フランス風懐石料理中華風: 2011-06

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2011 6/26 蕁麻疹(じんましん)とダイエット

昨日夕方に予定していた慈光寺寄席はついに行けませんでした。
実は、10日くらい前の出来事・・・。ふくらはぎ付近にポツリとできた斑点・・。
「あれー?肌荒れかなー?」くらいのかるーい気持ちでいたけど、ある日、いきなりぶわっと増殖!
「あらら~ジンマシンだわー( ̄ω ̄;)」
アレルギーは元々無い上に変なのを食べた覚えもない。
まさか・・ダニ?それにしては体の関節部分の表裏やふくらはぎや肩の外側など、左右対称に出てきてる。
う~ん・・・。なんだろ。。
心当たりとしては、お酒を頂いた機会が続いたことと、お仕事上の夜更かしやらゴタゴタした間関係の問題。

ググってみたら、けっこう居られるのでびっくり。
病院でもよくわかっていないみたい。それでも
ストレス等のメンタル面や胃腸の弱り等の体調面に、気候の変化についていけてない等色々があるらしい。

痒みに任せて掻いていたらそりゃもう酷いことに(。>_<。)
根っからの楽天性格で「まぁそのうち治るかなー」と根拠の無い自信に任せて、液体ムヒのお世話に。
その液体ムヒもなんと3本目に突入になりそうなので、ついにあきらめて病院にいくことにします。

幸い、7月は9日まで特に講談会も落語会も無いし・・今のうちかなー。
しっかしまぁ、春先は花粉症で仕事が手に付かず・・そして今は痒みで仕事が手に付かず。。
花粉症は寝てしまったら大丈夫なんだけど、蕁麻疹は夜も眠れなくて、おまけに連日の熱帯夜。。。
もうヘロヘロ。。。。
睡眠不足だともうなにもかもダメ。。
蕁麻疹の記念写真を沢山撮影したんだけどあまりに汚くて掲載する勇気がないww
まぁせっかくの蕁麻疹体験なので、蕁麻疹の完治と、手足の傷が治るまでは絶対禁酒!
ついでに9月のシルバーウイークを目標にして5Kgくらいのダイエットに突入しようかと思います^^

2011 6/25 我武者らの会

先日から講談漬け。
ありがたいことに講談を聞いているときにはすっかりその世界に入り込んでいる。
その時間は間違いなく日常を忘れることが出来る。←ヾ(・・;)ォィォィ

定刻になると、旭堂南舟さんの簡単な挨拶のあと、旭堂南斗へ。

旭堂南斗 秀吉と利休

自ら元気だけがとりえですから!と宣言。他にもとりえはいっぱいあるんですけど・・。とかるーく笑いをとって講談へ。
このネタは昨年11/23の再演。当時は詳しく書いていないので今回は粗筋を書いてみます。
秀吉と利休・・・茶の湯の師弟関係ではあるものの、それが秀吉は面白くない。
利休が下座で秀吉が上座。それでは学ぶべきポイントもわからない。そこで利休を上座として秀吉が下座へ座ることに。
「藤吉郎!水をもて!」と利休が命令。その水の運び方に対して「腕が下がっている!目八分にもつのじゃ!」「足の出し方がわるい!」「畳のふちを踏んでいる!」等ぼろかす!
そこまでして茶の湯を学ぶのは何故?との問いに対し、「茶の作法に通じれば何事にも動じることはない」と言い切る利休に対し秀吉は、それでは利休を驚かせてやろう!と企んだ。
片桐勝元にアイデアを問いかけた秀吉に対し、槍の名手の亀井新十郎に茶を立てている利休の鼻先にいきなり槍の切っ先を突き出したら?と決まる!
しかし実際に実行してもさすが利休は動じることがない。
なんとか一泡ふかせたい秀吉はある日、深夜まで続いた雪見の宴の後でいきなり利休の屋敷へ行き、道明寺(お粥)を出せ!と乗り込む。

さて・・利休は・・・?

旭堂南舟 浪速侠客伝より 木津勘助

マクラではAKB48の総選挙の仕組みを解説された上、1位から40位のフルネームを講談調で言われました。小拍子と張扇でパパン、パパン、パパン、パパン、パンパンと合いの手入り^^

さて、私が講談でどうしても聞きたかったのが木津勘助。そしてその願いをかなえてくれたのが南舟さんでした。2009/5/25ですからもう2年も前です。当時のBLOGを読み返しても粗筋は書いていなかったのでせっかくなので書いてみます。

大坂の豪商、今橋に店を構える十兵衛の暖簾を頭で押し分けて男が入ってくる。
「ごめんやで。十兵衛、いてるか!」
その男の身なりは、立派な店に似つかわない質素で薄汚れた着物。
てっきり「菜売り」と間違えた番頭と一悶着がり当主の淀屋十兵衛が応対をすることに。
その男は木津に住む勘助。「おまえ、最近無くしたもん、無いか?」と非常に怒りに満ちた口調。
難波にある「鉄眼寺」へ墓参りに行った際に、ふくさ包みを無くし、その中には判子と20両の金が入ってあったそう。
勘助は和尚さんより、墓石の上に置き忘れていたふくさ包みを淀十へ届けるよう頼まれ持ってきたのだった。
「ご先祖様が大切で数珠を出すときについ、隣の墓石に置いた?となりの小さな墓石の持ち主も先祖が大切なんや。自分さえよかったらそれでいいという、金持ち根性が大嫌いだから怒ってるんだ」
と話すと、さすが大店、素直に自分の非を認めて、これがきっかけで、貧乏な勘助と大金持ちの淀屋さんとの奇妙な交際が始まった・・・・。

