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2011/09/17

2011 9/17 教科書に書かれなかった幕末史 鉄道を造る

眠りについたのは明け方頃となり、ついに昨夜の九度山講談会の余波を引きずったままの朝日カルチャー「教科書に書かれない幕末史」となりました。
●鉄道を造る
鉄道は近代化の象徴~鉄道(イギリス)~原料や製品の輸送目的
1825(文政8 9/28)ストックトン-ダーリントン-ウィットパークの3つの炭鉱を結ぶ40Km
1830 マンチェスター-リバプールを開業~人間を運ぶ鉄道
1836 イギリスでの鉄道大成功 各国に続々と鉄道が引かれ始める。
日本では・・
長崎、プチャーチンが機関車の模型を持参してきた。
1854年 2回目のペリーも持参。このときにすでに鉄道の事に詳しい日本人がいたらしく所謂「鉄ちゃん第一号」である。
日本に鉄道を引く事にたいし反対意見も多くみられ、特に西郷さんは大反対。鉄道よりも軍隊を強化すべきとの意見。黒田清隆も事業中止を建白、大隈重信と険悪に。しかし洋行すると賛成派になった。
秘密留学生 (長州ふぁいぶ)の中の伊藤・井上勝が中心、中でも伊藤は明治2年2月に、大阪~神戸に鉄道をひくと早々に宣言。同12/5に三条実美、パークス、岩倉らが敷設を決定した。
大隈、伊藤が考えていたプランでは300万ポンドの大金が必要のためにホレシオ ネルソーレイと資金借用の契約を結んだが年12%と9%の差額を流用する事実が判明した為に首となった。
鉄道事業は工部省の担当(M10_10誕生)で、この省は近代工業推進の担当で鉱山、灯台、造船、土木等をおこなって民間に払い下げる方針。
慶応3年12月~小笠原長行(ながみち:幕府)、ポルトメン(米書記官:ペリーのオランダ語通訳官)の両名が担当となり、江戸~横浜間の敷設を許可していた。この契約内容は<5年以内に着手すること><3年以内に完成すること><機械類の輸入は無税>であるというもの。しかもこの鉄道を日本が買い取る場合は原価+50%を上乗せするという内容。
すなわち、幕府が考えた鉄道敷設は、アメリカまかせの契約であり、明治政府が考えた鉄道事業は外国人を雇い入れ敷設するという方針で双方の考え方に開きがあった。
明治2年1/11 横浜 東久世 通禧(みちとみ)が新政府に対し談判
明治2年2/10 旧幕府時代の話は無効であると通達する。
前島密(越後豪農の息子;郵政の父)
明治2年12月に民部省入り、鉄道事業に必要なお金を試算、鉄道憶測論により2,000万円と試算。
明治3年3月 新橋~横浜間 9/12に正式営業。 明治天皇参礼され開業式をおこなった。
明治5年5/7 品川~横浜間 外国技師により仮営業 1日2往復(50銭~1円50銭)
井上勝と外国技師とはたびたびに衝突。
がんこおやじ的な井上はナショナリズム的発送が強く、日本人だけの手で鉄道を造りたかった。
西日本では明治3年10/24に石屋川トンネルに着手する。石屋川は天井川のために川の下にトンネルを作ることにした。そして明治4年7月にトンネルが完成。このトンネルは昭和51年まで残っていた。
明治4年3月5日 イギリスより蒸気汽車が到着も、西日本の工事は非常に遅れており、これは強力な指導者がおらず東京からの連絡が早く回ってこないことに由来。それなら・・ということで鉄道寮を大阪に移転させる案がでたが山尾(長州ふぁいぶ)は中央集権が崩れるということで大反対。結果、上司の井上勝が辞職することとなる。
この事態に歯止めをかけることができる人物である伊藤博文は現在、岩倉使節団で不在。2ヵ月後に帰国、説得し鉄道守に据え一段落。
明治7年1月10日 鉄道寮は大阪に移る。
明治7年2月 井上が大阪に乗り込む。
明治7年5月11日 大阪-神戸間が竣工する。
AM6:55 神戸発梅田行きが一番列車。神戸の駅長は間島氏、梅田ステーション側の駅長はムトウマサアキ。高杉晋作の妹の夫で明治12年6月まで担当していた。
イギリスの鉄道は物資輸送で、民間主導で発達。日本は人を運ぶことを目的として国の
事業として発達。
日本の鉄道に寄与した井上勝は明治43年8月 ロンドンでたおれ享年68歳。鉄道事業に一生を尽くした。
東京駅丸の内には像が作られている。

さて、講座がおわり普段見ることができない映画の時間。
申し訳なかったのですが後ろの方に移動し2時間近く爆睡!
さすがに寝不足だったので、邪魔にならないよーにしてました。

その後、恒例の一坂先生を囲んでの飲み会は総勢10人。
幕末史ファンがこれだけ集まると話しが途切れることはありません。
なんとしゃべり続けて飲み続けて20時に散会となりました。

明日一日は、翌日からの入院生活の為に食事制限が始まります。
なので今夜のお料理はホントにおいしかったです。