フランス風懐石料理中華風: 2010-10

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2010 10/31 高杉新作立志像建立記念講演会  ~晋作と龍馬

今回の目的の一坂先生の講演会が始まりました。
はじめの15分くらいはちょっと書けない内容ですが、この時は会場から大爆笑や、「え~?」っと言うような驚愕の声で包まれていました。
私もおもわず「え~?そ、それはないやろ・・」と驚きましたwwファン心理ちうのは非常に恐ろしいものです。
さて場内はすでに先生のペース。私の大好きな落語でいうところのマクラはOK。漫才だとつかみはOK状態。

某日、一坂先生の所に某週刊誌から連絡があり、インターネットでのアンケート結果で、大好きな歴史上は?の問いに対してなんと高杉晋作さんが1位になったそう。バブル期には10位にも入らなかった晋作さん。やはり現代人=組織人であり、殿様のために・・と最後まで紛争した姿が近代人の苦悩に重なったのか・・・ちょうど伊勢谷さんの出演された龍馬伝があったからのか。
長州人はいわゆる議論好きといわれている、なかでも松下村塾では色々なお話があったようだが王陽明の影響を受けた松蔭先生は意外と冗談が大好きで色々と文献に載っているらしい。いずれも松蔭先生の面影を感じさせる冗談であり近代の親父ギャグとは程遠いよう。

さてよく一坂先生のところに質問をいただく内容として、《晋作さんと龍馬さんは何度あっているのか?》が寄せられるらしい。
まず初回は会っているかもしれないというレベル。
文久2年 上海より帰国した晋作さんは江戸で龍馬とあっている可能性が高い。ちょうど久坂さんらが、攘夷で異人を切る案件が持ち上がり、土佐藩邸にいる武市に賛同を促す手紙を送る。この中に龍馬の名前があっている。この計画はその後、武市より毛利の若殿様へリークされ寸前のところで中止となってしまう。

2回目は長州にて、高杉さんは扇面に漢詩を書き、ピストルを添えて龍馬にあげている。
文献ではこのピストルは上海土産とされているがその真偽は不明。大村の日記にはピストル購入者の一覧に谷梅之助の名前があがっている。

そして3回目は慶応2年6月。小倉口の戦い。いわゆる四境戦争。薩摩名義の長州の船を返却に来た龍馬に奇襲をさせている。この功により、龍馬は慶親公よりラシャの背広と刀を拝領し、長崎に帰っている。
ということで最低2回、ひょっとしたら3回かもしれないとの事。もちろん龍馬さんは1835年、晋作さんは1839年生まれと年が近く、実は影響を与えた人物が共に吉田松陰先生であることから話しが盛り上がったかもしれません。

龍馬さんは15ヶ月の間に江戸への剣術修行へ出かけていますが、これはあくまでも条件付。
土佐藩に何かあれば組織に加わりなさいということ。実際、黒船の出現で品川の警備につかされている。
この時点では品川には松蔭先生もいたはず。
あくまでも外国の手の内を知ってから攘夷をおこなうという松蔭先生の方針に対し、過激派の龍馬さん。ともに佐久間象山塾に入門する共通点がある。

だれもが戦争になる・・とおもいきや・・なんと幕府は3月3日に和親条約を締結。
そして3月5日には密航事件が勃発。これが原因で佐久間塾はつぶれてしまい竜馬は四国へ帰っている。
《かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂》の松陰先生の句に対し
龍馬は《かくすれば かくなるものと われも知る なお止むべきか 大和魂》と読んでいる。

さて晋作さんは16才の2月に若殿様のお付として江戸に行っている。
そして松蔭先生の密航事件を知るわけだから、おそらく藩邸はその一件でごった返しているはず。
実は晋作さんはこの時点で松蔭先生と密接な関係がある。
松蔭先生が師事していた、晋作さんのおじさんにあたる「田上宇平太」(洋学者)が帰国することになり、佐久間象山先生を紹介いただき入門しているから。
晋作さんはあくまでも内戦により幕府崩壊をつぶすことを考えており、これは中岡氏の「時勢論」に影響を受けている、すなわち晋作さんと龍馬さんは方針が違いすぎるわけで双方のコミュニケーションは無かったのではないかと考えられる。

