フランス風懐石料理中華風: 2012

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2012 12/31 年末に寄せて

今年のように色々と出来事があった一年は初めてでした。

昨年秋の大手術の経過が思わしくない事から5月に再手術。
そして15年間勤めた会社を退職。そして新たな会社へ就職。
極めつけは7月に信号待ち時にノンブレーキで普通乗用車に追突されました。
昨年4月には信号待ち時にタクシーに追突事故を受け、今回ばかりは間違いなく死んだ・・と思いましたが奇跡的に外傷はゼロ!

本当にありがたいことです。

そして新しい会社に入って一番に感じたことはその社風。
色々と書くと弊害がありますが、【努力する者、夢語り、怠る者は愚痴語る】
そして【諦めた者は何も語らない】。

 私はどのタイプになるのでしょうか。

社会人である以上、労働は必要ですが私に期待されていることと私が期待することがマッチしているかどうかは今の段階では疑問です。

これが愚痴になるのであれば私は怠る者ということになりますね(笑)

色んな出来事があっただけに、来年は平穏無事が一番!
穏やかな心で健やかに暮らしたいものです。

2012/12/25 何を言うやらミカンやら

朝5時からいつも[子守康範 朝からてんコモリ!]を聞いています。

その中で話題になっていた[何を言うやらミカンやら]がネタになっていました。私はずっと原田のぶろうさんのギャグだと信じ込んでいましたがどうやらもっと昔の事らしい。

で、語源は1922(大正12年)/04に出版された[如意宝珠巳 春野の旅] の中に出てくるそうで、作者は出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう)さん。この方は宗教「大本(おおもと)」の教祖とのこと。

 WIKIでその生涯を読んでみたがとでも興味があります!いくつか書籍を調べてみたいと思います。

夏彦『モシモシお爺さま、此奴ア、由良の湊の秋山彦の門番をして居つた男です。偉さうに口ばつかり開くのですよ。朝から晩まで門を開くのが商売だから、その惰力が未だに残つて居つて、大門のやうな大けな口を開きよるのだ。相手になりなさるな。この男の云ふ位な事は、私だつて、年の功は豆の粉だ、豆の粉は黄な粉だ、黄な粉はヤツパリ豆の粉だ。猪喰た犬は、犬のどこやらに勝れた所が有りますワイ。私が教へてあげませう』

加米彦『コレコレお爺さま、此奴はなア、ウラナイ教の黒姫と云ふ、口ばつかり達者な奴に十年間も朝から晩まで、法螺を仕込まれて来た奴だから、何を言ふやら、蜜柑やら、金柑桝で量るやら、なにも分つた代物ぢやありませぬワイ』


爺『最前からこの老爺が一生懸命に頼みて居るのに、お前さま達は、この老人を飜弄するのかい、エーエやつぱり英子姫さまのおつしやつた偉いお方は、この御連中ぢや有るまい。アーア阿呆らしい、コンナ事ならこの重い足を、老人が引摺つて来るのぢやなかつたのに……』

 参照)

2012/12/23 講談祭

会場へは13時すぎに到着。母に先に会場入りしていただいて私は車を置きに大国町の駐車場へ。
で13時半に会場に着いたら驚きました!
えぇぇ?会場がいっぱい!お客様がどんどん。。。。何があったの?
ついに講談の時代がきたか!って思いました。


旭堂南舟 松浦壱岐守
赤穂浪士の討ち入りには四十七士に関する本伝、それぞれの個人のお話の銘々伝、
そして討ち入りに関係した方々のお話の外伝があるとのこと。

さて、この松浦(まつら)壱岐守のお話は外伝。お話のイメージからすると
赤ら顔のエラそうにしている松浦壱岐守。寒い日には生き炬燵と称して女性を先にお布団へ入れて温まるのを待つ・・そんな感じの方らしい。
山鹿流の陣太鼓が聞えてきた、慌てて様子を探りに行かせた松浦は・・・。

旭堂南青 赤垣源蔵 徳利の別れ
今日の講談祭は今までにない客入り!
座椅子席と長椅子席の間にスペースをつくり座椅子を増やすために後ろに下がっていただきました。
今まで前に詰めていただくために「お膝送り」というのは経験がありますが[お膝下がり]というのは
初めて!ありがたいことです。

討ち入りの前夜、兄の元へ別れの挨拶に来赤垣源蔵。ところが残念ながら会うことが出来ず、また姉も体調不良とかで会えなかった。
お手伝いの女中が応対をするが・・・。

そのしっとりとしたお話に客席のいろんなところから「グスッ・・・」もちろん私も・・。

客席参加型対談「討ち入りの嘘と誠」
司会は南舟さん。メインは南北さん、南左衛門さん。
一番気になるのは、なぜ浅野内匠頭は吉良さんを襲ったのか。
いろんな説があるがまずは、賄賂説。これは吉良さんからすると当然の事で作法を教える授業料のような物。
ところがいろんな事実検証がされて賄賂説ではないという結果に。
次に出たのは男色説。浅野内匠頭さんには日比谷右近というお小姓さんがいて、日比谷右近を吉良さんが見初めたという説。
ところが浅野さんはNO!でも時の大老の堀田正俊さんから同じ話がでた際にはすんなりOK!うほっ!って感じで逆切れしたのか。
で、次の説は塩の製法説。当時の塩は赤茶けたものだったそうだが赤穂だけは当時から白!吉良さんのご当地も塩を製造していて
この製法を知りたくて・・てな感じで刃傷沙汰になったのか。。真実は今となっては不明。。

旭堂南青さんが話された赤垣源蔵のお話ですが実は赤垣源蔵は赤埴(あかばね) 重賢(しげたか)。本当は下戸で兄はいないらしい(;´Д`)
お芝居や講談では大酒呑みということになってはいるが真っ赤なウソ!えぇぇ!

旭堂南左衛門 三村の薪割り
赤穂の浪士たちは情報収集にために身分や身なりを変えて町にでた。
ところが三村次郎左衛門は武士の姿のままでできることを考えた結果、変わった商売の薪割屋を始めた。
そこで知り合ったのが刀研ぎ屋主人の竹屋喜平次。
大の仲良しとなった二人は友情を温める。
そしていよいよ討ち入りが決まった・・・・・。



旭堂南北 夜もすがら検校(けんぎょう)

玄城検校(げんじょうけんぎょう)は琵琶の名人で、平家のお話を語らせたら一晩中でも語るという。そこで「夜もすがら検校」という名前が付いた。

彼は盲目の為に信頼できる付き人を一緒であったが、江戸からの帰りしなにトラブルが起こる。なんと付き人が色と欲に目がくらみ検校を中山道の雪深い山の中に・・・。
この冬の日にぴったりの臨場感あふれる口調でお話くださいました。

今日の講談祭の一日は講談の魅力をしみじみと感じた一日になりました。

講談ってドキドキしたりハラハラしたり。頭の中にいろんな人物がでてきて語りかけ、泣いたり笑ったり。。張扇の音一つで場所も時代も一っ跳びの素晴らしい芸能だとおもいました。願わくば、もっともぉぉっと講談がメジャーになりますように。

2012 12/16 笑好寄席

笑好寄席は今回で4回目の参加となります。
前回の事があってか、いつもよりも2か月ほどずれこんだ笑好寄席。
冒頭に席主の桂 文三さんのご挨拶があり、その意気込みと想いが はっきりと伝わってきました!
桂 文三さん!本当にありがとうございました。

笑福亭 生寿 狸の鯉
生寿さんの【狸の鯉】は今回で3回目となります。
最近、すこしふっくらとされてきた生寿さん、すごく所作、仕草がきっちりとされており
あきらかに上達されたなーってあらためて感心しました。
竹林さんとなかなか会えない生寿さんのお言葉!
しらべてみますと2009年に坊枝さんが 天王寺参りをされた回のようですねー。

林家 染弥 天災
無難にきっちりとこなされた染弥さん!
最後にハプニングが!! あぁぁぁ・・・・金屏風がwww
それにしてもお怪我をされなくて本当に良かったです。

桂 南天 壺算
藤井寺でなし、八尾でなし・・柏原市。。
たしかに南天さんの地元の枚方でなし・・寝屋川でなし・・四条畷と
街の雰囲気が似ていますねー。
また大阪人の言葉を切り口に笑いを巻き起こしてそのままネタに突入です。
  坪算では、壺が割れた経緯はバッサリ省略!
その代わりに番頭さんとの掛け合いが絶妙で
ゆにや黒兵衛さん、船場の料亭の比喩がおもしろかったです。
そのほか色んな所に南天さん独自のくすぐりが満載!
納得の面白さでした!

桂 雀喜 初天神
私にとって初天神は超思い出のネタ。 そ
れだけに聞けるのはありがたい。
でもおもいっきり1月の話なのでちょっとだけ えっ?てなりました。
こしゃまくれた寅ちゃんとおやじの掛け合いが面白く楽しめました。

桂 文三 はてなの茶碗
意表をつくマクラでなにか得した気分に!
【子の千三百六十五番!】の話で開場は 大爆笑!
茶道具屋金兵衛さんの貫録や威厳も申し分なく、また京の言葉と大阪言葉の対比も
見事で、はてなの茶碗の世界にスッと入ることが出来ました。
本当に無事に復活して良かったですね!
こんな素敵な寄席!来年からもずっっっ~と続きますように。

2012 12/15 歴史と人間 ~井伊直弼

昨日の金曜の夜に勤務先の忘年会があり、深夜に帰宅。
そのまま倒れこんで眠ったようで朝起きたら、大変な状態でしたww
食欲のなく、胃のむかつきと戦いながらも朝風呂。。それでも頭が痛くって。これはもう何年も経験していない二日酔いって症状。。朝食も昼食も食べることができないままにお勉強に向かいました。
今日はこのお勉強の後は年末恒例の一坂太郎先生教室の忘年会(・_・;)どうなることやらって不安いっぱいでしたww。


さて、井伊直弼は第11代藩主・井伊直中(なおたか)とお富の方との間に十四男として1815年(文化12年)に生まれる。不思議な縁で、安政の大獄で処刑した梅田雲浜氏とまったく同じ誕生日。
幼名は鉄之助。
直亮(なおあき)がすでに藩主を継いでいた。(3男)次いで直元(11男)がいる。。
当時は藩主を継ぐことができなかった次男坊以下は大変で、養子として入ることができなかった場合は一生を不遇で終わってしまう。この彦根藩では300俵で部屋住みとのこと。
これはなんとかかつかつで暮らしてゆけるギリギリな水準。

1834年には弟と養子の面接に行ったがNG・・・しかも弟が養子に入ったとか。。

埋木舎(うもれぎのや)で長野主膳に国学を学び、また居合や槍術、禅や和歌を学ぶ。特に茶道では有名で石州流。いくつもの書籍が存在している。
学んだ山鹿流兵法は日本を絶賛、しかも幕府は絶対的な権力であることを肯定する学問。武士としての道徳を説く。
また、国学の研究では長野主膳義言(よしとき)との出会ったことが大きなターニングポイント。
長野主膳は実は出身地等の情報は無いことから不明で同い年。
1842年(28歳)で主従の礼を結ぶ。

儒学は外道であり所詮中国の教え。山鹿は国学であり神道。幕府への忠義は天皇への忠義に通じるというおもいっきり保守的な学問の山鹿流。
ちなみに赤穂浪士の仇討は山鹿流ではNG!幕府の許可があればOKだが忠臣蔵事件はだめ。

1846年 世子 直元 死去⇒直弼(32才)⇒江戸へ向いはじめて将軍にお目見え。
1850年 直亮 死去⇒そしてついに直弼が藩主になった。
すぐに主膳を召し抱え、井伊家の勤王ぶりを調査させた。
直弼は天皇大好き!好みの刀をプレゼント。また御所の火事のあとは焼けた本を探し出して進呈。すっかり天皇は直弼を信頼しきっていた。
地理的なことがあり、彦根は京都の膝元。なにかあれば駆けつける藩。

さて、いよいよ時代が動き出す。

黒船がやってきたらすぐに江戸からお呼び出し!2000人で羽田・大森の警備を仰せつかる。

で・・意見書のくだり。。1853年/8/10の意見書では、キリスト教を国内に入れてはいけない。祖法があるので国を閉ざすことを説く。ところが8/29の意見書では交易を行い海軍の力をつけつことをといている。これって龍馬さんらが言ったようなことをすでに言っている。この不思議な意見書には訳がる。たまり場つめの新人の直弼さんはうるさ方を刺激しないように遠慮したのか。直弼の本音はもちろん8/29の方。ちなみにこの意見書は中川禄朗が書き、直弼が加筆して仕上げている。

