フランス風懐石料理中華風: 2012-10

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2012 10/28 第一回 ゆの里講談会

前日開催されました秋桜出前釈場の会場となりました貝塚市の願泉寺さんより
移動し会場のゆの里へ到着したのは18時30分頃。


重岡社長さんや専務さんをはじめお世話になっています皆様方と楽しい会食でした。

そのお料理はどれもがすばらしく、完全無農薬の素材に、化学調味料を一切使わない味付け、そしてすべての料理の決め手がゆの里のお水とのこと。会社の素晴らしいポリシーと実際に具現化されているスタッフの皆様、そして板場の方々の努力に感激いたしました。

また会食中ではゆの里ができる時のさまざまなお話や、多数来館されているお客様の感謝のお声を教えていくださったのち、酔いもまわってくると抱腹絶倒大爆笑なお話が飛出してあっというまの4時間でした。

[ゆの里公式ホームページ]  http://spa-yunosato.com/


 
その後、宿泊先の「このの」へ移動し温泉を堪能させていただきました。

翌日はゆっくりとしたお時間の中で、美味しいお釜炊きのご飯を頂戴し、本番控室へ移動。
ちょうどお昼時が近づくにつれで多数のお客様がお見えになられると同時ににわかに厨房も
忙しさが増してきます。それでも素晴らしいチームワークで皆様がお客様のニーズにお応えになられる様子をみてこの館の人気の秘密がわかったような気がいたしました。

開演は13時からということで多数のお客様がお越しくださり会場はすぐに満杯!


 
皆様に上方講談をお楽しみいただけました。


旭堂南斗 「山之内一豊と妻千代」
旭堂南左衛門「竹の水仙」
旭堂南舟「秀吉の足軽時代」
旭堂南左衛門「九度山の真田幸村」

その後、大抽選会が行われ盛況のうちに無事に終演となりました。
無事公演を終わり素晴らしい温泉を堪能した後、大阪への帰路へつきました。



 

今回、色々と学ばせて頂いたことがあります。
最近いろんな出来事がある中で私の中でサービスについてを考える機会が非常におおいことから
また一度、考えを整理したのち文章化してみたいとおもいます。






ゆの里のスタッフの皆様!美味しい食材をつくってくださるファーム皆様!そして旭堂南左衛門一門をご贔屓にしてくださる皆様!本当にありがとうございました。心よりお礼申し上げます。
 
 
橋本新聞へ掲載されました。

2012 10/27  秋桜出前釈場 貝塚御坊 願泉寺

貝塚 願泉寺さんでの秋桜出前釈場とのこと、このイベントへは初参加な私です。
予定時間前に現地到着するとボランティアガイドさんとともに多数の方々が集まっておられます。

どうやら貝塚の寺内町を散策されている様子で、この願泉寺さんのご本堂にてご住職さんのご説明に熱心に耳を傾けておられました。

 この願泉寺さんはすごいご由緒があるお寺で、天正11年(1583年)7月に
石山本願寺から紀伊の鷺森御坊に撤退した顕如をお迎えして1585年(天正13年)8月までの約2年間、浄土真宗本願寺の本山となった後に寺内町を形成しその中心となったお寺です。

そのため、東本願寺、西本願寺ともつながりが深く、明治の宗教改正の際に西本願寺へ属することとなったそう。

ご本堂には色鮮やかに二十四孝の彫り物がしてあり、これは貝塚三ツ松の石上家によるもとらしく左甚五郎ではないか?という話もあり貝塚三ツ松の石上家は代々優秀な彫り物師を排出したそう。※二十四孝の彫り物がすべて残っているお寺は非常に珍しいとのこと。

旭堂南青さん 槍擦りの鎧
旭堂南左衛門さん 竹の水仙

2012 10/20 歴史と人間 ~吉田松陰

今日の一坂太郎先生の講義の内容は【吉田松陰先生】について。
私が幕末史に興味をもったきっかけが吉田松陰先生であり、また一坂先生の第一回目の講義(2009/4)が吉田松陰先生についてでした。