そんな晋作さんも亡くなる4ヶ月前の父に宛てた手紙では「親不幸ばかりすてきましたが唯一の孝は、孫を残せたこと」と書いている。
また直前には「萩に帰りたいが、かごに乗って帰る体力はもう残っていません。蒸気船が見つかったら帰りますのでひょっとしたら突然帰国するかもしれません」と送っている。
自分の命の灯火が尽きることをしっていたのでしょう。

※文章は一坂先生の言われたことを元に私が脚色している箇所がありますのでご注意ください。

やはり一坂先生のご講演は非常にわかりやすいことで大人気の様子。終了後30分以上たってもファンに取り囲まれていたちょっぴりはにかんだ一坂先生のお顔が印象的でした。
もちろん、江里先生とおなじおく、晋作さんの像の前で記念撮影をしていただきました^^

2010 10/31 高杉晋作立志像建立記念講演会 ~立志像ができるまで

午前中に開催された除幕式に続き、会場を変え萩博物館の講演会室にて銅像を製作いただいた江里敏明先生と一坂太郎先生の記念講演会が開催されました。

江里先生は通常公開を行わない銅像の製作工程を全て写真に映されており、今回の講演会ではその写真を元に解説をいただきました。
江里先生と、この萩の関わりは、6年前に開府400年記念で毛利像を作成したことに始まります。

さて、今回の高杉晋作像は、ポートレート等で有名な散切り頭ではなく、月代、ちょんまげ頭に紋付、袴に刀を携えた像で、これは20代前後をイメージされており、昼間は明倫館へ、そして夜には松下村塾へ通う若かりし高杉新作さんです。

【工程】
2009年6月に依頼があり、打ち合わせの後、イメージ膨らませてスタンド付の針金の芯が完成したのが2010年1月~2月。
そして2月末より粘土で肉付けをしていかれますが、このときの高杉さんはなんと裸像。
その肉体美は現代の男性の筋肉美に大差ありません。
この時点で粘土の重さは400キロ!そして次の工程ではこの裸像に草鞋や袴を付けていかれると同時に随所に芯柱を入れられます。
そして4月半ばにはようやく刀を持たせ、羽織を着せてゆかれます。

さてこの段階で当初の完成形のイメージが具現化されるわけですが、先生曰くなにかが足らない・・との事。

なにか力強さが足らないということで、江里先生のされたことは、なんと上半身をつぶして一から再作成。
このお話の瞬間、会場から一斉に「え~~?」という大きな驚きの声が聞こえました。
その後、首の位置を後ろにずらせ、胸を張った姿にされ、これでようやく今回の形となったわけですが時はすでに8月22日。

全体に石膏をまんべんなく振りかけては麻を貼り、石膏が1センチの厚みになるまで延々と続けられます。
次に石膏のそれぞれの端に打ち込んだ鋲から順にパーツごとに切りわけて、パカッと取り出して中の粘土をはずします。
そのはずした石膏の中面にはポリエステル樹脂を塗り、FRPを貼ってゆきます。そして元通り組み立てて石膏を割ることで原型がようやく完成となります。

鋳造所へ運び、その原型の上に覆いかぶさるような型を作成し、銅を流し込む4箇所の穴から一斉に銅を流し込みます。
実は純粋な銅ではなく、銅が90%、錫5%、亜鉛・・などの内緒の配合比とのこと。
冷えて固まったら原型を叩き出す作業でこれが細部にいたるまでの非常に緻密な作業でした。
さて、ようやく完成したら最後は硝酸を吹くことで緑錆を発生させることでようやくホントの完成となります。
この480キロの銅像は台座に2本のボルトで留められています。

最後に、先生より銅像の大半は触ってはダメと言われているが、本当はみんなが触ったほうがキレイに、そして好い風合いが出るといわれてお話は終了いたしました。

この萩博物館には銅像制作時点で型として残ったFRPの像が展示されています。せっかくなのでその前で先生と記念撮影させていただきました。
本当にありがとうございました。