徳川斉昭は、ペリーを打ち払え!直弼は迎え入れて穏便に!で対立してゆく。
品川の台場なんて無駄!兵隊が犬死するだけ!それよりも軍艦建造だ!の意見が本音。

そして3/3に日米和親条約を締結。

次にハリスが来日。

親交外交を自由貿易で進める旨の勅諚を求めるために堀田正睦を京都へ走らせるがもらえない。。1858年(安政5 44歳)4/22 大老に就任。
運悪く第二次アヘン戦争の情報が入り、アメリカの脅しに乗ってしまい6/19修好通商条約を締結。
保守派松平忠岡(上田の殿様)と直弼は勅諚をもらうかもらわないか・・もめてしまう。

そして直弼は5/12に家定の跡継ぎ問題についての話の際に、忠岡を罷免する工作をしてしまう。
これは公用型秘録(M18明治政府へ提出した資料に欠落していた情報)が発見されてはじめてわかった事実。

そしてついに、後継者は血筋のものから選ぶという勅許をGET!これはすなわち南紀派の家持を世子とすることを指す。 この勅許はなんと一ツ橋派に寝返った堀田正睦が隠ぺいしてしまう。

安政の大獄・・・そして桜田門外・・・。

井伊直弼さんは誰よりも尊王攘夷思想。。でもなかなか世に出ることがなく大変苦労され、時代の渦に翻弄された方だったのですね。


講座がおわると上映会です。

今日の映画は本当に珍しいお話。これは一坂先生のホームページに詳しく書かれていますので
そちらをご覧くださいませ。

研究室 ~ 『青年』の思い出 ~

原作:林房雄
脚本:杉山義法
場所:東京宝塚劇場
配役:
井上聞多:西郷輝彦
伊藤俊輔:あおい輝彦
高杉晋作:竹脇無我
プウラン:森繁久弥
毛利敬親:藤岡琢也


産経新聞の「わたしの失敗」という書籍の中の西郷r輝彦さんの項目に次のような文章があるようです。

昭和61年、東京宝塚劇場での舞台「青年」。その記憶は西郷輝彦の中に強烈に刻まれている。
森重久弥に指示してともに舞台を重ね、演じる者としての自覚も芽生えて来た頃のことだった。

 ~略
予想もしていなかったアドリブが森繁の口から飛び出した。
「きみの父親の名前は何という?」
頭の中が真っ白になるような”抜き打ち試験”だった。
観客を前にして物語の名前を止めるわけにはいかない。
あわてた西郷はとっさに自分の父親の名前を口にしてしまった。


「青年」の上映会が終わり一坂先生よりゲストの旭堂南左衛兵門様をご紹介いただきました。
この席で上方講談の解説や講談における人物名の変更等についてをお話くださいました。
また井上聞多の「袖付橋(袖解橋)の御難」に関する解説をいただき、一同そのまま
忘年会会場へと移動。

いつのまにか私の二日酔いも消えて、元気に美味しくビールをいただきました(笑)

2012 12/8-9 小浜旅行

この1年間はおそらく人生の大きな転機だったのでしょう。
交通事故に転職、そして大きな手術と盛りだくさん。
そこで今回は厄落とし企画として一族で1泊旅行へ行くことになりました。
で、候補地の決め手は長女の案!「カニもフグも食べられる場所」ということで
でググってみると速攻で福井県小浜に決定!

まさかとはおもうけれど・・雪道は走ったことが無い。。
1週間前に慌ててオーとバックスへタイヤチェーンを買いに行き

とりあえず1回だけ講習を受けて¥20,000でGET!
その後さすがにぶっつけ本番は危ないってことで
冷えこんだ夜半にもくもくと取り付けの練習をして1泊旅行に臨みました。


当日は朝8:30に出発。念入りに道路情報を確認しましたが今のところ問題なし!
ということでサクサクっと走り12時には小浜に到着!


お昼は若狭フィッシャーマンズワーフです。
好きなお寿司をわんさと抱え込んでの新鮮な握り寿司!
あ~ん!絶品!あまりのおいしさに写メを忘れました(;´∀`)


その後は御食国若狭おばま食文化館へ移動。
ここでまぁよく遊んだこと!
伝統工芸品をつくるコーナでは、めのう薄板模様付けとめのう磨きにチャレンジ!
私は、失敗がまず無いとおもわれるめのう磨きにチャレンジ!
まぁ30分だし。。。ところがこれが意外な展開に!

どうやら磨けば磨くほどに光沢が増すことがわかり、サンプルで展示されていためのうは
3日間磨いたらしい!ちょっち根性をだしてひたすら磨く!磨く!
紐をつけてもらって可愛いオレンジのめのうのペンダントが出来上がりました^^

15時になってチェックイン!
窓から見える日本海!
その向こうには雪景色の稜線が見えます。



早めにみんなで入浴してお待ちかねの夕食!
カニ鍋+フグ鍋の饗宴ですww。



茹でカニ、カニ鍋、カニのお刺身の横にてっさと湯引き、てっちりが並びます!
たぶんこんな光景は二度とみることはないかも!

で・・写真は?はい!ごめんなさい。わすれましたww


翌日も快晴!素晴らしい天候に恵まれて小浜観光。といっても小さな町のこと。。
先日の【幕末史】で習った【梅田雲浜】さんについての足跡をと調べると、さすが小浜の英雄。
雲浜地区というのがあって公民館やら学校やら。今は亡き小浜城跡あたりがその地区らしく雲浜さんの生家跡もありました。

写真は雲浜小学校の校門の中におられる梅田雲浜さんの像です。

また小浜城址では、石垣が残るのみ。
また堀もすべて埋め立てられ宅地化していました。









その後、フィッシャーマンズワーフの向かい側にある市場でいろいろとお買いもの!
干物や小鯛のささ漬をGET!これで思い残すことはないww。

無事全行程を終わり帰阪。

楽しかった小浜旅行も無事終了となりました。
福井県って意外と近くてびっくりです。暖かくなったらまた訪れてみたい県ですねー。

2012 12/6 凛と咲く花

和歌山県九度山にある旧萱野家(大石順教尼の記念館)の館長さんよりお知らせをいただきました。

それは大石順教尼の生涯を題材にした歌があるとの事!

さっとく調べてみますと、ありました!!

日本マーキュリーよりデビューされている歌手で寺脇暁子さんが歌う【凛と咲く花】。

2010年11月17日に発売されているようです!
ご興味のある方は詳しくは下記のURLよりご確認ください。
 






2012 12/2  わつか市




今回で参加2回目となるわつか市の為に、紀伊半島の反対側より前日の夕方に大阪に到着されました。

で、恒例のおミカン農園の方と一緒に前夜祭を開催!

今回は待ち合わせ場所は動物園前!ということはこれはやっぱ串カツしかないでしょうww

で夜の新世界にむっちゃ久しぶりに行きました^^
新世界よりデンジャラスな香りが無くなったかわりに、串カツ屋さんの健全な客引きのお兄さんがいっぱいです。
で、呑兵衛な私たち3人は2時間飲み放題のお店に突撃!いっぱい飲みました^^

 で・・串カツ屋さんにとっても気になるメニューが。。

ダチョウとワニ。。。。さては天王寺動物園が近いからか。。意味不明。。
で、もちろんオーダー!しなやかな歯ごたえで美味でした(笑)


翌日は9時の開店に間に合うように四天王寺さんへ。
もうすっかりお店が出来上がっておりました(;^ω^)

張り切って売りましょう!・・ところが・・急な寒波でお客様がすごく少なくて試食してくださらない。。

それでもがんばって15時の閉店まで声を出しつづけました!
まさか私が【ミカン売り】になるとはww

まぁ接客業は商売の基本だし。とても楽しい時間を過ごさせていただきました。
次回1月はわつか市はお休みなので2月3日(日)となります。

2012 11/27 九度山 中尾果樹園産 富有柿



和歌山県九度山町は私の心の故郷・・。

関ヶ原の戦いで西軍の武士、父の真田昌幸と息子の真田信繁(幸村)と孫の真田 幸昌が暮らした場所、そして再び心が燃え上がり大阪の陣へと立ち上がって行くその場所が真田庵。

 
明治38年6月に起こった堀江六人斬り事件・・唯一生き残った芸妓・妻吉さんは両手を切り落とされてしまった。
その妻吉さんはさまざまな障害を乗り越え大石順教尼となり障害を持つ方々の心の支えとなられました。その順教尼さんの縁の場所が九度山の萱野家

高野山の麓に位置し色んな歴史が紡ぎあげた町は、清流と山々が生み出す自然の恵みと、
九度山に住む方々の情熱が、それは見事な富有柿を生み出しました。
日本一の富有柿の産地の九度山が大好きです。

2012 11/25 第15回アシスト寄席

早いもので15回となりました。今年最後のアシスト寄席でした。
このアシスト寄席はネタおろしの会で、しかも毎回限定30人!会がおわった後はおいしいスイーツがついている超お得な会で、次回開催は2013年2月17日です。


笑福亭嬌太  色事根問
会を重ねるごとに噺家さんらしくなってきました。がんばってくださいね♪

笑福亭呂好 近日息子
久しぶりのネタ。テンポよくきかせてくださいました!

旭堂南左衛門 赤穂義士伝より武林唯七隆重
講談で初めて聞くお話だとどんなお話なのかどきどきです。まだまだ知らないお話がいっぱい!
浅野内匠頭の家臣の武林は忠実で信用あつい家臣だが、おっちょこちょい。
浅野本家へ行きお手植えのカキツバタの花をもらってくることを命じられるがなんと・・・。
しかも帰りしなに預かったカキツバタを。。。

笑福亭仁嬌 尻餅
年末を迎えた貧乏長屋。近所のミエでお餅つきを偽装するお話。お餅つきのシーンでは会場から拍手が!

 
桂 枝太女 動乱の幸助
出囃子の不調で仁嬌さんからつっこみの声がww。
稽古屋、義太夫の話しをマクラに本題に入りました。

2012 11/18 秋桜講釈会




コスモスシアターホームページより引用。
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江戸時代から明治にかけて全盛を誇った講談(講釈)。
時代を反映した最もタイムリーな出来事を、威勢のいい張り扇の音と共に、
独特の調子で読み上げる、講釈師達の話芸は人々の心を鷲掴みにしていました。
しかし、時代のうつろいと共にいつのまにか講談を聞く為の場「釈場」が姿を消し、
今では定席の釈場は皆無に等しいまでに・・・。
コスモスシアターでは、この後生に伝え続けなければならない伝統の灯火を消さないよう、
「釈場」の復権を目指し、活動は今年で3年目になります。
http://www.cosmostheater.or.jp/stage/shakuba/
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前説ということで南青さん、南舟さんのお二人が登場!
出前釈場をきっかけとして来られたは残念ながらゼロ。。
ラジオ岸和田がきっかけの方はおひとりとの事。
南舟さんより巧みに言葉を引き出そうとする南青さん!
やっぱ見事です^^

旭堂 南斗 山内一豊とその妻千代
だいぶこなれた感がある南斗さんの講談。
もっともっと面白く!感動的に!スリリングになるように頑張ってくださいね。

旭堂 南青 太閤記・木村の麻風呂敷
講談のお話を書いてしまうとネタバレになるのでぼかして書いてみます。
加藤清正の家来で木村又蔵のお話。病の母を救うためにはお金が必要・・どうやってお金を
手に入れるか・・・加藤清正との出会い・・姉川の戦いに行こうとするがお金がない!
武具一式は手に入ったのか・・・・姉川の戦いに行けたのか・・。
なんとテンポのよいお話なのか!私のお気に入りのお話です。

旭堂 南舟 難波戦記・真田大助の初陣
大助が幸村につかえる猛者を使ってどう戦うか。。。
16歳の若者と父との会話から500人でどうやって5500人と戦うかが見もののお話。


旭堂 南左衛門 赤穂義士外伝・天野屋利兵衛
講談ってやっぱすごい!
目の前で天野屋利兵衛を取り調べる松井河内守の姿が浮かんで見えました。
職務上で辛く当たらねばならない大名の心と、人間味溢れる人柄を見事に描きだされていました。
また、大石内蔵助より見込まれて依頼された義侠心の強い利兵衛さんの苦しい心境も
絡まりあってゆくのが表現されていました。
責められている子供を目前にしてのあの絞り出すような言葉
「天野屋…利兵衛は…男でござる」
 もう涙が止まりませんでした。
あたかも、私の目前で繰り広げられているように映像が感じられました。
やっぱ言葉(ゼリフ)の持つ力と表情、イントネーションそして間・・・。やっぱ旭堂 南左衛門 さんってすごいです!

