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2011/04/16

2011 4/16 教科書に書かれない幕末史 大阪遷都計画

①4/16 大阪遷都計画 
②5/14 日本の形
③6/18 脱落する人たち
教科書に書かれない幕末史も丸2年を迎え明治に突入。今回のテーマである【大阪遷都計画】。
実はこのテーマは、ちょうどシーズンの大阪造幣局桜の通り抜けを実施した遠藤謹助氏に関係のあるテーマとのことで選定されたそう。
この講座のあとに造幣局へ移動し現地で勉強会の予定だそうだが、当方は残念ながら体調を崩していまして残念ながら不参加。
一坂先生から「え~!不意打ちを食らったみたいだ・・」とお言葉を頂きました。次回はおもいっきり参加しますのでご勘弁ください^^

慶応4年1月15日 明治天皇の元服とともに諸外国に対し王政復古を伝えた新政府は1/17に従来の三職(総裁・議定・参与)に、あと行政七科(神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度)を付け加え内政の充実を図ろうとする。長い間政治の枠組みからはずされていた在京の公家たちは、あたかも公家政権が戻ったかのように大喜びだった。

さて、この七科のうちのひとつの外国事務参与のポジションの大久保利通さんは、公家政権なんてそんな意味で倒幕を果たしたのでは無いと新しい日本の在り方を模索。そして、明治天皇の行幸を計画。まず男山八幡への参拝のあと、大阪の安在所へ行っていただく。

1/23 御所内にて太政官(新政府の心臓部)会議が開催。
このとき大阪遷都論を打ち出した。その意図としては・天皇を名実共に君主として世間に知らしめる・政治の発信地としての大阪にする・薩長中心政権の矛先をかわす・公家の為の天皇ではなく国民のための天皇とする・・・。
忘れてはならないのは、この時点ではまだ東北でのゴタゴタはかいけつしておらず、輪王寺宮を担ぎ東の政権を樹立させらてる恐れがあり、猶予はない。

2/3 天皇は二条城へ移動され親征の令を発布。
2/15 堺事件
3/14 五箇条の御誓文
3/23 御親征の名目で大阪へこられ、北御堂へ44日間滞在。
3/26 天保山で観艦式。※はじめて海を見られた・・。

着々と大阪遷都の道を進み始めていたが・・・ところが・・・。

前島密の遷都反対論。
大阪には大きな船入ることが出来ない。またせっかくの東京が寂れてしまうともっともなご意見。そしてついに7/17 江戸から東京へ名称が変更され、9/20には東京行幸の詔が出される。

この流れがあるので3月→9月までは大阪が首都になる可能性があったということになる。 
そんなゴタゴタの中で建設されたのが大阪桜ノ宮にある造幣局。(当時は造幣寮)


3/16には江戸の金座、銀座が接収。
4/11には江戸城の無血開城、貯蔵してあった資金は国財として没収。
そして、明治3年8月に大阪に造幣寮が建設された。

9/20には3300人の大所帯で東京を行幸。
10/13には天皇が東京入り。江戸城→東京城へ移動。
12月には一旦、京都て戻られている。

そして翌年3月(明治2年)・・・2回目の行幸が行われ、天皇は京都には戻ってこられませんでした。
また10月には皇后様も東京にいかれてしまいました。
許せないのは在京の方々。デモを行い首都の移転を反対する動きが激化。なんとか押さえ込もうと三条実美さんは2枚舌。
天皇はあくまでも行幸であり、ちゃんと帰ってこられますから・・・。大丈夫だから・・。の通達を出したまま、天皇は京都に帰ってこられることはありませんでした。
しかも面白いのは、いまだに日本の首都は京都。なぜなら、東京を首都にするという詔は出されていない。

その後京都の人口は35万人から7万人へと激減。
明治3年には産業基立金として10万両が下され、内3万2千両は西陣織り・・・1万8千両は桑やお茶の産業振興として使われたそう。 

さて、今日のもうひとつのテーマの造幣局。

遠藤謹助氏は映画【長州ふぁいぶ】の中の1人。ちなみに残り4人は【井上馨(鉄道の父)、山尾庸三(工業の父)、伊藤博文(政治家)、井上勝(政治家)】。
慶応2年にイギリスより帰国。その後神戸神戸運上所にて勤務。大蔵省へ入り明治3年(1870年)に造幣局に勤務。
当時は日本人だけでは鋳造はできず、オリエンタルバンクとの契約で海外より技術者が居り、その中のトーマス・ウィリアム・キンドルとの衝突によりいったん造幣局を去る。
明治7年8月には大隈重信への貨幣鋳造に対する意見書を提出したことがきっかけで、明治8年(1875年)1月には東洋銀行と契約が解消。
明治14年11月には遠藤が局長として復帰。
明治16年(1883年)より、桜の通り抜けが開始されている。
そして明治22年1月、最後の外国人のマクラガン氏が解雇され以降は日本人だけの鋳造となった。

造幣局建設の際は色々な汚職事件があったらしいが大隈重信さんらの手で一掃。国としての建設事業としてイギリスのウォートルス氏を雇い、洋式の耐火建築で建設をおこなうが連歌が無い・・・そこで作らせたのが、堺。大浜公園にはその跡地が残っている。

話は前後するが、遠藤謹助氏が神戸の運上所所長として勤務しているときに、神戸病院建設(今の神戸大学付属病院)の募金活動を行っている。
なんとその出資者の目録には〔伊藤俊介〕の名前が。しかも金額は100両!その目録のその箇所には付箋がはられていて〔未納〕と書かれているらしい。