この話は落語にもなっていますが、私もこの木津勘助さんには非常に思い入れがあり、大坂の多数の民衆を救った正義のヒーローであることを知っている方があまりにも少なくて残念です。


旭堂南左衛門 左甚五郎伝より 竹の水仙

講談の練習についてお話をされました。題材として「三方ケ原戦記」。修羅場読みして講談の独特の口調を作るとの事。そんな修行を終え、先日は南舟さんが前座に。そして斗さんは今年12/15に晴れて前座となられるとのこと。


さて竹の水仙は落語ネタにもなっていますが、講談ではきっちりと設定がされているのが大きく違うところ。舞台は尾張の国、なるみの宿。宿屋の名前は大松屋。
もちろん落語のようなオチはありませんがそれでも設定が細かい分だけ世界に入り込みやすくなっています。


旭堂南舟  霧隠才蔵

九度山での講談会の話をされました。
九度山より著名なスポーツ選手を輩出しているらしく、現在の横浜ベイスターズの尾花監督、NHKのスポーツ解説で、日本代表野球の杉浦さん、PL清原の時の監督さん・・・?など。残念ながら私は野球がハテナな人なのでよくわかんなかったけど九度山恐るべしww


さて、関ヶ原の戦いで西軍に味方した真田昌幸と真田幸村は九度山で蟄居することとなった。
その長い蟄居生活の中で、父の昌幸が亡くなり、妻も亡くなってしまう。また上田にいた母も亡くなったしらせが。
ショックで気が抜けてしまった幸村は、高野山へ経を読む生活へ。

当時の和歌山藩主の浅野 長晟(ながあきら)は参勤交代の際に家康に、幸村の近況を尋ねられる。
「すっかり気が抜けてまるであほうの様」と答えたところ、家康は「そろそろはじまったか!」と一瞬でその裏を見抜いた。
それもののはず、毎晩、幸村は息子の大助に軍学を教えていたのでした。
さっそく幸村を暗殺に向かった忍びの者の山本九兵衛は・・・・。


今日はおもいっきり暑い日。動楽亭付近の駐車場はあまりに少ないために、大国町の駅前に停め、地下鉄で一駅・・の予定でしたが、あまりの暑さで断念してタクシーで会場まで。
15分前に到着したものの開場の13:30までは下の門が開いていないよう。すでに数人が暑い中で待っている。桂あおばさんが、旗を出しにきた際に「すぐに上がれるように往ってきます」と機転を利かせてくださいました。
高座で「暑いところ・・云々」よりも、あおばさんに行動のほうがはるかに説得力がある。
杓子定規は大切だけど、お客さんの気持ちを考えることの方が大切。当BLOGで説教めいたことを書く場合はすべてこのあたりがテーマ。春と秋だけじゃない。雪の日、雨の日、寒い日、暑い日があることを忘れちゃダメ。 

2011 6/21 第2回 南舟の会

第2回 柳谷観音 泰聖寺 旭堂南舟講談会


岸和田へ移り住まれて以降、初の南舟さんの会。
その近況やレギュラーのFM番組のラジオきしわだでのお話を交えて話されました。
ちなみに今夜はAKBネタは封印らしい。

旭堂南舟 :猫餅の由来

銘工左甚五郎。ふいっと東海道を行き、小田原の手前。街道を挟んで、「本家猫餅」と「元祖猫餅」の店がある。

おばあさんが一人で切り盛りしている「本家」と、若いお姉さんが多い「元祖」。さて、どっちの店に入ろうか…と思案していると、地の百姓が、猫餅の由来を話してくれた。それは…。
老夫婦で切り盛りしていた店に猫が住み着いた。たまと名付けたその猫は銭箱の上が大のお気に入りで、お客が代金の六文を銭箱の上に置くと、器用に前足で箱の中に入れる姿が愛らしく街道の名物となった。そこでこの餅を「本家 猫餅」として売り出すと大人気。

それをしった者は向に店を出し、餅をつく間だけでも、猫を貸して欲しいと頼み込んだ。老夫婦は快諾したものの、たまはすぐに帰ってきてしまう。怒ってついに杵でたまを殺してしまうのだった。
それからというもの、店は錆びれてしまった。

その話を聞いた左甚五郎は得意の彫り物で…。


落語では、「竹の水仙」「ねずみ」など甚五郎にまつわる噺があります。この「猫餅の由来」は移植されていない様。


旭堂南斗: 越ノ海勇蔵

ご贔屓の旦那より、体格に恵まれず五尺の身長であった勇蔵を弟子として預かることとなった柏戸関。見た目恥ずかしい弟子を持ったと、なんとか自分から相撲を辞めさせようと他の弟子を総出でこき使う。
そして3年。ついに今日を最後に辞めると言い出した勇蔵。
その日は本所回向院の出稽古の日。最後の思い出作りとして練習はさせないものの、見学として連れていくこととなった。