終演後に、PA席へ行き、今日のような名演はDVDやCDなどの音源にしたら?と問いかけましたが残念ながら著作権の関係でダメとのこと。
それならばユーストリームでも。。。本当にもったいないかぎりです。

2012 11/17 歴史と人間 人物編 梅田雲浜

一坂先生の冒頭のお話は田中眞紀子文部科学大臣が世間を賑わした大学の認可問題について。
大学を開講するために準備をしてきて最終的に認可をしてもらおうとしたが田中大臣の答えはNO!そんなニュースは記憶に新しく、私もこのNEWSを聞いて「え~!それはあかんやろ!」って言った覚えがあります。しかしながら現状は、大学を立ててから許可を取るという流れの認可は形骸化しているために素通りでOKが出ている・・これは天下り先の拡大という背景がある・・・。という

田中大臣のおかげでこの事実が表面化しさまざまな議論に発展することを私も心より望んでします。あ~・・私ももっと勉強をしておいたらよかったなぁ。。。お仕事が落ち着いたら大学に行きたいなって真剣に考えちゃってます。

さて、今日は梅田雲浜さん。
幕末の歴史が大好きなのに、実は梅田雲浜さんについては〔尊王攘夷思想の持ち主で、安政の大獄で井伊直助さんの弾圧により亡くなられた方〕また松陰先生大好きな私は[幕府の取り調べの時に梅田雲浜との関係を調べられた・・・]とか[松陰さんが尋ねて行ったくらいの思想家]ってくらいの知識でした。

 
梅田 雲浜は文化12年6/7生まれ。この日とまったく同じ日に生まれた方がいる。。それはなんと・・・井伊直助さん。。なんと歴史って皮肉なんでしょう。弾圧する側とされる側。。
矢部家(150石取り)の次男として生まれ源次郎。諱は定明(さだあきら)
よく一坂先生は武家の次男坊、三男坊は大変だと話されます。長男は家督を継ぐことで世に出ることがあるけれど次男以下は努力しないと嫁すらもらえず寄生しないと生きては行けない。。
雲浜の父も50歳で隠居し家督を長男に継いだ。
 
父は雲浜に『自分で食っていけるようになれ』と教育したためか、幼少のころからお利口さんの雲浜さん。
 
15歳で小浜から京都へでて二条堺町にある望楠軒(ぼうなんけん)という塾に入る。
この塾は崎門派(きもんは)で、これは儒教のながれを汲む朱子学+神道+仏教を組み合わせた日本的な学問。この望楠軒に通うためにアルバイトをしながら雲浜さんはがんばった!
 
翌年の1830年(天保元年)は江戸へ。この年に松陰先生が誕生されているので二人の年齢差は15歳。昌平坂学問所 山口菅山に学ぶ。
 
18歳でいったん帰国するもすぐさま京都へ。ここでは医者の書生となることで医学の知識も身に着ける
19歳から26才まで江戸へいきついに山口菅山門下生の第一人者となり梅田姓を名乗ることになる。当時は蛮社の獄の時代で、言論弾圧が行われており高野長英、渡辺崋山などが捕まった時代。
 
27才では熊本藩へ行き様式兵学を学ぶ。
そして再び京都へ。
 
当時の崎門派のTOPの上原甚太郎(立斎)の娘の信子が雲浜の妻となる
 
この後、大津で湖南塾を立ち上げ、生徒には奈良五条出身で天誅組に加わった乾十郎がいる。
 
1843年(天保14年)望楠軒の講首(校長先生)となり、木屋町二条に住むが生活は苦しい。
1850年(嘉永元年)には小浜藩主の酒井忠義(ただよし:京都所司代)に海防の意見書を提出。この内容は日本の海防は小浜が中心となって見本を示さねばならず、役人を非難・・ついには自分を責任者とせよという強烈な内容。
 
この年にはいろんなことが起こっており7月には京都所司代から溜場詰となり10月には高野長英が自殺。11月には井伊直助さんが彦根藩主に。
 
1852年(嘉永2年)意見書が藩政批判ととられてしまい小浜藩をクビになった雲浜さん。比叡山の麓にある 一乗寺村へ転居した。 貧しく・・苦しい暮らしが続きます。。
 
この時のエピソードが芝居に残っているそうで、客をもてなすためにお琴を演奏する事になった信子さん。ところが琴は質屋さんにあるために自分の着ていた着物を質にいれたため襦袢姿で隣の部屋で琴を演奏したあとまた質屋へ。。。
 
そして寺町四条下る 大雲院中の 原隆院 へまた引っ越し。
嘉永7年12月には吉田松陰さんと宮部 鼎蔵さんが長崎の帰りしなに立ち寄ってきた。
この時の印象を松陰先生は兄の梅太郎さんに、「事務に長けた人」として印象を残している。
 
安政元年1月には鳥山新三郎の家で松陰先生や藤田東湖さんらと再会。東湖さんは[奇男子]という印象を残している。また三上是庵さんは[カリスマ性があるがこれが世の中の禍になるかも]という印象をのこしている。
 
そして松陰さんの密航事件では、その志を高く評価し同情を寄せている。
 
 
もともと梅田雲浜さんは尊王主義であり京都の防衛にすごく不安を感じており、京都の防衛にたいする必要性を強く説いていた。その防衛を実現するために水戸藩に打診。
ここでは高橋多一郎さんや斎藤監物(桜田門外の変)、武田 耕雲斎(水戸天狗党党首)と会うが結果はNG!福井藩へも依頼するが相手にされない。。
 
このタイミングでなんと御所で出火・・誰かが守らねばならないと考えた末に、防衛の話を奈良県十津川へ持って行く。この結果、文久3年から明治維新直前まで2000人の郷士が御所の警備を行い毎年5000両をいただくことになった。
 
そして安政元年には大阪天保山沖にロシア船に乗ったプチャーチンがやってきた。
知らせを受けた雲浜はその心境を漢詩に残している。
 
妻臥病牀兒叫飢
挺身直欲拂戎夷
今朝死別與生別
唯有皇天后土知
 
妻は 病牀(びょうしょう)に 伏(ふ)し、兒(こ)は 飢(うえ)に 叫(な)く
身を挺して直ちに戎夷(じゅうい)を拂(はら)はんと欲(ほっ)す
今朝(こんちょう)死別と生別と唯(ただ)皇天(こうてん)后土(こうど)の知る有り
 
信子さんは労咳で、子供は貧困に苦しんでいた。。。
その家庭を振り切って大阪に向かった。。。。
 
しかし天保山についたときはすでに舟は下田へ・・そして日露和親条約を締結。
 
安政2年 3/2 信子さん死去。。4/26 信子さんの母も死去。。
 
その悲しさから抜け出すために肥後藩のまつだじょうすけの紹介で大和高田のチヨさんが後妻に入る。しかし7月には雲浜は腸チフス。同月子供も亡くなってしまう。
 
やはり信念も必要だが生きてゆくためには金が必要と悟ったのか。。
 
長州藩へ向かう雲浜。この藩は他の藩とは違い皇族を先祖に持っている。
坪井 九右衛門と面会しなんと物産の交易を提案する。
紙、蝋、塩を大阪へ持ってくる←→織物、茶、薬種、木材を長州へ持ってくることに決定!
また萩で尊敬と注目を浴びた雲浜さんは松下村塾の看板を書いたらしい。
 
京都へ帰る雲浜さんについてきたのは赤根 武人さん。また門弟となった月性さんは紀州藩へ海防を説きに行く。あまりの素晴らしさに雲浜に紀州藩士にならないかとオファが入るが断ってしまう。
 
この後、井伊直助さんの条約問題が勃発。皇族との付き合いのあった雲浜さんは色んな意見を出した。そして孝明天皇より戊午の密勅が入る。
事前に情報をキャッチした雲浜さんは、京都所司代に復権していた酒井忠義に所司代を辞めるように話したがNG!
そして安政の大獄が。。。。
梁川 星巌(やながわせいがん)と梅田雲浜が捕縛されたが梁川 星巌はコレラで亡くなる。
 
安政5年12/25に江戸で捕まり翌3/12に取り調べ。そして9/14には小倉藩邸で45歳で亡くなった。毒殺という話もある。
 
尊王攘夷思想を曲げることなく、清貧な生活を行うも貿易をビジネスモデルと定着させた雲浜さん。実は12月に小浜に行く予定があります。あ・・冬の味覚体験ツアーなんですけど。。
せっかくなので梅田雲浜さんの足跡を訪ねてこようと思います。

2012 11/13 バトンドール

大切な人へのおもてなしの気持ち ウェルカム スティック バトンドール


 
[バトンドールのサイト]


 先日リフレッシュオープンした阪急百貨店。まだまだ賑わいが続いているようで。

その中でも行列が絶えないバトンドールのうち2種を頂戴しちゃいました(´∀`)

さっそく、おいしい紅茶を入れありがたーく頂戴いたしました!

濃厚なのにしつこくない甘さ♪

おいしかったぁ^^




2012 11/11 泰聖寺講談会

久しぶりの泰聖寺講談会です。

その前に旭堂南左衛門さんと一緒に四天王寺さんにある中川万次郎さんのお墓にお参りにいってまいりました。
早く大石順教尼さんの生涯が講談になることを願っています。

で、またまた嬉しいお知らせが! 泰聖寺のご住職さんがご結婚されることに!
で、お相手の方は前からお世話になっているステキなお嬢さん(^-^)
ホントにおめでとうございます♪


前講:黄昏亭さくら/桃太郎伝説
さくらさんの地元の田原本に伝わるお話を元に講談にされたとのこと。 吉備津彦御子と、犬飼部、鳥飼部、猿飼部の活躍で温羅を首領とする鬼を退治するストーリー。 私の大好きな時代空想小説の「宇宙御子」、落語ネタの「桃太郎」にもなるくらいのポピュラーなテーマが田原本にも存在していたとはびっくりです。 岡山の伝承民話だけではなかったのですね!また私の興味が膨らんで行きそうです。

旭堂南斗/ 源義経と那須与一
だいぶこなれた感のある講談。

旭堂南舟/荒川熊蔵の大力
初めてのお話で難波戦記から大坂冬の陣の後に方々に山積している武具の中にとてつもなく重くて大きい楯が。。

旭堂南湖/井上馨の袖付け橋の危難
今日のお目当てのお話。
一坂先生と旭堂南左衛門さんの対談の際に話されていた時に初めて知った伊藤痴遊さんの「井上馨」の部を入手してからずっと聞きたいと願っていました!
毛利家と徳川家の確執の由来から、維新のあらかたの流れ、そして俗論派と正義派の対立を説明してから袖付橋の由来を語られました。
そしてスリリングに遭難…所郁太郎ん…兄…母のエピソードへ。 時代は明治となり後日談へ。 話に下地のある私に取ってすごく興味深い講談でした。

旭堂南左衛門/荻生徂徠の人情豆腐 忠臣蔵で思い出される松本幸四郎先生の舞台へ参加された時のエピソードをまくらに様々な出来事を語ってくださいました。

講談ってドキドキしたり笑ったり泣いたり・・・張扇一つでいろんな世界に移動できる素晴らしい芸能ですねー。



2012 11 /10 第6回 大収穫祭IN九度山

早いもので今年で6回目となりました大収穫祭。

回を重ねるごとに出店内容もイベントも充実し、それにつれて沢山のお客様が来られるようになっています。
業者まかせではなく、九度山町手作りのイベントでこの充実度は素晴らしいものです。
ステージの岡本町長さんの笑顔がとってもステキでした!(^^)!



会場では、前回の講談の際にお世話になりました九度山いこい茶屋の方々をはじめ企画公室、産業振興課の方々等たくさんの方々の笑顔を見ることができました。
また上田市副市長さんの石黒副市長さんもとっても気さくにお話しをしてくださり、とっても楽しい時間を過ごすことができました。

ありがとうございました!