実は今日の講義に間に合わせるために1週間前に手術し昨日を抜糸としたくらい楽しみにしていました。

吉田松陰先生は下級武士ではなく無給武士の生まれであり無給武士とは領地の無い武士の意味。天保元年(1830年)萩の松本村で生まれる。20石わずかで半士半農の暮らしであった。

当時の武士の構造は、一門家老→寄組→大組(八組・馬廻組)→無給通→足軽・中間。
大組までが政治に参加でき、高杉晋作さんや久坂玄随さんらもこれにあたる。足軽・中間は荷物運びや門番などの雑役をこなし、伊藤博文さんや吉田としまろ、山県有朋さんら。この構造らは全体のわずか6%程度。

父の杉 百合之助には二人の弟がいて大助(吉田家を継ぐ)・文之進(玉木家を継ぐ)であったが
5歳の時に、大助が亡くなったことから吉田家を継ぐことになる。大助・文之進は大組に属していた・・すなわt下級武士にとって学問ができるということは出世の為であった。

6歳で吉田家の家督を相続し当主となる。この吉田家は山鹿流兵学の師範の家であった。
※初代の明倫館が創設された1719年には学者を大組へと格上げされており、これに伴い吉田家も大組であった。(本来生まれた杉家よりも格が上)。

山鹿流は、山鹿素行によって著された兵学で、、武士の立場から人はどうあるべきか?生き方や国のささえ方を学ぶ哲学思想。当時は山本勘助流ともいわれていた。

吉田家は57石取りで藤原氏とのつながりがあり松野平介のひ孫が吉田家の始祖。8代目が松陰となる。また松野平介の先祖は一條天皇の藤原行成と伝えられているため松陰は時折藤寅、藤原と名乗ったりしている。

松陰は玉木文之進のスパルタ的教育で教養を身につけてゆく。学問は自分のために行っているのではなく、藩のために行っているという趣旨。

9才~教授見習いとなって出仕。(学生ではなく教える立場である)友達や幼馴染がいないいびつな人間形成であった。

10才~家学(山鹿流)を教授する。

11才~毛利慶親(よしちか)(後に敬親(たかちかに改名させられる))がお国入り(23才)。江戸生まれの江戸育ちの藩主が初めてお国入り。藩主の前で武教全書を講義。これは玉木がシナリオを作成。いまでも残っているらしい。

19才~後見人が解かれ一本立。独立した師範となる。
松陰の後見人の内の、山田宇右衛門より【坤輿図識】(こんようずしき)をもらう。これが松陰に多大な影響を与えたと考えられている。坤輿図識は世界各国地域の情勢を記しており、「世界は独立国と植民地でできている」と記されている。

20才~北浦の沿岸防備を巡視、北浦は萩から下関に至る日本海側の海岸線。
このタイミングで明倫館が移転して拡大。15000坪。小学校から大学院までの一貫教育。
水練の池があり、馬で水中を駆けたり、刀や甲冑をつけて泳いだりした。この池のモデルは会津藩の日新館(会津は山鹿素行の出身地)
また10/10には羽賀台(萩市内)で大規模な軍事演習をおこなっている。

21才~九州・長崎・平戸へ50日滞在。アヘン戦争の情報を熱心に学ぶ。
この年の年末ぎりぎりに萩へ帰国。

22才~3月に江戸行き。熊本の宮部鼎蔵と知り合う。
江戸の学者の国防に関する考え方に失望。
東北視察の旅に出ることにする。

10/15に江戸出発の予定が手形が出ないためにそのまま出発。友達との約束を優先し脱藩者となる。

23才~12/9脱藩亡命の罪により、士籍剥奪し父の育みとなるが10年間の遊歴を許可(浪人)
24才~1/26出発し近畿を経て江戸入り。
6/4に黒船を目撃。詳しくその装備をチェックしている。

