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2012/12/15

2012 12/15 歴史と人間 ~井伊直弼

昨日の金曜の夜に勤務先の忘年会があり、深夜に帰宅。
そのまま倒れこんで眠ったようで朝起きたら、大変な状態でしたww
食欲のなく、胃のむかつきと戦いながらも朝風呂。。それでも頭が痛くって。これはもう何年も経験していない二日酔いって症状。。朝食も昼食も食べることができないままにお勉強に向かいました。
今日はこのお勉強の後は年末恒例の一坂太郎先生教室の忘年会(・_・;)どうなることやらって不安いっぱいでしたww。


さて、井伊直弼は第11代藩主・井伊直中(なおたか)とお富の方との間に十四男として1815年(文化12年)に生まれる。不思議な縁で、安政の大獄で処刑した梅田雲浜氏とまったく同じ誕生日。
幼名は鉄之助。
直亮(なおあき)がすでに藩主を継いでいた。(3男)次いで直元(11男)がいる。。
当時は藩主を継ぐことができなかった次男坊以下は大変で、養子として入ることができなかった場合は一生を不遇で終わってしまう。この彦根藩では300俵で部屋住みとのこと。
これはなんとかかつかつで暮らしてゆけるギリギリな水準。

1834年には弟と養子の面接に行ったがNG・・・しかも弟が養子に入ったとか。。

埋木舎(うもれぎのや)で長野主膳に国学を学び、また居合や槍術、禅や和歌を学ぶ。特に茶道では有名で石州流。いくつもの書籍が存在している。
学んだ山鹿流兵法は日本を絶賛、しかも幕府は絶対的な権力であることを肯定する学問。武士としての道徳を説く。
また、国学の研究では長野主膳義言(よしとき)との出会ったことが大きなターニングポイント。
長野主膳は実は出身地等の情報は無いことから不明で同い年。
1842年(28歳)で主従の礼を結ぶ。

儒学は外道であり所詮中国の教え。山鹿は国学であり神道。幕府への忠義は天皇への忠義に通じるというおもいっきり保守的な学問の山鹿流。
ちなみに赤穂浪士の仇討は山鹿流ではNG!幕府の許可があればOKだが忠臣蔵事件はだめ。

1846年 世子 直元 死去⇒直弼(32才)⇒江戸へ向いはじめて将軍にお目見え。
1850年 直亮 死去⇒そしてついに直弼が藩主になった。
すぐに主膳を召し抱え、井伊家の勤王ぶりを調査させた。
直弼は天皇大好き!好みの刀をプレゼント。また御所の火事のあとは焼けた本を探し出して進呈。すっかり天皇は直弼を信頼しきっていた。
地理的なことがあり、彦根は京都の膝元。なにかあれば駆けつける藩。

さて、いよいよ時代が動き出す。

黒船がやってきたらすぐに江戸からお呼び出し!2000人で羽田・大森の警備を仰せつかる。

で・・意見書のくだり。。1853年/8/10の意見書では、キリスト教を国内に入れてはいけない。祖法があるので国を閉ざすことを説く。ところが8/29の意見書では交易を行い海軍の力をつけつことをといている。これって龍馬さんらが言ったようなことをすでに言っている。この不思議な意見書には訳がる。たまり場つめの新人の直弼さんはうるさ方を刺激しないように遠慮したのか。直弼の本音はもちろん8/29の方。ちなみにこの意見書は中川禄朗が書き、直弼が加筆して仕上げている。

徳川斉昭は、ペリーを打ち払え!直弼は迎え入れて穏便に!で対立してゆく。
品川の台場なんて無駄!兵隊が犬死するだけ!それよりも軍艦建造だ!の意見が本音。

そして3/3に日米和親条約を締結。

次にハリスが来日。

親交外交を自由貿易で進める旨の勅諚を求めるために堀田正睦を京都へ走らせるがもらえない。。1858年(安政5 44歳)4/22 大老に就任。
運悪く第二次アヘン戦争の情報が入り、アメリカの脅しに乗ってしまい6/19修好通商条約を締結。
保守派松平忠岡(上田の殿様)と直弼は勅諚をもらうかもらわないか・・もめてしまう。

そして直弼は5/12に家定の跡継ぎ問題についての話の際に、忠岡を罷免する工作をしてしまう。
これは公用型秘録(M18明治政府へ提出した資料に欠落していた情報)が発見されてはじめてわかった事実。

そしてついに、後継者は血筋のものから選ぶという勅許をGET!これはすなわち南紀派の家持を世子とすることを指す。 この勅許はなんと一ツ橋派に寝返った堀田正睦が隠ぺいしてしまう。

安政の大獄・・・そして桜田門外・・・。

井伊直弼さんは誰よりも尊王攘夷思想。。でもなかなか世に出ることがなく大変苦労され、時代の渦に翻弄された方だったのですね。


講座がおわると上映会です。

今日の映画は本当に珍しいお話。これは一坂先生のホームページに詳しく書かれていますので
そちらをご覧くださいませ。

研究室 ~ 『青年』の思い出 ~

原作:林房雄
脚本:杉山義法
場所:東京宝塚劇場
配役:
井上聞多:西郷輝彦
伊藤俊輔:あおい輝彦
高杉晋作:竹脇無我
プウラン:森繁久弥
毛利敬親:藤岡琢也


産経新聞の「わたしの失敗」という書籍の中の西郷r輝彦さんの項目に次のような文章があるようです。

昭和61年、東京宝塚劇場での舞台「青年」。その記憶は西郷輝彦の中に強烈に刻まれている。
森重久弥に指示してともに舞台を重ね、演じる者としての自覚も芽生えて来た頃のことだった。

 ~略
予想もしていなかったアドリブが森繁の口から飛び出した。
「きみの父親の名前は何という?」
頭の中が真っ白になるような”抜き打ち試験”だった。
観客を前にして物語の名前を止めるわけにはいかない。
あわてた西郷はとっさに自分の父親の名前を口にしてしまった。


「青年」の上映会が終わり一坂先生よりゲストの旭堂南左衛兵門様をご紹介いただきました。
この席で上方講談の解説や講談における人物名の変更等についてをお話くださいました。
また井上聞多の「袖付橋(袖解橋)の御難」に関する解説をいただき、一同そのまま
忘年会会場へと移動。

いつのまにか私の二日酔いも消えて、元気に美味しくビールをいただきました(笑)