2012 11/4 わつか市

昨日の午後10年ぶりの再開を祝して夜の街を二軒だけハシゴしてすでに深夜になってから、宿泊先のハプニングがあったものの、今朝は早朝より来てくださったお陰で無事に開店に間に合わせてくださいました♪

9時になると待ち合わせたように沢山のお客様が来てくださったお陰で大繁盛!
甘味と酸味のバランスが良く、濃厚な味わいの崎久保の木成り完熟みかんは試食してくださったお客様全員が高評価、
お客様の笑顔がとってもステキでした。

持ってきてくださったミカンのうち80%以上が売れたことですごい達成感に包まれた結果になりました。


私も十代の頃に対面物販をしていた事があり、当時に戻ったように久しぶりに最後まで販売をお手伝いさせていただきました。
その間、2kgくらいはミカンを食べたとおもう…
終わったら爪も指も黄色になってました(笑)

わつか市の関係者の皆様!ホントにありがとうございました。
お買い求めくださいましたお客様!ホントにありがとうございました。
お陰さまで遠路はるばる片道6時間の山道を軽トラでやって来てくださった農園の方に良い結果を出していただけて大満足な1日になりました。

次回は12月2日!また笑顔で皆様にお会いしたいとおもいます^^

2012 10/28 第一回 ゆの里講談会

前日開催されました秋桜出前釈場の会場となりました貝塚市の願泉寺さんより
移動し会場のゆの里へ到着したのは18時30分頃。


重岡社長さんや専務さんをはじめお世話になっています皆様方と楽しい会食でした。

そのお料理はどれもがすばらしく、完全無農薬の素材に、化学調味料を一切使わない味付け、そしてすべての料理の決め手がゆの里のお水とのこと。会社の素晴らしいポリシーと実際に具現化されているスタッフの皆様、そして板場の方々の努力に感激いたしました。

また会食中ではゆの里ができる時のさまざまなお話や、多数来館されているお客様の感謝のお声を教えていくださったのち、酔いもまわってくると抱腹絶倒大爆笑なお話が飛出してあっというまの4時間でした。

[ゆの里公式ホームページ]  http://spa-yunosato.com/


 
その後、宿泊先の「このの」へ移動し温泉を堪能させていただきました。

翌日はゆっくりとしたお時間の中で、美味しいお釜炊きのご飯を頂戴し、本番控室へ移動。
ちょうどお昼時が近づくにつれで多数のお客様がお見えになられると同時ににわかに厨房も
忙しさが増してきます。それでも素晴らしいチームワークで皆様がお客様のニーズにお応えになられる様子をみてこの館の人気の秘密がわかったような気がいたしました。

開演は13時からということで多数のお客様がお越しくださり会場はすぐに満杯!


 
皆様に上方講談をお楽しみいただけました。


旭堂南斗 「山之内一豊と妻千代」
旭堂南左衛門「竹の水仙」
旭堂南舟「秀吉の足軽時代」
旭堂南左衛門「九度山の真田幸村」

その後、大抽選会が行われ盛況のうちに無事に終演となりました。
無事公演を終わり素晴らしい温泉を堪能した後、大阪への帰路へつきました。



 

今回、色々と学ばせて頂いたことがあります。
最近いろんな出来事がある中で私の中でサービスについてを考える機会が非常におおいことから
また一度、考えを整理したのち文章化してみたいとおもいます。






ゆの里のスタッフの皆様!美味しい食材をつくってくださるファーム皆様!そして旭堂南左衛門一門をご贔屓にしてくださる皆様!本当にありがとうございました。心よりお礼申し上げます。
 
 
橋本新聞へ掲載されました。

2012 10/27  秋桜出前釈場 貝塚御坊 願泉寺

貝塚 願泉寺さんでの秋桜出前釈場とのこと、このイベントへは初参加な私です。
予定時間前に現地到着するとボランティアガイドさんとともに多数の方々が集まっておられます。

どうやら貝塚の寺内町を散策されている様子で、この願泉寺さんのご本堂にてご住職さんのご説明に熱心に耳を傾けておられました。

 この願泉寺さんはすごいご由緒があるお寺で、天正11年(1583年)7月に
石山本願寺から紀伊の鷺森御坊に撤退した顕如をお迎えして1585年(天正13年)8月までの約2年間、浄土真宗本願寺の本山となった後に寺内町を形成しその中心となったお寺です。

そのため、東本願寺、西本願寺ともつながりが深く、明治の宗教改正の際に西本願寺へ属することとなったそう。

ご本堂には色鮮やかに二十四孝の彫り物がしてあり、これは貝塚三ツ松の石上家によるもとらしく左甚五郎ではないか?という話もあり貝塚三ツ松の石上家は代々優秀な彫り物師を排出したそう。※二十四孝の彫り物がすべて残っているお寺は非常に珍しいとのこと。

旭堂南青さん 槍擦りの鎧
旭堂南左衛門さん 竹の水仙

2012 10/20 歴史と人間 ~吉田松陰

今日の一坂太郎先生の講義の内容は【吉田松陰先生】について。
私が幕末史に興味をもったきっかけが吉田松陰先生であり、また一坂先生の第一回目の講義(2009/4)が吉田松陰先生についてでした。

実は今日の講義に間に合わせるために1週間前に手術し昨日を抜糸としたくらい楽しみにしていました。

吉田松陰先生は下級武士ではなく無給武士の生まれであり無給武士とは領地の無い武士の意味。天保元年(1830年)萩の松本村で生まれる。20石わずかで半士半農の暮らしであった。

当時の武士の構造は、一門家老→寄組→大組(八組・馬廻組)→無給通→足軽・中間。
大組までが政治に参加でき、高杉晋作さんや久坂玄随さんらもこれにあたる。足軽・中間は荷物運びや門番などの雑役をこなし、伊藤博文さんや吉田としまろ、山県有朋さんら。この構造らは全体のわずか6%程度。

父の杉 百合之助には二人の弟がいて大助(吉田家を継ぐ)・文之進(玉木家を継ぐ)であったが
5歳の時に、大助が亡くなったことから吉田家を継ぐことになる。大助・文之進は大組に属していた・・すなわt下級武士にとって学問ができるということは出世の為であった。

6歳で吉田家の家督を相続し当主となる。この吉田家は山鹿流兵学の師範の家であった。
※初代の明倫館が創設された1719年には学者を大組へと格上げされており、これに伴い吉田家も大組であった。(本来生まれた杉家よりも格が上)。

山鹿流は、山鹿素行によって著された兵学で、、武士の立場から人はどうあるべきか?生き方や国のささえ方を学ぶ哲学思想。当時は山本勘助流ともいわれていた。

吉田家は57石取りで藤原氏とのつながりがあり松野平介のひ孫が吉田家の始祖。8代目が松陰となる。また松野平介の先祖は一條天皇の藤原行成と伝えられているため松陰は時折藤寅、藤原と名乗ったりしている。

松陰は玉木文之進のスパルタ的教育で教養を身につけてゆく。学問は自分のために行っているのではなく、藩のために行っているという趣旨。

9才~教授見習いとなって出仕。(学生ではなく教える立場である)友達や幼馴染がいないいびつな人間形成であった。

10才~家学(山鹿流)を教授する。

11才~毛利慶親(よしちか)(後に敬親(たかちかに改名させられる))がお国入り(23才)。江戸生まれの江戸育ちの藩主が初めてお国入り。藩主の前で武教全書を講義。これは玉木がシナリオを作成。いまでも残っているらしい。

19才~後見人が解かれ一本立。独立した師範となる。
松陰の後見人の内の、山田宇右衛門より【坤輿図識】(こんようずしき)をもらう。これが松陰に多大な影響を与えたと考えられている。坤輿図識は世界各国地域の情勢を記しており、「世界は独立国と植民地でできている」と記されている。

20才~北浦の沿岸防備を巡視、北浦は萩から下関に至る日本海側の海岸線。
このタイミングで明倫館が移転して拡大。15000坪。小学校から大学院までの一貫教育。
水練の池があり、馬で水中を駆けたり、刀や甲冑をつけて泳いだりした。この池のモデルは会津藩の日新館(会津は山鹿素行の出身地)
また10/10には羽賀台(萩市内)で大規模な軍事演習をおこなっている。

21才~九州・長崎・平戸へ50日滞在。アヘン戦争の情報を熱心に学ぶ。
この年の年末ぎりぎりに萩へ帰国。

22才~3月に江戸行き。熊本の宮部鼎蔵と知り合う。
江戸の学者の国防に関する考え方に失望。
東北視察の旅に出ることにする。

10/15に江戸出発の予定が手形が出ないためにそのまま出発。友達との約束を優先し脱藩者となる。

23才~12/9脱藩亡命の罪により、士籍剥奪し父の育みとなるが10年間の遊歴を許可(浪人)
24才~1/26出発し近畿を経て江戸入り。
6/4に黒船を目撃。詳しくその装備をチェックしている。

佐久間象山の【和魂洋才】思想に影響を受け、日本も技術や知識が必要であると認知、長崎にやってくるプチャーチンに会いに行くが遅かった。

25才~ 3/3 和親条約締結

三月二十七夜の記を引用!(日本の名著シリーズ)

10年ほど前に投夷書がアメリカより発見されている。(嘉永7年安政元年3/11)

26才~出獄し蟄居

27才~松下村塾

29才~日米修好通商条約~時勢論を記載、怒りを表現している。

30才~惨殺。

次回は梅田雲浜さんの予定!


吉田松陰先生は自分が正しいと信じた事ならばわき目をふらず真っ直ぐに進んで行かれる。、まるで矢の如く。そんな松陰先生が大好きです^^
安政3年の【志】

天地大徳君父至恩
報徳以心復恩以身
此日難再此生難復
此事不終此身不息   藤寅

留魂録をあらためて読み直そうとおもいます。

2012 10/19 味噌かつと名古屋コーチンひつまぶし


昨年から何度も名古屋に行ってるのにいっつもとんぼ帰りばっかり。
それならと、今日は少し早めに出て途中休憩を一回にしたおかげで名古屋らしいランチをいただけました(^-^)v
手羽先はあまりに美味しそうだったので、つい撮影前にたべちゃいました。むっちゃ美味しかったぁ。あの手羽先に染み込んだタレが絶品!
大阪で、山ちゃん、風来坊の味とも違う馴染みやすい味でした。
で、味噌かつは本当に初体験!

















豚串かつに味噌たれに漬け込んでいるよう。
赤だしの味の八丁味噌に色んなスパイスが入っている?これも癖になりますよねー。
まぢビールとの相性最高間違いなし!
























そしてメインの名古屋コーチンのひつまぶし♪
器に盛り付けてあるひつまぶしを三回に分けていろんなバリエーションでいただけました、特に三回目の食べ方は絶品で、熱々のお出汁をかけると、しっかりした味わいの名古屋コーチンのに、なんとも言えない鰹出汁が加わってあっさりとした味わいに変化しました。



















あぁ…ビールが飲みたい(笑)
















純系名古屋コーチン・和食会席料理

樞 くるる 名駅店

http://r.gnavi.co.jp/n002803/

2012 10/19  伊藤痴遊全集第7巻 袖付橋の闇討ち

この夏の終わりころからちょっと体調を崩し実は10月12日にお腹の一部分を切ってきました(笑)
で1週間ほどは自宅で療養ということでお仕事をしています。←あかんやんww

おかげで今まで買っていたのになかなか読めなかった本や気になる情報を整理することができました。ありがたいことです。












10月13日産経新聞に「消えた偉人物語」小学国語読本巻十【母の力】が掲載されていました。

これは昭和14年発行の小学国語読本巻十は今の小学5年生用の下巻にあたるそうでこの14課に【母の力】と題されている教材がある。

あらすじ的には下記の通り。

明治の政治家の井上馨(聞多)が暴漢に襲われ大怪我を負った。
全身に無数の刀傷。もう虫の息という状態でようやく自宅に担ぎ込まれた。

城下の医師は来たものの手をこまねいている。そこへ幸いやっていたのが美濃の国郷士の所郁太郎で、大阪の緒方洪庵の塾で外科手術の助手をしたことがある。
「よし。拙者が療治しよう」と刀の下緒を取って襷掛け。焼酎を薄く溶いて傷口を洗いながら端から縫いだした。
縫った針は畳針。五十幾針縫ったところで夜が明けた。

縫った所郁太郎は名医でもなんでもなく、助手をしたことがある程度だし、畳針と焼酎。
見舞いに来たものは、井上との今生の別れをして帰ってゆく。

「おお聞多。しっかりせい。敵は誰だ。何人いたか?」と兄に尋ねられても声がでない。
瀕死の重傷で意識も絶え絶えの中で、手真似で「介錯をしてくれ」。兄は涙ながらにうなずき、どうせ助からない弟の命。それなら一思いに死なせてやるのがせめてもの慈悲だ・・・と兄は刀を抜いた。

そこへ母のお勝が現れた。


「お前は何をしているのか?」答えない兄・・・「お前・・全体何をしているのか?」

刀の柄に手をかけ恐ろしい表情の兄は「聞多の苦しそうなこの様を見ましては、兄の情として、耐え難くいっそ一思いに刺し殺そうかと思いまして・・・」と答えた。

母は「私の眼の黒いうちは例えどんなことがあってもそういうことはさせませぬ。聞多は私の倅じゃ。天命がきて死ぬのなら拠所ないが現在の兄が手を掛けようとは何事か」と兄を叱った。
必ず、私の一心で助けて見せると、必死の母の看病で三日目には「水をくれろ」と言えるようになりなんとか一命をとりとめた。


全文を読んだことはないが、今年の4月に入手した原本となっている伊藤痴遊全集第7巻の<袖付橋の闇討ち>と<気丈な母の介抱>の部分にあたると思われる。

また、このエピソードは講談となっており、11月11日(日)に大阪の泰聖寺で行われる旭堂南左衛門一門会で旭南湖さんが「井上馨の袖付け橋の危難」を演じられます。

幕末大好きな方は是非お越しくださいませ。

http://www.chonmage.tv/schedule.htm

2012 11/18 孝明天皇

前回の朝日カルチャーの一坂太郎先生の講義を聴いて【孝明天皇様】に非常に興味を持った。

で・・色々と探してみて左の書籍を入手!

