フランス風懐石料理中華風: 2011

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2011 12/27 第一発見者!

通勤途中に、民家に突っ込んだトラックが!電柱と民家の間にすっぽり挟まっています。
どうやら、つっこみたてみたいで、ガラスなどが散乱している。

とりあえず、離れたところから写メを撮ってから駆け寄り、運転手さんに声をかけました。

「おっちゃん、怪我はない?」

弱々しく「あぁ…」と言う返事とともに「バックできる?」と尋ねられました。

状況は車の左ミラーは壁に当たっており、後ろ1mには電柱が控えています。
左目一杯ハンドルを切ろうとする運転手に、まず30cmだけまっすぐバックするように指示。

このあたり、中々、男らしい判断です(笑)

私はできるだけ大きな声で「ストップ!」と叫ぶ。
左前が壁から出たことを確認し、左目一杯にハンドルを切らせ50cm程バックさせてようやく脱出成功!

なんとか道路にでたトラック。

周りにはすでに騒ぎを聞きつけて数人が集まっています。

「おっちゃん、いま警察呼ぶからちょっと待ちなー!」と言うと

なんと車は走り出してしまった!!

「え~?・・あかんやん!民家へ当て逃げやん!

すぐさま110番して警察を呼ぶ。

まぁ、私も写メ撮ってるから構わないか…と思うと同時に、少年が走って鮮明な写メを撮影して戻ってきました。

今日は誰しもがカメラを持っているから悪いことは出来ないんですよね。

その後、すぐに自転車で駆けつけてきたおまわりさんに、色々聞かれました。
まぁ色々と・・。

それから30分後に解放されたものの、会社へ行ってからも警察から2回電話がありました。

聞かれる事はおんなじ事ばっかりで、ナニが聞きたいのかよくわかんないご質問を頂戴しましたww
もちろん出来るだけ協力するつもりだけど、たいがいにして欲しいってのが正直な感想です^^


で、翌日の朝。7:30・・・。警察から早速電話がありました。

事情聴取をしたいのできてほしいとの事。
毎朝の通勤ルートを少し変えたらいけるので快諾し9時にお伺いしました。

この建物、ガワはキレイなのですが中は意外と古くてびっくり!

廊下の一番奥のお部屋に入るとすでに5人くらいの男性が忙しそうにしています。
さっそく担当の方が着てくださって私の状況をひとつずつ文章にしてゆきます。
また、撮影した写真をプリンターへ赤外線転送し印刷。詳しい見取り図とともに再確認です。

「運転手さん、顔、覚えてる?」の問いに「はい!」・・・出てきたのは12人の同じ年頃の男性の顔写真一覧表。

「誰が運転手やった?」って・・ちょ・・・おま・・・あかんやん。
むっちゃプレッシャーやん。。。

それでも印象深かった目元と頬でクリア!おおよその年齢の質問も正解!

おぉ。。なんとか覚えてるもんですねぇ。

ってことで2時間。

¥2,900支給されたということでありがたーく頂戴し出勤しました。

この運転手さん・・私の手元から逃げた後、某場所で多重追突をされたらしくってびっくり。
裁判のときは私も出席かも。。。です。

2011 12/25 聯合艦隊指令長官 山本五十六

久しぶりに骨太の映画を鑑賞した満足感に溢れたと同時に、日本が行ってきた真実の歴史をあまりに知らなさ過ぎる自分に腹が立った。ネタバレしない程度に記載します。

世界大恐慌から逃れる道を戦争に求めた日本は悪化する国内経済を立て直すために海外侵略への道をえらんだ。
満州事変から国内で相次ぐテロリズム。日中戦争から三国同盟を経てよからぬ方向へ加速度的に進んでゆく。

国内の世論を煽るマスメディアと山本との対立が浮き彫りとなり、ついに最後まで三国同盟の締結を拒み続ける海軍もついに締結せざるを得なくなり戦端が開かれた。
その指揮を取ることとなったのが、皮肉にも最後まで締結を拒み続けた山本五十六氏。

あくまでも最後通牒にこだわりフェアな形を望んだが、奇襲という結果となった真珠湾攻撃から日本の泥沼式の戦争が始まってしまうことに。常に講和による終戦を念頭においた戦いを行ってきたがことごとく、様々な官僚の思惑が絡まってゆき最悪のシナリオへと進んでゆく日本。
これはフィクションではなく実際に日本で行われていた、わずか70年前の出来事であることをもっと認識すべきだと感じました。
この春の震災や原発の問題もけして美化することなく真実を描き事実を事実として伝えることが私たちができる努めなのではないでしょうか。

歴オタ的観点からすると、戊辰戦争で悲惨な目にあった長岡藩出身の山本五十六さんは、長岡藩の家訓である徳川への忠誠や米百表の精神、そして奥州列藩同盟の河合継之助のような質実剛健で正義感溢れる血をひいておられます。

※参照 http://sweet-mikan.blogspot.com/2011/02/2011-212.html

映画の中で表現された箇所で、気になったのは、明治維新からほぼ70年経過した時代でさえ、長岡藩が、長州や薩摩の部下を率いることに対する違和感の意識があったのでしょうか。
ぜひ若年層にも見てほしい映画「聯合艦隊指令長官 山本五十六」です。

2011 12/21第1回 旭堂南斗の講談会

■平成23年12月21日(水)19:00開演
■出演:
口上あり
旭堂南斗 「山内一豊とその妻・千代」「細川の福の神」
旭堂南左衛門 「正直車夫」
旭堂南青 「源平盛衰記・那須与一」
旭堂南舟 「赤穂義士伝・堀部弥兵衛の駆け付け」
■木戸銭:¥1,000
■場所:柳谷観音・泰聖寺(無料駐車場あり)



第1回 旭堂南斗の講談会 ~やっと正式前座になりました~

会場に到着してみてびっくり!泰聖寺さん2階のご本堂の座席は満席でした。
講談を愛する方々がホントに勢ぞろいしたって感じで嬉しかったです。
今回は初めての南斗さんの会!ということでご祝儀を出させていただきました^^


旭堂南斗 細川の福の神

寛永18年(1642年)12月の末のお話。江戸藩邸でのお話。
寛永の大飢饉で国許の庶民を苦しみから救うために様々な資財を売った為に
「貧乏細川」と呼ばれている。そんな藩邸の前に松飾売りが通りかかり、藩邸の前に立派な松飾を設置してもらうところから話がはじまります。
この松飾売りは武州八王子の三太郎。この者が設置した松飾が縁起が良いことで細川家の大出世がはじまる。


旭堂南舟 赤穂義士伝 堀部弥兵衛の駆け付け

いよいよ吉良邸への討ち入のその日。老体の堀部金丸弥兵衛は、時がすこし早いということで仮眠をとる。
家族の者は討ち入へ行かさぬようにそのまま寝入るよう声をかけずにいるが・・・。


旭堂南青 源平盛衰記・那須与一

講談はまじめに、真剣に聞いてはいけないですよー!のネタフリ。
ご存知、那須与一の物語。
那須一郎の以降に九郎が続いて平家へ加担。十郎の次が、十あまる一ということで与一だそう。
順に的を射抜く命令を断る際の、那須十郎ためたか(漢字がわかんない)の困顔と与一が引き受けた際の描写が特に印象的でした。
そして見事に冒頭のネタフリが生きて講談を終えられました。


旭堂南左衛門 正直車夫

南斗さんの名前の由来についてお話されました。
南斗(奈良出身で南都に掛けてあり、また輝く旭堂の星となれの意)
さて、お話は明治22年神田泉橋付近でのお話。
当事の総理大臣「黒田清隆」が登場。
正直者の頭には神宿る・・そんなお話でした。


口上

口上で演台の上には、旭堂南斗さん、旭堂南舟さん。
そして下手には旭堂南左衛門さん、上手には司会の旭堂南青さん。
南青さん「今の気持ちを四文字熟語で表すと?」
南斗さん「無病息災」・南舟さん「一意専心」とのこと。
今後のお二人のご活躍を心よりお祈り申し上げます。


旭堂南斗 山内一豊と妻・千代

織田の家来となった山内一豊。禄が十分ではなく非常に苦しい生活が続きます。
良妻の千代のおかげで名馬を手に入れることに。
無事、織田信長に目をかけていただき・・・。


終了後に、少しの時間ですが、旭堂南左衛門さんと、某カルチャーセンターの方と3人でお話をさせていただきました。本題はまたあらためて書くとして、南左衛門さんの師匠さんの3代目南陵さんと知り合った時のお話を聞かせていただきました。
やっぱ、講談って良いですよねー。
頭の中にそのイメージをかくことが出来れば、だれもがその世界に行くことができる。
時代や場所をえらばずに、笑いに涙、悲しさに楽しさをすべて味わうことができるんですから。
もちろん、落語も同じだけど、講談はひょっとしたらこれってホントの話じゃないの?と思わせてくれ、終わった後にいくつも知識が残る事にあるとおもいます。
私は、あんない長いお話を覚えることはできませんが、それでもそのエッセンスだけでも忘れないようにお話のキッカケだけを記述するようにしています。
すこしでも講談に興味をもたれる方が増えることを願ってやみません。

2011 12/18 講談まつり

会場は超満員!座椅子席、椅子席以外にもだいぶ客席を増やしたようです。
講談ファンが増えるのってほんとに嬉しいものです。
現在、七井コム斎と改名された元旭堂南半球さん(1976年生)が2011年の5月初旬にユーストリームで印象的な事を言われていました。なぜ、改名されたのか・・ の理由の件の中の言葉で、《講談は血湧き肉踊り、楽しいそしてほろっと・・、とにかくおもしろい、とにかく楽しい、とにかくワクワクするというのが僕の目指す講談》。といわれていました。
追っかけている一門は違えども、講談ってわくわくして、どきどきして。ほろっとして、にこっとして!これが少しでも沢山の方々に感じていただければ本当に嬉しいです。

旭堂南舟  般若寺の焼き討ち

いつも通りのほんわかムードで、携帯をお手洗いに流されたお話をされました。さて、ネタは難波戦記 般若寺の焼き討ち。スイッチが入ると口調もトーンもかわるんですねー。


旭堂南青 木津の勘助

私の一番大好きなお話「木津の勘助」。
お話の中で、淀屋十兵衛を叱咤するシーンがあるのですが、おもわず私もビクッとしてしまいました。
また2回も会場からいびきが聞こえるというアクシデントをうまく講談に取り入れ会場の注意を元に戻されるシーンがありました。本当にお見事でした。


客席参加型座談会 「旭堂南舟 南斗 前座のご挨拶」

司会は南青さん。
「実際にあった困ったお仕事での出来事」「将来の夢」・・等ベタな質問から繰り広げられる返答に見事につっこみ、会場に笑いにまきおこします。
南斗さんが、必死に回答するも南舟さんはニコニコ♪対照的なキャラのお二人です。
飛び入りで南湖さんが私服で登場!うまーくまとめてお開きとなりました。

旭堂南左衛門 水戸黄門漫遊記 鮫川の渡し 白扇の掟

3年で20席のネタを覚えて前座となるそうです。ちなみに南青さんは2年でマスターされたそう!
さて、まくらでは座談会で快調の飛ばした南青さんがまだご入門されたての時の思いでをお話しくださいました。
豪華客船飛鳥世界一周での講談会で南左衛門さんに「英語ができますから」ということでご同行。
途中のいろんなエピソードで「もう、お前、日本に帰れ!」って3回ほどあったようですww
今の南青さんからすると信じられませんねー^^

旭堂南北 柳田格之進
 

彦根藩家臣の柳田格之進は清廉潔白な人柄であったが覚えのない罪で職を失ってしまう。
碁会所で知り合った両替商の井筒屋十兵衛と気があって毎日、碁三昧。ある日50両が紛失するその疑いからつらい日々を過ごすことに。

南北さんの落ち着いた口調と間は私の心に滲みて終わると同時にもう涙が止まりません。
講談で泣いたのはほんと久しぶり。(私が講談に魅力を感じたきっかけがこのときの講談でした。演目は幸助餅。そして演者は旭堂南左衛門さんです^^)
人情話って良いですねー。また聞きたい講談師さんです。

2011 12/17 教科書に書かれない幕末史 ~琉球処分

今日の講義は【琉球処分】処分?え?って感じで始まりました。

H16に琉球大学の非常勤講師をされたそうで、松下村塾、高杉晋作さんのお話をされたそうですがあまり反響は宜しくなかったそうです。

明治新政府がすこしでも早く体面を保つために急ぎすぎた歪が北海道や沖縄に出ているのでしょう。
そういえば、沖縄の歴史ってほとんど知らないことに気がつきました。
同じ日本なのにまったく違う道を歩んできた沖縄の歴史を教えていただき愕然とした気持ちになったと同時に、とんでもなく酷いことをしてきた明治新政府に腹立たしい思いがしました。

明治新政府は明治2年に版籍奉還、明治4年に廃藩置県を行っていますが当時の琉球はまったく蚊帳の外。
ところが明治5年の9月14日には置藩を行い、はじめて琉球藩が出来ました。当時の藩主はそれまでの国王である尚泰(しょうたい)。

さて、琉球は1372年に隣国の明の進貢国となり冊封(さっぽう)関係を結んだおかげで貿易が活発化。
そんな琉球に悲劇が襲いかかる。

関ヶ原の戦いで勝利を治めた徳川家康より琉球制圧の指令が島津家に飛んだ。
1609年、島津の兵隊3000人が攻め入り首里城を制圧し、琉球は薩摩の不傭国となり1611年には、・奄美を薩摩にものとする ・薩摩に税を納める ・今回の戦の正当性を認める ・掟十五条
を守る(他国貿易・支配・税金・意識面)の掟を結ばされてしまう。
これにより薩摩藩に対する年貢や江戸への儀礼が必要となってしまった琉球。しかも中国(明)との関係も続いているために板挟み状態、その後、中国は明から清となったがその関係は継続し、非常に厳しいながらも王国としての体面を保っていた。島津は清に対して自藩の存在に気付かれないように注意を払わせたその反面、日本国内に対しては、琉球を制圧し、配下としたことをアピールさせたらしい。まったくひどい話です。

ペリーが浦賀に来た1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、実はそれよりも前の5月26日に琉球にきている。
なかば無理やり首里城へ入り開国を促すための大統領の親書を手渡した。

明治5年、新政府はそんな琉球に使者(ならはら・いじち)を送り報告させるとともに、琉球より政府へ
明治維新慶賀使節を出すことを要請。明治5年9月14日に明治天皇に謁見。
この時の外務卿の副島種臣より置藩とすることを命じられた。この認識では琉球王国が琉球藩となった呼称変更だけだから安心せよという雰囲気であったのか。。

さて、ここで勃発したのが明治7年の台湾出兵。
参照) http://sweet-mikan.blogspot.com/2011/11/2011-1119.html
明治政府は中国に対し、自国民が殺されたと宣言しているが、琉球にとっては大きなお世話!
この事件で琉球藩は外務省から内務省管轄。


明治8年7月10日 明治政府から命じられた役人の「松田道之」が琉球へやってくる。


松田道之は鳥取藩家老の又家来(陪臣)で、内務官僚。
明治新政府としては琉球を日本の一地方として組み入れたいわけなので、中国と縁を切れ!とか明治の年号を使え!とか刑法は日本国内法に準じろ!とか前回の台湾出兵のお礼を明治天皇に言いに行け!とか色々と言って来た。
もちろん琉球としては、呼称が変わっただけという認識なのですべてNO!
それならいっちょ武力で琉球を制圧しようかとの方向もあったが新政府はいまいち自信が無かったようです。

明治8年8月20日 三司官(琉球王国の上位クラスのお役人さん)が松田道之へ嘆願するがむちゃくちゃな理論を言葉でねじ伏せてしまう。
9月2日までに返事をしろ!という松田に対し9月7日に政府と交渉を行いたいという返答を行うとともに、その後何度も嘆願をおこなうがすべてNG!