佐久間象山の【和魂洋才】思想に影響を受け、日本も技術や知識が必要であると認知、長崎にやってくるプチャーチンに会いに行くが遅かった。

25才~ 3/3 和親条約締結

三月二十七夜の記を引用!(日本の名著シリーズ)

10年ほど前に投夷書がアメリカより発見されている。(嘉永7年安政元年3/11)

26才~出獄し蟄居

27才~松下村塾

29才~日米修好通商条約~時勢論を記載、怒りを表現している。

30才~惨殺。

次回は梅田雲浜さんの予定!


吉田松陰先生は自分が正しいと信じた事ならばわき目をふらず真っ直ぐに進んで行かれる。、まるで矢の如く。そんな松陰先生が大好きです^^
安政3年の【志】

天地大徳君父至恩
報徳以心復恩以身
此日難再此生難復
此事不終此身不息   藤寅

留魂録をあらためて読み直そうとおもいます。

2012 10/19 味噌かつと名古屋コーチンひつまぶし


昨年から何度も名古屋に行ってるのにいっつもとんぼ帰りばっかり。
それならと、今日は少し早めに出て途中休憩を一回にしたおかげで名古屋らしいランチをいただけました(^-^)v
手羽先はあまりに美味しそうだったので、つい撮影前にたべちゃいました。むっちゃ美味しかったぁ。あの手羽先に染み込んだタレが絶品!
大阪で、山ちゃん、風来坊の味とも違う馴染みやすい味でした。
で、味噌かつは本当に初体験!

















豚串かつに味噌たれに漬け込んでいるよう。
赤だしの味の八丁味噌に色んなスパイスが入っている?これも癖になりますよねー。
まぢビールとの相性最高間違いなし!
























そしてメインの名古屋コーチンのひつまぶし♪
器に盛り付けてあるひつまぶしを三回に分けていろんなバリエーションでいただけました、特に三回目の食べ方は絶品で、熱々のお出汁をかけると、しっかりした味わいの名古屋コーチンのに、なんとも言えない鰹出汁が加わってあっさりとした味わいに変化しました。



















あぁ…ビールが飲みたい(笑)
















純系名古屋コーチン・和食会席料理

樞 くるる 名駅店

http://r.gnavi.co.jp/n002803/

2012 10/19  伊藤痴遊全集第7巻 袖付橋の闇討ち

この夏の終わりころからちょっと体調を崩し実は10月12日にお腹の一部分を切ってきました(笑)
で1週間ほどは自宅で療養ということでお仕事をしています。←あかんやんww

おかげで今まで買っていたのになかなか読めなかった本や気になる情報を整理することができました。ありがたいことです。












10月13日産経新聞に「消えた偉人物語」小学国語読本巻十【母の力】が掲載されていました。

これは昭和14年発行の小学国語読本巻十は今の小学5年生用の下巻にあたるそうでこの14課に【母の力】と題されている教材がある。

あらすじ的には下記の通り。

明治の政治家の井上馨(聞多)が暴漢に襲われ大怪我を負った。
全身に無数の刀傷。もう虫の息という状態でようやく自宅に担ぎ込まれた。

城下の医師は来たものの手をこまねいている。そこへ幸いやっていたのが美濃の国郷士の所郁太郎で、大阪の緒方洪庵の塾で外科手術の助手をしたことがある。
「よし。拙者が療治しよう」と刀の下緒を取って襷掛け。焼酎を薄く溶いて傷口を洗いながら端から縫いだした。
縫った針は畳針。五十幾針縫ったところで夜が明けた。

縫った所郁太郎は名医でもなんでもなく、助手をしたことがある程度だし、畳針と焼酎。
見舞いに来たものは、井上との今生の別れをして帰ってゆく。

「おお聞多。しっかりせい。敵は誰だ。何人いたか?」と兄に尋ねられても声がでない。
瀕死の重傷で意識も絶え絶えの中で、手真似で「介錯をしてくれ」。兄は涙ながらにうなずき、どうせ助からない弟の命。それなら一思いに死なせてやるのがせめてもの慈悲だ・・・と兄は刀を抜いた。

