓(かきん)、江姫の罪な点等江戸初期の話から幕末の動乱までがさまざまな視点で対談で展開。
新島襄や伊藤博文等幕末に活躍したさまざまなエピソードも満載でした。

中入り

露の団姫 松山鏡

伝承話のこの話は法話をはじめ色んな形で表現されており
とても味わいの深いお話。
天台宗の阿闍梨になられた団姫さん。
お客様をどんどんと世界にひっぱってゆかれるマクラの展開から、スッとネタへ。
でサゲは意表をつく団姫さんしかできない演出でびっくり!

旭堂南海 『神戸事件』~明治日本最初の困難~

http://sweet-mikan.blogspot.jp/2010/10/2010-1016.html


「私は遠国の者(おんごくのもの)故、朝廷が外国人を大切に扱う方針になっていたとは知らなかった」・・・二枚舌を持つ新政府を批判した痛烈な言葉。滝善三郎さんの最後の言葉が脳裏をよぎりました。

それでなくてもややこしい幕末の中で正義の概念が180度ひっくり返ったなかでも特にややこしい慶応~明治。。。
神戸事件、堺事件と問題が新政府を次々と襲い、なんとか対面を取り繕う新政府、なんとか日本を手中に治めたい英や米や仏・・。

これを講談にするには相当筋道を整理しなければ無理!
それをなんと明快に講談にされた南海さんの手腕にびっくりです!

2013 3/21 西遊草

先日の一坂先生の歴史と人間講座で話されていました[西遊草]を購入!
届いてびっくり!初版本でした!
 
 
幕末の方がどう観光地をとらえていたか・・大阪の風景の変遷や戦国時代をどう見ていたか・・などなど・・興味がいっぱいです。
じっくりと腰をすえて、読んでみたいとおもいます。
 

2013 3/16 歴史と人間 ~清河八郎~

清河 八郎は天保元年10月10日(1830年11月24日)生まれ。
天保元年といえば吉田松陰先生と同い年。
東北の庄内藩出身で幕末の志士の象徴的な人物。

私の知るところでは新撰組の母体となった浪士組をまとめ、京都へ送り込んだ中心人物という理解だけでした。

そんな幕末の志士のまったく違ったイメージのお話。
安政2年(1855年)に母を連れて西日本を旅しており、その母のために読み返すことを前提とした日記を書いている。実際、母は15歳の時に生んでいるのでこの旅行の時は母は40歳くらいか。。

元々清河八郎は出羽の国清川村の造り酒屋 斎藤元司の裕福な家に生まれている。
18歳で家出をして江戸へ。古学 東条一堂を師と仰ぎ国学を学んでいる。のち、昌平坂学問所へでも学んでいる。また剣術は北辰一刀流で有名な千葉周作に学ぶ。

この旅行記は1855年3月19日に出発し9月10日に帰国。【西遊草】に纏められている。

この日記は実に当時の大坂文化を感じることができ、また志士の代表的な清河八郎の考え方を推察することができる。

6月1日
唐物屋で唐紙を購入。
本願寺(津村別院)前の風呂敷播磨屋で100まいを購入。京都の商人を酷評。陶器も同じく京都を酷評。
四ツ橋のうなぎ屋を東京のうなぎ屋と比較し批評。上方風のウナギはよろしくないとのこと。

3日
難波 大津屋の茶屋へ。四天王寺、大阪城の天守閣、難波の米蔵を眺める。

5日
日本橋から三十石へ乗り京都へ向かう。上り舟のために船頭らの苦労をねぎらう。
途中の風景描写がとても優雅。
八幡、淀の城下へ入り船頭が2人追加。京都へ入ると祇園祭の鉾が見えてきた。

7日
祇園祭の初日。
豊臣秀吉のかけた三条大橋の擬宝珠の薀蓄。
本能寺の信長のお話。
関白秀次の経緯をもとに『天下をたなごころの中に握るほどの衆にすぐれた人物だから、かえって矛盾するような性格があるのだろう』