昭和49年秋田書店発刊(初版)
福地重孝著 孝明天皇





講座でもたびた取り上げられる公家諸法度。その法度以外にも天皇の大権があり、それは改元。
孝明天皇の時代には弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応と7回も改元があった。これはさまざまな天変地異や縁起直し的な意味合いが原因で、非常に大変な時代であったことがうかがえる。

人しらず我が身一に思ひ尽くす 心の雲の晴るるをぞ待つ (慶応元年)

日本国内がドタバタしていた時代に詠まれました。。。その苦悩のお心が偲ばれます。


異人と共ども払へ神かぜや 正しからずとわか忌ものを(文久2年9月11日)


徹底した攘夷思想であったが政権奪回の気持ちは毛頭無く、純粋に日本を愛しておられた方なのでしょう。

その純粋さゆえに型破りと思われたのかもしれません。

なかでもアメリカとの条約締結に関する勅を入手するために上京した堀田正睦の悪戦苦闘からさまざまな駆け引きが繰り広げられ、ついに幕府の旗色が良くなってきて、まさに自分の意図しない勅裁案が出されようとしていた時に、下級公家を動かして八十八人の公家が九条関白の家へ集結!そして情勢をひっくり返させている。実に爽快。

熟読するにつれて新たな、孝明天皇様の色んな面が読み取れるかもしれません。

2012 10/16  四天王寺わつか市

地元に住んでいるのに、こんな市が開催されているなんて
本当に気が付きませんでした。

心が豊かになるステキなモノやコト。
体や体にやさしいいろんな雑貨や食べ物が
四天王寺の境内にやってきます。

◆開催日
11月4日(以降毎月第一日曜日※10月・1月を除く)
◆場所
四天王寺さん境内
◆日時
9:00~15:00
◆オフィシャルサイト
http://blog.goo.ne.jp/jinenichi




私の大好きなおみかんのお店もやってきます。

極限までに農薬を減らした自然に近いおみかんのお店が
三重県御浜から参加することになりました。
もう嬉しくし、すごく楽しみです!

みかん大好きな方は見逃せないですよー!

2012/10/14 みかんの中のみかん




10年ぶりの電話でした。

それは私が趣味の延長から某劇団の音楽効果を担当させていただいていた頃のおご縁で知り合った方が今、三重県の御浜でみかん農家をされているとのこと。


左のお写真は【宇口農園】さんのみかん畑。






みかん大好きな私がみかん農家のオーナーさんとご縁ができてこれほど嬉しいことはない(^_^)
数日でひと箱を食べてしまう私にとって最大のプレゼント!


で、さっそく5kgを送っていただいたところ、みかん箱に仕切がはいっていました。

片方は、収穫してすぐのみかん、そして片方はすこし間をおいて味が安定したみかんで食べ比べができるようにしてくださいました。

収穫したてのみかんは、若々しいフレッシュでほのかな酸味のある味、時間をおいた方は甘みたっぷりのおいしーいみかんです。






 



大切に愛情をこめて育てられたみかんは

丁寧に・・・丁寧に・・・収穫されます。

真剣なまなざしが印象的デス!





なんとか大阪でも販売をして欲しくて路上販売をさせてくださる所や、販売をして下さるお店を募集しています。

ガレージの前やスーパーの前、またフリーマーケットや各種イベントでいかがですか?
ご興味のある方はぜひお気軽にメールにてお知らせください。

お問合せ先

2012 10/7 第5回 イーグル寄席 

第5回 イーグル寄席が開催されました。
お天気が良すぎて、客入りが・・あ~もったいない。。

笑福亭 喬介 「池田の牛ほめ」

ちょっと気になった箇所があったので久しぶりに書籍をひも解いてみた。
元禄11年の初音草噺大鏡が原点。
秋葉さんのお札とは、静岡県西部の秋葉山にある秋葉神社だとのこと。
(前田勇著 上方落語の歴史)

喬介さんの朗らかな印象はすっごい個性的でステキです^^


笑福亭 仁嬌 「三十石」

桂 枝女太 「はてなの茶碗」

旭堂 南左衛門 「怪談お紺殺し」

はじめて聞いた講談話。 紀州田辺のお大臣と言われるまで上り詰めたが・・その過去が。。。 まぢで怖かったです( ;∀;)

2012 10/6 四天王寺秋季大学

 
 
今年も参加させていただくことができました。ホントにありがたいことです。
 

 
開講挨拶 :総本山四天王寺 執事長 森田 俊朗(もりた しゅんろう)
色んな事柄に興味をもって過ごすということを色んな事例をもちいてご紹介いただけました。


清盛のめざしたもの
神戸大学 名誉教授 髙橋 昌明(たかはし まさあき)先生
NHK大河ドラマの時代考証を2年以上行われている高橋先生。このドラマの視聴率のお話から、高橋先生が描かれた平清盛の人間像を分析。
清盛は戦前は諸悪の根源のような認知をされており、それは摂関家、王権、王法、仏法への悪行が原因と考えられている。これが、戦後は【新平家物語】のHITにより戦後の民主主義を背景に人物像が変化してきた。
清盛は何を目指して福原遷都をおこなったのかを考察されました。


勢観房源智の悲願 -法然追慕の念仏勧進
総本山知恩院門跡 浄土門主 伊藤 唯眞(いとう ゆいしん)猊下
信楽にある玉桂寺の地蔵堂よりより三尺の阿弥陀如来像が発見されたのは昭和47年のこと。
この胎内より法然上人の愛弟子である源智の書いたとおもわれる古文書が見つかった。しかも47000人の名前も書かれていおるたくさんの紙が一緒に保存されていた。
胎内は漆塗り+金箔・・・。この古文書は何をさしているのか。

正倉院の宝物とその歴史
宮内庁正倉院事務所長 杉本 一樹(すぎもと かずき)先生
正倉とは?院とは?また宝物とは何を指すのか?
宝物を由緒や用途、技法、材質や時間的に分類してスライドをもちいて紹介いただきました。
また今回の正倉院展の出品予定の宝物やをご紹介いただきました。

2012 9/28 高山かきもち / 高山竹林園

全国の茶筅の90%以上を生産している日本最大の茶筅の産地の奈良県生駒市の高山。
 
室町幕府8代将軍の足利義政の時代。。現在の高山は鷹山氏が支配していた村だったそう。
高山城主の次男の宗砌(室町時代中期の連歌師。山名時熙・持豊(宗全)父子の家臣で、俗名を高山民部少輔時重)が「わび茶」の創始者と目されている僧侶の村田珠光に依頼されて作ったのがはじまりとされています。

そののち村田珠光は京都へ移り、帝の後土御門天へ献上した茶筅をみて「高穂」と名づけられました。これに宗砌は感動し、茶筅作りに熱中。その作成方法を秘伝とし、以降、高穂茶筅が有名となりました。
その制作方法は一子相伝として第二次世界大戦中まで硬く守られてきました。

繊細で工芸品のような茶筅・・それはそれは見事なものです。
この高山竹林園では茶筅の制作方法や流派による茶筅の形状の違い、さまざまな茶道具を見ることができます。
 
 
 
さて、この高山にはもう一つ有名なものがあります。
 
この商業網が発達し、商業施設がたくさんある中で購入方法は現地の工場直売と、若干の通販。

【高山かきもち】を知ったのはMBSラジオでの宣伝で今から5年ほど前のこと。
はじめてこの「ころもち」を食べた時から病みつきです。
 
 
ひっきりなしに買いに来たお客様の車が出入り・・皆、その手には大きな袋を鈴なりのように持っています。
 

2012 9/22 天地明察

江戸初期、会津藩に使える安井算哲は算術&天体観測が大好きな碁打ち。

将軍の前で碁を披露する役目なはずが、4代将軍家綱の後見人で
会津藩主の保科正之に目をかけられる事になる。その流れで正しい暦を作成することを依頼される。

ネタばれになるので詳しくは記載しませんが、
江戸初期の風俗や家綱、光國や公家の生活を垣間見ることができます。


たしか、禁中並公家諸法度で色々と決められていた公家の役割に、暦の利権があったのか疑問が残ったけど、歴史大好きな私にはぴったりの映画でした。

 
全国を歩測で距離を求め、北極星との角度を測り正確な距離を割り出す三角測量を行っていたとは。。

正弦定理・・・うみゅ。。。。記憶にありません。。

 昔の方の努力って凄いのですねー。


http://www.tenchi-meisatsu.jp/index.html



2012 9/18 博多通りもん

同僚さんから頂戴いたしました♪

さっそくお抹茶を立てていただきました。

しっとりとした皮はほんのりとしたミルク風味で、口の中でとろけそうなくらいのやさしい白餡です。

さすが国際品質コンテスト:モンドセレクションで12年連続金賞!
6年連続特別金賞受賞しているだけのことはあります。

この美味しさはほかに類をみないとおもいます!

まぢオススメの西洋和菓子です。

株式会社明月堂 http://www.meigetsudo.co.jp/index.html




2012 9/15 歴史と人間 幕末維新編

今日の朝日カルチャーは「孝明天皇」について。

まさに幕末のキーマンであり、ひたすら開国に反対した方でどんどんややこしくなってゆく。

教科書では「長州は幕府と戦った!」という記述があるがこれは間違い!実際は天皇VS毛利が正しい。
幕府は天皇に命じられただけに過ぎない。
最近、【維新】というフレーズを多く耳にする。じっさい一坂先生のところにMBSの記者から取材があったそうだがなんとも維新とはなんなのかややこしい。。

◆江戸時代の天皇

1615年(慶長20年)に禁中並公家諸法度が定められた。これで天皇と公家の仕事は【天子御芸能 第一御学問】と定められた。これにより祈祷と学問と武士に官位を授けるのが仕事となった。
ちなみに征夷大将軍という最高の官位は世襲ではなく、個々に与えるもの、誰にどの官位を与えるのかは幕府が決定し、その内容に従って天皇が任命する流れで、幕府は天皇の権威を利用しているだけというものだった。

その情報の流れは<将軍→老中→京都所司代(幕府の京都出張所)→禁裏付(幕府側の窓口)→武家伝奏(朝廷側の窓口で人選は幕府が定める)→関白→天皇>これに1665年に<義定>(関白の補佐役)が加わる。
この関白は五摂家からしか選ばれず、近衛・一条・鷹司・九条・二条。この五摂家の下にその他の公家が属しておりいわゆる主従関係となっている。

幕府は後醍醐天皇VS鎌倉幕府の結果、建武の新政となったように天皇に権力が集まるのを恐れて1742年にはさらに天皇の権力を制限。
天皇の行うことが誤りであれば関白は天皇を押さえ込みなさいという令を出す。これで関白の権限は大きくなってゆく。
結果的には天皇の地位は形骸化し、たとえば将軍の宣下の場合は江戸にいる将軍が京都へ行くのではなく
勅使が江戸城へゆき、上座に座った将軍に下座に座った勅使が任命する形式だったらしい。
天皇の領地は江戸初期は1万石、幕末は3万石。公家全体では10万石。
決して貧しいとは言えない。
戦国時代の天皇、公家生活は大変だったようだが徳川が今の石高を保証、整備してくれたという恩があるためか文句が言えない状況。

さて孝明というお名前は崩御されてからのおくり名で実際は統仁(おさひと)さま。
天保2年1831年生まれ。ちなみに松陰さんは天保元年生まれ。
14歳で元服され、お歯黒を入れられた。また数年後は眉払いの儀式により眉を剃られたのでだいぶイメージが違う。
鎖国攘夷思想で公武合体も反対。江戸時代の枠組みを変えたくなかったので王政復古の推進も違うようで
政治は幕府が行うことを良しとしていた。
この背景で即位の1年前から色々と情勢が変わってゆく。
天保15年のオランダ国王よりアヘン戦争による清のようにならないためにも開国を勧める国書が届く。これは幕府が握りつぶしたが実際は公家より天皇の耳に入る。
そして翌年以降各国が続々とやってくるタイミングで即位される。

