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2012/07/21

2012 7/21  歴史と人間 第一回目「阿部正弘」

3か月ぶりの朝日カルチャーセンターです。今回より新しい講座が始まります。もちろん講師は一坂太郎先生^^

第一回目は阿部正弘。

1710年に福山藩藩主で10万石。若くして老中首座。
幕末の動乱に幕府の難しいかじ取りを行い、その心労が祟り若くして亡くなられた方。
この時期のさまざまな政策は幕府の首を自ら絞めることとなる内容であったが当時はだれもが
それぞれの政策を正しいと信じた結果なのでしょう。

幕府を運営していたのは譜代大名らであり、いわゆる親戚筋の御三家ではない。
老中は政府であり、首座は内閣総理大臣。臨時職として据えられた大老というのもある。

さて正弘は文政2年(1819年)10/16生まれ。
正精(まさきよ:当時の現役の藩主)6男4女の6番目の男として誕生。
1826年に3男の正寧(まさやす)が藩主を継ぐも病弱で子供ができなかったことから正弘が養子となって迎えられ藩主となる。

ちょうどこのころはロシアや英国が出没~海防を重視した政策がとられた時期。またシーボルトがオランダ人としてやってきた時期でもある。

正精氏は中々の風流人で、自らオランダ語を学び、西洋画をたしなんだ。
江戸に福山藩のための学問所を建てた。

1837年には藩主として福山藩へ帰国するも2か月後にはすぐに江戸へ戻ることになった正弘。
1840年に奏者番(そうじゃばん)を命ぜられる。

正弘の特筆すべきは、福山藩の文武振興につくし、「弘道館」を創立。
いままでの3回/月の勉強だけではなくここでは西洋式の兵学を教える場所となっただけではなく
8歳で入学。10歳~15歳までは文武研修。15歳になると存知込(得意分野を伸ばす教育)、17歳になると試験がりその成績は初段、中段、上段としてその出仕に影響した。

1840年には寺社奉行となりこのときに事件が起こる。
法華経寺の獄を裁決!~これは僧侶の日啓が側室の「みよの方」を大奥へ差出し裏で糸を引き、
若宮八幡かんのう寺、を建てさせたり、また日啓が女犯(めはん)を行ったことを取り上げ遠島とした。大奥が絡むので強行な対応は控えられた。。

1843年には老中となるが当時は人材不足。
1845年には老中首座へ。

このころ福山藩では、鹿狩りという名目で野外演習が行われ練兵訓練が行われている。
というのは、オランダのウイリアム2世が幕府に親書を送りアヘン事件のことを教えているが
正弘は「通称はオランダ・中国と、通信は琉球・朝鮮とおこなっており、これが祖法!」と返事をしている。言い換えれば、余計なおせわ!ってこと。


さてここに次回のキーマン「徳川斉昭」が登場する。
彼の奥さんは皇族であり、強烈な攘夷思想をもっている。そんな彼にオランダ国王の新書を見せることで、天保の改革で中止となった異国船打ち払い令の復活の話が持ち上がってしまう。

時代は1845年、海防掛(かいぼうかかり)が設けられ翌年には琉球にフランスがやってきた。
正弘は琉球とフランスの通商を認めたが、国内に入れるのは薩摩がくいとめよ!という判断を行う。

斉昭は打ち払いを進言するが取り入れられないことから、孝明天皇へ列国はアジア侵略が目的であることを強烈に吹き込むことに!こうして孝明天皇の異国嫌いが強くなっていき、ついに異例でもある勅使が下りることに。「外国船をなんとかして、天皇を安心させろ!」とのこと!

1852年6月には、オランダ商館より長崎奉行を経て手紙が届く。ここにはアメリカより軍艦がやってくることが書かれてあるがこれは脅しの手紙であるという判断で、海防を強化しようとしても予算がないということで却下・・・。
正弘はだんだん孤立していくことになる。。。そこでこの情報を島津斉昭や鍋島かんそうらへ話してしまう。この事実が表面化しさらに正弘の立場は不利となってゆく。

そして1853年、ペリーの登場。
その対応に苦慮し、結局徳川斉昭へ相談すると「みんなに意見を求めよ」とのこと。そこで幕府、外様、普請などみんなに意見を求めることとなる。
良い意見はなかったものの、勝海舟さんの意見がキラリと光る。

~この間 割愛 ~

いろんな出来事がつぎつぎとおこることで安政2年首座を堀田まさむねへゆずり自分はNo2へ。
39歳の若さで亡くなってしまう。胸痛ということを頻繁にいったそうだが西洋の薬は絶対に飲まなかったらしい。


阿部正弘の素晴らしい点はさまざま。難しい時代を切り盛りした優秀な人材であったことは間違いない!