不幸なコトにこのあたりから新政府は忙しくなってきた。というのは西南戦争が勃発(明治10年-)
琉球どころではなくなってきた。
琉球はこの間になんとかこの非道な話を東京にいる米・仏・和蘭・中国などの公使に収拾を依頼するも失敗。国際世論に取り上げさせて他国を後ろ盾にしたかったようだが、東京にいる琉球人をすべて退去させよという裏目にでる。

明治12年1月25日に政府の命令を無視して他国の公使へ接触したという理由で、松田がまた琉球へやってきた。この時の内務省TOPは伊藤博文さん。前任の大久保利通さんは暗殺されている。
同1月26日には琉球の内務省出張所へはいりその後首里城へ。
2月3日の10時までに返答をしろという松田に対し即答できない旨を返答する。
琉球はなんとか国際問題にしたかったのだが難航。松田は琉球人の出入りを監視し届け出が必要として。松田は捨て台詞「後日の処分を待っておけ!」を残して帰ってゆく。

そして3回目の松田登場!
明治12年3月25日に400人の軍隊と140人の警官をつれて首里城へ入ってゆく。


そして3月31日の正午までに退去せよ!という命令をだし4月4日には沖縄県と改名。4月5日には鍋島直彬(なおゆき※旧鹿島藩士)を県令とした。

実は恐れていたのは暴動であったのか、藩王一家を優遇、生活を保障、諸税を軽減することを松田は約束している。

この3月31日・・ついに首里城は内務省管轄となり、熊本鎮台がラッパを吹き鳴らしながら入城した・・琉球の最後の日で屈辱の日となる。

さらに追い討ちをかける。

藩王(尚泰)を上京させよという命令が下るがまぢで病に臥せっている
また琉球人は3人以上の集合は禁止というとんでもない命令まででてしまう。

ついに5月18日にはとうかい丸で上京。
6月18日には新県庁に従えという命令がくだる。。。

あまりにも強引すぎた方法の明治新政府。いままでの慣習や税制等を残す旧慣温存策で沖縄を統治することとした・・そのために沖縄に近代化は大幅に遅れることとなった。
そしてわずか66年後の1945年には第二次世界大戦の悲劇によりアメリカに接収。
戦後27年の1972年にようやく日本国となった。

2011 12/11 吉祥寺 義士祭

大阪の吉祥寺にて義士祭が行われました。
長く大阪に住んでいながら非常に恥ずかしいのですが、今回初めて参拝させていただきました。
我が町の歴史をきっちりと把握し、次の世代へ受け継いで行くことはとても大切なことと再認識いたしました。


浅野家大阪菩提寺義士の寺 吉祥寺
墓碑由来
大石内蔵助をはじめとする四十六士が元禄十六年(1703年)二月四日に切腹の後
足軽のゆえを以って幕府から切腹御免となった寺坂吉衛門が四十六士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀十両を添えて江戸では幕府に遠慮して墓の出来なかった義士達の冥福の為の建碑を依頼してたもので現在の墓は元文四年(1739年)義士三十七回忌のさい、大阪の豪商達が相寄り、造立したものである。戦火を蒙ったが中央の五輪の塔が、長矩候の墓で浅野本家芸州候が建てられたのも「冷光院殿浅野内匠頭、元禄十四年三月十四日」と自刃の日が刻んである。その向かって右側に大石内蔵助、左側に大石主税の墓、周囲は吉田忠左衛門をはじめとする四十四士の戒名と行年を刻んだ玉垣が取り囲み遺髪、遺爪、鎖かたびらが安置されている。


江戸幕府の庶民への義士信仰の制圧にもかかわらず人々の心は益々それに引かれていった。討ち入り後、四十七年目に上演された仮名手本忠臣蔵の浮世絵によって巧みに表現されて行くことになった。
義士討ち入り百五十年祭には当寺は絵はがきで配布した有名な木版を造立したが惜しくも戦災により本堂遺品共々消失した。平成十四年義士討ち入三百年祭にあたり巧みな石工に再現されたものでありその緻密さを労苦には頭の下がる思いがする。何時の時代にも物資を超越した義士の至誠報恩のゆかしい精神はこの討ち入り姿の石彫りで永久に伝承されるであろう。
平成十四年十二月十四日 大阪義士会


2011 12/11 金明竹?錦明竹?

ずっと金明竹は錦明竹だと思っていましたが、植物の金明竹なので当然タイトルは金錦竹。
江戸の石井宗叔(東都落語元祖といわれていて、埼玉県草加市の東福寺境内に眠る)の作らしい。金明竹は「まだけ」の一種。
江戸で出来た話で、道具屋に上方出身の男が飛び込んでくる。なのでなんとなくニュアンスが変な大阪弁が、上方へ移行すると共に、なめらかな大阪弁になっている。

※参考資料 上方落語の歴史(S33 前田勇著)

私は京橋中橋加賀屋佐吉方から参じましたが、先だって仲買の弥市をもって取次ぎました道具七品、祐乗宗乗光乗三作の三ところ物、刀身は備前長船の住則光、横谷宗珉四分一拵え小柄付きの脇差、柄前はたがやさんじゃと言うてでごわりましたが、ありゃあれ埋れ木で木が違うて居ますさかい、ちょっとお断わり申し上げます、自在は黄檗山錦明竹、ズンドの花活には遠州宗甫の銘がござります、利休の茶杓、織部の香合、のんこの茶碗、古池や蛙飛び込む水の音、これは風羅坊の正筆の掛物、沢庵木庵隠元禅師張り交ぜの小屏風、あの屏風は、私の旦那の檀那寺が兵庫にござりますが、その兵庫の坊主の好みます屏風やさかい、兵庫へやって坊主の屏風にいたしまする、こないにお伝え願います


わて、中橋の加賀屋佐吉方から参じました。先度、仲買の弥市の取次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所もの。並びに備前長船の則光、四分一ごしらえ横谷宗岷小柄付きの脇差し、柄前はな、だんなはんが古鉄刀木といやはっとりましたが、やっぱりありゃ埋れ木じゃそうにな、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。次は、のんこの茶碗、黄檗山金明竹、ずんどうの花いけ、古池や蛙飛び込む水の音と申します。あれは、風羅坊正筆の掛け物で、沢庵、木庵、隠元禅師はりまぜの小屏風、あの屏風はなあ、もし、わての旦那の檀那寺が、兵庫におましてな、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、かようお伝え願います


わたいなぁ、松屋町の加賀屋佐吉方から参じましたんやが、先度、仲買の弥一が取り次ぎました道具七品のうち、祐乗・光乗・宗乗、三作の三所物。ならびに備前長船の則光。横谷宗珉、四分一こしらえ、小柄つきの脇差。あら、柄前が鉄刀木やとの仰せにございましたが、埋もれ木やそぉにございまして木が違ぉておりますので、この旨ちょっとお断りを申しあげます。ならびに、黄檗山金明竹、寸胴切りの花活け。のんこの茶碗。古池や蛙飛び込む水の音、と申しますこれは風羅坊芭蕉、正筆の掛け物でございまして。沢庵禅師の一行物には隠元・木庵・即非、張り交ぜの小屏風。こら、うちの旦那の檀那寺が兵庫にございましてな、この兵庫の坊主のえらい好みまする屏風じゃによって、表具へやって兵庫の坊主の屏風にいたしました。と、かよぉお伝えを願いたいんで。

2011 12/4 第3回イーグル寄席

早いものでイーグル寄席は第3回となり、今回も盛況となりました。
今の上方落語、講談を担う方々が一同に介される寄席で、毎回いっぱい笑わせてくださる会として絶対にお値打ちのイーグル寄席。
参加必須です。あ・・駐車場無料もありがたいですねー。

林家染吉 金明竹

先日、第1回 おばま染寿丸の会で笑わせて下さったばかりの染吉さん。
まくらは師匠の染丸さんとの楽しい会話からネタに入られました。
旦那と丁稚は甥の関係で、現在13才。一人前の道具屋にするために奉公させているという設定が初めの会話で明確になっていて、日々の奉公の中での仕事に嫌気を指している様子がうまく表現されていました。
また、見せ場となる「今橋の・・云々」は、早口言葉になりがちだけれどあくまでも初回は、丁稚へ言付けを依頼していて、全部で3回言いますがシュチエーションが微妙に違う所が感じ取れました。
節々のちょっとした会話や表情にまで気を配っておられた、伸び盛りの染吉さん!今後が楽しみです。


旭堂南左衛門 西行法師

昨年の12月に東京でご出演されました松本幸四郎さんの歌舞伎での裏話。手作りケーキのお話、討ち入りの衣装をされた方々との会話。「メリークリスマス」は大変ユニークでした。いつもとおり聞かせどころをきっちり押さえられ、要所にぐっと引きつける箇所をいれられていました。

このお話は落語にもなっており、主題となる和歌に関していくつか微妙なパターンがあるようです。
中でも大きく違うのは下記・・ほかにもバージョンがあるのかもしれません。

当初の和歌
伝え聞く鼓滝に来てみれば 沢辺に咲きしたんぽぽの花

修正後の和歌1
音に聞く鼓滝に打ち見れば 川辺に咲きしたんぽぽの花

伝承~修正前(川西市のサイト)
はるばると鼓滝に来てみれば 岸辺に咲くや白百合の花

伝承~修正後(川西市のサイト)
音に聞く鼓滝にうちみれば 川辺に咲きし白百合の花
ちなみに、鼓滝の碑に行ったときのエントリーは下記です。

笑福亭仁嬌  くっしゃみ講釈

あまりの懐かしさに涙がでそうでした。というのも、私が中学生位の時に笑福亭仁鶴さんのLPレコードを何度も繰り返し聞いて当時記憶していた言葉とほとんど同じだったからです。

違うのは、噺の中に出てくる講談師の後藤一山(ごとういっさん)の風貌を旭堂南左衛門さんに置き換えている箇所でした(笑)
この記憶の良さを何故ほかに生かせなかったのか(笑)今となって、ネタを覚えていてもまったく役にたたないっw
ちなみに同じLPに入っていたのは、記憶では鶴光さん「お初天神」、演者不明「七度狐」「花色木綿」・・だったとおもいます。


桂枝女太  植木屋娘

昨日、お嬢さんがご結婚されたとのこと。本当におめでとうございます。
で、ネタも娘を溺愛する父親のドタバタなお話の「植木屋娘」。
植木屋の幸右衛門がくりひろげる娘のおみつをお寺の伝吉とくっつけるためのドタバタ噺。
とってもテンポの良い枝女太さんでした。

2011 12/3 上関の風景写真展

上関・・・中国電力の原子力発電の一件で有名になった場所です。
およそ3500人(1900世帯)が暮らす町が、建設賛成派vs建設反対派の悲しい構図と化した町です。

原発事故のその悲惨さはだれしも記憶に新しいところでしょう。
しかし賛成派の意見にも納得できる点はあり、それはこの上関で生まれそだった若者は職がないばかりにこの土地を離れ過疎化が進む状況に対し、原発誘致が起爆となり町が活性化するからです。
賛否両論ありますが、美しい風景やきれいな海は私たちだけのものではありません。

次の世代を担う子供達、そして未来へつなぐことが現在の私たちの使命なんだとおもいます。

そんなことを考えながら上関の美しい風景や素朴な住民のみなさんの表情を写し取った写真を拝見してまいりました。






【日時】12月2日(金)~13日(火)11:30~14:30/17:30~21:00
【会場】そば切り蔦屋(入場無料)
    大阪市中央区内久宝寺町2-7-14 
    06-6764-7074
【連携イベント】12/14(水)祝島茶会(トークゲスト:ないとうゆき)要予約/定員10名

◆同時開催

上関と朝鮮通信使ミニパネル展/上関物産物産の販売とケイトウの紙小物展

【主催】田那部工房
http://blog.livedoor.jp/atelier_tanabe49 

【お問合せ・茶会ご予約】
ateliertanabe49@gmail.com / 090-9993-9893(田邊)

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関連エントリー

2011 9/10 【さよなら原発】 小出裕章先生 講演会
http://sweet-mikan.blogspot.com/2011/09/2011-910.html

2011 7/11 STOP!上関原発!
http://sweet-mikan.blogspot.com/2011/07/2011-711-stop.html


2011 12/1 岸和田フェア開催


南海電車なんば駅(2F中央口)にて【岸和田フェア】開催中!~12/14まで




NHK朝ドラ見てますか?むっちゃおもしろいですねー。
岸和田ではいろんなイベントが行われているそうでさまざまな関連商品も生まれています。











中でも私のオススメなのはこれ!
ズバリ!カーネーション塩昆布!
南海電鉄なんば駅「岸和田フェア」
日時:12月1日(木)~14日(水)の2週間
平日:午前11時~午後9時 土日:午前10時~午後8時
場所:南海電鉄なんば駅2F中央改札前

20111 11/29 国会期成同盟発祥之地 ~太融寺

大阪梅田、いわゆるキタの太融寺さんは、淀君のお墓で有名。
境内にある、国会期成同盟発祥之地と書かれた碑がある。

撰文・・・

 自由民権運動は日本最初の民主主義運動であり
国会開設・憲法制定・地租軽減・地方自治・不平等条約撤廃などの諸要求をかかげて展開された

 一八八〇(明治十三)年 大阪で国会期成同盟結成
大会が開かれ国会開設の請願書の提出と国民的運動の方向が決定された

大会は三月十五日北久宝寺町喜多福亭で始まり同十九日会場を太融寺に移し四月八日まで白熱の論議が続きその後の全国的な運動の発展に画期的意義をもったまさにこの運動の舞台となったここ太融寺こそ国会期成同盟発祥の地であり、自由民権運動飛躍の場として永久に記念さるべきである

自由民権百年を契機に私たちは先人の遺業をたたえ
その進歩と革新の伝統をうけつぎここに記念碑を建て自由と民権が
永遠の真理たることの証とするものである
 一九八五年五月三日     撰文 黒田了一 


自由民権運動については下記参照

■士族たちの自由民権運動
http://sweet-mikan.blogspot.com/2011/11/2011-1119.html

2011 11/23 第1回 おばま染寿丸~大阪公演~

第1回 おばま染寿丸~大阪公演~

会場はたくさんのお客様で賑わっていました。さすが人気若手の落語会だと実感。
定刻までには、Jazzが流れるというお洒落というかなんともいえない感じでしたがけっして悪くない雰囲気です。。
さて、14時。
3人が高座へ上がりご挨拶。
まぁ、なんとも打ち合わせされていないグダグダ感はあるものの見事に生寿さんのアドリブでぐいぐいと引っ張って行きます。
今日の挨拶の打ち合わせの遅刻の話や染寿丸のきっかけ、今後の活動について会場を沸かせながら進めて行かれました。本当に息のあった3人だと感じました。

桂 福丸さん 阿弥陀池

久しぶりに福丸さんのお顔を見ました。なんだか表情がグッと絞まってこられ精悍さが加わりました。
マクラは師弟関係について。ご自身に弟子ができた時の名前をどうするか・・当然「福」はつけられないので「丸」をつけることになる。
阪急某駅のようで会場は大爆笑。私的にもツボだったりする。。さて、ネタは聞きなれた「阿弥陀池」。
うまくわかり難い言葉(抜身)や表現(左の乳房・・)を現代風に直したり割愛したりとすごく練られていると感じました。
新聞紙のくだりは深追いしないかわりに、「でこ(猫)に・・」「馬の耳に・・・」・・と反復の笑いを入れたり。
練習の成果が見える話でした。

 
林家染吉さん 禍は下

遅刻の理由はまぁ奇想天外なことでww
Qsモールやら市立病院やら、場所がわかるだけにとっても面白く聞かせていただきました。
ネタは浮気を主題にしたお話。特に女形のやわらかい表現がだんだんときつく移り変わる点は秀逸。


笑福亭生寿さん 軽業

福井の小浜へ行かれる際の車中のエピソードで、旅ネタから軽業かとおもいきや、
学校寄席で翁家 喜楽師匠の太神楽と一緒に出演された際のお話ですでに会場は爆笑。
ネタは軽業。何度も繰り返される怪しい出し物にひっかかる二人。
「一間の大鼬」「天竺の白い孔雀」「取ったり見たり」が続く前半と、軽業興行に入る綱渡り芸のいずれも見事でした。

桂 福丸さん 寝床

難しい噺なのにお見事です^^
浄瑠璃好きな旦那と番頭さんのやり取り、町内や裏長屋の者たちの会話、それぞれが鮮やかに脳裏に描くことができました。
3人に共通してなのですが、本当に上手くなられました。特に福丸さん、生寿さんはほぼデビューの頃から拝聴していましたのでその上達ぶりにびっくりです。
このステキな会がずっと続きますように。

2011 11/22 上関写真展開催のお知らせ(転載)

上関情報がありましたので転載いたします。

転載元;

「STOP!上関原発!」 メルマガ 第84号(2011.11.19)
      http://stop-kaminoseki.net/
***************************************************
上関写真展(大阪・京都・神戸)

瀬戸内の玄関ともいわれる山口県熊毛郡上関町。
現地で写真を撮っている方々にご協力いただき、近年映画にも取り上げられた祝島や、

朝鮮通信使の立ち寄った上関ほか、4地区すべての風景と、くらしの写真を集めました。

関西4か所にて「上関町の風景と暮らし」の写真展が開催されます。

◆展示スケジュール

【日時】11月15日(火)~20日(日)12:00~22:00
【会場】かぜのね(入場無料)
    京都市左京区田中下柳町7-2
     075-721-4522 http://www.kazenone.org/
【連携イベント】11/18(金) 祝島茶会(トークゲスト:ないとうゆき)要予約/定員20名
--------------------
【日時】11月23日(水)~27日(日)11:30~15:00/18:00~21:30
【会場】MOMONGA(入場時、1オーダー)
    神戸市東灘区岡本1-4-17 オギタビルB1F
    078-762-7600 http://www.kcc.zaq.ne.jp/momo/index.htm
【連携イベント】11/27(日)祝島ごはん会(トーク:田邊純子)要予約/お1人様1500円(税込)
--------------------
【日時】12月2日(金)~13日(火)11:30~14:30/17:30~21:00
【会場】そば切り蔦屋(入場無料)
    大阪市中央区内久宝寺町2-7-14 
    06-6764-7074
【連携イベント】12/14(水)祝島茶会(トークゲスト:ないとうゆき)要予約/定員10名

◆同時開催

上関と朝鮮通信使ミニパネル展/上関物産物産の販売とケイトウの紙小物展

【主催】田那部工房
http://blog.livedoor.jp/atelier_tanabe49 

【お問合せ・茶会ご予約】
ateliertanabe49@gmail.com / 090-9993-9893(田邊)

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とっても開催を楽しみにしています。
大阪のに行かせていただきます^^

2011 11/20 泰聖寺講談会

2011 11/20 第15回柳谷観音・泰聖寺 講談会 旭堂南左衛門 一門会

開場1時間前に到着。すると・・あれれ? 南青さん!
え?なんで・・・?と私の頭の中にハテナマークが浮かびながら始まりました。






さていよいよ開演!前説ではいつもご住職さんがでてこられるはずが、なんと旭堂南青さんがご登場!
今日は旭堂南左衛門さんがギリギリになるかもということと、ご住職さんが用事で出られているとのこと。さすが前説では、八尾グランドホテルであった実際にあった体験談で開場の雰囲気を柔らかくしてくださいました。

黄昏亭もみじ 真柄のお秀

越前山田村でとっても力持ちな女性のお秀のお話。
うまく纏めた感のある口調で話されたのが印象的でした。

旭堂南斗 難波戦記発端

12月21日に第1回の南斗さんの講談会が開催されるとのこと。今日もなかなか印象的な手書きのチラシが入ってました。メインの南斗さん、南舟さんに南青さん、南左衛門さんが参加されますのでおもいっきり一門会ですww

木下藤吉郎が13才、矢作の橋の下で野宿。ちょうど、松平竹千代が通りかかるとのことでたたき起こされ、「いつか、竹千代におれの草履をとられてやる」と誓う。そして時は流れ・・・。