2010 10/28 像建立記念講演会

松下村塾に通っていた頃の高杉晋作さんの立像(高さ1.8m 台座を含めて3m)が萩の晋作公園にできるそう。除幕式は10/31日。龍馬伝で晋作さんを演じられていた伊勢谷 友介さんもお見えになるらしいです。

■銅像建立記念講演会
10月31日(日)午後1時~3時30分 
萩博物館講座室 先着100名
「立志像ができるまで」 江里敏明(京都:日展評議員)
「晋作と龍馬」一坂太郎 (萩博物館特別学芸員)

もちろん♪台風なんでなんのその♪いってきまーすww
除幕式ってそう滅多に見られるもんじゃなし。

どうぞ台風さん。。。

消えてくださいww

2010 10/24 めふ乃寄席

毎年、この秋期開催のめふ乃寄席は会場であるピピア売布の開業イベントと重なりますのでスペシャルゲストが来られます。(昨年は桂春団治さん桂雀松さん)今年は桂小春団治さん、春野恵子さんということで特に初めてナマで聞く浪曲にはチケットを入手した前回の時点からすでに興味津々でした。

林家竹丸 桃太郎
すぅっと流した感のある桃太郎。それでも笑い所をちゃんと押さえて居られるため
笑いが頻繁に起こります。なんとなく堅かった場内の空気が和らぎました。

桂阿か枝 百人一首

上方落語家では誰もしないという珍しいお話。
広げてあった百人一首の歌を見つけた。持ち主に順に解説してもらうがその内容を
すかたんに捉えてしまういう話し。
天智天皇、持統天皇と進み西行法師がもともと佐藤義清(のりきよ)であった頃に身分の高い女官との逢瀬から「次は?」の問いに対し「あこぎじゃ」と言われた為に出家したエピソードを持ち出し落語で有名な<鼓ケ滝>の話しを交えながら進んで行きます。そこで百人一首の編纂画ある事をしった西行は・・。

本題もさることながらマクラの「われ泣きぬれて蟹とわはむる」の啄木の歌が耳について離れません。
あ・・ホントは書きたかったんですけど、残念ながら亀の甲羅の上に・・・の時の歌や逢瀬の際の歌のやり取りを覚えられませんでした(;・∀・)


桂小春団治 冷蔵庫哀詩

抱腹絶倒の爆笑ネタ話。掃除機やテレビの話しはおもいっきりあるあるネタ。そして
本題はどこの家にもありそうな冷蔵庫の中身がなんと擬人化したという奇想天外な世界観。
その世界の中で、ハーゲンダッツのラムレーズンアイスとグリコプッチンプリンが恋愛したり、マーガリンとジャムがケンカしたりのどたばた話し。冷静沈着な「ホタルイカの沖漬けはん」がいい味を出しています。
小春団治さんの創作落語にはいつも驚かされてしまします^^


春野恵子 好色五人女樽屋おせんの段

私がまだ子供だった時に朝5時頃から、祖父や祖母が小1時間くらいラジオで聴いていたのを思い出しました。なので浪曲ってすごく懐かしい記憶があります。
麹屋の法事のシーンから始まり、長左衛門が落とした小鉢が原因でおせんの結い上げた丸髷が
崩れてしまいます。そしてあらぬ疑いをかけられて・・。あとは映画を見ているようにイキイキと脳裏に情景が浮かんで参りました。
女流の浪曲士さんの芸にはまったく抵抗が無いのですが、なぜか女流の落語家さんのお話には抵抗があるのは何故だろう?ってふと頭の中を疑問がよぎりました。

林家染左 淀五郎

実は浪曲が終わって舞台が掃けた後にずっと独特な空気が漂っており、それは幾重にも織綴られた繊細な日本映画を見たあとの印象に似ていました。この空気を果たして染左さんはどうするのか?と心配にさえ思った程。まぁものの見事に染左さんの世界へ連れて行ってくださいました。
仮名手本忠臣蔵の初の大役である塩冶判官高貞を演じることになった淀五郎。見せ場である切腹のシーンに込められた強烈なダメだしに込められた意味を皮肉な言葉に込めながらも成長することを願う市川團蔵。そして見事に・・・。