土俵の上の谷風関が胸を貸している様子を土俵脇で見ようとすると、先には上品な紳士が。これがなんと木村正之助。

土俵に上がれと進められ、谷風関に稽古を付けてもらうことに。そして、なんとあの雷電関も加わり意外な方向へ。


旭堂南舟:真田大助の初陣

ついに大坂の陣が勃発か…。豊臣も徳川も着々と体制を整えてゆく。

徳川方は、全武将が揃うまでは手出ししてはいけないと戦止めの連絡がされているものの、豊臣方で工事が進んでいる真田の出丸の様子を見るとつい仕掛けたくなるもの。

豊臣方の真田幸村の部屋に忍びの者が。どうやら明日の明け方に出丸焼き打ちの奇襲があるという情報がもたらされた。大助の初陣にすべく幸村は指示をだした。


「敵はわずか5500人の小勢である、その方、大助には500人の大軍を預ける」

いかにして少数で打ち破るか、真田大助の知略が炸裂した。


さて、終わった後は皆で円座を組んでお茶会が始まりました。おそらく1時間くらいかな?なんと言っても講談好きな人が寄り集まるこの敷居の低さがこの会の楽しみでもあります。

毎月21日に泰聖寺さんの境内で販売される超新鮮で安心なお野菜のお話や、講談の様々な話が入り乱れてお開きとなりました。

2011 6/20 かじやまち講談会

2011 6/20 かじやまち講談会

旭堂南華:青木民部と千姫
旭堂南華:無心は強い

行きなれない岸和田での開催ということで、この岸和田で創業80年以上の歴史がある某昆布屋の社長さんとご一緒させていただきました。



いつも出演されている旭堂南舟さんは、ラジオきしわだへの出演があるということで、旭堂南華さんのご出演でした。私はこの会場へはもちろん初参加、来場者さんを見渡しますともう毎回参加されているような男性の方ばかり。う~ん・・なんだか浮いてる気がしましたが、そこは遠慮なくど真ん中の最前列へ(笑)





マクラは南舟さんいじりww
いつの間にかスゥっとよってきて、スゥっつおした声で話し、いつの間にかいなくなってるという。そのシーンを描いただけでも南舟さんのキャラを知っている方は爆笑。
「姉さん、最近イズミヤのポイントカードを作ったんですぅぅ・・・・」という口真似をすると会場から「そうそう!南舟クンと、ようイスミヤで会うで~!」との声。
ご両親からは3年は帰ってくるな!との事。応援していますのでどうぞ頑張って日々の修行に励んでくださいね^^
たしかに、南華さん曰く「楽屋では気を配り、大きな声で先輩の用事をこなし、そしてムードメーカーにならないと使ってもらえない」のはその通り。益々の活躍を願っています。

○青木民部と千姫
大阪冬の陣が終わり、和議が成立。ところが豊臣方では和議の内容を巡り対立が目立ってくる。そこで秀忠は気持ちを纏めるために大酒宴を催すことに。その中の家臣、青木民部は家康の孫娘にあたる千姫を連れて来ると出世させるという約束が交わされていた。

大酒宴をチャンスと脱出する予定だった青木民部の部屋に突如、入ってきた真田の家臣1名。後へ続く真田大助。怒り狂う大助をなだめその家臣の話しを聞いたところ、自分と婚約を交わした紅梅を上司である大助が横恋慕したそう。
そんな恋の仲介をした青木民部に一つの案がひらめいた。
紅梅はなんと千姫のお付きの者。それならこの家臣の面倒を見ることで利用できるかも。。。

いよいよ夏の陣の火蓋が気って落とされた。この時がチャンスと千姫を連れて抜け出した青木民部。
念願の家康との対面の瞬間。
「おじいさまー!」と駆け寄る千姫・・・・そこで繰り広げられる予想外の行動とは・・・。その後の運命は・・・。

○無心は強い

兵庫湊川に住む「山本南流斉」それは立派な体格の大男。誰もが恐れおののくようないかにも怖そうな男の職業は「※さえもんがたり」(う~ん・・・講談はわからない言葉が出てくる・・・汗)
悪友がとんでもない商売を持ちかける。
それは、道場破り。ところが山本南流斉は見かけによらずまったくの武芸知らず。悪友曰く「木刀を交える瞬間に誤れば先方は、負けてくれたのか・・と考え、酒や食事のほかわらじ銭まで出してくだる」とのこと。
それならとさっそく江戸へ出てみると初めは失敗したものの徐々に上手く行くように。

ある昼前に目をつけた道場。そこは麻布にある長沼久太郎の道場。
いよいよ2人の対決が始まる。

道場のメンツや弟子達大勢が見ている前でまけるわけにはいかない!絶対に勝たねばならないと力む長沼久太郎。それに引き換え、打ってきた瞬間に謝るコトばかりを考えている山本南流斉。
勝負の行方とその後の顛末はいかに・・・。


いずれの話しも初めて聞いたので間違ってたらごめんなさい(m´・ω・`)m ・・・。
それにしてもあらためて感心した事が沢山。。。。後日記載します。

2011 6/19 第12回 講談祭

2011年6月19日 第12回 講談まつり




会場へは会場20分前に到着。時間前になると入場の列が出来たくらい。
講談ファンの芯の強さを感じました。
会場は前回より座椅子席が登場。この座席の事をグリーン席と呼んでいるらしいですが(南湖談)おかげさまで今回もきっちりグリーン席に座らせていただけました。
 
 
 