幕末の人物が、戦国時代をどう見ていたかを知ることができる。

知恩院さんの忘れ傘。
有馬へ向かい、温泉にまつわる歴史的な武将の噺が続く。
蓬莱峡の奇岩に感動をする。

24日
大坂に入る。目的は天神祭。
難波橋の夕涼みの描写。

25日
天神祭の当日。
あまりの混雑に、宿屋の火の見台で酒肴を楽しみながら見物した。

26日

難波橋付近の遊山船の情景。
花火。
大坂の大金持ちを皮肉る。米屋平兵衛兵、鴻池らがケチだから
大塩平八郎の話もでてくる

27日
生玉明神へ。
天保山、港の帆柱のにぎわい。
堺の町まで見えた。

28日
舟遊び。

29日
午前10時に地震!
舟で逃げるという常識を非難。地震の恐怖を外夷にたとえる。
俗人は天下の憂いに気が付かず、有識者は前兆が現れない前からわかっている。

<参考ページ>

大地震両川口津浪記石碑
http://sweet-mikan.blogspot.jp/2011/06/2011-617_3937.html


擁護璽
http://sweet-mikan.blogspot.jp/2011/03/2011-322.html



30日
堺住吉明神の祭。

この詳細な様子は東洋文庫、岩波文庫から『西遊草』が出ているので
さっそく買い求めた。
本の到着が楽しみ。

※生玉神社の風景や三十石は落語にもなってる。
大坂のイキイキした当時の様子を知る貴重な手がかりとしたい。

2013 3/12 下駄かくし

昭和45年、大阪万博が開催され高度成長期へ。
南海平野線も現役で活躍、近鉄南大阪線はまだ高架工事が始まっておらず
家の前の道はアスファルトではなく砂利道で、其々の家の洗濯物は
電車沿いの柵に物干し場を作り干していた。

 各踏切りには踏み切り小屋があり電車が来るたびに手動で遮断機を下していたそんな時代。


阿倍野近鉄百貨店は庶民の百貨店でつっかけ姿で行くことができた。
また向かいのステーションデパートをつなぐ真新しい歩道橋には
傷痍軍人さんが、アコーディオンを鳴らしておられた姿も数年前までは見ることができました。


そんな中でどこからともなく子供たちの遊びの歌が聞こえてくる。

下駄隠ししゅうりんぼう
橋の下のねずみが、草履をくわえてちゅっちゅくちゅー
ちゅっちゅくまんじゅは誰が食(く)た
だーれも食(く)わへんわしが食(く)た
表の看板三味線屋 裏から回って三軒目

先日、そんな懐かしい風景の夢をみました。

2013 3/10  新大阪イーグルボウル イーグル寄席

午後から降り出した雨にも関わらず大勢のお客様が来られていました。
ほんとにありがたいことです。

今日の前座さんは桂福丸さん。
数年前のお蕎麦屋さんで開催されていました寄席へ頻繁に通っていた以来で、すごく久しぶりです。

桂福丸 「天災」

マクラは師匠から受け継いだお名前の「福」の字。福丸さんがお弟子さんを取られた際のお名前はどうなるのか。。。まるで阪急電車京都線のようなお名前が!
ネタの天災では細かな箇所に至るまで色々と工夫が見られきっちりと会場を沸かしておられました。


旭堂 南左衛門 「大坂の豪商・淀屋と水戸黄門」

大阪を処払いとなった淀屋辰五郎。八幡にわずかな土地を幕府よりもらったものの200人以上いる使用人らへの退職金を渡すことができない。そこで東国の大名らの屋敷を巡り取り立てに行くもののけんもほろろ。。そんなときに水戸黄門と出会う。。。


笑福亭 仁嬌 「佐々木裁き」

松屋表町の桶屋職人の高田屋綱五郎の息子の四郎吉のイメージがピッタリ!
佐々木信濃守と四郎吉の掛け合いのシーンの描写とテンポがとてもよかった。
桂   枝女太 「猿後家」
マクラはご自身が胃カメラを飲まれた際の爆笑体験談。
さて、このネタはとても久しぶり。畳み込むような奈良の描写とつい禁句を言ってしまうシーンが印象的でした。
さて、久しぶりに私の蔵書で確認。。。

寛政元年江戸板「新作落噺室の梅」所蔵の「物忌」が原本とのこと。
「さる旦那殿、猿にそのままなれば家内、猿ということを遠慮しけり。或初春に至り、元日早朝に別家の番頭年始に来たり旦那殿の前へ出て、『まず未の年も首尾よくお越え遊ばされ、早や申の元日』といふや否や、旦那目をむき出し、『おれが前で猿と申すは慮外千万、向後出入り無用』と叱り給えば、番頭手に汗を握り、『左様仰せられましては私、木から落ちました』と言ひさして、旦那の顔を眺め『木から落ちました猫で御座います。』」

※上方落語の歴史 前田勇著S33限定1000部発刊NO583

2013 3/8 春の味覚 

春の味覚といえばこれ!

