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2012/08/18

2012 8/19 歴史と人間 ~幕末維新編

今日の講座の人物は徳川斉昭さん。一言でいえば幕末の政界を引っ掻き回したとっても癖の強い方。
事なかれ主義では無い、はっきりした持論を持っておられることから、評価が両極端な人物です。

幕府の政治は普段大名が行うわけで、水戸、尾張、紀州のいわゆる御三家は親戚筋であるだけで政治には関与していない。
また、紀州と尾張は大納言に昇格できるが水戸は中納言止まり。そのかわり参勤交代をしなくても構わないという定府(じょうふ)という制度があった。そのため藩主でもずっと水戸に帰ることがない藩主もいた。

もともと水戸は今の茨城県。関ヶ原の戦いの際は佐竹義信だが、家康によって出羽(秋田県)へ国替えさせられてしまう。そして家康の11子の頼房(28万石)が継ぎ次が有名な光圀さん(35万石)となる。ちなみにテレビでは「こちらに居られるのは副将軍 水戸光圀であるぞ!」という副将軍という肩書は存在せず、ずっと江戸にいる藩主ということを世間が揶揄したフレーズ。

この水戸藩は寄せ集めの家臣団で構成されていたために次第に能力主義が発達。中でも光圀さんが編纂した「大日本史」(彰考館:水戸の下屋敷として江戸にあった駒込→小石川にある後楽園に移る)の継続して行うことで学者が政治を担当することとなってゆく。
この大日本史のTOPである総裁は選挙できっめられていたらしいからびっくり!
有名な総裁は藤田幽谷(藤田東湖の息子)は水戸の古着屋の倅なわけで能力主義な藩だった。

さて、斉昭さんは1800年(寛政12年)生まれ。7代目藩主の治紀(はるとし)の3子として生まれる
3歳上の兄の斉脩(なりのぶ)が8代目を継ぐが30歳になっても子供ができず、もともと病弱であったことから死去。そこで継嗣問題が勃発!彼の奥さんは第11代将軍・徳川家斉の七女・峰姫(第12代将軍・徳川家慶の異母妹で、14代将軍・徳川家茂の父徳川斉順の同母姉)。家斉の第22子である徳川恒之丞を養子にさせ水戸との関係を深めたいと願う保守派に対し、藤田幽谷らは血筋を重視した斉昭を押すことで革新派となって対立を府深めることになる。
ところが、なんと斉脩さんお遺書が出てきてそこにはなんと家斉さんを藩主にするように書かれていた!あまりに出来すぎなお話!!ついに斉昭が藩主となった。

天保元年正月、いきなり2条のお触がでる。そこには「文武は武士の大道」「下意上達」の趣旨が。下級武士でも遠慮なく伝えてきてもOK!という改革の意気込みが感じられる。
斉昭さんは嫉妬倹約を進め、自ら綿素材の衣服を着用。
御賄方(おんまかないがた)という役職の賄という字は賄賂の字だからということで御台所(おんだいどころ)に改名。正月には松飾や琴の演奏を禁止、お雛様飾りはお内裏様のみOKという徹底ぶり。

また質素倹約だけではなく武備の充実を推進。太平洋に面していることから外国船を目にする機会が多く、海防掛(かいぼうかかり)を設けた。大砲や火薬の製造をおこない、海岸への移住を推進。そのTOPには山野辺義観(やまのべぎかん)を登用。また農民を訓練し兵化をおこなっている。
さらに年1回、追鳥狩(おっとりがり)という大演習をおこない、これは2万人以上規模であった。
1842年に偕楽園をつくり梅の名所となる。また斉昭さんは毀鐘鋳砲の令を出して僧侶よりおもいっきり反発を受ける。これは仏像や鐘を大砲に作り替える!という令で、彼は実はインドよろ伝来した仏教は大嫌いであり神道を推進していた背景がある。
1842年には藩校である弘道館を建設。この趣旨書の中に『尊王攘夷』という言葉が初めてでてきている。気を付けなくてはならないのは意味が違い、あくまでも王であり皇ではないことに注意!
すなわち神を奉り中国の教え(儒教)を学ぶことを趣旨としていることから水戸学の基礎となっている。

財政改革では斉昭さんは幕府に対して天保5年あたりより「北海道開拓」を幕府へ願い出ている。
北海道はもともと松前藩の管理であったがロシアの脅威から松前藩は国替えをし本州へ戻ってきた経緯がある。そして北海道は幕府の直轄となっが松前藩の申し入れにより復帰したらしい。その事例を取り、痛烈な皮肉の手紙を幕府へ送っている。
「松前藩で北海道運営がdきるんだったら幕府は取り上げていない、松前藩はとんでもない藩で非力だからロシアがやってくたんだ!結局松前に反してしまったんだからとても残念だ」とのこと。

藩の財政がひっ迫すると定府を廃止し殖産興業を推進するが学者ばかりでノウハウが無く、うまくいかない。検地を行うとともに神社を優遇し社寺の多くを廃止させている。もちろん仏教徒が反発!ここに目を付けたのが前述の門閥保守派。幕府へ訴えかけ即座に幕府からの取り調べが始まり、改革が挫折することになる。
結果、斉昭さんは江戸の駒込下屋敷に幽閉させられ、慶篤(13歳)が11代藩主となる。
もちろん政治への関与はNGということだが、実はこの時に幕府の老中の安倍正弘と親密に手紙のやり取りをおこなってる。新伊勢物語という書籍になっているらしい。
政治への不満から自分の奥さん側のパイプをつかって孝明天皇へ海防や外国人に対するさまざまな意識を植え付けその結果幕府は例のドタバタ騒ぎへ発展。
安倍は斉昭へ「海防参与」という役職を与えたことからすぐさま斉昭は「海防寓存」を提出。結果品川に台場を建造することになる。
その趣旨は「戦は難しい、和はやさしい。戦の覚悟で和になること」を推進した。その方策は長崎での石炭供給はOK、また3年に限り外地で貿易のテストを行うという内容。ところが井伊直助さんにより条約が締結されたことをうけけ翌日には海防参与を辞退。いわゆる政局の野党となった。
その結果半年後には軍政参与になり現在の日の丸をシンボルにすることを提言、だんだんエスカレートして安政4年11/15には渡米の意見書を幕府へ提出。
う~ん・・・困った方で、幕府も相手をしなくなっていき悪循環へ。1860年61歳で水戸城にて心臓発作で亡くなるという生涯でした。

この時代は何が正しいのかなんてわからない時代。自分の意見をちゃんと持っていた斉昭さんってすごい人物だったことは間違いないでしょう^^