 
旭堂南斗 :雷電の初相撲

信濃国小県郡大石村の為造(ためぞう)は体格に恵まれ相撲の道を志すことに。
谷風梶之助の弟子となりいよいよ初土俵。
その相撲はとんでもないことに。


旭堂南湖 :谷風の人情相撲

非常に説得力のある口調で、しかもカッコイイ!なんどか高座を拝聴したけどこんなに近くは初めてww
もう色んな箇所に仕掛けをたっぷりな講談できっちりと笑わせてくださいます。
ホントに今日のネタを考えていなかったんだろうか・・・。ネタを二つ上げて挙手の多いほうを演じられました。

講談会では何度か聞いた事があるこのお話。特に谷風と佐野山の勝負のシーンの描写では今まで以上にスリリングに感じました
 

座談会 :【講談の歴史と講釈師について】 旭堂南左衛門・旭堂左南陵・旭堂南湖

なんどか歴史についての様々なお話を聞いた事がありましたが、この話しは初耳!
「講談社は、講談の速記本を出していたから講談社となった」
「浪曲本を出すようになってから講談の本は出さなくなった」
「講談と浪曲は仲が悪い時期があった」
さっそく講談社のサイトで確認すると、創業は1909年(明治42年)「大日本雄弁会」。
1925年には「大日本雄弁会講談社」と社名変更している。

また 生玉さんの境内で講談を演じる 宝永7年(1710年)御入部伽羅女(ごにゅうぶきゃらおんな)。
これは大阪の風俗を描いた書物のよう。実際に絵は中ノ島図書館のサイトで見る事ができる。
http://www.library.pref.osaka.jp/lib/zempon/zem29.html

また佐野孝『講談五百年』 という書物があるらしい。ぜひ機会があったら拝読したいものです。


旭堂左南陵 :○○○○○○
 
残念・・・実は中入りのタイミングで講談会の後の予定の調整が入ったので止む終えずグリーン席を離れ会場の一番後ろで拝聴。断片的に抜けてしまったので頭に入らなかった。。。
あぁぁぁ・・・・・・・・すごく悔やまれます。
東京弁での講談・・・まるでNHKの「日本の和芸」をナマで見ているような。。。
たしか・・家康のしかみ像(南舟さんに似てるとのこと)と太鼓の音がキーワードの話し。
 

旭堂南左衛門:水戸黄門 漫遊記 鮫川の渡船場 扇の掟
何時だったか、南左衛門さんから「上方講談に出てくる水戸黄門さんは大阪弁」というの聞いた事が有ります。たしかにその通りで、もちゃっとした感じもありますがこれがきっと標準語だとまたイメージがかわってしまうのでしょうね。
いつも以上の大熱演のうちに講談祭が終了となりました。
 
あぁぁ・・ほんとに旭堂左南陵の聞き逃しが心から悔やまれる会でした。
すぐさまタクシーをGETして次の場所へ移動・・。充実した一日でした。

2011 6/18 教科書に書かれない幕末史 ~脱落する人たち

2011 6/18 教科書に書かれない幕末史  ~脱落する人たち~

この内容は一坂先生から教えていただいたものを元に私が勝手に纏めているだけなので、私の認識不足から事実と異なる場合があります。
そんな時は素直に謝りますwwゴメンナサイ!

それでは、今回の朝日カルチャーの内容です。


明治政府があっさりと捨てたモノ・・それは攘夷思想。
幕末の時代を吹き抜けた尊皇攘夷思想。もとろん薩摩藩や長州藩の中にその思想は多かったはずが、政権を取ったとたんにあっさりと手のひらを返した感が否めない。

おもいっきりの縦社会であった藩という概念が、攘夷という思想によって、同士という藩の垣根を越えた横のつながりが形成されました。と同時に外国からの攻撃により、”日本人というアイデンテティ”が芽生えた。
悲惨な事件として神戸事件では壮絶な切腹をした滝善三郎は「自分は遠国の者故、外国人を手厚く保護するとは知らなかった」と強烈な皮肉を漏らしている。

古部の垂水にある舞子霊園内永服地福寺墓地にある「土岐一郎のお墓」は2mくらいの巨大なお墓。
元々和田岬にあったらしく、非常に古く誰の墓なのか長らく不明のまま。明治44年「西摂大観」ではお墓の側面に攘夷を感じさせる詩が書かれていることから、志士の墓ではないか?と記されているらしい。
さてこのお墓は調べてゆくうちに、神戸事件で切腹をした滝善三郎の部下で、外人を槍で突いた本人の墓ではないか?と判明してきた。
そこで、滝善三郎が眠る墓の横に並べては?という声があがるが。これにSTOPがかかった。
土岐一郎は偽名で本名は太田彦郎、小豆島出身(岡山の津山藩)。津山藩は洋学が非常に盛んな藩で、数年前に小豆島の住人が外国人の殺されるという事件が起こっていることから攘夷論者であったことが考えられる。
ある日、神戸へ出てきた太田は町を闊歩する外交人の数に驚いてしまう。そんな背景で津山藩藩士と激しい口論の中でついに明治2年2/24に和田岬で殺されてしまったことが判明。享年25歳。その後、彼の墓は「残念さん」と呼ばれて信仰の対象となっている。
それは攘夷を唱えた信念に教官を覚える人々が多かったことをあらわしているのではないか?

