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2011/08/19

2011 8/19 霰松原

難読地名は沢山ありますがおそらくこの地名も難読でしょう。

<大阪市 住之江区 安立>

これは< おおさかし すみのえく あんりゅう >と読みます。
古い昭和の香りを残した紀州街道の街並みの沿いに記念碑がありました。







安立町の由来
古く万葉の昔から海辺に沿うように紀州街道の松原の景勝地であったが元和年間(1615-1622)典薬頭半井安立という良医この地に居て その治療を受けに集まった近国の人々が住みつき一つの村落となり 安立町の名をなすに至ったという。
(霰松原旧跡・安立忠魂碑 整備委員会 )


そこで書かれている霰(あられ)松原とは・・・・


霰松原の由来

霰松原の名は「万葉集」(巻一)天武天皇第四皇子である長皇子(ながのみこ)の「霰打つ あられ松原 住吉(すみのえ)の 弟日娘(おとひむすめ)と 見れど飽かぬかも」の歌などでよく知られています。
 この地は、奈良・平安時代は海に沿った境まで続く松原で、白い砂と松の緑は四季を通じて素晴らしい景観をみせ、多くの人々が訪れ、大阪と河内南部のや紀州方面を結ぶ街道としても重要で「岸辺の道」、室町後期からは「紀州街道」とも呼ばれていました。
 天水分豊浦命神社(あめのみこまりとようらのみことじんじゃ)は、延喜式代の古社で、創建は詳らかではありませんが、「住吉大社(すみよしたいしゃ)神代記」にも記録されていることより千二百年以上経ており、明治四十年に沢之町の止止呂支比賣命神社(とどろきひめみことじんじゃ)〔若松宮〕に合祀されています。 安立町の由来は江戸時代初期の良医であった半井安立(なからいあんりゅう)が、この地に住み多くの人々を助けた徳により、その名を残して町名となったと伝えます。(財団法人 住吉名勝保存会)


 ちなみに、万葉集の原文は【霰打 安良礼松原 住吉乃 弟日娘与 見礼常不飽香聞】。
訳としてはこんな感じかな?
-あられ松原にあられがふっている。弟日娘?と一緒に眺めてみたら飽きることは無い-

う~ん・・弟日娘が何かわかんないです(-_-、)

それにしてもこの時代の海岸線はこの辺りだったのでしょうねー。
住吉は、住み良い場所。住之江も同じ意味だったらしく、海の神様の住吉神社さんに守られた景勝地だったのでしょう。