今日のめふ乃寄席は実に見どころ、聴きどころ満載でした。

2010 10/23 トップリーグ第7節

昨年の4月に初めてラグビー観戦に行き、8回目の観戦です。
今日はトップリーグ第7節。

第一試合は豊田自動織機シャトルズVSリコーブラックラムズ。結果は13対46。

豊田自動織機シャトルズは今年からトップリーグの仲間入りをしたチームでご縁があってキレイな団扇に<織>と書かれた団体の中に紛れ込んで観戦していました。
私はトップリーグの場合は必ずラジオを携帯していて79.5Mhzで太田先生の解説を聞きながら観戦しています。

その解説の中でも頻繁に言われていたのがノックオンの多さでしょう。
ボールを前にこぼさない・・ってそんなに難しい事なんでしょうか。あ・・私は素人なので無理だけどどんな分野のスポーツや芸術にも似たようなチョンボってるとおもうんです。
そのチョンボで流れがブツブツと切れちゃって自滅した感があるようにおもいました。

事前にリコーの15番の「ラーカム選手」の事を聞いていたので自然と目が行ってしまいます。
おもいっきりトライに絡むナイスアシストがあって、後半は怒涛のリコーの攻撃でシャトルズにとっては厳しい結果となりました。

さて第二試合は近鉄ライナーズVSトヨタ自動車ヴェルブリッツ。結果は21対17。
ノット・ロール・アウェイが原因でシンビンとなり2番と9番が抜けたものの近鉄ライナーズが逆転を果たしました。元々シーソーゲームな展開な上に、5m手前からトヨタの波状攻撃を防ぐシーンが何度もありとっても盛り上がったゲームとなりました。
トヨタのアイイ選手がいきなりPGで得点を挙げましたが以降、近鉄に封じ込められてしまったようで残念した・・・って書くとどっちのファンやねん?となりますよね。
トヨタのイェーツさんが出ていなかったので近鉄の応援に加わったのでした^^

ミニFMで私の投稿が読み上げられたんで感激でしたww

2010 10/17 桜田門外ノ変

今から何年前になるでしょう。ある日、自分にまったく歴史の知識が無かったことに気がついたのは。
せっかく様々な歴史がうずもれている大阪に住んでいながら地元の歴史すらしらないなんてあまりに情けないっておもって、色々と学び出したのがキッカケです。
そんな当時の私が「桜田門外の変」に対して知っていたのは「大老 井伊直弼が桜田門外で過激な武士に暗殺された」だけ。おそらく歴史に興味の無い方々はこの程度の知識しか無いでしょう。

このテーマは「2009 7/18 安政の大獄と井伊直弼」で語られていますのでもう下知識はバッチリで鑑賞しにいきました。それでもこの事件の背景や様々な人とのかかわりと計画が緻密に描かれていてあらためて認識しました。
そして事後にに直接的にかかわった水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士、家族などの関係者が次々と壮絶な亡くなり方をしていくそのシーンは非常にスリリングで何度も目を伏せてしまいました。
実際は井伊直弼を護衛していた彦根藩の者のほぼ全員が切腹や斬首となっていることを考えると、安政の大獄で次々と命を奪ってゆく井伊直弼の命を奪う為にどれだけの命が失われたのかを考えると胸が痛くなります。

■教科書に書かれない幕末史
http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/04/2009718.html