旭堂南舟 乃木将軍の墓参

マクラは近況wwいつも通りのほんわかした雰囲気の南舟さん。
で、驚いたのが、ネタになって口調のスイッチが入るのはいつもですが今日はさらにメリハリがあって、その世界観にすっと入ってゆくことができました。
この話、すっごい楽しかったです。

「おいっちにー♪の人」=「薬屋さん」という比喩がわかりませんでしたが、そんなCMがあったのでしょうか。日露戦争で沢山の部下を亡くしてしまったことに責任を感じている乃木将軍。その感情がよく現れていました。

旭堂南青 難波戦記

昨日の大雨のの時に大阪玉手山にある後藤又兵衛のお墓でフィールドワーク中だったそう。
この場所に纏わる思いで話をしおてくださいました。、
さて、ネタですが、いやぁ。。。お見事!
大阪平野のある全興寺さんにある首地蔵さんへお詣りに行っていたので、その伝承を存じていましたが、講談ではまったく初めてです。。家安に次々と襲いかかる幸村。その臨場感!幸村の七人の影武者、三好清海入道ん等々すっかり大阪夏の陣の世界にトリップしていました。

旭堂南左衛門 蘇生の五兵衛

マクラでは先日出版されました『上方伝統芸能あんない』(著:堀口初音)の出版記念パーティに参加されたとのことで、ぎりぎりになるかも?ということで南青さんが来られることになられたそう。また、南左衛門さんの師匠さん、南陵師匠さんとの様々な思いでからこのお話につなげられました。南陵師匠さんは、酔われて講談をされるときにはこのネタをよく話されていたそうです。

このお話は新聞読み(しんもんよみ)というジャンルだそうで明治初年に実際にあり新聞に掲載された話とのこと。大酒のみの五兵衛が、褒美の50銭がもらえるということで焼酎を1升飲むことに。でろんでろんに酔って帰宅。なんと、胸を強打したことで意識を失ってしまう。
あわてた奥さんは医者を大慌てで呼んで見立ててもらったが、すでに息をしていない。翌日、お葬式が行われた・・その夜になんと・。。。
もう落語にもなりそうなこのお話!第爆笑ネタです。

この泰聖寺の講談会の良さは、会が終わったあとにあります。
みんなと一緒にさまざまなお話が繰り広げられます。
もちろん内緒のお話も多いので書くことはできませんが、南陵師匠さんと米朝さんのお話は珍しいお話だったと驚きました。

2011 11/19 教科書に書かれない幕末士 士族のたちの自由民権運動

さて、今回のテーマは士族の自由民権運動なのですが、とても難しい内容で、先生もなんとか理解させようと難儀されていたようです。私なりにまとめてみます。

自由民権運動は士族の自由民権運動の流れ(板垣らの立志社→愛国社)。庶民の自由民権運動の流れ(地租改正による決起)都市民権派(嚶鳴社、東京にいるインテリ)の流れがあり混同するとひっちゃかめっちゃかになってしまいます。

さて、今日のメインの板垣退助さん。土佐の上士で乾退助。革新的な考えを持つ、会津攻めの司令官であった時に官と民の格差(政治のあり方)を感じられたらしい。(※会津はとても大変な藩で、京都守護職になったために年貢の上昇があり庶民と武士の心がどんどん離れていった藩)
基本、軍人なわけで政治キャリアが無いのが引け目であったのか、征韓論を積極的に進めています。


明治六年の政変により明治新内閣が分裂。これは 征韓論が発端で当時の政府の首脳陣の西郷隆盛さん・板垣退助さん・後藤象二郎さん・江藤新平さん・副島種臣さん、そして多数の軍人、官僚が辞表を叩きつけることになった。

そして残ったのは大久保利通さん、山県有朋さん、伊藤博文さんらが実権を握った。 新しく参議となったのは左大臣には島津久光さん、参議兼海軍卿には・勝海舟さん、参議兼工部卿には伊藤博文さん、参議兼陸軍卿には山県有朋さん、参議兼外務卿には寺島宗則さん、参議兼開拓使長官には黒田清隆さん、参議兼左院議長には伊地知正治さん。

士族の自由門権運動は、簡単に言えば、征韓論に敗れた者たちが大久保独裁政権に対し政治的に対抗したものと捉えています。
この独裁政治になる経緯に大きく遺恨を残しているのは征韓論や出身藩、岩倉使節団に参加した者と残留組であったり、明治となり失業した武士らであったりします。

M6 11/5に品川の鮫洲にある土佐藩下屋敷にあった山口容堂の墓の前で海南義社を設立し、片岡建吉、林有造らが盟約を結ぶ。この時に文官も結束してできたのが幸福安全社をM7/1に銀座で設立。

その後、板垣退助さん、後藤象二郎さん、副島種臣さん、江藤新平さん、小室信夫さん(幕末に三条河原に足利の木造首をさらした張本人・ヨーロッパから議会制度を学んで帰国)、由利公正さん、岡本健三郎さん、古沢滋さんをさそって、【愛国公党】(M7 1/12)と発展。

そして連盟で民撰議院設立建白書を左院(立法議政機関)へ提出したのがM7 1/17.

ところがこの数日間の間に事件が起こる。

M7 1/14に岩倉具視が赤坂で襲われ、危機一髪。堀に飛び込んで助かった。遺留品から3日後に犯人が見つかる(1/17)これがなんと熊市熊吉(外務省 征韓論、板垣の仲間)で犯人の9人は7/9に斬首。
民撰議院設立建白書に対し、木戸は趣旨には賛成したが時期が早いと却下。岩倉襲撃事件のマイナス要素があり、もちろん当時の政府はなんとか握りつぶそうと必死だったに違いありません。
しかし板垣さんらは、当時のマスメディアを利用し、一般に広くしらしめました。そのときに利用したマスメディアが日新真事誌という新聞でした。

※国立国会図書館サイトに掲載あり。
http://www.ndl.go.jp/modern/img_l/S004/S004-001l.html

1/17 江藤新平はこの時点では東京にはいなくて、実は名前を貸しただけで実は佐賀県で不穏な動きがあると察して向かっていた。同時に林有三も向かっていた。
林は、鹿児島で西郷隆盛と会談している。
その後、長崎にいる江藤を訪ねたときには挙兵寸前。
2/13に江藤と別れたその夜にまた訪ねて、ビックリする話を聞く。

それは岩村精一郎が大久保に任命され佐賀県令として熊本鎮撫台としてやってくるとのこと。
この岩村は東北戦争で河井継之助の嘆願書をはねつけた人で、林の実弟。

張本人の大久保利通は佐賀の乱がおこることを見通しており、1/13には軍を動かす権利を得ており、2/5には鎮圧する手続きをおこなっていた。しかも江藤を佐賀へ送れば、導火線に火がつくことを見通していたよう。

そして3/1には佐賀城を政府軍に奪還。

江藤はすぐさま鹿児島へ飛び、西郷にHELPするが却下。3/25に高知へ飛び、林、片岡に武装蜂起を説くが断られてしまう。
元司法卿であった江藤新平は在職中に犯人の手配写真を全国に配布する仕組みを作っていたが、皮肉にもこの制度でつかまってしまい、中途半端な裁判により4/13にさらし首となってしまう。大久保は笑ったらしい。その後、愛国公党は江藤新平さんや島義勇さんを中心とした佐賀の乱により江藤新平さんが亡くなり消滅。

この時、板垣退助は御用滞在のために東京を離れることができなかったがようやく3/26に高知へ帰り、4/10に帯屋町の兵舎を借りて、片岡健吉さん、植木枝盛さん、林有造さんらと設立したのが【立志社】。同時に立志学舎を設立し、商社、法律などの勉学も教えた。

一方、大久保は内務省を設置し初代内務卿に就任。さまざまな政策を実施し台湾出兵もおこなった。

この背景には明治4年(1871年)に琉球の船が台湾に漂着した際に、乗組員69人のうち、3人が溺死、54人が台湾原住民に殺害されたことが背景にある。(宮古島島民遭難事件)日本は中国(清)へ抗議したものの「台湾原住民は化外の民(国家統治の及ばない者)」との回答を得た。 明治7年には米英の反対で中止を決定するものの西郷従道(隆盛さんの弟)の指揮で谷干城・赤松則良が3000人を率いて出兵し制圧した。(牡丹社事件・征台の役・台湾事件)
立志社も寸志兵を送ろうか?と申し出たが断られた。

その後、清国駐在英国公使ウェードの調停により清が台湾出兵を義挙と認めて、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款を締結し終結となる。

その後、全国組織である【愛国社】となりM8 2月には大阪で愛国社合議書を提出。太融寺さんには「国会期成同盟発祥之地」と刻まれた石碑あり。実際は士族40人が集まる。要は政府に入れてもらえない士族の集まりにすぎない。
M8 1月には大阪会議の結果、板垣は政府に懐柔され愛国社は解散・・・・。

明治の歴史は幕末以上に複雑怪奇。なかなか真実への手がかりが見えない、混沌とした時代ですねー。

2011 11/16 太融寺

久しぶりに大好きなお地蔵様に会ってまいりました。
お地蔵様というか・・これは「田のかんさぁ」(田の神様)だとおもいます。

右手にはおしゃもじ。左手にはすりこ木を持っておられます。

なんともいえない素敵な表情をされているとおもいませんか?
ぜひクリックして拡大してご覧ください。





前回、訪れたときには前掛けをされていましたので手が隠れていましたが
今回はなぁんにも無しでした。




この「田のかんさぁ」の向かい側には、大河ドラマで有名になりましたが
淀君のお墓があります。

淀の方(永禄10・1567-元和元・1615)
豊臣秀吉の側室、浅井長政の長女。母は織田信長の妹お市の方。
浅井氏の滅後、秀吉に養われ天正17年淀城に入る。
淀殿、淀の方とよばれた。
淀君は後の俗称、秀頼を生み、秀吉没後は大阪城に拠り豊臣方の中心的人物となる。
大阪夏の陣に敗戦、秀頼と共に自刃した。法名を大虞院英岩と寺伝にいう。明治10年城東鴫野より当寺に改装された。

梅田に行かれたらぜひおまいりしてくださいね^^

2011 11/12 第5回 大収穫祭in九度山

第5回 大収穫祭in九度山が開催されました。

今年の9月に開催されました旭堂南左衛門さんは九度山講談会へご出演されました関係で、来賓としてご招待いただきました。
で、私は会場までお送りさせていただくということで、久しぶりの早起きをして7時にご自宅へお迎え。

湾岸線~阪和道~阪南から岩出に抜けて九度山を目指しました。いつもは河内長野越えルートなのですが
どうもこのルートの方が早いようで、およそ2時間弱で到着しました。

例年にない快晴で暑いくらいの陽気になりました大収穫祭は、回を重ねるごとに大盛況!会場には朝早くからたくさんの方々が来られていて、中でもこの九度山名産の柿の詰め放題は特に人気です。また信州上田から直送のリンゴや様々な名産品が販売されていました。


10時から始まりました開会式。
沢山のご来賓とともに旭堂南左衛門さんも並んでおられます^^



【写真は、岡本町長さんのご挨拶】



【お昼は真田庵横の真田蕎麦♪】
新蕎麦の時期となりその風味を十分たのしませていただきました。
【素晴らしい秋の一日。真田庵にて。】





2011 11/11 1946年(昭和21年12月21日)南海道地震津波浸水水位


1946年(昭和21年12月21日)南海道地震津波浸水水位

JR海南駅のロータリに残る碑を発見。











昭和21年12月21日におこった昭和南海地震(M8.0)の震源は、和歌山県の潮岬(しおのみさき)の沖合い50キロの海底でした。
全国で1330人が死亡、3万5000棟余りの家屋が全壊または半壊しました。

昭和21年12月21日午前4時19分、強震が起きた。岐阜測候所の発表によれば、紀伊半島西南方の北緯123度、東経135度の海上を震央とするマグニチュード8.1の地震であった。この地震は、奥羽地方の北部と北海道を除くほとんどの地域で有感観測され、関東大震災を上回る規模のものであった。とくに強震であったのは、和歌山・徳島・高知・三重・愛知・岐阜の各県である。被害は全体で、死傷者・行方不明6603人、全半壊家屋3万5105戸、焼失家屋2598戸であった。また、地震にともなう津波は、西は日向灘から東は東京湾にかけて発生した。この地震は、戦後の復興途上にあった国民の物心両面に大きな衝撃を与えるものであった。
【※参照 岐阜市】
http://www.pref.gifu.lg.jp/bosai-bohan/bosai/bosai-oyakudachi-joho/saigai-siryo/nankaido.html
天武13年(684)、正平16年(1361)、宝永4年(1707)、安政元年(1854)、昭和21年(1946)年と、
繰り返し発生している。

2011 11/7 トマッシュ


カゴメから新発売!トマト味の炭酸飲料『トマッシュ』
透明感のあるロゼワインのような色合いを実現するために、特別なトマト原料を使用した新しい炭酸飲料です。レモンとジンジャーの爽やかな後味で、すっきり飲みやすく仕上げました。一日分のビタミンCを配合し、トマト由来のGABAも一本あたり12~42mg含み、気分転換したいときやくつろぎのひとときにおすすめです。
意外とおいしかった!












2011 10/30 第62回 めふ乃寄席  ピピアめふ12周年スペシャル 

久しぶりのめふ乃寄席。今日は12周年スペシャルということでゲストが2名こられます。
笑福亭鶴笑さんと桂枝女太さんです。
実はもともとは桂枝女太さんではなく桂きん枝さんでしたが早々に変更となっています。ちょうど9月の彦八まつりの際にきん枝さんに会いましたので、『楽しみにしています!』とお伝えしたのですが残念。それでも枝女太さんが来られるということで私的には、すっごくラッキー!さて、生憎の雨模様ですがお客様の入りはたいしたもの。座椅子席はいまいちだけど椅子席はほぼ満席で始まりました。

林家染左 道具屋根問

通常、寄席開始後の一番手は入門数年目の方や、年季明けの前座さんが出られるのが多いのですが、このめふ乃寄席は定評ある実力派でおもいっきり中堅のお三人がレギュラーなので前座さんはおられません。おのずとネタも前座さんがよくやられるネタを中堅ベテランの染左さんがされるのですから面白く無いはずはありません。
ネタの導入部のいきなりの会話からばっちりと心をつかみ、すでに爆笑の連続。いろんな方がされたこのネタですが間違いなく最高の演者さんでしょう。流れは「茶栗柿麩」「雀取り「鶯取り」から「がたろ釣り」へきっちりと笑いを取りながら演じられました。

林家竹丸  天災

子供さん方からの噺家への質問で、落語を行い易い会場とやりにくい会場のお話へ。
天災はわりとメジャーなお話。きっちりと無難に手堅くされた感がありました。


桂枝女太  ぴっかぴかの一年生

柔和な笑顔から繰り出される言葉のひとつひとつがよく吟味されていてお客様をぐいぐいとマクラの間に心を掴まれる枝女太さん。
三枝さんの創作の中でもずいぶん前のネタになりますが、これは名作ですねー。
中卒で必死に働き、ようやく町工場の社長になり、幸せな家族もできた。そこで息子と同じ高校の夜間部に入学し・・。そんな親子が繰り広げる笑いと涙のお話。


笑福亭鶴笑  パペット落語 三蔵法師

竹丸さんに間違えられた話と昨日のベガホールでのお話をハイテンションで話されるうちに会場はすっかり鶴笑さんの世界へ。
うまくお客さんをまじえながら話を進めてゆかれます。笑いは世界共通!見事なもので大爆笑の内に終えられました。これは必見の芸ですねー。

桂阿か枝 愛宕山

明石にある幼少のころから行き慣れた神社でのエピソード。ネタは愛宕山。このお話は春先のお話のお話なのでなぜチョイスされたのかわかりませんが、それでも小文枝さんを思い出させるこのお話は私の大好きなお話です。大阪のお茶屋をしくじった二人は基本的な性格はお調子者でいらんこと言い。
そんな性格を感じさせるポイントが要所に出てきます。


このめふ乃寄席は、ほんとにバランスの取れた良い寄席でお値打ちですね^^
次回は1月29日(日)お正月公演となります。
http://www.ac.auone-net.jp/~pipia/
これからもずっと続きますよーに^^

2011 10/29 堺探訪

一坂先生より堺市博物館資料の特別展「自由都市の軌跡」の入場券を頂戴しましたので見てまいりました。
またせっかく堺に行くのですから効率的に回るために色々とプランを検討し、淀屋橋スタートで下記の順序で回りました。

■大阪西区 土佐稲荷神社
現在の大阪西区にある大きな神社。元々は土佐藩邸にありましたので、土佐藩はよっぽ広大な敷地であったのか。さて、堺事件が勃発した翌日、土佐藩邸へ帰らされた一行に届いた通知はフランス側よりは当事者を含む20人を切腹させることを含むを5つの条件。さて誰が腹を切るか・・・・この藩邸でくじ引きで決め、翌日、堺にある妙国寺へと1000人
近い大行列で向かったそうです。


昨年の龍馬伝で一躍有名になりました岩崎弥太郎さんの家があったのもこの場所です。

【土佐稲荷神社を含むエントリー】
http://sweet-mikan.blogspot.com/2011/07/2011715.html


[堺事件を含むエントリー]
http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/09/2010-926.html
http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/11/2010-1120.html
http://sweet-mikan.blogspot.com/2011/07/2011715.html