いかなごの釘煮!

2013年は2月23日に漁が解禁となり一斉に市場に出回りましたが
ここまで粒ぞろいのは久しぶり。

極小でなんともいえない歯ごたえに、お醤油とショウガの風味が絶品ないかなごの釘煮をいただきました。
大好きな桜の小鉢に盛っていただきました^^


2013 3/3 四天王寺わつか市

3月3日のお雛祭りの今日は四天王寺さんでのわつか市。
午前中は若干肌寒かったものの午後からは日差しもあって沢山のお客様がお見えになられました。

いろんなご縁のおかげで宇口農園さんをお手伝いさせていただいて半年近くが経過しましたがその間、ほんとに楽しく過ごさせていただいています。ありがたいことです。

今回の宇口農園では、ミカン好きの為のミカンと異名をとる「はるみ」と減農薬で完熟の「ネーブルオレンジ」、そして料理好きには堪らない橙酢(だいだいす)を販売させていただきました。

爽やかな酸味と濃厚な甘さのバランスが楽しめる「はるみ」も、これ以上甘くならないくらいの甘さの「ネーブルオレンジ」も大好評で、はるみの小玉、ネーブルオレンジが完売となりました!

次回はいよいよ「甘夏」のお目見えです。
左の写真のように元気に育っているそうです!
 
次回4月7日も四天王寺さんでお会いできるのを楽しみにしています。






このたび、宇口農園のホームページが出来上がりました!
通信販売でお買い求めいただけるおミカンの情報や三重県御浜町の
色んな風景がお楽しみ頂けます!
 
三重県御浜町の柑橘類専門農園 宇口農園 Citrus-fruits UKOU Plantation
 


2013 2/17 第16回 三国・アシスト寄席

早いもので第16回。
アシスト寄席は、お勉強会+交流会的な意義のある落語会。限定30人でデザート付。

毎回いろいろと誤植のあるチラシやハガキ。まぁ間違いさがしと表現されたオーナーさん!
さすがです。すでにこの時点で会場で笑いが生まれていました^^


桂華紋 池田の牛ほめ
要所で色々とオリジナル要素を入れてこられる華紋さん。
よく練習されているなーって感じさせられました^^好印象な方です。

桂枝太女 平の影
初めて聞いたお話。
文字が読めない者が受け取った手紙の内容を読んでもらおうと来た噺。
まぁなんとよくできた内容で、繰り返しの面白さが感じられます。
Wikiのサゲでは無く、五代目文枝さんバージョンだとおもわれます。
江戸噺の<手紙無筆>


旭堂南左衛門 親孝行の出世人 沢村才八郎
初めての講談。
細川越中守の陪臣となった力持ちの才八郎の心温まる出世の話。

笑福亭仁嬌 手切れ丁稚
この噺も初めて!今日は初物ばかりですごく楽しかった。
お手掛けさんへの手紙を言付かった丁稚。このこしゃまくれたというか、機転が効く
丁稚を基軸にした噺。

江戸噺の<手切れ>
本題に入るまでの室内の描写や沿線別の住んでいた地域の描写が秀逸!また仁嬌さんの丁稚の雰囲気はホントに感心です。

20130216  歴史と人間 ~幕末編~ 和宮

今日の朝日カルチャー 一坂太郎先生の講座は「和宮」。

父は仁孝天皇、母は橋本実久の娘の経子(つねこ).