そこへ母のお勝が現れた。


「お前は何をしているのか?」答えない兄・・・「お前・・全体何をしているのか?」

刀の柄に手をかけ恐ろしい表情の兄は「聞多の苦しそうなこの様を見ましては、兄の情として、耐え難くいっそ一思いに刺し殺そうかと思いまして・・・」と答えた。

母は「私の眼の黒いうちは例えどんなことがあってもそういうことはさせませぬ。聞多は私の倅じゃ。天命がきて死ぬのなら拠所ないが現在の兄が手を掛けようとは何事か」と兄を叱った。
必ず、私の一心で助けて見せると、必死の母の看病で三日目には「水をくれろ」と言えるようになりなんとか一命をとりとめた。


全文を読んだことはないが、今年の4月に入手した原本となっている伊藤痴遊全集第7巻の<袖付橋の闇討ち>と<気丈な母の介抱>の部分にあたると思われる。

また、このエピソードは講談となっており、11月11日(日)に大阪の泰聖寺で行われる旭堂南左衛門一門会で旭南湖さんが「井上馨の袖付け橋の危難」を演じられます。

幕末大好きな方は是非お越しくださいませ。

http://www.chonmage.tv/schedule.htm

2012 11/18 孝明天皇

前回の朝日カルチャーの一坂太郎先生の講義を聴いて【孝明天皇様】に非常に興味を持った。

で・・色々と探してみて左の書籍を入手!

昭和49年秋田書店発刊(初版)
福地重孝著 孝明天皇





講座でもたびた取り上げられる公家諸法度。その法度以外にも天皇の大権があり、それは改元。
孝明天皇の時代には弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応と7回も改元があった。これはさまざまな天変地異や縁起直し的な意味合いが原因で、非常に大変な時代であったことがうかがえる。

人しらず我が身一に思ひ尽くす 心の雲の晴るるをぞ待つ (慶応元年)

日本国内がドタバタしていた時代に詠まれました。。。その苦悩のお心が偲ばれます。


異人と共ども払へ神かぜや 正しからずとわか忌ものを(文久2年9月11日)


徹底した攘夷思想であったが政権奪回の気持ちは毛頭無く、純粋に日本を愛しておられた方なのでしょう。

その純粋さゆえに型破りと思われたのかもしれません。

なかでもアメリカとの条約締結に関する勅を入手するために上京した堀田正睦の悪戦苦闘からさまざまな駆け引きが繰り広げられ、ついに幕府の旗色が良くなってきて、まさに自分の意図しない勅裁案が出されようとしていた時に、下級公家を動かして八十八人の公家が九条関白の家へ集結!そして情勢をひっくり返させている。実に爽快。

熟読するにつれて新たな、孝明天皇様の色んな面が読み取れるかもしれません。

2012 10/16  四天王寺わつか市

地元に住んでいるのに、こんな市が開催されているなんて
本当に気が付きませんでした。

心が豊かになるステキなモノやコト。
体や体にやさしいいろんな雑貨や食べ物が
四天王寺の境内にやってきます。

◆開催日
11月4日(以降毎月第一日曜日※10月・1月を除く)
◆場所
四天王寺さん境内
◆日時
9:00~15:00
◆オフィシャルサイト
http://blog.goo.ne.jp/jinenichi




私の大好きなおみかんのお店もやってきます。

極限までに農薬を減らした自然に近いおみかんのお店が
三重県御浜から参加することになりました。
もう嬉しくし、すごく楽しみです!

みかん大好きな方は見逃せないですよー!