弘化3年に突然幕府に勅がでる。これは江戸時代始まって以来の出来事。
【異国船渡来の状京師に聞ゆ因て海防の勅を幕府に降す】いわゆる海防勅書。これは徳川斉昭の仕業!
斉昭のお姉さんは鷹司政通(まさみち)の嫁。
これに対し幕府は【今後外国船の問題は文化4年におこったロシアとの紛争の例に従って報告する】こととなった。
これにより幕府は、天皇に対し外国船が来たら祈祷を行っていただくということを決定。
この対象は七社七寺で伊勢神宮・石清水八幡・賀茂神社・松尾社・平野神社・稲荷神社・春日大社と仁和寺、東大寺、興福寺、三井寺、東寺、広隆寺。これは後にどんどんと増えてゆく。

そしてペリーの来航の際には幕府より祈祷の指示がでている。幕府はこの来航により各大名に案をださせたり
台場を建造しているが天皇には報告していない。このタイミングで家定が将軍になることに。
武家伝奏の三条実万(実美の父:さねむつ)に『人心を動揺させないように』という伝言を持たせて江戸城へ向かわせる。老中の安倍正弘に伝えたところ「国書は穏便に扱うので天皇の案があったら言ってください」またアメリカへの返事は「のらりくらりとはぐらかして乗り切りたい」との意思を出す。

公家の実力者である鷹司は開国論者。貿易もOK。そこで朝廷側を1本化するために武家伝奏、関白、議定で
打ち合わせをしたが天皇には話していない。
ついに幕府は条約を締結・・・この時も孝明天皇は祈祷されている。

もし京都に異人が攻めて来たら・・・・幕府に対し「幕府関連の彦根藩や尾張藩に京都を警備してもらいたい」との願いを出す・・そしてこの後不幸にも御所が全焼するという事件が起こる。そして穏やかだった時代の平安時代風に建て直した。
そして安政元年にロシアのプチャーチンが大阪湾天保山に出現!孝明天皇はおびえながらも祈祷に励む。

安政3年ハリスが江戸に乗り込み、通称条約が締結。
このタイミングで関白は鷹司から九条尚忠へ。開国派鷹司は70歳!九条尚忠は天皇のよきパートナー。
世界では第二次アヘン戦争が起こり天津条約が締結。フランス、イギリスがアジアを押さえ込む。

この状況の中で安政4年年末には大名を大集合!状況の説明会を開催!結果なんとなくぎくしゃくした空気だけが残ってしまった。この裏では武家伝奏に自称説明はしていたらしい。
このぎくしゃく感をなんとかするためのアイデアとして天皇の権威を利用することをおもいついた幕府は天皇に
勅許をもらうことにし、その役目は堀田 正睦(まさよし)が行い、すぐさま京都へ向かう。
家臣の心をまとめるために天皇の心を聞きたいとの口実で、幕府と天皇の関係であればこの役目は楽勝!とおもっていたが大間違い!
翌年1/17には御宸翰で「みんなで話し合いなさい、開国&貿易はだめ!先祖に申し訳ない」の意のお返事が返ってくる。
楽勝のはずが・・・堀田は伝奏、議定を宿とした本能寺に呼びつけ説得しついに説き伏せた。
しかし天皇からの勅はでずに「みんなで話し合いなさい」とのこと。

そこで堀田は作戦を変更し、天皇のお仲良しの九条尚忠を抱き込むことに。あっさりと寝返り、天皇の意思ではない勅答案が練られてゆく。そして3/14に堀田に開国の勅答案を提出することに決まったが・・・なんとこの二日前の3/12に88人の公家が九条の家に押しかけ罵声を浴びせ大反対のデモンストレーションを行う!
九条はびびってしまい案はつぶれてしまった。
これは実は孝明天皇が下級公家の岩倉具視に指示をしていたらしい。
大きな流れの開国へ向かう流れを孤立してしまった孝明天皇は下級公家をまとめあげてひっくり返した。
残念堀田は九条へ手紙を送った・・世間では戯れ歌が流行ったそう。※聞き漏らしました・・・・。

このタイミングで将軍の継承問題がおこり安政の大獄へとながれてゆく。。。

この幕末の流れは色んな流れが複雑に絡み合っているが意外と朝廷内の流れは知られていなくでびっくりでした。

一坂太郎先生!今日もありがとうございました。

2012 9/9 第26回  あみだ池寄席

ひさしぶりのあみだ池寄席です。
実は前回に行ってから露の一門の寄席ということで興味があったのですが
開催情報がまったくわかんなくて・・・。ということで今年の彦八祭で露の吉次さんよりチラシをいただけたので今日久しぶりに行かせていただけた訳です。

露の吉次 禁酒関所
桂 文昇 天王寺詣り
露の吉次 君よモーツァルトを聴け
露の慎悟 三丁目のおもちゃ屋

はじめて桂文昇さん、露の慎悟さんの落語を楽しませていただきました、しかも初めてのネタなので
防忘のために簡単にお話を記述。

君よモーツァルトを聴け  
三枝さんの創作。流れは古典の青菜とおなじ。途中でアイネクライネナハトムジークが流れてびっくり!

三丁目のおもちゃ屋
昭和の高度成長期を背景に寂れた商店街のおもちゃ屋さんが舞台。
日曜日のたびに店の前に現れた少年の身の上とお彼の将来の夢は。。。

次回、第27回あみだ池寄席は11月25日。桂阿か枝さん、橘花家千橘さん。
まぢ・・いきたいけど・・・・すでに予定がぁぁ。。

2012 8/26 第14回 アシスト寄席

このアシスト寄席は長い間演じておられないネタや初めてネタおろしをされる場所として開始された落語会。
年4回なので2年半・・・。終演後にはおいしいコーヒーやケーキがついてこのお値段はぜったいにお得!

笑福亭嬌太 子ほめ
3ヶ月ぶりに嬌太さんの落語を聞きました。
マクラなく直ネタへ。
数年前に同じような気持ちになったのを思い出しました。若手の噺家さんですがメキメキと上達されたと感じたあのときと同じ気持ちです。頑張ってくださいね。

旭堂南舟 秀吉の足軽時代 
うんうん!声のハリや輝き!むっちゃいい感じ!正式な前座なんになられ今日はゲストという立場だそうです。
終演後にお話させていただきました!ご本人曰く『やりなれたネタだから。。。』とのことですが、確かに口調に勢いと輝きが増しているようにおもえました。

笑福亭仁嬌 こんにゃく問答
初回のネタ出しから変更されたそうですが、プログラムは変更されていなかったらしい(^_^)
手作りならではのご愛嬌ですww
後半の問答シーンでのスピード感がすごくよかったです。

桂枝女太 手水廻し
このお話は特に思い入れのあるネタです。
前半、大阪からの客が3日間逗留する予定だってことや、田舎の朝の風景の描写、頭を廻す男が廻すたびに笑顔をみせることやこんにゃく問答の法願寺さんを登場される等いろんなくすぐりや描写がされていてすごく楽しめました。

旭堂南左衛門 面の餅
はじめて聞かせていただきました講談。桂雀三郎さんが『鬼の面』という題でされているとのこと。
貧乏な子沢山な漁師夫婦とその長女の優しい気持ちがテーマのお話。ホロっと心温まるお話です。

さて、終演後の歓談の席では、いよいよ来週となった彦八祭のお話。
仁嬌さんのたこ焼きと枝女太さんの焼きうどんのお話!会場は大爆笑!!
そうそう・・・会場には桂文福さんの新しいお弟子さんの恩狸さん(おんり)さんがお手伝いにこられていました。
先月のご入門とのことでがんばってくださいね。


2012 8/19 歴史と人間 ~幕末維新編

今日の講座の人物は徳川斉昭さん。一言でいえば幕末の政界を引っ掻き回したとっても癖の強い方。
事なかれ主義では無い、はっきりした持論を持っておられることから、評価が両極端な人物です。

幕府の政治は普段大名が行うわけで、水戸、尾張、紀州のいわゆる御三家は親戚筋であるだけで政治には関与していない。
また、紀州と尾張は大納言に昇格できるが水戸は中納言止まり。そのかわり参勤交代をしなくても構わないという定府(じょうふ)という制度があった。そのため藩主でもずっと水戸に帰ることがない藩主もいた。

もともと水戸は今の茨城県。関ヶ原の戦いの際は佐竹義信だが、家康によって出羽(秋田県)へ国替えさせられてしまう。そして家康の11子の頼房(28万石)が継ぎ次が有名な光圀さん(35万石)となる。ちなみにテレビでは「こちらに居られるのは副将軍 水戸光圀であるぞ!」という副将軍という肩書は存在せず、ずっと江戸にいる藩主ということを世間が揶揄したフレーズ。

この水戸藩は寄せ集めの家臣団で構成されていたために次第に能力主義が発達。中でも光圀さんが編纂した「大日本史」(彰考館:水戸の下屋敷として江戸にあった駒込→小石川にある後楽園に移る)の継続して行うことで学者が政治を担当することとなってゆく。
この大日本史のTOPである総裁は選挙できっめられていたらしいからびっくり!
有名な総裁は藤田幽谷(藤田東湖の息子)は水戸の古着屋の倅なわけで能力主義な藩だった。

さて、斉昭さんは1800年(寛政12年)生まれ。7代目藩主の治紀(はるとし)の3子として生まれる
3歳上の兄の斉脩(なりのぶ)が8代目を継ぐが30歳になっても子供ができず、もともと病弱であったことから死去。そこで継嗣問題が勃発!彼の奥さんは第11代将軍・徳川家斉の七女・峰姫(第12代将軍・徳川家慶の異母妹で、14代将軍・徳川家茂の父徳川斉順の同母姉)。家斉の第22子である徳川恒之丞を養子にさせ水戸との関係を深めたいと願う保守派に対し、藤田幽谷らは血筋を重視した斉昭を押すことで革新派となって対立を府深めることになる。
ところが、なんと斉脩さんお遺書が出てきてそこにはなんと家斉さんを藩主にするように書かれていた!あまりに出来すぎなお話!!ついに斉昭が藩主となった。

天保元年正月、いきなり2条のお触がでる。そこには「文武は武士の大道」「下意上達」の趣旨が。下級武士でも遠慮なく伝えてきてもOK!という改革の意気込みが感じられる。
斉昭さんは嫉妬倹約を進め、自ら綿素材の衣服を着用。
御賄方(おんまかないがた)という役職の賄という字は賄賂の字だからということで御台所(おんだいどころ)に改名。正月には松飾や琴の演奏を禁止、お雛様飾りはお内裏様のみOKという徹底ぶり。

また質素倹約だけではなく武備の充実を推進。太平洋に面していることから外国船を目にする機会が多く、海防掛(かいぼうかかり)を設けた。大砲や火薬の製造をおこない、海岸への移住を推進。そのTOPには山野辺義観(やまのべぎかん)を登用。また農民を訓練し兵化をおこなっている。
さらに年1回、追鳥狩(おっとりがり)という大演習をおこない、これは2万人以上規模であった。
1842年に偕楽園をつくり梅の名所となる。また斉昭さんは毀鐘鋳砲の令を出して僧侶よりおもいっきり反発を受ける。これは仏像や鐘を大砲に作り替える!という令で、彼は実はインドよろ伝来した仏教は大嫌いであり神道を推進していた背景がある。
1842年には藩校である弘道館を建設。この趣旨書の中に『尊王攘夷』という言葉が初めてでてきている。気を付けなくてはならないのは意味が違い、あくまでも王であり皇ではないことに注意!
すなわち神を奉り中国の教え(儒教)を学ぶことを趣旨としていることから水戸学の基礎となっている。

財政改革では斉昭さんは幕府に対して天保5年あたりより「北海道開拓」を幕府へ願い出ている。
北海道はもともと松前藩の管理であったがロシアの脅威から松前藩は国替えをし本州へ戻ってきた経緯がある。そして北海道は幕府の直轄となっが松前藩の申し入れにより復帰したらしい。その事例を取り、痛烈な皮肉の手紙を幕府へ送っている。
「松前藩で北海道運営がdきるんだったら幕府は取り上げていない、松前藩はとんでもない藩で非力だからロシアがやってくたんだ!結局松前に反してしまったんだからとても残念だ」とのこと。

藩の財政がひっ迫すると定府を廃止し殖産興業を推進するが学者ばかりでノウハウが無く、うまくいかない。検地を行うとともに神社を優遇し社寺の多くを廃止させている。もちろん仏教徒が反発!ここに目を付けたのが前述の門閥保守派。幕府へ訴えかけ即座に幕府からの取り調べが始まり、改革が挫折することになる。
結果、斉昭さんは江戸の駒込下屋敷に幽閉させられ、慶篤(13歳)が11代藩主となる。
もちろん政治への関与はNGということだが、実はこの時に幕府の老中の安倍正弘と親密に手紙のやり取りをおこなってる。新伊勢物語という書籍になっているらしい。
政治への不満から自分の奥さん側のパイプをつかって孝明天皇へ海防や外国人に対するさまざまな意識を植え付けその結果幕府は例のドタバタ騒ぎへ発展。
安倍は斉昭へ「海防参与」という役職を与えたことからすぐさま斉昭は「海防寓存」を提出。結果品川に台場を建造することになる。
その趣旨は「戦は難しい、和はやさしい。戦の覚悟で和になること」を推進した。その方策は長崎での石炭供給はOK、また3年に限り外地で貿易のテストを行うという内容。ところが井伊直助さんにより条約が締結されたことをうけけ翌日には海防参与を辞退。いわゆる政局の野党となった。
その結果半年後には軍政参与になり現在の日の丸をシンボルにすることを提言、だんだんエスカレートして安政4年11/15には渡米の意見書を幕府へ提出。
う~ん・・・困った方で、幕府も相手をしなくなっていき悪循環へ。1860年61歳で水戸城にて心臓発作で亡くなるという生涯でした。

この時代は何が正しいのかなんてわからない時代。自分の意見をちゃんと持っていた斉昭さんってすごい人物だったことは間違いないでしょう^^


2012 8/10 近況

環境がかわって1か月半。私のBLOGをご覧いただいてご連絡をくださった方がおられました。
ありがとうございました。
毎日楽しく働いています^^

2012 8/4   七代目 愛車♪

この車なら後ろからぶつけられても衝撃は少ないはず!