1846年閏5/10(弘化3年)生れ。生まれる4か月前の1月には父の仁孝天皇は崩御され、すでに孝明天皇が即位されていました。
2/13に践祚(天皇の位についたこと)9/23に即位。
15人のお子様が居ましたが成人されたのは孝明天皇様・ともこ様・和宮様の3人。

生まれた年は大変な年で5/27には米ビットルが浦賀にきて開国を求めている。これを受けて朝廷は幕府に対して海防強化確認している。これがすなわち朝廷の政治へのさらなる関与となってゆく。

また、丙午・・・これは井原西鶴の八百屋お七が丙午の女性。

さて、桜田門外の変が起こり、当然報復の機運が彦根藩に高まる。これを押さえ込んだのが老中の安藤信正。藩主が突然亡くなったのだから、通例だと藩はお取り潰しだが、実際は数か月生存していた事を条件に断絶を救った。この安藤信正が将軍家茂の夫人に和宮をと考え出したらしい。
これは2ルートある。井伊直助と九条尚忠を取り持った長野主膳ルート。そしてもう一つは左大臣の近衛忠煕(ただひろ)と小浜藩の酒井忠義を取り持った加納繁三郎。

4/1に安藤信正は老中の連署の奉書を酒井⇒九条⇒天皇へ。
この理由としては、日本は一枚岩であり降嫁は日本の為であると説く。

孝明天皇は5/4にNG!⇒九条⇒酒井⇒幕府へ。

その理由は・・
和宮はすでに有栖川宮熾仁(たるひと)さんと婚約していること。腹違いの妹だから意思を強制できないこと。彼女は外国人が大嫌いであること。しかしNGといったが幕府には隔心があるわけれはないことを付記。

5/26には2回目の申し入れを行った。そのポイントは・・・

国内の人心を一致させること。
国内の防御を厳重にすること。
攘夷を実行するために必要なこと。

困った孝明天皇は岩倉具視に相談。しかし岩倉はすでに酒井に通じていたので積極的に勧めた。
そのポイントは・・

すでに幕府に政治は無理。
朝廷の権威を復活させる。
内政の参加し政治の実権を持つ。

ついに、条約の破棄を条件に和宮降嫁を許可。しかし、外国人を追い払わないと和宮は絶対に江戸へは行かないと告げる。


7/4 武備充実してから外国人を追い払います⇒具体性がないからNG!
7/29 鎖国を再び実施します。⇒貿易は一時的であり武備が充実したら鎖国を行います。それは7~8年から10年以内にします!

これでOKをもらった。

和宮さんからも条件が。

1.先帝の17回忌が済んでからにすること。
2.万事御所の風儀で行うこと。
3.御所の女官1名+下級女官3名を付ける事
4.用があるときは橋本家より来てもらうこと。
5.上臈(じょうろう)・年寄を京へ向かわせること。

すべてOKとした幕府はいきなり1を無視して年内に江戸に来てほしいと回答。

折り合いをつけて1861年(文久)の春に決定。10/18に勅許。12/25には納采に礼(結納)
ところが11/28にはプロシア・スイス・ベルギーの3国と新たに条約を締結したことを事後に知った天皇は当然激怒!!

どのように取り持ったのかは不明だが12/9にはすべては九条に任せる旨の通知があった。
翌年7/2には同年の9~10月に関東下東が決定。とうぜん、あと半年で先帝17回忌なので
待ってほしい旨の申し入れがあったが聞き入れられず。
10/3八坂神社で門出の儀式。
そして10/20には京都を出発した。(和宮⇒親子様となる)

江戸へは中山道を利用。その規模は・・2万人が25日をかけて移動。
800丁の籠+6畳2間+おトイレで家屋は京都風。

11/15に江戸に到着。
翌文久2年2/11に婚儀が行われた。そして有名な篤姫との面会。
もちろんこれを知った孝明天皇は幕府に抗議をしたが駄目だった。

和宮様、家茂様のお二人はお仲良しであったが2年の7/20には家茂さまが亡くなる。また12/25には孝明天皇も崩御される。そして慶喜さんになった新体制で3年の5月には兵庫の港が開港。。これで完全に降嫁の意味を失ってしまったことになる。

明治10年9/2に療養中の箱根で32歳で亡くなられた。

遺言通り増上寺の家茂のお墓の隣に葬られた。







2013 2/16 フェスティバルタワー 

フェスティバルタワー12FにあるカフェLargoから四ツ橋筋を眺める。