■堺 天誅組上陸の地 堺事件勃発の地

[天誅組を含むエントリー]
http://sweet-mikan.blogspot.com/2009/12/20091219.html

幕府の天領の奈良五條へ向かう一行は天保山から舟に乗りこの地に上陸。一路河内長野を目指して進みました。
孝明天皇の攘夷熱にうまく取り入り国事周旋を働いた長州藩。そのポストを利用し都合よく立ち回ればよかったものの、エスカレートした行動に孝明天皇もさすがに不安になったご様子。
そんな中に出た次の勅は「大和行幸の詔」「攘夷親征の群議」。これでは幕府のメンツが丸つぶれ。
と同時に一足早く制圧を試みた中山忠光卿(明治天皇の叔父さん)を筆頭とした天誅組。
孝明天皇が不安を漏らした相手が悪かった。
中川宮朝彦親王が京都守護職会津藩。聞き付けた薩摩藩とが結託し、目に余る長州藩と奸臣久家を御所からの閉めだし作戦が決行された。
そうとは知らない天誅組は、河内長野の観心寺にお祀りしてある楠公さん参詣をすでに終えて、五條の町で大量殺戮を起こしてしまっている。この五條の町は、幕府の直轄領であり天領、しかも交通の要所であるのに警備が手薄ということで目を付けられてしまい静かな町が一夜にして大変なことになりました。
ところが閉め出し作戦である八月十八日の政変により孤立した天誅組は、天皇が幕府に駆逐せよとの命令を受けた、津藩、紀州藩等に鷲家て壊滅させられました。
えらいこっちゃと長州藩。言い訳を書いた「奉勅始末」も見事に受け取り拒否。
こうなったらと、いっそ武力で京都へ乗り込むか?なんとか長州藩のイメージを良くしたいとおもった矢先に大阪南御堂前で不可解な事件が起こる。これも実は長州藩が世論を長州贔屓にするための仕業。
ところがせっかくのイメージアップをしたものの不幸にして池田屋事件がおこり怒りは頂点に達する。
御所凝華堂を目指し三方から進軍した長州は蛤御門で敗退。
まさにふんだりけったり。

■千利休邸宅跡
まさにラッキー!
普段は柵の外からしか見る事ができないはずが、今日はイベントで目の前まで!
じっくり拝見させていただけました。







■堺市博物館
日本ではおもいっきり戦国時代。
そんな中で東南アジア諸国と貿易を行っていた日本には様々な物資は輸入され、その起点としての堺の地はNHKの[黄金の日々]でも描かれたようにいろんな物が輸入されています。実際に町の様々なところから当時の中国、インドネシア、タイ、ビルマなどの陶磁器が発見されています。
それより驚くべきはヨーロッパやアフリカ、アジアの地形をほぼ忠実に書いている様々な地図の存在です。衛星写真などあるわけもなく、実際に目視で描いたとしか考えられません。
堺の発展の原点についてお勉強させていただきました。

同時に開催されていたのが[大和川付け替えに関する資料]
おもわず小躍りしてじっくーり拝見。当時の中甚兵衛さんのご苦労がしのばれます。

■妙国寺
今日の堺は観光ボランティアさんがいっぱい。
講談ネタの[門屋舟の由来]では、本能寺の変が起こった時に徳川家康はこの妙国寺でお茶を嗜んでいたそう。
何度目の妙国寺になるかわかりませんが、やっぱり堺の歴史上を語るには外せないSPOT。





森鴎外さんの小説は青空文庫より読んでいただけます。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2547.html




森鴎外さんは陸軍軍医であり、官僚。なのでどうしても日本人贔屓でその文章には誇張が感じられます。
実際の検証を行い様々な角度から調べ上げた大岡 昇平さんの堺港攘夷始末 (中公文庫):ではまったく違うイメージで書かれておりリアリティを感じます。

慶応4年(1868年)に発生した事件で様々な節目で慰霊祭が行われているよう。そのたびに碑が建立されている。ここで気になるのは
切腹した現場の妙国寺さんと埋葬された向井側になり宝珠院さんとの関係。
書物では、本来は妙国寺に埋葬するはずが皇室勅願寺に罪人を埋葬することが憚られたために向かい側の宝珠院さんへ埋葬したそうです。実際はどうだったのでしょう。

慶応4年、そしてすぐに明治元年となり人々は新しい時代を感じていたのでしょうか?

~森鴎外 堺事件より~

妙国寺で死んだ十一人のためには、土佐藩で宝珠院に十一基の石碑を建てた。
箕浦を頭に柳瀬までの碑が一列に並んでいる。宝珠院本堂の背後の縁下には、九つの大瓶が切石の上に伏せてある。
これはその中に入るべくして入らなかった九人の遺物である。
堺では十一基の石碑を「御残念様」と云い、九箇の瓶を「生運様」と云って参詣するものが迹を絶たない。

宝珠院が堺の観光地となることで当然ながら妙国寺側はハテナな気持ちが芽生えてくる。そこで記念イヤーには法要を盛大に行う事が必要だったのかもしれません。
境内には50年・70年・100年など節目におこなわれた法要の碑がありました。
と同時に宝珠院さん側には下記のような碑が・・。



道しるべの横に立つ石碑は
【殉難 戊辰 土佐十一烈士墓所 】(大正六年五月弔魂会建立)
と記されております。 事件より50年後です。









【史跡名勝天然記念物保存法に依り昭和13年8月文部大臣指定】
【史跡土佐十一烈士墓】と書かれています。
事件よりちょうど70年となります。


2011 11/27 大石順教尼の世界のご案内

大石順教尼の世界
順教尼とその弟子達の作品展

期間:平成23年11月2日~12月4日
時間:AM10:00~16:30
休館日:月・火曜日
場所:旧萱野家(大石順教尼の記念館)





○同時開催
ドキュメンタリー映画【天からみれば】上映会

日時:11月27日 /会場:午後1時
開演:午後2時 /場所:九度山ふるさとセンター5階大ホール /入場料:500円

◇私のBLOGから~
http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/05/2010-56.html


http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/05/2010-511.html
http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/11/1314.html

 
大石順教尼さんの事を知ったのはまだわずか数年前。
そして著書を拝読。
 
【無手の法悦】(むでのよろこび)
 
踊りの名手でわずか11歳で名取となった彼女の人生を大きく変えた事件が17歳の夜におこる。
養父の内縁の妻に対する邪推から6人を殺傷(※堀江六人斬り事件)し、なんとか一命を取り止めたが
こと惨劇の際にはなんと両腕が切り落とされていた。
この事件がきっかけで大きく人生が変わった彼女のその後の様々な運命を描いた実話。
 
生きることに疲れた・・なんて甘えた事を言ってる人は必読の書!



2011 10/26 上方講談系図

上方講談に関する系図を纏めてみました。講談ファンならぜひ知っておきたい上下関係(笑)
誤りがありましたらご指摘くださいませ。尚、入門年度はwikiを参照しております。
【上方講談協会】

3代目 南陵 (1917年(大正6年)1月25日 - 2005年(平成17年)8月17日)

┗左南陵(1972年:大分県)

┗南陵(1968年:堺市 ※)⇒大阪講談協会へ

┗南左衛門(1976年:三田市)
┃┃
┃┗・南青(2004年)
┃┃
┃┗・南舟
┃┃
┃┗・南斗
┗南鱗(1976年入門:大阪市阿倍野区)
┃┃
┃┗・華鱗
┗南北(1980年:広島)

┗南華(1985年:貝塚)

┗南海(1989年:加古川)

┗南湖(1999年:宝塚)

【大阪講談協会】

※4代目南陵(1968年:堺市)

┗・太平洋(1991年:箕面市)

┗・小二三(こふみ:2001年:)

┗・南陽(2001年:)

┗・南洛

┗・みなみ
┗・南照
(2011/10/26 改訂)

2011 10/23 退院祝い!

入院騒ぎから1ヶ月と少しが経過。
無事社会復帰をする事ができました。
で、昨日のアシスト亭にご出演されました旭堂南左衛門様より退院祝いにとケーキを頂戴しました。
帰宅して、開けてびっくり!わたしの名前入り!!
むっちゃ嬉しくて♪嬉しくて♪
この歳になり、名前の入ったケーキを見ることが無かっただけに感動!

もう食べずに置いておきたいくらいHAPPY!
嬉しくてついBLOGにUP!

2011 10/23  第11回 アシスト寄席

2011/10/23 第11回 三国・アシスト亭

この会の趣旨は、長いこと演じていなかったり、初めて挑戦するネタを行う場所、何ともいえない緊張感が感じられます。
また、演者さんとお客さんの距離がすごく近いのもこの会ならではです。
今日、出演される予定のない、仁嬌さんのお弟子さんの嬌太さんや南左衛門さんのお弟子さんの南斗さんもお見えになっています。
ここ数ヶ月間は頻繁に南左衛門さんに会う機会があっただけに、例の入院騒ぎで1ヶ月と少し会えませんでしたので久しぶり感があり、なんだかとっても嬉しく感じました。


旭堂南舟 伊達の御殿場

マクラなくいきなりネタへ。
本題に入ると声の調子が太くなるところは南舟さんらしいです^^。
初めて聞いた講談ネタでした。
確実に上達されているように感じました。


桂三幸  桃太郎

三枝さんの12番目のお弟子さんとのこと。ということはマクラは三幸さんが実際にされてきたバイトの中で印象深かった「NHKの集金」のお話。
また、戦場のピアニストの話。私的にツボ!
きっとネタやとおもいますが、おもいっきり笑わせていただきました。

ネタの桃太郎はこなれた感があり若干、割愛したバージョンでした。
それでもきっちりと纏められていて「繰り返しの韻」を踏んで笑いをとられていました。


笑福亭仁嬌 首提灯

マクラはご自身の独演会の宣伝。
残念ながら夜なので参加できなくて残念。
さて、本題は新しい刀を手に入れた侍の試し斬りの噺から上燗屋へ。
その酔った描写は見事で、さすがです。


桂枝女太 饅頭怖い


マクラで話されたお話。「落語ブームがおこる前から落語はあった。」「20年以上前に阪神が優勝してから阪神ファンが増えたが、それ以前より阪神はあった。」
なるほど。。たしかのその通り。
ブームってありがたいことだけど、その裏に隠れているコトってこわいなーって思いました。
さて、ネタは本町の曲がりで身投げする女を助けたくだりの無い、短縮バージョン。
投げた饅頭の銘柄もベタなところをきっちりと押さえた内容。
こなれてくると、このあたりが変化してくるのでしょうねー。
表情豊かな枝女太さん、臨場感たっぷりでした。



旭堂南左衛門 難波戦記より霧隠才蔵の誕生

九度山での講談会での思いでがフツフツと蘇る思いがしました。
ながく愛される難波戦記。話が完成されているだけに演者さんの腕が試されるお話なのでしょうう。


さて、このアシスト亭の魅力は会が終わったあとの虫養いタイム!
おいしいコーヒーに自家製のスイートポテトをいただきました。
で、その時のお話は前回のチラシの間違いの話。実は今回も誤りがあり南左衛門さんの演目の「霧隠才蔵」が「雲隠才蔵」になっていることが発覚!
実は次回のイーグル寄席でも染吉さんのネタに間違いを発見ww。
そんないろんな事がある愛すべきアシスト亭です♪

南左衛門さんより出版の案内がありました。

上方伝統芸能あんない: 上方歌舞伎・文楽・ 上方落語・能・狂言・上方講談・浪曲・上 方舞
堀口 初音 (著) 創元社 ¥1680
この本の中に九度山での講談会のチラシが掲載されていましたので、さっそく九度山の住民クラブへご案内させていただきました。

2011 10/22 柏原 笑好寄席

2011/10/22 第8回 商工会創立60周年記念興行 笑好寄席

昨夜からの強雨で心配していましたが、今朝からはだいぶマシになりなした。
13時には会場に到着、すでに数人がこられていました。開場時間前にはたくさんのお客様がこられていましたので急遽開場を早める人気ぶりとなりました

笑福亭 呂好

マクラなくネタの投入。ネタは「色事根問」。
女性にもてる秘訣の1番から10番までを話したところでシンプルに終了しました。
それでも山代名物宇治の蛍踊りで会場はHOTに。


笑福亭 扇平

22年目とのことで立派な中堅。会場の広さや男女比率、客層等のネタや一分線香即席話で心を掴む。
中でもネタにつながる浮気ネタを連発。その流れでネタは「風呂敷」。
この「風呂敷」は初めて。
内容は旦那のいない隙に、呉服屋清吉を自宅に引っ張りこむ奥さん。
そのまま旦那は一人酒。
押入に清吉を隠してその間に奥さんは仲人さんに相談して奇想天外な方法で清吉を逃がすことに成功する。


桂 小枝 (特別ゲスト)

本来は小枝さんのはずですがなぜか文三さんが登場。桂小枝さんがまだ到着されていないとの事。

桂文三

ご本人はお酒は飲まれないとのことです。きっと飲まれないだけに酔っぱらいさんを観察されているのでしょうねー。
酒飲みの会話なんかも注意深く聞いておられるのかもしれません。


ネタは替り目。
奥さんにおでんを買いに行かせた間に旦那の泣きが入るが実際は奥さんは買いに行ってなかったのですべて聞かれてしまう。
この箇所で小枝さんが到着したとのことで、ぶった切った形でもったいないですが高座を降りられました。

で、小枝氏が高座にあがられるのかとおもいきや、なぜかまた文三さんの登場。

もう少し繋いで欲しいという指令があったのでしょうか。
いきなりの高座で、急遽、寄席文字についてのお話をわずか5分程度されていよいよ小枝氏の登場か。。。

とおもいきや中入りに突入!?

~ 中 入 り ~

中入りに突入したかとおもうとわずか5分程度で鳴り物が鳴り出し中入りの終わりをつげ、小枝氏が慌ただしく高座へ。
おそらくお手洗い中の方は間に合わなかったとおもわれます。
この時点で15時19分。

この後16時50分には祇園花月で出番があるそう。

なぜか、キダタローさんのエピソードを3本程度紹介する強引な流れ。
そして自らの携帯電話をあけ、見台の下に置き、時折眺めながら高座を降りました。こ
の時点で15時24分。

なんと5分の高座でした。

観客はあっけにとられ、皆ぼーぜん!

そのまま中入りに突入となりました。
中入りが終わる直前に、舞台の前に桂文三さん・笑福亭竹林さんが並んで立たれ、今日のどたばた劇を詫びられました。
もともと今日の小枝さんの予定は空いていて、本人はたっぷりと古典落語を話されるとのことでしたが、吉本興行よりスケジュールを入れられた為に今日のどたばた劇になったとのこと。
だれよりも一番悔しかったのは小枝さんであるとのこと。

悔しかったのは、笑好寄席よりも京都花月を優先することで、小枝さんの噺を楽しみにしていたお客様でしょう。
今月になり、祇園花月の出番がわかった時点で代演を立てるべきでしょう。


笑福亭 竹林


ご自身は和歌山上北山村のご出身とのこと。
今回の豪雨の被害の会った地区で、村長さんが同級生、慰問にいったら皆さんは松茸ご飯を食べておられたそう。それでも救援募金に関するお話をきっちりとされ心を打たれました。

生で聞くのは初めてのお話。米朝全集の中にある「豆狸」。
秋の大阪ミナミの三ツ寺を舞台にしたお話です。

所々に注釈を入れられたおかげでわかりやすく手直しされています。
ストーリーはわかっているのに、三ツ寺さんの境内で亡くなっている狸が発見されたときには、私の目から大粒の涙がこぼれていました。
ほんとにしっとりした大阪のお話で、情景を見事に竹林さんが再現されました。

2011 10/15 征韓論争と大阪会議

征韓論争と大阪会議

今日から朝日カルチャーの芦屋教室で新しく一坂先生の講義が開講しました。
もうちょっと近かったら行くんだけど・・残念。


江戸幕府の間、隣国である朝鮮への貿易や国交はずっと対馬藩宗家が行ってきましたが、ところが、日本が各国と条約を結んだことで朝鮮とは国交が途絶ることとなった。(※朝鮮も日本同様に鎖国政策をとっていた。)

けっこう過激発言の木戸さん曰く「朝鮮くらいは日本に加えても問題ない」と、今で思えばとんでもない発言!
まぁ色々と策を考えるもので、国交を断絶している間に日本は国力を蓄えて、木戸を大使、宋氏を副使として清国とたいとうにな関係をつくれば、おのずと朝鮮を下位におくことができる・・・等など・・。

征韓論といえば西郷さんが牽引したイメージがありますが実は西郷さんは態度を明確には
していませんでした。同郷の横山安武氏(森有礼の実兄)が明治3年(1870年)7月、新政府への批判10箇条を挙げた書を集議院門扉に公示し、津軽藩邸前で屠腹して果てていますがその碑文の中にはおなじく政府への批判が書かれています。

さて、明治新政府は明治元年(1868年)国交貿易を復活させるべく国書(「皇政維新の書契」)を朝鮮へ持っていきましたが、その文章に使われている文字が江戸時代の形式と異なり、国書の中に「皇」「勅」「天朝」「皇室」「皇祖」「皇上」という文字が使われたり、印が違ったりしていたことが原因で朝鮮側に拒否。
その後数回にわたり国書を訂正したが受け入れられることはなかった。

つぎに明治3年(1870年)2月、佐田白茅、森山茂を派遣しましたが、やっぱりNG。佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後に征韓を建白。
明治5年(1872年)1月には、対馬旧藩主を外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。
明治6年になってからは現地では排日の風がますます強まり、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。

当時は朝鮮には日本の本拠地である藩の施設があり、「倭館」と呼ばれていた。(明治の廃藩置県後は「釜山草梁公館」と称する)。この倭館で日本人を侮蔑するような事件がおこりついに征韓論が沸騰。



明治6年(1873年)6月の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。

ここで注目のキーマンは大久保利通。この方は大蔵卿でしたが参議ではない。元々島津久光(国父)に見出されていますので、参議になるのを遠慮していたのかもしれません。
一足早く岩倉使節団から帰国していた大久保は帰国早々に夏休みをとり有馬温泉に行くことに。
途中、友人の堺県知事の税所篤(薩摩藩:さいしょあつし)と会い、風光明媚な高師浜へ。ところが、その松の木の数が激減!森林伐採を禁止して【音に聞く 高師浜の はま松も 世のあだ浪は のがれざりけり】と詠んでいます。