久しぶりにおっきぃ車にしました(^^)v

2012 7/22 第19回 柳谷観音・泰聖寺 講談会

開演時間が近づいてくるにしたがって場内は満員に!
さては・・・講談にブームの兆しか!

定刻少し前にご住職さんよりご挨拶。
京都の山奥にある「月輪寺」(がつりんじ)へ修復のお手伝いにいかれるとのこと。
このお寺は法然さんも親鸞さんも修行をされたご由緒のお寺とのことだが
先日の大雨で大変な被害にあわれたらしい。

また、今日の南舟さんの演目「日蓮上人」!浄土宗やねんけど・・・大丈夫かなーって。
たしかに日蓮さんは浄土宗に色々と言われた方だけにww展開が楽しみです。

●前講:黄昏亭もみじ/三方ケ原戦記
講談教室でいつも練習されている講談とのこと。
修羅場読みが聞かせどころ!

●旭堂南斗/ 黒田節の由来
●旭堂南舟/日蓮上人
まな板岩の御難という話らしい。
たしかに宗教迫害さえた方って大変な苦難を乗り越えてこられてるんですねー。

●旭堂南青/怪談・江戸屋騒動
講談で怪談を聞くのは初めて。。。
マクラでされた生駒山に夜明け前に4人でカブトムシを取りにいかれた話がむっちゃ怖かった、、、。・
もちろん本題も。。。南青さんの口調がすっごい味がありますた。

●旭堂南左衛門/紀伊国屋文左衛門
今回のお話のキーワードになる、魏のけいばん焼って絵付けが鮮やかなお皿かな?
後藤 祐乗の小鍔で金で七賢人の彫り物があるのはどんなだろう?ちょうつごうの千匹馬という屏風絵はぜひ見てみたい!って頭のなかでしっかりと描いていました。

2012 7/21  歴史と人間 第一回目「阿部正弘」

3か月ぶりの朝日カルチャーセンターです。今回より新しい講座が始まります。もちろん講師は一坂太郎先生^^

第一回目は阿部正弘。

1710年に福山藩藩主で10万石。若くして老中首座。
幕末の動乱に幕府の難しいかじ取りを行い、その心労が祟り若くして亡くなられた方。
この時期のさまざまな政策は幕府の首を自ら絞めることとなる内容であったが当時はだれもが
それぞれの政策を正しいと信じた結果なのでしょう。

幕府を運営していたのは譜代大名らであり、いわゆる親戚筋の御三家ではない。
老中は政府であり、首座は内閣総理大臣。臨時職として据えられた大老というのもある。

さて正弘は文政2年(1819年)10/16生まれ。
正精(まさきよ:当時の現役の藩主)6男4女の6番目の男として誕生。
1826年に3男の正寧(まさやす)が藩主を継ぐも病弱で子供ができなかったことから正弘が養子となって迎えられ藩主となる。

ちょうどこのころはロシアや英国が出没~海防を重視した政策がとられた時期。またシーボルトがオランダ人としてやってきた時期でもある。

正精氏は中々の風流人で、自らオランダ語を学び、西洋画をたしなんだ。
江戸に福山藩のための学問所を建てた。

1837年には藩主として福山藩へ帰国するも2か月後にはすぐに江戸へ戻ることになった正弘。
1840年に奏者番(そうじゃばん)を命ぜられる。

正弘の特筆すべきは、福山藩の文武振興につくし、「弘道館」を創立。
いままでの3回/月の勉強だけではなくここでは西洋式の兵学を教える場所となっただけではなく
8歳で入学。10歳~15歳までは文武研修。15歳になると存知込(得意分野を伸ばす教育)、17歳になると試験がりその成績は初段、中段、上段としてその出仕に影響した。

1840年には寺社奉行となりこのときに事件が起こる。
法華経寺の獄を裁決!~これは僧侶の日啓が側室の「みよの方」を大奥へ差出し裏で糸を引き、
若宮八幡かんのう寺、を建てさせたり、また日啓が女犯(めはん)を行ったことを取り上げ遠島とした。大奥が絡むので強行な対応は控えられた。。

1843年には老中となるが当時は人材不足。
1845年には老中首座へ。

このころ福山藩では、鹿狩りという名目で野外演習が行われ練兵訓練が行われている。
というのは、オランダのウイリアム2世が幕府に親書を送りアヘン事件のことを教えているが
正弘は「通称はオランダ・中国と、通信は琉球・朝鮮とおこなっており、これが祖法!」と返事をしている。言い換えれば、余計なおせわ!ってこと。


さてここに次回のキーマン「徳川斉昭」が登場する。
彼の奥さんは皇族であり、強烈な攘夷思想をもっている。そんな彼にオランダ国王の新書を見せることで、天保の改革で中止となった異国船打ち払い令の復活の話が持ち上がってしまう。

時代は1845年、海防掛(かいぼうかかり)が設けられ翌年には琉球にフランスがやってきた。
正弘は琉球とフランスの通商を認めたが、国内に入れるのは薩摩がくいとめよ!という判断を行う。

斉昭は打ち払いを進言するが取り入れられないことから、孝明天皇へ列国はアジア侵略が目的であることを強烈に吹き込むことに!こうして孝明天皇の異国嫌いが強くなっていき、ついに異例でもある勅使が下りることに。「外国船をなんとかして、天皇を安心させろ!」とのこと!

1852年6月には、オランダ商館より長崎奉行を経て手紙が届く。ここにはアメリカより軍艦がやってくることが書かれてあるがこれは脅しの手紙であるという判断で、海防を強化しようとしても予算がないということで却下・・・。
正弘はだんだん孤立していくことになる。。。そこでこの情報を島津斉昭や鍋島かんそうらへ話してしまう。この事実が表面化しさらに正弘の立場は不利となってゆく。

そして1853年、ペリーの登場。
その対応に苦慮し、結局徳川斉昭へ相談すると「みんなに意見を求めよ」とのこと。そこで幕府、外様、普請などみんなに意見を求めることとなる。
良い意見はなかったものの、勝海舟さんの意見がキラリと光る。

~この間 割愛 ~

いろんな出来事がつぎつぎとおこることで安政2年首座を堀田まさむねへゆずり自分はNo2へ。
39歳の若さで亡くなってしまう。胸痛ということを頻繁にいったそうだが西洋の薬は絶対に飲まなかったらしい。


阿部正弘の素晴らしい点はさまざま。難しい時代を切り盛りした優秀な人材であったことは間違いない!

2012 7/17 追突事故

この4月末に市内の交差点で信号待ちの際にタクシーに追突された傷が癒えた2か月半後、今後は某国道で信号待ち中に自家用車に追突されました。

もちろんシートベルトはしていましたが、フロントガラスで頭を打ち、頸椎、背中、腰椎、左足が痛みそのまま救急車で搬送。

私の愛車は写真の通り大破。。。
まだ2年とちょいしか走っていないのに・・。



私の車は、当時の信号待ちをしていた停車位置から10m前方に押し出されたはずみに、前に停車していたラルゴへ追突。。
まぢで走馬灯が見えました。。


加害者はXXXX!自賠責しか入っておらず任意保険はなし!

私は何度も電話をし、修理の件を話すものらりくらり。。。。お見舞いの電話すらない、とんでもない加害者です。


私の怪我・・・・車の修理・・・代車・・・・・。

さてどうしたものか。。。。。



ちなみに私は停車していたところに突っ込まれるのは今回で3回目!

今までの2回は軽傷でしたが今回はまぢでしんどい。。。

骨折とかしていないのは不幸中の幸いなのでしょうか。運が良い!と考えないとやってられない。。


それよりも他人の資産と体にキズをつけて知らない顔をしている加害者がゆるせない!
任意保険にはいる金の無い奴は車に乗るな!

2012 7/7 なわて寄席

毎年楽しみにしているなわて寄席。
例年以上に早くから並び始め、開場時間が15分早くなりました。
早々に指定席化したほうが良いかもしれないですね。


桂 二乗 普請ほめ
マクラで話された内容に感心!心理学で2回繰り返す場合は逆の意味だって!→妙に納得です! 本ネタhはすっかりこなれた感じのある普請ほめ。

桂 吉弥 蛇含草
豊かな表情と巧みな話術で一番の技巧派!工夫も色んな箇所で見られる吉弥さん。 おもいっきり安定感があります^^

桂 ざこば 鉄砲勇介
7月7日の日の話しからエイプリルフールエイプリルフールの出来事へ。そして本ねたへ。 ざこばさんだから許される部分ってありますよねww。

桂 南光 鹿政談
マクラは四条畷の観光大使ねた。そのまま鹿政談の名物紹介~大仏~そして鹿せんべいの話しでもりあがりました。 南光さんのこのネタは何度か聞いたことがあります。そのたびに奉行と塚原出雲のキャラの描き方が見事で 感心しています。もちろん今日も楽しませてくださいました。

桂 南天 茶の湯
襲名公演、挨拶まわりのエピソード。会場は爆笑につつまれて終了しました。また来年を 楽しみにしています。

2012 7/1 私事

中々新しい環境になれずにちょっち疲労困憊ぎみ!それでもすっごい充実感。

その影響でBLOGの更新がおもいっきり遅れていたり文章を推敲する余裕のよっちゃんが
たりません。
楽しみにしてくださっているみなさま!ごめんなさい!

2012 06/24 講談まつり

新しい生活に突入して、はじめての講談会です。なんとなーく疲労困憊ぎみで心配していましたが
すごーく楽しい1日となりました。

いつものごとく13時過ぎに会場へ母を送迎して、私は大国町駅前の駐車場へ車を停めに移動。
すぐさま地下鉄へ飛び乗り会場入りとなりました。

旭堂南舟 角屋舟の由来
本能寺の変が勃発した時に堺の寺で茶会を楽しんでいた家康。このままでは光秀軍がやってきて
捉えられてしまう!なんとか脱出しなければ!と紀伊半島を東へ向かい伊勢へ向うことに。。

旭堂南北 赤穂浪士義士伝 最後の大評定
実は先日赤穂浪士の6時間にわたるテレビドラマを見たばっかりで感動ひとしお!
大石内蔵助のその苦悩がひしひしと感じられました。

客席参加「天竺のお話」
南北さんが2月の一か月間、インド旅行に行かれてまして。その道中記をお話しくださいました。
ちょうど私もリアルタイムでTwitterを拝見してましたのですっごく楽しめました。

せっかくなのでTwitterへのLINKを掲載します^^
https://twitter.com/#!/kyokudou

旭堂南鱗  若き日の川村瑞賢
はじめて聞いたお話です。
商才たくましい川村瑞賢さんのこのエピソードって結構有名だったようですね。
いずれまた伝記等をチェックしてみたいとおもいます。

旭堂南左衛門 左甚五郎 竹の水仙

落語でもおなじみのお話。
テンポよく目の前でその情景がイキイキと感じられました。

2012 6/3 第4回 イーグル寄席

早いものでもう第4回となりました。

今回はいつもの会場ではなく、1階にあるガラス張りの通路に面した会場になりました。

また今日はボウリングボウリング大会が開催されているとのことで 駐車場は満杯!
事前に用意下さっていて、本当に助かりました。


開演まで時間がありましたので大会を観戦!