明治2年9/4の夜半には兵部太夫の大村益次郎が京都で襲われている。
村医者であったがオランダ語を学んだことで兵学所の翻訳を進めるうちに兵学者となり、フランス式の軍隊に傾向。当時考えた徴兵制はそれは画期的な方法であった半面、士族には恨みを買うきっかけとなっている。

明治2年8月 大阪を軍事の拠点とすべく関西へ。
さて、大村を襲ったのは「神代直人」ら8人。21歳~29人の若者たち。内長州人は3人。

明治2年7月には、京都で合流、それぞれが知り合い、西洋化を推進しているのは大村であると目的を決めた。
9/2には大村bに対する斬奸状を作っている。(神州之国体を汚し朝憲を蔑し・・・・)
犯行後は神代は長州まで逃げ帰ったところで捕縛。藩内で取り調べを行い、即斬首の後、太政官へ報告をしている。なぜ、京都へ引き渡さなかったのか・・・。おそらく世間では攘夷論がまだまだ盛んで、神代の名誉を守ることが目的だったのではないか。

元々、この事件を予見していた木戸孝允は、細かな注意を与えていた。
特に京都弾正台の不穏な動きを伝えている。

さて、襲われた大村は斬られたキズが悪化、大阪の鈴木町に移動しボードウィンによって足を切断したが敗血症により1/5に亡くなる。大阪市内にある巨大な碑にはあの東条英機の名前がある。
切断した足は東寺町の龍海寺にあり、これは彼の大阪に対する思いと同時に蕎麦に眠る緒方洪庵に敬意を示したのでしょう。
この大村の墓はなんと昭和14年にようやく建立されている。やはり、当時は攘夷論がまだまだ盛んで立てることが出来なかったのでしょう。

8人のうちの6人の処刑を行うことになった京都府。当時は府・藩・県がありなんともややこしい時代。処刑の寸前に京都弾正台の海江田より中止せよ!の指令が届く。困った京都府は太政官にお伺いを立ててようやく処刑を行った。そしてこの事件は山口藩の脱退騒動へとつながってゆく。

長州藩の奇兵隊は民衆を集めることでいまや5000人。
明治2年8月に山口藩を脅かす令が下った。四境戦争により手に入れた石見と小倉を返却することとなる。
これでいっきに収入の大幅減。この穴埋めとして不要な軍事力を整理するlこととして2250人は常備軍へ移行。残りは「はーい!解散!」(明治2年11月:諸隊解散令)
明治2年11/1 その処分により1200人が脱走し防府(宮田)に18の関門を築くことで2000人に膨れ上がる。
王政は幕政に劣る・・長州は徳川に劣る・・と嘆願書を出したり、大村の墓を暴いたりしていた。
明治3年1/24には藩知事の屋敷が襲われ、直属の干城隊を負かすと同時に、山口各地で農民の一揆が勃発。(脱退兵が鎮圧したという話も・・)
ついに武力鎮圧を決めた木戸孝允は2/8に実行したが翌日敗北。2/10には西郷が薩摩兵をつかうかどうかの打診があったがこれを当然断っている。2/11には体制を建て直しようやく制圧が行われた。
140人近くが処刑。島流しも多数。長州人同士が戦いあう事となった結果。

反乱兵の佐々木祥一郎は処刑される際はわめき散らした為に鉄の棒で滅多打ちしたあげくに首切りの後、さらし首。(宇部)
反乱兵の長島義輔の首を持ち帰った家族が仏壇に供えたところ鼻血をだして答えた。
多数の反乱の結果、死者を出した彼らの墓は・・・靖国に祀られる事は無かった。。。

この処刑をなんとか免れた多数の反乱者は実は、九州の久留米に逃げ込んでいた。
藩主は有馬頼咸(よりしげ)。幕末にはすでに軍艦を七隻も保有していた海軍力のある藩。

明治元年1/8には、徳川慶喜さんに力を尽くすことを決定し1/26には出発する手はずとなっていた。ところがその当日の1/26には藩の重鎮である不破美作(ふわみまさか)が攘夷論者の小河真文(おごうまさふみ)ら24人により暗殺された。もちろん12か条からなる斬奸状を出している。
この事件で久留米藩はあっさりと倒幕派に変更。
2/28には京都の警備を任されている。実は久留米藩は1000人から成る奇兵隊をモデルにした応変隊(討幕軍)と6000人の常備軍を持ち、外国と戦う為に軍を強化している。そこで山口藩から逃げてくる脱走者を匿うこととしていた。
粘着質な大楽源太郎は、西山塾を山口県大道で開いており塾生が神代直人。ちなみにこの横の村が大村の出身村。
たまりかねた山口藩は政府へこの久留米藩の問題をなんとかしてもらう為に願い出ていると同時に、久留米藩内では、中央政府への不満が高まってくることになる。

この背景で京都では大変な事件が起こる。

公家の愛宕直旭(おたぎみちあきら)と外山光輔(とやまみつすけ)が、東京へ行ったままの天皇を武力で取り返す計画を立てており、大楽らと階段を行い攘夷をも進めていた。
政府転覆計画・・・これは2府39県からなる大反乱計画となっていたが明治4年3/4に事件が京都で発覚。すぐさま京都で80人以上が捕縛。3/10には弾正台より久留米藩主に対し出頭命令が出され東京に呼び出される。
3/16には計画が漏れることを恐れ、大楽ら4人を筑後川で暗殺
この結果、全国で200人以上が処分され、明治4年12月以降には新政府に逆らうものは誰もいなくなった。

2011 6/17 大地震両川口津浪記石碑

大正橋の浪速区側にある石碑。大地震両川口津浪記石碑。こんな大きいのになんどか探したけどまったく気がつかなかった。
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000009171.html