当時の閣僚は下記のとおり。
太政大臣(三条実美)、右大臣(岩倉具視)、左大臣(空席)、
参議(木戸孝允(長※洋行中)・西郷隆盛(薩)・板垣退助(土)・大隈重信(肥)・江藤新平(肥)・大木喬任(肥)・後藤象二郎(土)・井上馨(長)

ところが忘れてはいけないのは、岩倉使節団からの申し送りがあり、重要な事は留守中には決定しないようにという含めがあった。
板垣退助は閣議において、この倭館の居留民保護を理由として軍隊を派遣することを進言。
ところが西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと強く主張。


歴史は難儀なもので、西郷隆盛氏は征韓論者のイメージが強く、現に私もそうでした。

そのいわれは、板垣退助へ送った1枚の手紙。
その中身は、「日本から軍隊を派遣したら、朝鮮軍はなにかアクションを起こすに違いない。そうなったらそれを理由に武力制圧すればいい」との内容。


毛利敏彦さん(大阪市立大学の先生)曰く、この内容は板垣さん以外にこんな過激な内容を伝えていない。
これは自分が朝鮮に行きたいがためのポーズであるのかもしれない。西郷さんが主張しないと、外務卿の副島種臣さんが行くことになるからか?と分析。

この閣議では8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣し、その日程は9/20と決定した。
しかし最高の決定権を持つ太政大臣の三条実美は「岩倉使節団で洋行中の岩倉が帰国するまでちょっと待って」と、この案件をペンディング扱いとした。
岩倉使節団で洋行中に所管が届く。
それは留守政府が色々と行っている為に早く帰国して欲しいという催促。そこで木戸孝允と大久保利通は岩倉よりも早くに帰国することとなったがこの二人は中が悪いので別々に帰国している。

さて岩倉が帰国し大久保と合流。そこへ三条が相談に行くことになり、大久保を参議にする案がでてくる。
そして3週間説得され、ついに12/12に大久保と副島が参議になる。

このときに大久保は「ただ命に、ただ従い」と言葉を残している。
これが二通りの意味にとれる。
すなわち、大久保は三条のロボットとなるという意味と大久保はGoingMyway でいくという意味。


月日ばかりが過ぎてゆく。
西郷さんがぶちきれた!「わしの朝鮮行きはどうなった!」
正式に朝鮮へ派遣されると考えていた西郷隆盛でしたが一向に閣議が開かれない。
実はそれどころではなく、使節団の条約改正の失敗や、氏族、廃藩置県の後始末やら国内で起こっている長州関連の汚職事件(山城屋事件:明治5年:陸軍省の御用商人山城屋和助が陸軍省から無担保で借り受けた公金を返済できず自殺。山城屋の借り出した公金は総額約65万円で当時の国家歳入の1%にあたる:ちなみに2009年の歳入は約89兆円)のもみけしでドタバタ!


怒れる西郷さん・・ついに10月14日、15日と閣議が開かれた。
閣議では「国内の山積する問題を片付ける方が先」~岩倉・大久保に対し、「征韓ではなく話し合いに朝鮮にいく」と遣韓論を述べる。(「朝鮮事件ニ付西郷隆盛建白」)

岩倉・三条は「大久保は西郷を押さえ込む役」を求めその結果とおりに働いたが、なんと2日目の閣議では
岩倉・三条はなぜか西郷側にまわってしまう。これでは大久保はたまらない。

大久保は即辞表を叩きつけ、翌日、岩倉も辞表を出した。
それを聞いた太政大臣三条は高熱を発し、病に倒れた

こうなれば政府は混乱状態。

10/20に大久保は独自に岩倉邸を訪ね策を協議し、岩倉をTOPにする太政官代理を画策。腹心の部下の黒田清隆へ、天皇侍従の吉井友実に岩倉具視を太政大臣就任させるように天皇に働きかけさせるというものであった。策は成功し、岩倉具視を太政官とした仮政府ができあがる。

10/22には、西郷さんらが、天皇に意見を伺って欲しいと要求したがなんと岩倉さんは「閣議決定にしばられること無く、自分の考えで天皇に上奏する」とのこと。そして岩倉さんは天皇に対し派遣か延期かを聞いた結果 、延期とのこと。実はこのプランを強引にやめさせる為に岩倉さんは奥の手を使っていた。

それは幕末のドタバタ騒ぎでもよく使われた手法で天皇を巻き込む作戦。なんと天皇に経緯と利害を説明した際に、自分は反対である旨を誇張、そしてついに天皇より正式に10/24には遣韓中止が決定された。

ついに西郷さんは辞表提出し怒り心頭し辞表を叩きつけて鹿児島に帰ってしまった。同時に板垣、後藤、江藤、副島は翌日に辞表提出。もちろん腹心の部下も同様に600人・・。これを明治六年政変というらしい。

この時点でいままでみんなで話し合った内容が吹き飛んでしまった。何のために話し合ったのか!

征韓賛成派であった大久保・後藤・江藤らは辞表を提出。
いわば士族武断主義と官僚主義との構図となった征韓論争。


のこった大久保さんはエスカレートして、台湾出兵。これを心配する伊藤に井上。
もう収集が付かない。。

なんとか事態収束を目的として大久保・井上・井戸ができるだけ目立たない場所で話し合うことに。

明治7/12 大久保さんは冬のバカンスということで大阪へ行くことに。有馬兵衛に宿泊。もっぱら五代と碁をして過ごしていたそう。途中、蓬莱峡を絶賛!そして中山寺を越え、大阪入り。
目指すは、大阪北浜の「加賀伊」。
明治8年1月~2月には木戸・板垣・大久保の大阪会議が開催。
ここでは木戸が政府に戻る条件に三権分立を主張した(司法・立法・行政)そして3月には復職し4月には三権分立が決定された。
北浜の「加賀伊」は主人からの望みで「花外楼」となり、当時の書が残されている。

2011 10/15 NHK ちょっといい旅「菊のころ想いはめぐる冬の陣」

2011年10月15日(土)  5時15分~5時50分
ちょっといい旅「菊のころ想いはめぐる冬の陣」(昭和63年11月10日)が再放送されました。
 
~案内文章
 
大阪城で恒例の菊の花の展覧会が行われているころ。講談師の旭堂南左衛門さんが、大阪城内のさまざまな遺跡を訪ねて、400年の歴史にふれる旅の様子をお伝えします。当時をしのぶ建物や、堀に住みついた魚の調査など、さまざまな視点から大阪城を楽しみます。
 
 
ということで、20年以上も前の大阪城のレポート番組をみました。
レポーターは旭堂南左衛門さん。白いスエットにインナーのフード部分だけを出した当時らしいスタイル。
またアラレちゃん眼鏡で、髪を短く刈り上げていますのでまるで別人のようです。
でも声は南左衛門さんに間違いないww。
なんとなーく早足で公園内をスタスタっと歩かれる南左衛門さん、緊張されてるみたいでした^^
 
放映中には難波戦記を演じられるシーンがあったりしてすっごい面白かったです。
旭堂南左衛門さんはS51のご入門でS62/10に真打となり南左衛門となられていますので
ちょうど南左衛門さんになられて1年後の番組となります。

2011 10/2  四天王寺秋季大学 2日目


定刻より講義開始。
秋の涼しさがかんじられる亀の池です.








10月2日 第一講目 13:00~14:20青蓮院 門跡 御門主
東伏見 慈晃(ひがしふしみ じこう)猊下 青不動のこころ

仏教のあり方、天台宗、青蓮院についてのお話。
H5(50才)で得度され、元々は銀行マン。遅い出家
H16 門跡を務める。父の高齢化、門後寺院の継承。家は宮家・・。

法華経、伝教太子最澄⇒天台宗
四天王寺は戦前は天台宗であり、青蓮院は四天王寺の別当で権威があった。
また最澄が比叡山開山の際の房の役割をした。

天台宗~四種相承
法華円教~縁、空
真言密教~空海、印を結ぶ
達磨禅法~座禅、只管
大乗菩薩戒~戒、してはいけないこと

現代は何をしても自由な世の中。いまこそ戒が必要。

天台密教と青不動明王~絹に書かれており国宝指定。美術価値が高い信仰の対象。

密教~心に不動明王、大日如来を抱き、煩悩を沈め、また焼き尽くす、剣で断ち切ってしまう。
煩悩~貪(むさぼり)・瞋(いかり)・癡(おろか)

貪~すこしでも楽をしたい~原発事故、リーマンショック
癡~夫婦、子供の事をわかっていない、身近にいても知らない、
思い通りにならないことに対する苦しみ
情報化社会~疎外感、孤独を感じる苦しみ
農村、漁村~若者が居ない地域
自然災害~思い通りにならない・・・・・・・絶望感
繰り返し願うことで成就する~密教
東日本大震災では皆様の立場に立って仏教を話すこと。
心の内では家や家族、会社などを失った状況で、神も仏も信じられない気持ち。
仏教では、そんな絶望感や不運と戦わず、現実を受け止め、こだわらないこと。
被災していない人は慈悲の心をもち、相手のために尽くすこと。
政教一致~政治に道徳の考えを加えなければならない。
トレンミラーズ(書籍)アメリカの鏡 日本 (カドカワ)
東洋史の研究、マッカーサーのスタッフで、日本の労基法の基礎を策定した人。
なぜ、日本は戦争に負けたのか?⇒ペリーの黒船による不平等条約が原因であり、生麦事件や長州事件がすべての始まりであるという説。


10月2日 第ニ講目
14:40~16:00龍谷大学文学部教授・龍谷ミュージアム館長
宮治 昭(みやじ あきら)先生
シルクロードの仏教美術 失われたバーミヤーンの大仏と壁画

アフガニスタンにあるバーミヤンの遺跡について
1969年に始めて訪問。そのスケールの大きさに驚愕。
74年3回にわけて調査
79年5回にわけて調査
この地は古代遺跡の宝庫で文明の十字路と呼ばれている。
(他民族、多言語、多宗教・・)
ギリシャ文化(バクトリア文化)
1920~フランス考古学派遣団の参入、以降各国が調査する。
アイ・ハムヌ(ギリシア・バクトリア王国遺跡)
ティリヤ・テペ、スルフ・コタル、ベグラーム、カーピシー仏教遺跡、バーミヤン仏教遺跡等
●バーミヤン仏教遺跡
標高2500m の地帯に二大仏(38m・55m)があると同時に周辺には700」以上の石窟が存在。
1979年 ソ連の侵攻
米ソ対立の中で中立を保っていたが代理戦争に巻き込まれてしまう。
2001年3月 タリ版によるバーミヤン大佛の破壊活動
2002年 ユネスコによる復興計画(日本、イタリア、ドイツなど)
大仏、石窟制作の記録は無い。
AD629 玄奘三蔵が訪問し、大仏の事が書かれている。
AD727 寺・僧が多く存在した。
年代論~壁画の漆喰の中のスサの炭素調査により6~8世紀と判明。
この後、貴重なスライドを拝見させていただきました。
切り取られた2対の大仏様の痛々しい顔と、その仏様が瓦礫と化し崩れ落ちている写真。
頭上に書かれている壁画とその元の図案や意味など。

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二日間の四天王寺秋季大学は閉幕となりました。
なんとも重厚な五智光院に入る事ができ、その空間でのお勉強はとても貴重な体験です。
また来年もぜひ参加させていただければと、会場を後にしました。



2011 10/1  四天王寺秋季大学 1日目


今年も四天王寺秋季大学に参加する事ができました。
体調は思わしく有りませんが、ほんとうにありがたいことです。
全員で般若心経を唱和して開講となりました。






10月1日 第一講目
13:00~14:20総本山四天王寺 管長
奥田 聖應(おくだ しょうおう)猊下
平和と仏教

・釈尊と太子に対し他から仕掛けられた戦いの例
釈迦族は戦争においても不殺生の掟を守り自ら滅亡の道を選択。
我身の為に万民を煩わせない事。
戦いに勝てば勇者ではなく、身を捨てて国に安定を斎する事が本当の勇者。
勝鬘経では、正しい教えを身につけるには、身と命と財を捨てよ。
・院生、南北朝時代の僧の生活
延暦寺、興福寺の強要的な手法は大衆(だいしゅう:仏教を学ぶ僧侶)がおこなった。
仏教の隆盛とともに質が低下、貴族への大圧力となってしまった。
比叡山 円恵の例~山の衰退を嘆き訴訟を起こすが1298年 座主(尊教)との対立が激化する。
高野山合戦の例~紀ノ川流域の荘園が戦場となり1294年に幕府が介入。所領が没収となる。

・太平洋戦争時
1937-国民教化運動
1939-宗教団体法~主務大臣の認可が必要
キリスト経一派、灯台社130人の検挙※明石順三氏等
1940-大政翼賛会
救世軍のスパイ容疑⇒救世団と改称
1941-教徒2000人の投獄、200余りの教会を閉鎖

・現在
偶像破壊を行ったイスラム教、植民地拡大のキリスト教、パレスティナ扮装、カシミール・・・・等など宗教は戦争とかかわってる現実が多い。
その反面、様々な平和への取り組みも盛ん。
世界宗教者平和会議、宗教サミット、非戦平野、出版
日蓮宗 一殺多生⇒とんでもない思想
ファシズム社会下ではじっと耐えるしかない。


10月1日 第ニ講目
14:40~16:00奈良大学教授・日本学士院会員
東野 治之(とうの はるゆき)先生
上宮聖徳法王帝説と木簡研究

太子の研究のよりどころである上宮聖徳法王~唯一の伝記。
法王帝説は信頼性が高い内容であるがすべて写本であるが故に内容の増減のあるばあいがある。
また、筆での写しのために本の形態をとっていない。
その歴史は法隆寺より流出した後、知恩院にある。
研究の最高峰は家永三郎【上宮聖徳法王帝説の研究】(1953 角川)であるが近年の木簡の研究により見直すべき点が出てきた。
◇木簡研究
S36(1961)平城京跡 40点
平成元年(1989)長屋王邸 35,000点
現在は36万点余り~いちやく古代史研究の主役となる。
木簡研究の効果は他の分野への波及、文字使いや用語にとらわれてしまうと意味が異なってしまう。
一つの文字が色々な読み方をされ、初期は人名や地名の文字はむちゃくちゃ。
平安前期までは発音が主体(文字は何でもかまわなかった)
◇構成
A 系譜、親族
B 人となり 実績
C 古史料の引証
D 事跡
E 略歴
F 裏書
実はD/EはA/Bへの裏書が写しなおされて本文化したのではないかと考えられる。
◇長屋王家木簡の表記、律令用語の関連
「王」「女王」を区別しない
地名 川内⇒河内となる。
大刀自(おおとじ)⇒婦人の意味 
◇裏書に対し裏書されている
8世紀⇒平安後期
太子~摂政をしていない。皇太子 王命 ミコトノミコ 天皇代行、補佐役でこれは朝廷での立場を
表している。

2011 10/7 Lifetouch Note

今回の突然の入院はほんとに大変でした。
取引先さんにもちゃんと話していなかったことがあってお仕事は待ってくれません。
なにせ、手術の翌日にまだ色んな所からびよーんっとチューブが伸びている常態で、
お仕事の電話がかかってくるし、お仕事用のメールはすべて携帯へ転送していたのでもうなり続け。
…もぅひっちゃかめっちゃかでした(笑)
全身麻酔で気道確保のためにチューブを通していたようですがどうも
声がガラガラ声で電話に出て先方さんは、どうも私が風邪を引いているとおもわれたようで。。。
いやいや・・それどころちゃうねん。
 
下半身から3本、背中や手首や・・いそんなところからチューブが出てる状態やねんってww
で、いったん帰宅したものの、自宅ではカテーテルを通したまま、中腰でメールをチェックしたり…これが良くなかった。
やっぱ人間は腰がいのちですねぇ。。
 
ってことでちょっとした新兵器の導入です。
これがあればお布団の中ででもお仕事ができる(爆)
 
今回、はじめてのアンドロイドOSを購入!NECのLifeTouch Noteの登場です。
イメージとしてはおっきなスマホにフルキーボードが付いている感じかなぁ。

それでもノートパソコンよりずいぶん小さくて閉じた状態だと23.5cm×14cm程度で厚みは2.5cm。


7型ワイドなちっちゃいくせにKeyboardがついていて文書入力はバッチリ。
wifiでネットもつながり、なによりありがたいのがバッテリーは9時間近くもつらしい。
本体700グラムなので、非力な私でもかばんに入れて持ち運べます。
 
 
さっそく自宅、職場とそれからよく行くマクドでwifiを設定しました。
 
なかなか快適ですが、キーボードの配列に癖があるのとWINDOWSに慣れ親しんでいたからか
戸惑うこともしょっちゅう。慣れたら愛用のノートPCがいらなくなるかも。

2011 10/5 近況

なかなか体調が戻らずに文章が書けずにいます。

ホントにごめんなさい。

この3連休には記事を掲載するつもりです。

あとすこしだけ・・おまちください。orz

2011 10/3 染模様恩愛御書 細川の血達磨

2011 10/3  「染模様恩愛御書」

にっぽんの芸能 芸能百花繚乱「染五郎 気迫のスタジオ歌舞伎」
放送日: 2011年9月30日(金) 22:00-22:45

旭堂南左衛門さんより放送があることを教えていただいてましたのでバッチリ録画!もちろん
ナマでも鑑賞いたしました^^

市川染五郎さんの二役で、もう胸ガキュンキュン!
市川猿弥威圧感のあるお姿と大立ち回り!
もちろん、旭堂南左衛門さんの、細川越中守役はかっこよかったー!

