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2010/10/02

2010 10/2 ~第47回四天王寺秋季大学~ 1日目

第47回四天王寺秋季大学が開催されました。
会場は四天王寺本坊五智光院。めったに入ることのできない場所でもありとてもこの日を楽しみにしていました。

この五智光院は、大日如来を本尊とする五智如来を安置し、授戒灌頂会を修する道場で、灌頂堂ともいわれます。


また、徳川家代々の位牌を納めており、御霊舎(みたまや)ともいわれました。



五智とは、法界の自性を明確にする智、 鏡の如く法界の万象を顕現する智、諸法の平等を具現する智、 諸法を正当に追求する智、自他の作すべきことを成就せしめる智、とのこと。
会場の北側への立ち入りを禁止されていましたのでその場所にお位牌と五智如来さんがおられたのでしょう。


~第47回四天王寺秋季大学~ 1日目


■第1講目 【お墓まいり】奥田聖應 猊下  (四天王寺官庁)

日本人はやさしく有るべき。今回の参加者250名の中で50才以下はごく少数であった。
。大阪市では様々な犬を分けてくださるが室内犬は非常な人気だが近番犬になるような犬がいない。どうぞペットを飼っている方は精一杯可愛がってあげてください。

1987年に東京都が霊園に対する意識調査をした結果、霊園は死者を偲ぶところのイメージが非常に強い。明治6年~明治30年頃は国策として神道を推奨したことから火葬を禁止し土葬としたことから墓場には怖いイメージがある。現在の墓地は明るいイメージがあるがこれは海外の影響が強い。日本初の公園墓地である東京の多摩霊園はその後の公園墓地の見本となった。この多摩霊園はウィーンの協同墓地を参考にしておりベートーヴェンやモーツゥァルト等の著名な顕彰墓地などが500基あり全体では300万人(カトリック)が眠っている。この墓地は信仰、世界感、門地等の区別がないのでさらに多くの方々の慰霊がある。

一方多摩霊園には東郷平八郎氏、山本五十六氏、古賀峯一氏等の軍人をはじめ多くの著名人の御霊が祀られている。

墓に関する関わり方も時代により移り変わっており、薄葬の詔、大宝の喪葬令を経て都では埋葬する地区を決めたことで平安京の内部には墓地は存在しませんでした。以前は屋敷墓といわれ、自宅の庭や軒先等へ埋葬し常緑樹をうえていたそう。


■第2講目 【巡礼と四天王寺】北川 央 (大阪城天守閣研究副主幹)

北川先生は実は2回目となります。
前回は本年5/8に開催された「大阪の陣を大河ドラマにする会」の発会式の場で「徳川秀頼の権威」に関する話しを賜っています。

さて今回は「西国三十三所巡り」に関するお話で、まず最初に会場で実際に巡った方の挙手では大半。四国霊場八十八巡りも同じように多数の方が終わらせておられたので驚きました。

さて本題の三十三巡りは西国巡礼開祖縁起と呼ばれその起源は、718年に長谷寺の徳道上人が亡くなり冥府の入り口に来た際に閻魔大王に会い、最近地獄にくる者が増えて大変である。日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば功徳があるということを聞き、その内容を現世に伝える為にそれぞれの宝印をあずかって現世に戻ってきた。甦った徳道上人は人々に説いてまわったが広がらなかったために期が熟するのを待つためにこの宝印を中山寺の石棺に納めた。

その270年後、花山法皇は17歳で即位したが19歳で出家。3人の公家を連れて紀州那智山で修行をしていたところ熊野権現が姿を現して徳道上人の話しを知ることになる。中山寺で宝印をさがしだし、河内国石川郡の仏眼上人を先達として世間に西国三十三箇所巡りを広めた。

この由来から、三十三箇所巡りは、地獄へ行かない為の保証を取り付ける行為でその印のためにご朱印をいただくという意味を持ってる。
またこの由来とおりに三十三箇所意外に番外札所として下記が含まれている。

・三田市花山院(菩提寺) ※花山法皇がお祀りしてある
・桜井市 法起院 ※徳道上人の由緒
・山科区 元慶寺 ※花山法皇が出家されたところ。

また三十三箇所巡りの前には四天王寺、そして終わった報告を善光寺に行う事が
風習として残っています。

四天王寺と善光寺の関わりは、善光寺縁起絵巻に書かれておりこのご本尊の善光寺如来は最古の仏像であるといわれています。風習として1/7~15におこなわれる【御印文頂戴】では額にご印文をおしていただくと極楽往生できるとのこと。(落語にもなっています。)


寺門高僧記行尊伝や覚忠伝に三十三箇所巡りが書かれていますが現代と順番が違うことに注意。もちろん四天王寺が入っています。元々寺門とは天台宗の比叡山に本拠を構えるのを山門派と呼ばれ、民寺に構えるのを寺門派とよばれていたことから、三十三箇所巡りは天台宗寺門派が広めたと考えられ、時代を追うごとに現代の順番となっていく。っまた近畿からみて西国は九州等をあらわすが西国と名づけられたのは東国から見てと考えられていると同時に色々な巡礼が成立してくる。

この巡礼はアマチュアであるが中にはプロフェッショナルな巡礼が存在する。様々な事情で巡る事ができない人々の替わりに三十三度行者は笈を背負って巡礼を行う。

中には三十三箇所を1年に3回×11年続けることでその供養等が四天王寺にも見られこれを三十三度行という。河南町の仏眼寺からこの笈が4つみつかっており、住吉で5つ見つかった。実際には昭和30年まではおこなわれていたそう。

さらに上をいく行もあり、六十六部廻国巡礼がありこれは日本最大の巡礼で、写経した法華教を各国々の霊場に一部づつ納める行となる。その文献には四天王寺もリストアップされている。