堺大浜公園の擁護璽と同じように後世の人々への注意喚起の内容となっているとともに大きく違うのは、ちゅあんと保存していこうという心が感じられること。堺市も見習うできでしょう。

堺大浜公園の擁護璽
http://sweet-mikan.blogspot.com/2011/03/2011-322.html


~大阪市 ホームページより引用~

安政元年(1854)11月4日・5日に発生した地震と、それに伴う津波によって犠牲となった人々の慰霊と、後世への戒めを語り継ぐことを目的として長堀茂左衛門町(ながほりもざえもんちょう)の森氏が発起し、長堀茂左衛門町の家中と石碑の建つ幸町の人々が協力して建てた石碑である。
碑文には、地震の後船に避難した人が津波によって大きな被害を受けたこと、148年前の宝永地震でも同じことがあり、教訓を生かすことができなかったことが書かれている。
そして、年月がたてば伝え聞く人は稀となり、忘れ去られてしまうが、今後はこのようなことがないよう、災害を後世に語り継いで欲しいと結んでいる。
記念碑保存運営委員会では、毎年地蔵盆にあわせて石碑を洗い、刻まれた文字に墨を入れるのが年中行事となっている。
建碑の精神が、150年間受け継がれている意味においても稀有な例である。
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大地震両川口津波記(現代語訳)  横にある案内版より。。

嘉永七年(一八五四年)六月十四日午前零時ごろに大きな地震が発生した。大阪の町の人々は驚き、川のほとりにたたずみ、余震を恐れながら四、五日の間、不安な夜を明かした。この地震で三重や奈良では死者が数多く出た。
同年十一月四日午前八時ごろ、大地震が発生した。以前から恐れていたので、空き地に小屋を建て、年寄りや子供が多く避難していた。
地震が発生しても水の上なら安心だと小舟に乗って避難している人もいたところへ、翌日の5日午後4時ごろ、再び大地震が起こり、家々は崩れ落ち、火災が発生し、その恐ろしい様子がおさまった日暮れごろ、雷のような音とともに一斉に津波が押し寄せてきた。
安治川はもちろん、木津川の河口まで山のような大波が立ち、東堀まで1.4mの深さの泥水が流れ込んだ。両川筋に停泊していた多くの大小の船の碇やとも綱は切れ、川の流れは逆流し、安治川橋、亀井橋、高橋、水分橋、黒金橋、日吉橋、汐見橋、幸橋、住吉橋、金屋橋などの橋は全て崩れて落ちてしまった。さらに、大きな道にまで溢れた水に慌てふためいて逃げ惑い、川に落ちた人もあった。
道頓堀川に架かる大黒橋では、大きな船が川の逆流により横転し川をせき止めたため、河口から押し流されてきた船を下敷きにして、その上に乗り上げてしまった。
大黒橋から西の道頓堀川、松ケ鼻までの木津川の、南北を貫く川筋は、一面あっという間に壊れた船の山ができ、川岸に作った小屋はながれてきた船によって壊され、その音や助けを求める人々の声が付近一帯に広がり、救助することもできず、多数の人々が犠牲となった。また、船場や島ノ内まで津波が押し寄せてくると心配した人々が上町方面へ慌てて避難した。
その昔、宝永四年(一七〇七年)十月四日の大地震の時も、小舟に乗って避難したため津波で水死した人も多かったと聞いている。長い年月が過ぎ、これを伝え聞く人はほとんどいなかったため、今また同じように多くの人々が犠牲となってしまった。
今後もこのようなことが起り得るので、地震が発生したら津波が起こることを十分に心得ておき、船での避難は絶対にしてはいけない。また、建物は壊れ、火事になることもある。お金や大事な書類などは大切に保管し、なによりも「火の用心」が肝心である。川につないでいる船は、流れの穏やかなところをえらんでつなぎ替え、早めに陸の高いところに運び、津波に備えるべきである。
津波というのは沖から波が来るというだけでなく、海辺近くの海底などから吹き上がってくることもあり、海辺の田畑にも泥水が吹き上がることもある。今回の地震で大和の古市では、池の水があふれ出し、家を数多く押し流したのも、これに似た現象なので、海辺や大きな川のそばに住む人は用心が肝要である。
津波の勢いは、普通の高潮とは違うということを、今回被災した人々はよくわかっているが、十分心得ておきなさい。犠牲になられた方々のご冥福を祈り、つたない文章であるがここに記録しておくので、心ある人は時々碑文が読みやすいよう墨を入れ、伝えていってほしい。

安政二年(1855年)七月建立

2011 6/17 かしく寺 法清寺




大阪梅新の交差点北川にある法清寺。ここはかしく寺として信仰を集めています。
私も今回はじめておまいりさせていただきました。

※金久右衛門の右隣です。


掛ってある額の文字。

かしく様は、北の新地新屋敷の遊女でしたが、平素はおとなしい女に似げなく、酒を飲むと打って変わったように前後を忘れる癖があって、兄の吉兵衛からいつも意見をせられていました。或る日も、酒のことからいさかいとなり、遂にあやまって兄を傷つけてしまいました。兄殺しの罪でかしく様が処刑せられたのは、今から二百五十余年前の寛延二年三月十八日のことであります。
その処刑に臨んで、かしく様は、油揚を所望し、その油を髪につけてきれいにときつけ、町々を引き廻されたので、女の身だしなみを忘れぬ奥ゆかしさが評判となり、「八重霞浪花濱荻」 その他の劇や浄るりに仕組まれて、今に至るまでその名をうたわれています。
かしく様は、最後の一念で、自分と同じ悪癖になやむ世の人のために、悪酒を止め、酒に乱れぬ心霊とならんと誓願しましたが、この墓に香華を供えて立願する人の絶えないのはこうしたわけであります。
法清寺は俗にかしく寺といわれ、凶を転じて福となす〃よいまもり〃(酔い守り)を授与し、命日の三月十八日には毎年盛大なかしく祭りを執行しております。