簡単なあらすじ♪
 
ある日、大川友右衛門(染五郎さん)が美形の若衆の印南数馬(染五郎さん)に惚れてしまいます。
で、友右衛門は武士の位を捨て、細川邸に中間として奉公し、数馬に心を打ち明け友右衛門が数馬の寝室に忍びこんじゃいます。
で色々とお話をするうちに数馬から横山図書(猿弥さん)が父を殺した敵であることを聞かされ敵討ちのお手伝いをして無事にとげることになりました。
そんなある日、細川邸に火事が発生!宝蔵には家宝の家康公から賜ったご朱印が!
燃え盛る蔵へ飛び込んだ友右衛門はご朱印を見つけたが、もう回りは火の海。
ご朱印を守る為に彼が取った驚くべき行動は・・・・。
自らの命と引き換えに家宝を守った友右衛門さん。血潮のご朱印を抱き泣き咽ぶ数馬さんでした。
 

2011 9/30 ただいまー!

無事、帰ってきました^^

まだまだ本調子ではありませんが徐々に元のペースに戻したいと思います。

応援いただきました皆様!本当にありがとうございました!

2011 9/19 行ってきます!

急に降って湧いた様に今日の日が決まりました。
ちょっちだけBLOG更新が出来なくなりました。

申し訳ないのですが、 九度山講談会レポートと教科書に書かれなかった幕末史の
2項目の掲載は今週末の予定で掲載しますのでしばしおまちくださいませ。

お急ぎの方は下記へメールを戴きましたら当方携帯で拝見できます。
もうしわけありません。

  sweet-mikan☆mail.goo.ne.jp    ←☆マークを@マーク(半角)に変更して送信くださいませ。

2011 9/17 教科書に書かれなかった幕末史 鉄道を造る

眠りについたのは明け方頃となり、ついに昨夜の九度山講談会の余波を引きずったままの朝日カルチャー「教科書に書かれない幕末史」となりました。
●鉄道を造る
鉄道は近代化の象徴~鉄道(イギリス)~原料や製品の輸送目的
1825(文政8 9/28)ストックトン-ダーリントン-ウィットパークの3つの炭鉱を結ぶ40Km
1830 マンチェスター-リバプールを開業~人間を運ぶ鉄道
1836 イギリスでの鉄道大成功 各国に続々と鉄道が引かれ始める。
日本では・・
長崎、プチャーチンが機関車の模型を持参してきた。
1854年 2回目のペリーも持参。このときにすでに鉄道の事に詳しい日本人がいたらしく所謂「鉄ちゃん第一号」である。
日本に鉄道を引く事にたいし反対意見も多くみられ、特に西郷さんは大反対。鉄道よりも軍隊を強化すべきとの意見。黒田清隆も事業中止を建白、大隈重信と険悪に。しかし洋行すると賛成派になった。
秘密留学生 (長州ふぁいぶ)の中の伊藤・井上勝が中心、中でも伊藤は明治2年2月に、大阪~神戸に鉄道をひくと早々に宣言。同12/5に三条実美、パークス、岩倉らが敷設を決定した。
大隈、伊藤が考えていたプランでは300万ポンドの大金が必要のためにホレシオ ネルソーレイと資金借用の契約を結んだが年12%と9%の差額を流用する事実が判明した為に首となった。
鉄道事業は工部省の担当(M10_10誕生)で、この省は近代工業推進の担当で鉱山、灯台、造船、土木等をおこなって民間に払い下げる方針。
慶応3年12月~小笠原長行(ながみち:幕府)、ポルトメン(米書記官:ペリーのオランダ語通訳官)の両名が担当となり、江戸~横浜間の敷設を許可していた。この契約内容は<5年以内に着手すること><3年以内に完成すること><機械類の輸入は無税>であるというもの。しかもこの鉄道を日本が買い取る場合は原価+50%を上乗せするという内容。
すなわち、幕府が考えた鉄道敷設は、アメリカまかせの契約であり、明治政府が考えた鉄道事業は外国人を雇い入れ敷設するという方針で双方の考え方に開きがあった。
明治2年1/11 横浜 東久世 通禧(みちとみ)が新政府に対し談判
明治2年2/10 旧幕府時代の話は無効であると通達する。
前島密(越後豪農の息子;郵政の父)
明治2年12月に民部省入り、鉄道事業に必要なお金を試算、鉄道憶測論により2,000万円と試算。
明治3年3月 新橋~横浜間 9/12に正式営業。 明治天皇参礼され開業式をおこなった。
明治5年5/7 品川~横浜間 外国技師により仮営業 1日2往復(50銭~1円50銭)
井上勝と外国技師とはたびたびに衝突。
がんこおやじ的な井上はナショナリズム的発送が強く、日本人だけの手で鉄道を造りたかった。
西日本では明治3年10/24に石屋川トンネルに着手する。石屋川は天井川のために川の下にトンネルを作ることにした。そして明治4年7月にトンネルが完成。このトンネルは昭和51年まで残っていた。
明治4年3月5日 イギリスより蒸気汽車が到着も、西日本の工事は非常に遅れており、これは強力な指導者がおらず東京からの連絡が早く回ってこないことに由来。それなら・・ということで鉄道寮を大阪に移転させる案がでたが山尾(長州ふぁいぶ)は中央集権が崩れるということで大反対。結果、上司の井上勝が辞職することとなる。
この事態に歯止めをかけることができる人物である伊藤博文は現在、岩倉使節団で不在。2ヵ月後に帰国、説得し鉄道守に据え一段落。
明治7年1月10日 鉄道寮は大阪に移る。
明治7年2月 井上が大阪に乗り込む。
明治7年5月11日 大阪-神戸間が竣工する。
AM6:55 神戸発梅田行きが一番列車。神戸の駅長は間島氏、梅田ステーション側の駅長はムトウマサアキ。高杉晋作の妹の夫で明治12年6月まで担当していた。
イギリスの鉄道は物資輸送で、民間主導で発達。日本は人を運ぶことを目的として国の
事業として発達。
日本の鉄道に寄与した井上勝は明治43年8月 ロンドンでたおれ享年68歳。鉄道事業に一生を尽くした。
東京駅丸の内には像が作られている。

さて、講座がおわり普段見ることができない映画の時間。
申し訳なかったのですが後ろの方に移動し2時間近く爆睡!
さすがに寝不足だったので、邪魔にならないよーにしてました。

その後、恒例の一坂先生を囲んでの飲み会は総勢10人。
幕末史ファンがこれだけ集まると話しが途切れることはありません。
なんとしゃべり続けて飲み続けて20時に散会となりました。

明日一日は、翌日からの入院生活の為に食事制限が始まります。
なので今夜のお料理はホントにおいしかったです。

2011 9/16 九度山講談会 裏話

午後14時、南左衛門さんの自宅前でご一門の方々と集合し九度山に向かって出発。
前回、九度山へ行った際には戦国鍋TVの録画で盛り上がりましたので、今回は、懐かしいDVD『真田太平記』の26話あたりからを再生。
ちょうど関ヶ原の戦いに破れ、九度山蟄居が始まるあたりになります。

大阪をひた走り2時間10分で九度山到着。
駐車場で、住民クラブ代表の阪井様がお出迎え下さっており一同感激!



あいにくの雨模様のなか真田いこい茶屋へ向かい、ご用意いただきました美味しいお蕎麦を頂戴して会場にむかいます。






開演2時間前
慌ただしく準備がおこなわれる様々な中で、このイベントにかける情熱を垣間見る事ができました。




会館入口に貼られている案内書きを初め、ステージの設営や名びら立て、音響にチラシ、受付の方々に到るまで一丸となってそのチームワークは素晴らしいものです。
沢山の九度山の皆様が、講談会の成功を祈って精一杯お世話をいただいています。


感謝の気持ちでいっぱいです!






開演1時間前
エレベーターが到着する度に沢山の方々が降りてこられます。
その顔は今日の講談への期待にあふれ、誰もが素朴で素敵な笑顔をされていました。
岸和田祭用に作成された鳥居商店様より提供いただいた団扇200本が早々に無くなり、会場がどんどん埋まって行きます。

開演10分前
司会の方の前説が開始。
講談を生で聴かれたことがある方はほんのわずかだとのこと。やはりこの真田幸村公の聖地の九度山で『難波戦記』を企画いただいてホントによかった。

終わったのは21時20分。大熱演のために大幅に時間を超過!

後片付けをしで22時過ぎに九度山を後にしました。
天候は小雨。

予定では和歌山IC経由の大回りを予定していましたが風吹き峠をぬけ、泉南に抜けるルートで帰阪。
南左衛門さん宅へは12時過ぎ。南斗さん宅へは12時30分過ぎ。
無事にお送りできて一安心で帰宅しました。

思えば半年以上前から色々とお声を掛けていただきようやく一つの事がおわりました。
きっとこれは終わりではなく、始りなのでしょうね♪

本当に皆様、ありがとうございました。

2011 9/16  九度山講談会~日の本一の兵・真田幸村~ 第6回真田寄席 上方講談

九度山講談会~日の本一の兵・真田幸村~
第6回真田寄席 上方講談

平成23年9月16日(金) 19:00開演
九度山町ふるさとセンター 5階
まちおこし基金一口¥1,000で入場券1枚をお渡し。(当日券有り)
企画:九度山町住民クラブ
1)「真田大助駿府の使者(難波戦記)」旭堂南斗
2)「大助の初陣(難波戦記)」旭堂南舟
3)「徂徠豆腐(赤穂義士伝)」旭堂南左衛門
中入
4)「九度山の真田幸村(難波戦記)」旭堂南左衛門

《お問合せ》真田いこい茶屋 TEL 090-5906-7689
(営業:10:00~16:00 ※木曜日はお休み)










人とはいろんなご縁で繋がっているもの。まさに人生は因縁生起の連続なんだと思います。
幸村公と九度山があり、大阪の陣を大河ドラマにする会の発会式があり、そして東日本大震災による真田祭の中止を経て九度山住民クラブの方との出会いがあり今日の講談会に繋がりました。
単なる歴オタの私が抱いた素朴な疑問、「真田幸村公の思い出の場所の九度山の皆様は、難波戦記を聞いた事があるのかな?」からはじまったこの企画がこんな盛大に開催されたなんて夢のようです。
ご出演いただきました旭堂南左衛門さんをはじめご一門の南舟さん、南斗さん、そしてもみじさんも本当にありがとうございました。
また、運営面すべてをしてくださいました阪井様をはじめ役員の皆様、本当にありがとうございました。


旭堂南斗

なんだかとっても緊張されている様子。それでもたいしたもので、すぐにいつもの飄々とした調子に戻りました。九度山の到るところまで真田十勇姿が書かれており、夕方にいただいたコーヒーについていたミルク(スジャータ)にまで書かれていたくだりで会場が和み始め本題へ。

旭堂南舟
出囃しが流れ南舟さんの登場。その線の細さに会場には一瞬の沈黙が流れるものの、一声発するとその容姿とのギャップの無い、ほのぼのとした雰囲気が伝わったのかいつものようにマクラが滑り出しました。
この春に正式な前座となられ少しずつ口調や視線が変わって来ているように思えます。

旭堂南左衛門
出囃しが流れ万来の拍手の中でいよいよ登場です。
松本幸四郎先生のお話や史実・実録のお話で巧にお客の心を掴んで行かれネタに突入です。
出だしの『豆~腐~♪』ですでに拍手が起こり、皆さんはすでに話しの世界に引き込まれていると実感。ほろりとさせる世界観が伝わり、大きな拍手とともに中入りに入り、この時すでに20時40分。

開演少し前にお見えになられていた岡本町長さんを楽屋へご案内させていただき、わずかな時間となりましたが南左衛門さんとご歓談。

さて最後の演目「九度山の真田幸村」が始まります。
関ヶ原の戦いに負けて長い蟄居生活に入り不幸が襲う。父と妻の死によりすっかり様子が一変した幸村公でした…。
このあたりになると、熱心に聴かれているみんなに不安の色が感じられます。

これはきっと九度山に住まわれている方々からするとすごく身近な方のように感じておられるからなのでしょう。
そして様々なエピソードが続き話しはクライマックスへ。だれもが熱心に聴き入り、終わったと同時に万雷の拍手!講談の面白さを感じていただけた瞬間となりました。

このあと抽選会がおこなわれ、終わったのは21時20分。大熱演となりました。
舞台撤収をはじめ後片付けも手際よく九度山の皆さんのチームワークの良さにびっくり。
小雨の振る深夜…安全第一で帰阪するために、岩出から風吹峠を越え、泉南より高速に入り、無事に南左衛門をお送りした後、南斗さんもご自宅近くまでお送りし、興奮覚めやらぬ母と別れたのは0時をだいぶ越えた頃となりました。

色んなご縁が紡ぎ出した今回の九度山講談会。沢山の皆様のご尽力の賜物。
本当にありがとうございました。

2011 9/10 【さよなら原発】 小出裕章先生 講演会


2011 9/10 【さよなら原発】 小出裕章先生 講演会

主催 さよなら原発実行委員会
共催 市民社会フォーラム




大阪クレオ中央にて講演会開催。会場は150人!立ち見がでたくらいの入りでした。


今回のレジュメを参考に、当日小出先生の話された内容を元に私の解釈を文章に起こしています。
なので、小出先生の話された内容と異なる部分が多々存在しますのでご注意ください。



原子力発電所も火力発電所も、ジェームス・ワットに発明された蒸気機関を元に水蒸気によりタービンを回転させ発電しています。
その原子力発電所は100万kwを基本として1基が1年間に燃やすウランの量はおよそ1トン。(生成する核分裂生成物の重量)ちなみに広島を襲った原爆のウランの量はわずか800g。そんな莫大な危険物を生み出す原子力発電所が日本に54基ある。

さて、日本は元々巨大地震に襲われてきた歴史があり、元暦2年(1185年)の地震は特に大規模でした。そんな歴史を顧みずに原子力発電所を建造することは正しいことなのでしょうか?
あの記憶に新しい阪神淡路大震災の直前に、「防災科学研究所理事長」は下記のようなことを言っています。
「~様々な海外の学者から日本の建築は大丈夫なのか?という質問を受ける。あれくらいの地震では日本の建築はびくともしません。というのが我々の答えである。なんといっても最大の理由は地震や震災に対する知識レベルの高さである」
・・・その直後に阪神淡路大震災が起こっている。

世界レベルでみて地震の起こる場所は特定されており、それは環太平洋地域と中国から地中海を抜けるライン。
したがってアメリカの原子力発電所は西海岸にはほとんど無く、大半は東海岸にある。またヨーロッパは地盤が安定しており地震は非常にまれです。その反面、日本は、おもいっきり地震の多発地帯にあり、その上に原発が存在します。

そんな日本に原発を導入するために日本に原発を導入した原子力推進派は「原発は都会にはつくらないことにした」。
原子炉立地審査指針は下記の通り。

1.原子炉のからある距離は非居住地域であること
2.非居住地域の外側は低人口地であること。
3.原子炉敷地は人口密集地からある距離だけはなれていること。

そしてその指針により、東京電力は自分の供給範囲より原発を追い出した構図ができてしまった。もちろん関西電力も同様。

原子力は絶対に安全で、クリーン・・・という触れ込みで拡大を図る。。。
そしてついに1999年9月のJOC臨界事故がおこる。

そこで原子力推進派が取った対策は・・・。


原発は機械であり時には事故を起こす。
原発を動かすのは人間であ、人間も誤りを犯す。
どんなに願ったところで破局的な事故の可能性は消えることはないのだから
それらの事故は「想定不能」と烙印を押して無視することにした。

2000年度の原子力安全白書では、原子力は安全であると言い続けていたことを反故にし、過剰な信頼感、安全実績に対する過信、そしてなんと『絶対的安全への願望』だと言うまでになってしまいました。
そして今回の2011年3月11日に福島第1原発事故がおこる。
この事故では1,3,4号機の原子炉建屋が吹き飛んでしまったことは記憶に新しい。


沸騰水型原子炉(BRW)の構造説明によりに、わずか1/3程度しか発電につかわれておらず、残りの2/3は海に放出し海を暖めるに過ぎない。しかも核分裂による発熱以外にも、崩壊熱という制御出来ない熱が出続けている。これは原子炉を停止して72時間が経っていても、1分間に140リッターの水を蒸発させてしまうだけの熱量をもっている。この崩壊熱が建屋を吹き飛ばした原因と考えられる。

当然、今回の事故では電気系統が壊れ、水を巡回させるポンプが停止したことで、温度が上昇し爆発したのだから管理制御を行う場所は暗闇。被爆を防ぐ意味から外気も入らず、窓の無い部屋で必死で作業をいまでも行っています。
当然、爆発により多くの放射能が放出されていますが実は政府はSPEEDIIという計算プログラムで放射能の流れを掴んでいたと考えられますが、その内容はまったく公開されず、同心円上的に避難をさせてしまったために多数の方々が甲状腺被曝量は500mSvを越えたがよう素剤の投与はされなかった。
第一次産業に従事される方々はなすすべもなく、家畜が餓死するか・・もしくはその鎖を解くしかなかった。

通常、放射能に従事する方は、放射能管理区域に立ち入った場合は、その衣服や身体に放射能がついていないかの厳しい検査を受けてからでないとエリア外に出ることが出来ない。
福島県の東半分を中心にして、宮城県南部、北部、さらに茨城県、栃木県北部などを放射線管理区域にしなければならないほどの汚染を受けた。これをチェルノブイリ事故の非難基準を適用すれば、琵琶湖の2倍、日本の法令を厳密に適用すれば福島県全域に匹敵する地域を放棄しなければならない状態である。


日本は法治国家のはず。
日本は一般人は年間1ミリシーベルト以上の被曝をさせてはならないという法律がある。
放射線管理区域から1㎡あたり4万ベクレルを超えて放射能で汚れたものを管理区域外から持ち出してはならないという法律もある。
福島原発事故を引き起こした最大の犯罪者は政府であり、その政府はこの事故がおきたらすぐにこの法律を反故にしてしまった。
炉心は1cm×1cmのサイコロ状に焼き固めジルコニアの鞘に400個を詰めている状態だが現在、大半は圧力容器内で溶け落ちておりしかも、その底までも溶融体として溶け続けている。
地下水に到達してしまうと、さらに汚染が広がる状況となっている。