2012/10/14 みかんの中のみかん




10年ぶりの電話でした。

それは私が趣味の延長から某劇団の音楽効果を担当させていただいていた頃のおご縁で知り合った方が今、三重県の御浜でみかん農家をされているとのこと。


左のお写真は【宇口農園】さんのみかん畑。






みかん大好きな私がみかん農家のオーナーさんとご縁ができてこれほど嬉しいことはない(^_^)
数日でひと箱を食べてしまう私にとって最大のプレゼント!


で、さっそく5kgを送っていただいたところ、みかん箱に仕切がはいっていました。

片方は、収穫してすぐのみかん、そして片方はすこし間をおいて味が安定したみかんで食べ比べができるようにしてくださいました。

収穫したてのみかんは、若々しいフレッシュでほのかな酸味のある味、時間をおいた方は甘みたっぷりのおいしーいみかんです。






 



大切に愛情をこめて育てられたみかんは

丁寧に・・・丁寧に・・・収穫されます。

真剣なまなざしが印象的デス!





なんとか大阪でも販売をして欲しくて路上販売をさせてくださる所や、販売をして下さるお店を募集しています。

ガレージの前やスーパーの前、またフリーマーケットや各種イベントでいかがですか?
ご興味のある方はぜひお気軽にメールにてお知らせください。

お問合せ先

2012 10/7 第5回 イーグル寄席 

第5回 イーグル寄席が開催されました。
お天気が良すぎて、客入りが・・あ~もったいない。。

笑福亭 喬介 「池田の牛ほめ」

ちょっと気になった箇所があったので久しぶりに書籍をひも解いてみた。
元禄11年の初音草噺大鏡が原点。
秋葉さんのお札とは、静岡県西部の秋葉山にある秋葉神社だとのこと。
(前田勇著 上方落語の歴史)

喬介さんの朗らかな印象はすっごい個性的でステキです^^


笑福亭 仁嬌 「三十石」

桂 枝女太 「はてなの茶碗」

旭堂 南左衛門 「怪談お紺殺し」

はじめて聞いた講談話。 紀州田辺のお大臣と言われるまで上り詰めたが・・その過去が。。。 まぢで怖かったです( ;∀;)

2012 10/6 四天王寺秋季大学

 
 
今年も参加させていただくことができました。ホントにありがたいことです。
 

 
開講挨拶 :総本山四天王寺 執事長 森田 俊朗(もりた しゅんろう)
色んな事柄に興味をもって過ごすということを色んな事例をもちいてご紹介いただけました。


清盛のめざしたもの
神戸大学 名誉教授 髙橋 昌明(たかはし まさあき)先生
NHK大河ドラマの時代考証を2年以上行われている高橋先生。このドラマの視聴率のお話から、高橋先生が描かれた平清盛の人間像を分析。
清盛は戦前は諸悪の根源のような認知をされており、それは摂関家、王権、王法、仏法への悪行が原因と考えられている。これが、戦後は【新平家物語】のHITにより戦後の民主主義を背景に人物像が変化してきた。
清盛は何を目指して福原遷都をおこなったのかを考察されました。


勢観房源智の悲願 -法然追慕の念仏勧進
総本山知恩院門跡 浄土門主 伊藤 唯眞(いとう ゆいしん)猊下
信楽にある玉桂寺の地蔵堂よりより三尺の阿弥陀如来像が発見されたのは昭和47年のこと。
この胎内より法然上人の愛弟子である源智の書いたとおもわれる古文書が見つかった。しかも47000人の名前も書かれていおるたくさんの紙が一緒に保存されていた。
胎内は漆塗り+金箔・・・。この古文書は何をさしているのか。

正倉院の宝物とその歴史
宮内庁正倉院事務所長 杉本 一樹(すぎもと かずき)先生
正倉とは?院とは?また宝物とは何を指すのか?
宝物を由緒や用途、技法、材質や時間的に分類してスライドをもちいて紹介いただきました。
また今回の正倉院展の出品予定の宝物やをご紹介いただきました。