2011 6/17 なにわ最強醤油ラーメン 金久右衛門 



 

なにわ最強醤油ラーメン 金久右衛門 
http://www.king-emon.jp/




「大阪ブラック」を頂いてまいりました。
食べログで1位とのこと、運良く12:30の段階で5分程度待っただけ。それでも
お店を出ると10人は並んでいたかなー。

しっかしラーメンは難しい。ホントに難しい食べ物ですねー。

2011 6/15 無添加工房 アンリ アップルパイ


最近、美味しいものを頂く機会が増えるとともに、真夏に向かって着実に体重が加速化傾向に!
たぶん夏痩せ対策なのかも・・です。

さて、街に出ると意外とパン屋さんって多いんですよね。
おそらくそれぞれの街には必ずそのエリアの銘店があることともいます。
そんな色々とあるパン屋さんの中でもアップルパイが超美味!なパン屋さんをご紹介します。
実はこのお店のアップルパイを頂いたのは今日で2回目!

無添加工房 アンリのアップルパイは超おいしいですヨ。
サックサクのパイ生地に絶妙な甘さのりんごがたっぷり!

箕面市の桜井店・牧落店・小野原店と、あとは吹田の北千里と全部で4店。
いずれも可愛い雰囲気のショップの中に個性的なパンが勢ぞろい。中でも
大人気はやはりアップルパイでしょう。
手間をかけて作り上げたアンリのアップルパイ♪
写真を見ただけでも・・どうでしょう?美味しさが伝わるかな?
牧落店はお店の裏側に駐車場3台ありました^^

http://www.apple-anri.jp/

2011 6/14 踊るうどん 梅田店

ひさしぶりに美味しいおうどんを頂きました。
大半のおうどんのデフォルトでマイタケの天ぷらが乗っていて、これがまたサックサクの歯ごたえなんですねー。
近年のおうどんブームで巷にも沢出来ていて、たしかに歯ごたえが。。。

といっても生ゴムや太っといゴムチューブみたいな
麺をコシだと勘違いした店が多い中で、まともに麺の味を感じる事ができる数少ないお店です。


大阪第3ビルはうどんの激戦区。たくさんのうどん屋さんがひしめき合い、しのぎを削っています。
そんな中で、きつねうどんや天ぷらうどんのメニューではなく、「まいたけ天ぶっかけ」や「まいたけ天生しょうゆ」がメインメニューなので意外でした。
おうどんが美味しいだけではなく、お店スタッフの心遣いも感心!いきなりハートを掴まれてしまいました。
頂き物のアップルパイを持ってお店に入り、座席に座るやいなや、「お客さま、それ(アップルパイ)、よかったらお店の冷蔵庫に入れておきましょうか?」ですよ!要冷蔵のケーキだとおもって気を配ってくださいったんですね^^
こんな一言のあるおうどんやさんはまず無いでしょう。。
大阪市北区梅田1-1-3 大阪駅前第3ビル B2F
TEL 06-6344-3760
平日 11:00~15:00 17:00~21:00
土日祝 11:00~21:00
第2.4.5月曜定休日

2011 6/12 第30回 りっくぷち寄席 〜パンチのきいた落語会〜

12時前に会場に到着。会場前の広場では手作り雑貨のお店が沢山終結^^
おもわず、パスケースとヘアゴムを衝動買い!これがいけなかった。。。
この後に、某芸人さんのお写真をプリントアウトし横の喫茶店で時間調整。
気がつくと、駐車券がない!・・・
カバンのいつも入れるところに入っていなくて、そこにはさっき購入したパスケースが。。「落とした・・・」。駐車場に書かれている注意書きには『紛失は2000円』と書かれている。。あっちゃーwww 
受付でおはなしして何とか2000円の刑は回避できて一安心。
なんだか気持ち的に凹んだままに会場入りをしました。


林家市楼 親子酒
いつものようにトップバッターイチロー!で始まりました。
父親が少しずつ酔ってゆく描写でハテナ・・な部分がありましたが客席を充分に暖めキッチリと要所で笑いが起こっていました。
もちろん私も楽しませていただきました。

林家染左 しびんの花活け
この話実は何度か聞いたことがありました。まぁユニークな話。
染左さん曰く、誰もせぇへん話には理由がある、おもろない上に解りにくい、そして覚えにくいとのこと。このネタはそんなことないですよー^^
古道具屋での冷やかし客=しょんべんという隠語がキーワード。また話の舞台が松屋町であることも親しみを感じました。
ちなみに手元の資料を見てみると。。

**引用**
オチにある小便とはスラングの小便に掛けてある。それは、元禄7年板「正直噺大鑑」赤之巻所収の「買うて小便」の冒頭の「商人の売買に値をつけて負けたる時、買わぬを江戸言葉に小便のするといふ」とあるらしい。
※上方落語の歴史 前田 勇著