放射線癌死の年齢依存性をみると、子供には影響力が高いこことがわかる。
子供達には原子力を許してきたという責任は無く、若いDNAは放射能に敏感に反応する。
私達、大人はなんとしても子供達を被曝させてはいけない。
それなら被曝による健康被害を選ぶのか、避難により生活の崩壊を選ぶのかという選択に行き着いてしまう。
長年の原子力の安全性神話はでたらめであり政府の情報操作である。
汚れてしまった大地は・・・返ってこないのか・・・。
東京電力が倒産するだけではなく、日本も危機に直面していることに気付くべき。
元々、石油資源は枯渇するといい続けられててきたために悲惨な戦争がおこったが、いまだに石油は枯渇していない。科学的に立証されていない埋蔵量のデマに振り回されたために戦争が起こってしまっている。
石油資源はまだまだ埋蔵されており、天然ガスはもちろん石炭も豊富に存在することは確認されている。企業であるかぎり採算を考えるのは当然だが、日本の電力会社が原発推進を進める理由は『電気事業法が利潤を決めているから』である。原発は建設コストが高く、建設期間も長い。核燃料を備蓄するばそれも資産となり、研究開発などの特定投資も巨額だがそれら全てが利潤を膨れ上がらせている。

原発依存から簡単に抜け出せる!
火力発電所の能力を引き出せば、原発は不要!
この夏に執拗に叫ばれた節電も本当に必要であったのかどうか。。


戦争目的で核開発を推進してきた技術を原発に転化すること。言い換えればいつでも核兵器をつくることができる技術である。
アメリカの言いなりで原発を建設、そしてその度に莫大な利益を生み出す既得権益があるために、廃止を言い出せない役人を筆頭に様々な企業が群がる
研究を推進するために御用学者が増え、国民を洗脳にかかる・・そんな結果、今回の事故がおこっても、まだ眼が覚めない。
私達が、今、出来ることは。原発はいらない!とはっきり言葉にすることです。

<原発はトイレの無いマンション>
生み出された廃棄物処理をすることもできず私達の未来に負の遺産を継承してしまう。
<原発は、海暖め装置>
大半の熱は利用されずに、回りの海水温度を上昇させてしまい、大きく生態系を崩壊させてしまう。

地球温暖化の見地から、火力発電は進めるべきではないという意見に対し、Co2が地球温暖化を進めている原因なのか?疑問であり
そもそも、地球は温暖化~冷温化を繰り返している。原発は、発電時にはCo2は出さないだけで、建設や原料の調達を含めればクリーンエネルギーでは無い。


さて、私はMBSの種まきジャーナルで小出先生のお話を聞いており、なんと私のような素人にでもわかりやすくお話してくださる方なんだと感じ、その話されるショッキングな内容に驚いていました。
そして今回初めて講演会に参加させていただくことができ様々な事実を知ることが出来ました。
このBLOGに五月雨的に書き、読まれる方には伝わりにくい文章で申し訳ないのですがぜひ、小出裕章先生の著書をお読みください。
ぜひ、小出先生の講演会に参加ください。そして本当に原発はもういらない!と声に出してみんなで言いましょう!

2011 9/6  浜口悟陵さん「稲むらの火」と地震学者今村明恒さん

津波と戦った人 ~浜口悟陵伝(戸白四郎著)を読みました。
おそらく近いうちに現地に行ってきます!

さて、3/11の東日本大震災以降に様々な地震や津波などと天変地異にまつわる番組が放映されます。私がこの浜口悟陵さんの存在を知ったのもそんなNHKの番組です。

■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇
※本書P92を参照  稲むらの火 ~抜粋

「これはただ事ではない。」
とつぶやきながら五兵衛は家から出て着た。
五兵衛は、自分の庭から、心配げに下の村を見下ろした。
村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸い付けられてしまった。
波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れて来た。
「大変だ、津波がやって来るに違いない。」と、五兵衛は思った。
四百もの命が村もろ共ひとのみにやられてしまう。

「よし。」
と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出してきた。そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んである。
 「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ。」と五兵衛は、いきなりその稲むらの一つに火を移した。
火の手がぱっと上がった。
五兵衛は夢中で走った。
自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、まるで失神したように、彼は沖の方を眺めていた。
 日はすでに没して、稲むらの火は天をこがした。

「火事だ。庄屋さんの家だ。」と村の若い者は、急いで山手へかけ出し、老人も、女も、子供も続いた。
やっと二十人ほどの若者がかけ上って来て火を消しにかかろうとする。
五兵衛は大声に言った。
 「うっちゃっておけ。大変だ。村中の人に来てもらうんだ。」

 「見ろ。やって来たぞ。」
五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、一筋の線が見え、見る見る太くなった。広くなった。
非常な早さで押し寄せて来た。
 「津波だ。」と、誰かが叫んだ。海水が絶壁のように目の前に迫った。

 人々は、自分等の村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。ニ度三度、村の上を海は進み又退いた。
一同は波にえぐり取られてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。
 稲むらの火は、風にあふられて又燃え上がり、あたりを明るくした。始めて我にかえった村人は、此の火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。 

■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇

浜口悟陵さんは、ヤマサ醤油の七代目で、勝海舟さんの生れる3年前。日本近海にたびたび外国船が現れいよいよ幕末の動乱にはいってゆく1820年に生れました。

当時、すでに千葉の銚子に醤油の製造をおこなっていたため銚子での厳しい丁稚修行の傍ら儒学などを学ばれている。
当時の最先端を走る蘭学者との交流が活発で種痘の撲滅のために力を注ぎ、また地元和歌山広村では自警団を組織する。33歳の時に黒船来航。そして1854年(安政元年)の34歳の時に安政大地震津波が和歌山を襲った。

安政時代は地震が非常に多く安政3大地震が下記。

安政元年11月4日(1854年12月23日)安政東海地震(M8.4)
安政元年11月5日(1854年12月24日)安政南海地震(M8.4)
安政2年10月2日(1855年11月11日)安政江戸地震(M6.9)

この浜口悟陵氏の驚くべき行動は【稲むらの火】だけではありません。
津波に襲われた村野復興と、今後の防衛のために堤防の増築に自費を費やします
それは1855年(安政2年)から4年の間に大防波堤の建設を進め、全長600m、高さ5mで、海側に松、陸側に櫨の木が植えられ現存しています。櫨の木は蝋がとれることを狙い、堤防のメンテナンス等の維持費に当てられたそうです。

稲むらの火の館
http://www.town.hirogawa.wakayama.jp/inamuranohi/index.html


この素晴らしい行いを、あの小泉八雲氏(ラフカディオ・ハーン)は大西洋論評(1896年)に発表。後の作品集の「仏陀の畠の落穂拾い」にも掲載されたことで世界中に拡散されました。

そして時代は経過しようやく今村明恒氏の登場です。
今村氏は明治3年生れの地震学者さん。関東大震災を予言し防災に努めたが町中はパニックになったことから「ほら吹き」と呼ばれてしまう。そして1923年9/1(T12)の関東大震災以降に脚光をあび地震研究の第一人者となる。
彼は防災が非常に大きな役割を担うという観念の中でも津波から逃れる為には幼少の頃からの教育が必要という考えから当時の文部省に何度もかけあいこの「稲むらの火」を教科書に掲載させた。
なので今では少なくなりましたが戦前の方の中にはこの稲むらの火のエピソードはご存知の方がおられました。
そして戦中・戦後教育では教科書から姿を消してしまい、今回の3・11を迎えてしまったわけです。

※WIKIに面白いエピソードが書かれていましたので転載します。
2005年1月、インド洋大津波をうけてジャカルタで開催された東南アジア諸国連合緊急首脳会議でシンガポールのリー・シェンロン首相が当時の小泉純一郎総理大臣に「日本では小学校教科書に『稲むらの火』という話があって、子供の時から津波対策を教えているというが、事実か?」と尋ねた。しかし、小泉は戦後世代なのでこの話を知らなかった。東京の文部科学省に照会したが、誰も知らなかったということである。

2011 9/6 秋を感じた今朝・・

私が小学生の時のエピソードです。

大好きだった女の先生が結婚されそして産休に入られました。

替わりにこられたのがすごく年配の怖そうなおじいさん。


たしかお名前は・・・うろ覚えですがたしか「ナガオ コウシン」さん?だったように記憶しています。
自己紹介でなぜか、竹刀持参で「わしは軍隊上がりでバシバシっと行くぞ!」みたいな事を言われ
生徒は恐怖で顔を引きつらせたようにおもいます。


そしていきなり黒板に書かれた言葉がこれ。

~身体髪膚是を父母に享く 敢えて毀傷せざるは 孝の初めなり~

丁寧に文章の意味を説明してくださったので理解できましたが
よく考えてみると、自己紹介では、体罰を肯定してるのに、私達には怪我するな!と言ってる??と
混乱したおかげで、何時までも脳裏にこの言葉が残っていました。


たしかに素晴らしい言葉です。

私達の体の全ては父母よりの授かり物。怪我しないことが親孝行の最初なんだ。。

そんな先生の教えに背き、子どもの頃から怪我ばかり。大人になるとピアスをはじめしなくても良いのに
自分の体を敢えて毀傷させてばかりで親には随分心配をかけました。


いつの間にか秋らしくなった台風一過の今朝。

ふとこんなことを思い出しました。

2011 9/4 第21回 彦八まつり

台風12号のために彦八祭は日曜の開催のみとなってしまいました。
例年、当日は異様なほどの残暑に苦しめられましたが・・今年はひょっとしたら涼しいかも・・と
期待を抱いて会場入り。例年になく異様な湿度で例年の暑さに加えて湿度が高く、また時折降りだす雨に難渋した一日となりました。
しかし来場されるお客様は回を重ねるごとに増えているようで、老若男女であっというまに境内は満員、上方落語のファン層の厚さを感じました。


先日のNHKの特番で井原西鶴さんの特集がありました。日本で始めての経済小説である【日本永代蔵】。そして奔放な性の遍歴をもつ世之助の【好色一代男】、そして5組の男女の不倫、心中物について書かれた【好色五代女】をさっそく読破。
井原西鶴さんはこの生國魂神社さんの境内で興行をされた思い出の地でもあります。それより時代はすこし後ろにずれますが、おなじくこの境内で米沢彦八さん(上方落語の祖)が興行をされたおかげで、今日の上方落語の隆盛に繋がっているのはすごい縁なんですよね。


さて、4日は開始の1時間前に到着。曇りがちでいまにも降りだしそうな天候でしたが、沢山の屋台の準備の中にはすでに待ちきれない大勢のお客様が!ようやく定刻10時より扇納祭が開始。厳粛さを感じる儀式のあとに賑やかに、“年に一度の落語家の文化祭&ファン感謝デー!” 第21回彦八まつりが開催されました。

さっそくお目当ての噺家さんのブースへ行き、サインと記念撮影タイム!今年は桂米團治さん、桂きん枝さんをはじめ笑福亭福笑さんや今年の実行委員長さんの桂梅団治さん、をはじめ沢山の噺家さんと記念撮影とサインを頂戴し、また楽しいお話させていただき充実した時間を過ごさせていただきました。
本当にありがとうございました。

2011 9/1 人生の転機

誰にでも自分の人生を決定付ける分岐点があるとおもいます。
今思えば、あれが分岐点だったのかなー?と思えるものから、長い間悩み、進むべき道を決めるくらいのものもあります。

長ーい、長ーい間抱え続けた結果が出るのがこの9月。
そして私の新しいテーマが開催されるのも9月。
生きてゆくためにしなければならないもののトリガーが引かれるのも9月。

どう進んでも私の人生♪後悔したくないから進むだけ。

だから大きな分岐点を胸を張って進みます♪

2011 8/30  ありがとうございました。

「いらっしゃいませ、ようこそー」「店内でお召し上がりですか?」
どこのマクドでも同じようなフレーズで接客をこなしていることと思いますが、マクドのサービスは笑顔をはじめ色々と書かれているようです。
そして最近、お昼にマクドを利用するようになって、何かわからないままに違和感を感じていました。

その違和感の原因は、昨日、梅田阪急さんへ知人のお見舞いを買いに行ったときに判明しました。


梅田の阪急さんは改装スケジュールが大幅に後ろ倒しとなりわずかな面積で営業。
おのずと苦戦を強いられています。
品揃えでは他店には負けているものの阪急さんならではのサービスがそこにありました。

お見舞いの受付は13時から。間に合うように阪急百貨店に出かけました。何にしようか色々と迷ったあげくに購入したのはアンリ・シャルパンティエの商品にしました。

ショーケース上に手ごろなのを見つけ販売員さんに声をかけました。

「いらっしゃいませ」「お持ち帰りでいらっしゃいますか?」

文字に起こすと前述のマクドと同じだけど、その言葉に含まれている感謝の気持ちがまったく違います。

「お怪我やご入院などのお見舞いでいらっしゃいますか?」
「ゼリーは日持ちするんですけど、焼き菓子の方は2週間ですが大丈夫ですか?」

お客様へ話す内容はマクドのように画一化されているけれど、言葉に心が感じられます。
そして最後にはこころのこもった「ありがとうございました」がある。

けして口先だけではない「ありがとうございました」は心を清らかにしてくれます。
改装で品揃えが悪いのはしょうがない、それでもまた来店してもらう為には
サービスの質を高めるしか無いのでしょう。

で・・ふと気がついた!そう!最近のマクドには「ありがとうございました」の言葉が無い。

絶対的な客数が違うので、忙しさで忙殺されているのか、それともホントにマニュアルに載っていないのかはわかりませんがたしかに「ありがとうございました」と言わない。
オーダーしたあとにかかる言葉は「右側にずれてお待ちください」だ。


そしてそう思った矢先にオーダーしたマックランチが揃ったらしく声がかかった。

「マックランチのダブルチーズバーガーのお客さま!」

私は心を込めて「ありがとう」といいながら受け取った。

店員はきっと、感じの良いお客だなーって思っているのかもしれません。


http://sweet-mikan.blogspot.com/2009/11/20091116.html




2011 8/28 第10回 三国・アシスト亭

今回で第10回を迎える「三国・アシスト亭」。
この会は、長い間演じておられないネタや初めて披露される、いわばネタおろしの会という主旨で
実施されてきています。
いわゆる噺家さん、講談師さんはご自身を律し続けなければならない大変なご職業だと思っています。
新しいネタにチャレンジされたり、演じ方に工夫を重ねられたり、オンリーワンの芸術性を高めたり・・。
そんな大層な・・・とおもわれるかもしれませんがそこに会社員ではない大変さがあるのでしょう。
50回、100回と会を重ね、上方落語、上方講談がますます繁栄しますように。

すっかりマスターさんも芸人の域♪とっても楽しい方です^^


旭堂南斗 有馬御難

あと数ヶ月で正式な前座となる旭堂南斗さん。
なんどかお聞きしたことのあるネタ。すっかり安定しその視線には余裕さえ見えました^^
秀吉の死後、ますます力をつけてきた家康。その様子をうっとうしく感じている石田光成は腹心の部下である有馬則頼(?字が違うかも・・)に極秘に征伐を依頼。その息子の有馬玄蕃頭豊氏(げんばのかみとようじ)に能、狂言の会に毒を盛るように指示する・・・。その行方は。。


笑福亭松五 鰻屋

松五さんは今回で2回目。前回は2009/8月に田辺寄席で「寿限無」を聞かせていただいています。
あれから2年。
しっかりとした口調で仕草でイキの良い鰻を表現。
元ネタとおりキッチリ仕上げた感のある「鰻屋」でした。


桂枝女太 もう半分

ずっと前にNHKの日本の和芸で聞いたような記憶がありました。
元々は江戸前のようで上方版では、舞台が四ツ橋の袂の煮売屋です。
善太(字が違うかも・・)・・・怖いですねーww

現在の四ツ橋の交差点にはその昔、堀が十字に交差する写真やその様子がしのばれるモニュメントが
設置されています。それぞれ上繋橋(北川)・下繋橋(南側)・炭屋橋(東側)・吉野屋橋(西側)があり、その下には、東西には長堀川、南北には西横堀川が流れていました。
元々防衛目的でしたが、江戸時代には物流で使用されていた堀ですからそこそこ流れが早く、4つ架かる橋のいずれからでも複雑な流れでうかびあがる事は無かったのでしょうね。



旭堂南左衛門 王将 坂田三吉

先般の東京での撮影でのお話をされました。
市川染五郎丈との歌舞伎「細川の血達磨」にご出演。歌舞伎と講談のコラボ「細川の血達磨」の放送は、9月30日午後10時15分NHK総合にて。ぜったいにお忘れ無く!
さて、この演目は今回で3回目になります。
本当のネタおろしは作者の先生が同席された数ヶ月前の講談会です。それから数ヶ月、たしかに
磨かれた感があり定着したような印象でした。坂田三吉氏の生涯を年表で追うことで、その生き方や家族、夫婦愛を知らしめる狙いがあろうかとおもいます。こゆうの言葉がジーンと胸に染み入ります。

この数年は坂田三吉氏の記をはじめ通天閣やチンチン電車等の記念イヤーでもあり色々と露出する機会が増えることを願っています。


笑福亭 仁嬌 へっつい幽霊

たしかに、現代にはもう聞く事がない言葉がたくさんあります。笊(いかき)、切り藁(たわし)をはじめこの「へっつい」もそうでしょう。現に私の祖父方の田舎には「へっついさん」がありました。たぶん私の世代以降は知らないのかもしれません。
前半で登場したこの「へっつい」の販売価格は30円50銭、そして後半で脳天の熊五郎との賭け事の単位は300両。たしかに、全ての演目が終わったあとのお茶会の際に、枝女太さんが言われたように貨幣単位が混在していた時代だったのでしょうか。

島羅漢前左官屋八兵衛が気になり福島羅漢前を調べてみましたところ、福島公園はその昔、斎場でありその近くに黄檗宗妙徳寺があったそう。
現在は公園になっています。
←幕末頃の地図




また、江戸の貨幣は4進法で1両=4分=16朱・1朱=250文となります。先日のあみだ池寄席の感想でも記載しましたが江戸の落首「どうして九両三分二朱」。あと2朱で罪人は打ち首なのだが・・と苦悩する取調べ官の苦悩がしのばれます。

次回の三国・アシスト亭はできれば10月ではなく11月・・それも昨年と同じく3日が希望なんですけど。。。どでしょ?