なんと目の前で300点のパーフェクトをみました!
また生のPリーガーリーガーも! 中でもライジングショットで有名な
浪速のダイナミックボンバー 西村美紀選手に感動!
ほんとにあの投げ方から豪快なボールが投げられるんですね!


笑福亭 嬌太 色事根問

露の眞  強情灸

桂枝女太  皿屋敷

旭堂南左衛門  甚五郎の蟹

笑福亭仁嬌  次の御用日

マクラで話された『お月さん、お日さん、雷さんの3人の旅行』の小噺は初めてで、
秀逸なお噺!
さて、本題は噺のタイトルがそのまま下げとなるこの噺の聞かせどころは、
お白州での丁稚と奉行のリフレインの箇所と、下手人と奉行とのやりとり。
まさにテンポがよく、仁嬌さんもポンポンポンポンっと聞かせてくださいました。

2012 05/27 佛願寺講談会

開演時間のぎりぎりに到着!
初めての会場は勝手がわからなくてどうしてもギリギリになってしまいます。

この旭堂南左衛門/
この佛願寺さんは、一林さんがご住職さんのお寺とのこと。

◆前講 白夜亭一林/「源平盛衰記・那須余一」

はじめて一林さんの講談をお聞きしたときから数年!
視線や所作がとても自然でお話しにスッと入ることができました。

◆旭堂南舟/「左甚五郎・猫餅の由来」

飄々とした雰囲気ですがいったんお話に入ると口調がかわる南舟さん。


◆旭堂南青/「名月松坂城」

飽きさせない巧みな話運びの南青さん。
やっぱ講談っておもしろいですよね。

◆旭堂南左衛門/「赤穂義士外伝・天野屋利兵衛」

臨場感たっぷりの大熱演!
あの有名なセリフのあたりでもうウルウル状態!
お見事でした。
  
講談会になんども通うとなんどか聞いたことがあるお話に出会います。
そんなときは少しだけ心に余裕が出るようで、演者さんの所作や視線の先を
追ってみたり、前回と違う箇所などを見つけて見たりと違った楽しみ方が
できます^^
スッと目を閉じると、そのお話しの世界がイキイキと頭の中で動き出す・・それが講談の
魅力なんでしょうね^^

2012 5/26 安芸の宮島


有名な大鳥居は修理中でした。干潮なのですぐ前まで行けましたよー^^

2012 5/21 山口県上関町


柳井から室津半島を南下。向は大島。



家の向い側。祝島への渡船場付近の風景。

先祖が眠る墓から白浜方向を望む。

上関にきています。 来るたびに自然が減っていて なんとなく寂しく感じます。

第18回 柳谷観音・泰製寺 講談会 日の本一の兵・真田幸村特集

第18回 柳谷観音・泰製寺 講談会 日の本一の兵・真田幸村特集


講談:旭堂南斗/ 結城秀康の死
講談:旭堂南青/平野の地雷火 
落語:桂枝女太/持参金
講談:旭堂南左衛門/九度山の真田幸村



定時となりご住職さんのご挨拶をいただきました。

今日は今までの最高の客数で、座るところが無いくらいイッパイ!
親鸞上人のお誕生日についてのお話。昔は今のように誕生日に対するこだわりはなかったのとの事。母の胎内にいるときから命は存在しているのであり、実は親鸞上人のお誕生日も実は旧暦の4/1にしておこう・・程度の決め方であったそう。
また戒名についてのお話があった。現在では戒名不要という考え方が増えてるそう。古来は幼名、諱名、戒名がありそれぞれに意味がある。戒名がなければ、俗名も存在しないという考え方もありかなーって私も考えさせられました。

講談:旭堂南斗/ 結城秀康の死
講談:旭堂南青/平野の地雷火 
落語:桂枝女太/持参金
講談:旭堂南左衛門/九度山の真田幸村




2012 5/18 これだけは知っておきたい幕末・維新

今日発売の一坂太郎先生の最新の著書が届きました。

ホントは今日は一坂先生が大阪市内の散策をされているはずなのですが、所要で私は不参加・・それでも最新の書籍が届いたのでご機嫌です^^

3年間朝日カルチャースクールで話された内容が1冊の本になっていますので、必死でノートに記述していた私としてはおお助かりです。

来週からしばし山口県で過ごすことになりましたのでしっかり持参していきます。


私の行くところは残念ながら萩ではなく、今、原発建設で揺れている話題の上関町です。
すっかり様変わりしているかもしれません。

 

2012 5/15 新入社員の時の思い出とこれから。

もう今からずっと前のこと。
私が初めて社会人になって、研修を終え、部署に配属になったときの初出勤の緊張の朝。
全従業員の前でこんな挨拶をしました。

先日、比叡山廷暦寺のお坊さんで史上何人目かで千日回峰をやり遂げられたドキュメンタリー番組を見ました。
この千日回峰というのは超荒行で、数日間断食・断水・断眠・断臥を経たあとに毎日深夜2時に出発し80Kmくらいを毎日歩き、そしてまた翌日も。。。
そこまでした荒行の果てにまっているのは、死かもしれません。
それでも悟りを開く事を願い、自分との戦いに挑まれる姿は感動的です。

自分の目標は、「なんでも見てやろう!知ってやろう!そしてやってみよう!」です。
この千日回峰のように、千里の道もまず1歩から!果敢にいろんな物事に挑戦してみたいとおもいます。

と、まぁこんな偉そうな言葉を吐いたのを覚えています(笑)

あれから数十年が経過した今、「なんでも見てやろう!知ってやろう!そしてやってみよう!」の精神のおかげで
まぁいろんな事をやってきました。
大規模小売店からIT系企業へと転職ししながらも音楽製作、楽器演奏、演劇音効、ゲーム音楽作家にバンド活動。鍵盤楽器、金管楽器、木管楽器に弦楽器。郷土史に幕末史に古典芸能。アウトドアにバックパッキング。ドライブが好きでいろんなところへ長距離ドライブ!日本絵画が大好きな上に落語も講談も大好き。
まぁ凝り性で飽き性な私ですっかり器用貧乏の代表選手ww。
この性分はおそらく治ることはなく、新しいことにどんどんチャレンジしたいと思いっています。

そしていよいよこのたび3回目の転職をすることになりました(*^^*)その前に、今まで走り続けてきた私の体をメンテナンスをしなきゃダメだけどねー。まさかの追突事故にあったり、昨年秋の手術の後遺症に1年前の階段からの転落の事があって中々癒えずにいます。

まさか退職金が1円もでないブラック企業だったって事は、辞表を出した後に知ってもう大変!
そんなことで凹むよりも今しか出来ないステキな思い出をつくって、また新しい活力を創造しようとおもっています。

先日、お世話になったほんの一部の方々にあいさつに行ってきました。
「○○社長・・実は私・・今の会社を辞めることになったので、ごあいさつにお伺いしたいのですが」と、電話をすると「え?辞めるの?おー!それは本当におめでとう!よかったやん!」と言われた社長さんがおられました。
その言葉が嬉しくって!嬉しくって^^
みんな杓子定規な挨拶じゃなくって自分の言葉でお別れを惜しんでくださったのがとても嬉しくて感激した1日になりました。今までお世話になった皆様の元に行ってちゃんとお伝えしたのですがあまりにも多すぎて。。なので後日あらためてご挨拶させていただこうと思います。

本当にありがとうございました。

2012 5/6 アシスト寄席

定刻になり長谷川さまより、アシスト寄席は年4回開催で今回より丸4年を迎えた旨と無茶修行の会の意味の説明がありました。たまたま先日、芸人さんの世界は日々精進し、毎日が修行の世界だと感じる出来事があったばかりなので、その意味になっとく。
この件はまた別の機会に文章に起こしたいとおもいます。


笑福亭嬌太 煮売屋
今回の高座が2回目のはず。まだ口調も上下をはじめ様々な表現もすっごく初々しく好感が持てました。今日はアシスト亭が超満員の40人!場内からはなんども笑いが起こりました。
これからのご活躍をお祈りしています^^


桂ちきん 犬の目
マクラはストレートにお医者さんのお話から本題へ。
きっちりとした口調で最近の若者らしいハキハキとした印象でした^^


桂枝女太 愛宕山
マクラでは中々聴くことが出来ないお話をされました^^文枝一門のTOPの三枝さん、きん枝さん、文ちんさん・・・それぞれのお話でした(爆)さて、ネタは大好きな愛宕山。後から聞いたところ30年ぶりだそうで。
ライブラリーで何度か楽しませていただいた師匠さんの愛宕山を感じました。とくに重い荷物を持って山道に差し掛かるとともに歌声が枯れてきたり、荷物を背負いなおす描写はさすがだと感じました。


旭堂南左衛門 紀伊国屋文左衛門 貧乏業平
初めて聞いたお話で、みかんで財をなした文左衛門さんの若き日のお話でした。
今回のお話のキーワードになる、魏のけいばん焼って絵付けが鮮やかなお皿かな?
後藤 祐乗の小鍔で金で七賢人の彫り物があるのはどんなだろう?ちょうつごうの千匹馬という屏風絵はぜひ見てみたい!って頭のなかでしっかりと描いていました。


笑福亭仁嬌 藪入り
日本の和芸で江戸前の噺家さんが演じられていたのを聞いて、親子愛をしっとりと描いた話なんだろうと感じたのをおもいました。また今は開催されていないしのぶ庵寄席で聞いた福団枝さんバージョンでは会話に長い間を取られることで愛を表現されていました。
さて今回の藪入りは、ぶっきらぼうな物言いだけど不器用な父が息子を思いやる気持ちがすごく溢れて演じられました。長屋町内では変人、偏屈で通っている父だけど3年ぶりに帰ってくる息子のその成長にもうわくわくドキドキする優しい父のようですね。
お話は、息子が風呂屋へ出かけた箇所で独自の下げで終わりました。また機会ありましたら最後までぜひ聞いてみたい藪入りでした。

2012 5/5 真田祭 大石順教尼の記念館

毎年恒例の5月5日は、九度山町の真田庵にて行われる真田三代の法要です。
今年は本当に天候に恵まれ、また真田ファンの方が増えたのかたくさんの方々が参列くださいました。


私たちは朝9時すぎに九度山に到着、駐車場はすでに満杯で驚きました。

もちろん法要だけではなく、真田祭が開催されると同時に4月1日から行われていた『町家の人形めぐり』の最終日で多くの方々がまちなかMAPを片手に歩く姿がみられました。
九度山を初めて訪れた時は、まだ駐車場は役所くらいしかなくて、観光にも力が入っていない感じで、真田庵の場所さえもわかりにくかったのですが、それから年月を重ねるごとに観光化!しかもお住まいの方々の丁寧なおもてなしのその優しさが伝わるそんな町です。


定時まで喫茶アメリカンで休憩し、真田庵へ。
定時になりご導師様がお見えになり厳かに読経、そしてその厳かな雰囲気で法要が始まりました。
岡本町長さんをはじめみなさまのご挨拶、そしてご焼香がおわり、今年も無事に法要が無事終了いたしました。


法要が終わり次は旧萱野家(大石順教尼の記念館)へ参りました。
先月の4月21日に京都にて漫画の【祖母さまのお手々はだるまのお手々】が発表となった際には
大変お世話になり、その際に今日、お伺いさせていただく旨お伝えさせていただいていました。
今日は、爽やかな新緑の気候を通り越したような夏日をおもわせる中、久しぶりに九度山の町を歩き、心地よい汗を感じました。途中すれ違う地元の方々みなさんがとてもステキな表情をされているのが印象的で、案の定きっちりと道を間違えたため途中で行き方を教えてくださったお婆様もすごくステキでした。
旧萱野家にはすでに多くの観光の方がお見えになっておられ、その光景をとても嬉しく感じることができました。さて私は今回で2回目で前回行かなかった離れ座敷を案内いただきました。
鶯張の廊下を渡った奥の6畳のお部屋です。ここで大石順教尼さんがくつろがれたそうで、当事のままの和机が置いてありました。きっとここでで書や絵をしたためられたのでしょう。そしてこの和室の縁側からはステキなお庭越しに高野山山頂を拝むことができ、思いを馳せられたのでしょう。
※九度山町の紹介ページは下記となります。
http://www.town.kudoyama.wakayama.jp/dd.aspx?menuid=1398

2012 4/30 これだけは知っておきたい幕末・維新 (朝日おとなの学びなおし 日本史) 発売のお知らせ

一坂太郎先生が言われていた本が5/18に発売になります。これは朝日カルチャーで3年間お話しくださったさまざまな内容が一冊の本になりました。これは、幕末史好きな方は絶対にオススメの書籍になるとおもいます!



これだけは知っておきたい幕末・維新 (朝日おとなの学びなおし 日本史)