笑福亭鶴笑 パンチ・パンチ・パンチ
紙芝居と連動した落語。ゴッツイ石松VSマイッチング原田のボクシング対決。
この後の対談で判明しましたがこの落語の狙いは、脳内で描くことがまだ難しい
子供さんの為とのこと。
試合直前に交通事故に合ってしまったマイッチング原田。お好み焼屋を営んでいる双子の弟が替わりに出場することに。ココまで聞いて・・これって花筏をパロってるん?と勘付いたがどうやら違う様。それでもなんとなーく似ているようだけど非なる話。

対談:林家花丸 笑福亭鶴笑
1年ほど前の深夜テレビのゲストで多数の若手落語家に混ざって出演されている際に演じられた「パペット落語」を見たっきりで中々実際の高座を見ることが出来ませんでした。日本での知名度は正直なところ今ひとつだけど、世界的に有名な方だということは存じ上げていました、しかしまぁここまで色んなエピソードがある方だったとは。。
小泉総理の際に、日本の文化を海外に紹介する任務を受けシンガポールへ。4年でプール付大豪邸に住むが、芸の向上のためにイギリスに移り4年・・今までに海外33カ国で公演をされている・・・というすごーい噺家さんだけど、まぁケッタイな方です(*^.^*)

林家花丸 あくびの稽古
落語のお手本のような忠実で丁寧な口調の花丸さん。
一瞬、宝塚のお話がでたので期待したのですが今回はご自慢の喉を披露はいただけませんでしたww<もらい湯のあくび>を省略されたのは、おそらく、対談が予想外に長引いてしまったので時間的な調整をされたみたい。

公演終了後には恒例の抽選会。いやぁ・・また運を使っちゃいました。花丸さんの手拭♪戴いちゃいましたww
これで、駐車券を亡くした凹んだ気持ちも無事に復活!

2011 6/5 第2回 イーグル寄席

  第2回 イーグル寄席
 6月5日(日)午後2時開演
新大阪 イーグルボウル 5階パーティルーム
木戸銭 前売2000円 当日2500円

 
笑福亭   生寿 「狸の鯉」
笑福亭   仁嬌 「船弁慶」
中入
桂    枝女太 「野ざらし」
旭堂 南左衛門 「左甚五郎伝より 竹の水仙」


第2回のイーグル寄席。前回よりも沢山入り、会場はほぼ満員で良い兆候^^
これもお3人の積み重ねの成果なのでしょうね。本当におめでとうございます。
いつもの通りだいぶ早めに会場に到着したおかげで色々とお話をすることが出来ました。

笑福亭 生寿 : 狸の鯉

生寿さんのこのお話を聞くのは2回目。
たしかに前回聞いたときよりもパワーアップしているのを確信しました^^
上海での落語会、賢い猿のお話からネタへ。
ちょっと・・生寿さん・・痩せた?

笑福亭 仁嬌 : 船弁慶

「弁慶ちゃうわい!3円の割り前じゃい!」
情景を描くのがすっごいキッチリされていてスッとその世界に入ることが出来ました。
上方落語で登場する喜六と清八。「3円の割り前・・・行こうか・・それとも止めとこか・・・」と優柔不断ぶりを見せる喜ぃ公。おもわずイラッとするくらいでした(笑)
その昔は他人の腰巾着となって遊興、飲食させてもらうものを上方語で弁慶と言ったらしいですね。

桂 枝女太 : 野ざらし

年に何度か聞く機会のあるネタ。
たたみかけるような妄想シーンのスピード感で場内大爆笑。
東京では「野ざらし」、上方では「骨釣り」


旭堂 南左衛門 : 竹の水仙

落語ではたびたび聞くことがありましたが講談でこのお話を聞くのは初めて。
こんなに細かな設定があったとは知りませんでした。

◆明らかに違うのは下記。
・尾張でのXXX(地名があったが忘れました)の宿での出来事であること。
・細川家は、左甚五郎の竹の水仙は将軍家に献上されたことを知っていて
宿屋の軒先の水仙に目がとまったこと。
・左甚五郎は細川家が貧乏である原因を把握していたこと。
・竹の水仙だけではなく、竹の花入れを造作していること。
・宿屋の主人は左甚五郎という名前は知らなかったこと。
・その使用した竹は七~八寸の竹を用いたこと。
・細川の使者の沢権太夫(ごんだゆう)と言う名前(落語では違う名前)

そして、なによりも、観客が初めから、汚い逗留客が左甚五郎であることを知っていて話を進める講談と、途中で正体が判明する落語。

また落語ではオチをお坊さんに求めたけど、講談ではキッチリと纏めた点。

大熱演の内にこのお値打ちのイーグル寄席が終了。
ぜったいにお値打ちの寄席です。

2011 6/1 わずか66年前の大阪大空襲

今からわずか66年前の今日、2回目の大阪大空襲があり港区の辺りは完全に焼け野原となりました。奇しくもその3ヶ月前の3月13日には大阪を舐めるような大空襲で奇跡的に残った場所も完全に瓦礫と化したそうです。
写真は、命からがら逃げ出した祖父と祖母が大事に持っていたアルバムの中の1枚。
《S14年頃 港区石田呉服町 空襲に備えた練習》
※石田呉服町1丁目と思われます。九洲軒という理美容店の看板が読み取れます。この写真の向い側に私の祖父・祖母と母が暮らしていました。私の祖母が写っています。
もし、知人が写っていましたらお申し出ください。
↓詳しい特集ページはこちらです。