※ 講演会情報

STOP!上関原発!のメルマガが届きました。
ぜひ参加したい講演会がありましたので期間限定で転載します。
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◎「さよなら原発」講演会

 東日本大震災による地震や津波の被害は甚大なものでしたが、今一番大きな問題になっているのは、福島第一原子力発電所の崩壊による放射能汚染です。ところが放射性物質に汚染されたがれきの処分など、収束のめども立っていないなかで、早くも原発再稼働の動きがでています。
 講師の小出先生は、「溶けた核燃料が容器の底を破って地下へ沈みつつある。
地下水の海洋流出を食い止めねばならない」と発言されています。
 地震大国日本で、また被爆地をもつ日本で敢えて原子力発電を導入した背景は何なのか、今わたしたちが選択すべき道は何なのかを、講師の小出先生と一緒に考えていきませんか。
 子どもや孫たちに、そして若い世代に、これ以上汚れた日本を押しつけないためにも、一人一人が正確な情報を手にしていくことが大切かと思います。
 ぜひご参加下さい。

【日時】9月10日(土)午後2時~  

【会場】クレオ大阪中央セミナーホール  06-6770-7200 

【講師】小出裕章 (京都大学原子炉実験所助教)
     
【参加費】1000円 

【申し込み先】megumi-tada@excite.co.jp  

【主催】「さよなら原発」実行委員会

【共催】市民平和フォーラム
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この情報は<STOP!上関原発!>のメルマガを転載しています。

2011 8/21 第22回あみだ池寄席


今回、初めて参加させていただきました。露の五郎兵衛さんが始められた寄席とのこと。

落語好きなら誰もが知っている和光寺さん。
「ははぁ~ん・・誰かに行け、言われてんな?誰に行けと言われたんや?」
「へぇ、それなら阿弥陀が池と言いました^^」
ご本堂の裏手にこんな立派なお座敷があったとは知りませんでした。

初めての会なので1時すこし前に到着。すでに受付も完備されていて2階の座敷へ。
頻繁に吉次さんがお見えになりお客さんを笑わせてくださいます。なんて陽気な吉次さん^^
開演5分程前に主催者の露の吉次さんより意外な提案がww
いやぁ。。画期的!かつ会場の雰囲気がぐっとよくなりました。 そんな中で開始されました。

桂治門 普請ほめ

ご入門され2年と10ヶ月とのこと。ご自身ネタで大学へ6年在学されたとのこと。
さて、噺の方は普請ほめ。現代になかなかお目にかかれない言葉がたくさん出てきます。

いわゆる一般では聞くことの無い言葉の数々。

総一面の栂造り(栂の木材はとても木目が美しく、柱や敷居、鴨居等に使われる)・縮緬漆喰(漆喰の塗り技法で、表面が縮緬のようなシワが無数に見られる)・上り框(玄関先で靴を脱いですぐに踏む板の部分)が桜の三間半(約6.3m)節無しの通り門(う~ん・・どんな状態なのか。。いわゆる玄関ホールの次の部分が通り門状態?)・備後表(たたみの表の造り方で熊本産で備後織・い草は備後産のものが最高級とされている)の撚り縁(ヘリを撚っている?)・薩摩杉の鶉杢(鶉の羽に似た模様・焼き物や工芸でも鶉杢がある・小さな波目がいくつにも表現されている)に
探幽(加納探幽)等など・・
実際にそんな現場があって自分の目でみたら一目瞭然なんでしょうね^^なかなか落語って勉強になります。


露の吉次 次の御用日

マクラはボクシングネタ。うまくご自身の落語感と掛けて表現されていました。
前半の常吉×旦那・常吉×ごりょうはんのシーン・中盤の夏の暑い日差しの中を寂しい安堂寺町~東横堀から住友浜あたりの風景で天王寺屋藤吉と出会うシーン・そして終盤のお白州での取調べのシーン。いずれもちゃんと私の脳内でイキイキと描く事ができました。
まぁ、ハプニングはあるものでこの噺には丁稚の名前が3人登場しますが常吉がぁ。。。。うまくリカバリされた上に見事に笑いに代え、しかも時折ご自身でも念を入れた噺っぷりがおもしろく感じました。


桂 ひろば てれすこ 

マクラはご自身の様々な営業のお話。中でも大阪で実施されている難波探検クルーズでのハプニングで場内爆笑。
また地方それぞれの方言話へ。「ある⇒いる」や「半殺し・皆殺し・手打ち」等ぶっそうな方言も紹介。
さてここでテレスコへ。めったにされないお話で私も今回はじめて聞かせていただきました。
う~ん。なかなか笑い所の無いお話・・。それでも珍しいお話なので充分に満足感がありました。「どうして九両三分二朱」・・当時は4進法、江戸は金本位(上方は銀)。あと二朱足すと10両で打ち首らしいですww帰宅後に落語辞典でちょっと確認すると「ステレンキョ」(あかんやん・・そのままやん)とされる場合もあり、江戸へ移植されてもある切りネタだそう。


笑福亭 仁嬌 遊山舟 

実は私もなんか変だなーって・・なんとなーく違和感がありました。今日の落語会って小拍子が鳴らないww
それもそのはず・・見台を忘れてきたらしい(爆)
さて遊山舟は昨年8月にアシスト亭でネタおろし。
視線の先に本当に「げい衆、まぁ衆、なぁ衆や、たぁ衆」等が居るような錯覚にはまります。
しっかりと上方の風景を想像させていただけました。


さて、次回は11月27日(日)
桂さろめさん・笑福亭喬若さん・露の吉次さん・桂文喬さんとのこと。
なかなか値打ちのある実力本位の地域寄席。もっと宣伝されたら必ず動員が図れる見逃せない会だとおもいます。
※会場は座布団席+椅子座席、西長堀駅すぐ。付近には駐車場沢山あり(終日¥1500を利用しました)

2011 8/20 教科書に書かれなかった幕末史 岩倉使節団 

自国の歴史を学ぶことにはどんな意味があるのか?どうも現在においてはその情熱は非常に生ぬるくなっているように思う。この明治黎明期の岩倉使節団を見習うべき。

さて、廃藩置県が行われた4ヵ月後、岩倉使節団は明治4年(1871年11月12日)に横浜よりアメリカ号にて出発。19発の祝砲+15発の礼砲が横浜の町を大音響で揺らした。この様々な内容は公式記録である久米邦武著の【米欧回覧実記】による。
人数は46人の役人+18人の随行者に加え、5人の女子を含む留学者で総勢107名の大所帯。

そのメンバーは、特命全権大使の岩倉具視 (47才)・副使の木戸孝允参議 (39才)
・副使の大久保利通大蔵卿(42才)・副使の伊藤博文工部大輔(31才)・副使の山口尚芳(ますか)外務少輔(33才)がTOP5!他に著名な方といえば【津田梅子】【田中光顕】【中江兆民】等。特筆すべきは海外渡航経験者は伊藤博文を含む6人。また、書記官10人の内、7人が幕臣出身。すべて洋学の担当者だったそう。 また46人の平均年齢はなんと32才。時代を担う若
者達への期待のあらわれなのでしょう。

使節団の中に内海忠勝氏が居られます。この方は長州出身の吉敷毛利家に仕えていた方で本家から見ると陪臣。
あのパークスと揉めたくらいの根性の座った方。長崎県令・三重県令・長野県知事・兵庫知事・大阪知事・京都の知事の後に神奈川知事をされた方。

さて、一向が目指したのはアメリカ・サンフランシスコ。けしてその道中は楽なものではなく色んな事件がおこったらしい。
渡航経験の無い者達の不安を嘲る渡航経験者との軋轢に加え、長野桂次郎(幕臣出身)にからかわれた女子が大久保へ訴えかけ伊藤を筆頭に模擬裁判が行われるなどがあったらしい。

さて、使節団の目的は下記のとおり。
1.修好通商条約改正の期限があと1年と迫ったが改正するための期限延長を願う。
2.新政府としての正式な挨拶と国書を渡す。
3.近代国家化するための調査

明治5年1月15日、アメリカ・サンフランススコ到着は街を上げての大歓迎に一同は猛烈に感激!
木戸孝允は、「もし日本に文化の遅れた国が来たら、日本人は同じように大歓迎できるのだろうか?」「やはり教育が必要だ!」と再認識したらしい。
伊藤博文は有名な「日の丸演説」をおこなった。

「我国の旗の赤丸は、もはや帝国を封ずる封蝋のように見えることなく、今、まさに洋上に昇らんとする太陽を象徴し、わが日本が欧米文明の中原に向けて躍進する印であります」

それまで日の丸は、「遅れた人種が入っている白い封筒の口に赤いシールを貼っている」と馬鹿にされていたらしいが見事に伊藤の演説は大喝采を浴びた。

で・・この大歓迎ムードが大きな誤りを生むこととなる。。。

「こんなに大歓迎されるのであれば、条約改正の件は我々でなんとかなるんじゃないか?」と甘く考えてしまう。そこで申し出たところ条約改正の委任状を持ってきていない事が当然問題になる。
それなら・・と大久保と伊藤は2ヶ月の予定で大急ぎで帰国し委任状を貰うことにした。日本についた2人が会ったのは外務卿の副島 種臣。なんとか委任状を貰いアメリカに戻った頃には4ヶ月が経過。

ようやく話し合いになったが、関税自主権の確率や治外法権の撤廃は当然アメリカはNO!
また居留地内のみで商売が出来ないという条約を変更し、雑居を認めて欲しいとの事。
結局条約改正は失敗におわりとんぼ返りした4ヶ月は無駄となった。


余談として、条約改正は万国公法による必要があるとの事。
この万国公法で思い出されるのが、坂本龍馬の「いろは丸事件」。紀州藩を争った際にこの万国公法を楯として海上運航のルールを基に賠償金をふんだくった件。
この万国公法には海難に関することが一切書かれていないらしい。それじゃ「いろは丸」の際にホントに龍馬は万国公法をもちだしたのか?


明治5年8月16日 イギリス リバプール到着。
ウィンザー城においてビクトリア女王へ国書を渡している。
この際に女王より「先日は私の息子を親切にしてくださってありがとう」のお礼を言われている。
これは明治2年7月21日に第二王子が来日した事に由来しているが、この時、天皇に会う王子に対しお祓いの儀式をしてから会わせたというから実は失礼千万。。

イギリスの感想は「英国人は早足」だそう。
またこんな比喩も作られたらしい。
6時間仕事をさせた場合・・・
アメリカ人は4時間で済ませ残り2時間はブラブラする。
フランス人は4時間で済ませ残り2時間はワインを飲む。
イギリス人は5時間で済ませ残り1時間は他の仕事をする。
ドイツ人は6時間で終わらず残業する。

明治5年12月16日 フランス パリ到着。
この時はフランスの労働階級者政府のコミューンが崩壊して1年半。有名な凱旋門等は修理中。
ルイ大統領と会い、コミューンの感想を聞かれた際に、コミューン側を暴徒としてみた発言をする。

明治6年3月30日 ロシア サンクトペテルクブルグ到着しアレクサンドル2世と会う。
江戸時代は非常にロシアを脅威と感じた印象での会談だったが実際は怖くないという印象だったらしい。

明治5年6月3日 オーストリア訪問し明治以前の日本国を見るようだという感想・・。すでに小国を見下した感想にびっくり。


明治6年3月9日 ドイツ訪問。ビスマルクの演説。これは弱肉強食の国際社会をあらわした本音の演説であった。

・世界のあらゆる国家がお互いを礼節をもって交わっているというが、これは虚構である。現実には強国の政府が弱小国を圧迫している。
・万国公法は諸国家間の秩序維持を目的としているが、強国が他国と紛争を生じたならば、強国は自国の目的に適合するかぎりで、それにしたがって行為するのであり、さもない場合には自らの力を用いるであろう。弱小国は常に不利な立場に立たされているのである。
・イギリスやフランスは自国の植民地帝国を拡大しつつあるので、これらの諸国が礼節正しく立ち現われようとも、信用することはできない。

この時のドイツは2年前にフランスを侵略し、大国の仲間入りをした直後であった。しかもドイツは農業国であり男尊女卑の風潮が残る日本とよく似た国であることから非常に親近感を覚えたそう。


ここで、日本から木戸、大久保の両名に帰国命令が下るがなぜか2人は別々に帰国する。
これはこの時点で2人は犬猿の仲で喧嘩中だったから。

これらの国以外ではスイス・ベルギーオランダ等を見て回り、いかに小国が生き残るか?を探ったそう。
すなわち、それは自由の権利を守り、自国の権利を守り、他国の権利を侵さないことに尽きるとともに愛国心を育てる教育が大切であることを学んだ。

伊藤らは【脱亜入欧】を目標に掲げた。

この使節団のタイミングでイギリスには秘密留学したは長州藩の竹田傭次郎・山崎小三郎と南貞助の3人がいた。
しかし悲惨な生活環境で山崎は栄養失調で亡くなる。南貞助(助、輔)長州藩士で高杉晋作の親戚。母親が、高杉小忠太の妹のマサ。南はアメリカに岩倉使節団が来ていることを知り会いに行く。
使節団へは、ナショナルバンクの重役に選ばれたという触れ込みで近づいた。日本人が重役だということで「南は日本の誉れである」と称え、木戸や大久保は多額の資金を南へ預けることにした。※伊藤は散財するので預けなかった。
そして一行がイギリスへ行った際にお金を引き出そうとすると銀行は倒産。。。いきなり痛い目にあったのであった。

この事実が判明し落首がはやった。~条約は結びそこない金とられ世間に対し何と岩倉~

その後、南はいったん帰国し、再度留学。再び帰国した際にはライザという奥様連れ。国際家結婚第一号となった。(その10年後には離婚・・ライザは日本で亡くなっている)

2011 8/19 霰松原

難読地名は沢山ありますがおそらくこの地名も難読でしょう。

<大阪市 住之江区 安立>

これは< おおさかし すみのえく あんりゅう >と読みます。
古い昭和の香りを残した紀州街道の街並みの沿いに記念碑がありました。







安立町の由来
古く万葉の昔から海辺に沿うように紀州街道の松原の景勝地であったが元和年間(1615-1622)典薬頭半井安立という良医この地に居て その治療を受けに集まった近国の人々が住みつき一つの村落となり 安立町の名をなすに至ったという。
(霰松原旧跡・安立忠魂碑 整備委員会 )


そこで書かれている霰(あられ)松原とは・・・・


霰松原の由来

霰松原の名は「万葉集」(巻一)天武天皇第四皇子である長皇子(ながのみこ)の「霰打つ あられ松原 住吉(すみのえ)の 弟日娘(おとひむすめ)と 見れど飽かぬかも」の歌などでよく知られています。
 この地は、奈良・平安時代は海に沿った境まで続く松原で、白い砂と松の緑は四季を通じて素晴らしい景観をみせ、多くの人々が訪れ、大阪と河内南部のや紀州方面を結ぶ街道としても重要で「岸辺の道」、室町後期からは「紀州街道」とも呼ばれていました。
 天水分豊浦命神社(あめのみこまりとようらのみことじんじゃ)は、延喜式代の古社で、創建は詳らかではありませんが、「住吉大社(すみよしたいしゃ)神代記」にも記録されていることより千二百年以上経ており、明治四十年に沢之町の止止呂支比賣命神社(とどろきひめみことじんじゃ)〔若松宮〕に合祀されています。 安立町の由来は江戸時代初期の良医であった半井安立(なからいあんりゅう)が、この地に住み多くの人々を助けた徳により、その名を残して町名となったと伝えます。(財団法人 住吉名勝保存会)


 ちなみに、万葉集の原文は【霰打 安良礼松原 住吉乃 弟日娘与 見礼常不飽香聞】。
訳としてはこんな感じかな?
-あられ松原にあられがふっている。弟日娘?と一緒に眺めてみたら飽きることは無い-

う~ん・・弟日娘が何かわかんないです(-_-、)

それにしてもこの時代の海岸線はこの辺りだったのでしょうねー。
住吉は、住み良い場所。住之江も同じ意味だったらしく、海の神様の住吉神社さんに守られた景勝地だったのでしょう。

2011 8/17 井原西鶴 日本永代蔵


元禄元年(1688年)に出版された井原西鶴さんの「大福新長者教 日本永代蔵」。
過去に何度かチャレンジしたけど文章が難しくて挫折しましたがようやく発見♪
現代訳された「日本永代蔵」。これなら私でもラクラクです^^
6巻からなる日本初の経済小説というか、まぁ庶民がお金持ちになる秘訣を書き綴った内容で、それぞれの巻には5~6話が納められています。

江戸時代の大坂、堺や江戸の商人や町人の生活が詳細に書き綴られ、大成功した例や大失敗した例が書かれています。なんだか全てに通じるのは「商いの種を根気よく育て上げる」「質素倹約に励む」「飲む・打つ・買うは絶対NG!」ってすべて現代に通じる事ばかり。
当時の貨幣価値、物の単位や仕事の内容などいまからでは想像のつかないことがかかれてあり、当時の暮らしについ思いを馳せてしまいます。


ちなみに書かれたのは徳川5代将軍の綱吉さんの時代。戦闘力や統率力を背景とした武断政治から文治政治へと移り変わりようやく落ち着きが見え始めたが、相当なインフレが激しかったらしく、同時に上方では元禄文化が出てきたあたり。
大阪の生國魂神社さんに像がありますが、これはこの場所で一昼夜に2万3500句の「矢数俳諧」を詠む大記録を打ち立てたからだそう。

晩年は目が見えず、とても辛い生活のまま亡くなられたそう。
大阪市中央区の誓願寺さんに井原西鶴のお墓があります。



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