13代将軍就任後にすぐさま起こる跡目候補擁立問題で南紀派と一橋派の争いが水面下で繰り広げられるそんな中にまた大問題が勃発。
黒船来航による脅威とその対応問題を幕府のみで処理したのをチャンスとして一橋派は井伊直弼を非難。
ところが謹慎やらで逆襲されてしまう。そこで一橋派は朝廷に働きかけた結果、幕府の頭を飛びこた形で勅状が水戸藩に降りてしまう(戊午の密勅)。この事件の黒幕探しで一橋派に対する執拗弾圧が始まり(安政の大獄)勅状は偽者であるという事で水戸藩に返却を求める幕府に対し藩内では様々な意見が飛び交うことになり、ついに井伊直弼襲撃の話が持ち上がる。狙いは薩摩が3000人を京都へ挙兵、制圧し幕府を転覆させられる。ところが運命は皮肉なもので、了承を得ていた薩摩藩主の島津斉彬氏が急死してしまい島津久光は方向転換をしてしまい、計画はすべて頓挫してしまうことに。

生瀬 勝久演じる高橋多一郎は大阪寺町を抜け四天王寺近くの茶屋で見つかってしまった結果、執拗な追っ手からついにここまでと、壮絶な死を迎える。実際この親子のお墓は四天王寺さんにあり、墓標には<怨霊消滅>と描かれているくらいだからよほど凄まじい死だったのだろう。

■公式サイト
http://www.sakuradamon.com/

2010 10/16 教科書に書かれない日本史 神戸事件と伊藤博文

菅総理が奇兵隊内閣云々と言った件は色々アメディアを賑わしました。その後国会で色々な議員が幕末の志士を尊敬していることを話したらしいですがその実像を知らないで簡単に言葉にするのは足をすくわれる元となってしまいます。特に菅さんの奇兵隊のイメージ実際とは相当違うようです。特に間違って理解されやすいのは「奇兵隊は倒幕のために組織された軍でもなければ、有終の美を飾り円満に解散したわけでもない」
それでも固執するのは、歴代の総理大臣を8人?(菅さんを入れたとすると9人)排出した長州出身というネーミングは、いわば政治家の一流のブランドなのでしょう。
長州が輩出した総理大臣の中でも誰もが知っているのは伊藤博文氏。この伊藤氏は非常にラッキーな星を背負っていたらしい。

天保12年に生まれた林利助(ちなみに高杉さんは同10年、松蔭先生は元年生まれ)。父である十蔵と村とのトラブルにより萩へ出稼ぎに行くことに。その出稼ぎ先で下級武士(足軽:中間)伊藤弥右衛門に気に入られ、また男子が居ない為に伊藤家の養子となったので伊藤姓を名乗ることとなった。
そしてちょうど世間は黒船騒ぎ。萩藩は幕府より三浦半島の警備をおおせつかっていたので、もちろん伊藤少年も1年間の予定で警備に着いた。その先で赴任してきた来原良蔵に付いて学ぶ機会を得る。さて1年が経過する際に来原良蔵は、伊藤氏の勉強熱心さに打たれ、萩にある松下村塾を紹介したことがきっかけとなり伊藤氏の塾通いがはじまる。そしてまたまたラッキーなことに自宅から数百メートルしか離れていないので熱心に通うことができたらしい。

長州藩はとてもおもしろい藩で、表向きは攘夷を唱えながらも、裏ではイギリスへ留学生をおくっている。その中に入っていたのが伊藤氏。彼には実績が会ったが、それでもネーミング不足だったのか不思議なことに、王政復古の大号令で強引に樹立した新政府。その中に伊藤氏は入っていない。
再度留学を目指すための船を捜すために伊藤氏は下関から神戸に向かい慶応4年1/12に到着した彼が見たものは・・・・・・・・・・・・。

前年12/9に王政復古。1/1に慶喜さんの倒薩の檄。1/.3に鳥羽伏見の戦い、そして1/10に大阪城引渡しが起こっているそんな背景で、行動の読めない尼崎藩(譜代大名)を牽制するために新政府は岡山藩に西宮まで進軍する命令を出した。当時の岡山藩の家老は日置建帯刀(ひきたてわき)。2000名を出兵し西宮を目指したその中の分隊500人が、1/11に大倉谷の宿場を出発し正午頃に神戸村三宮神社辺りを通過したそのときに、居留地から神社側へ行く為に500人の行列横切ろうとしたフランス兵2人。もちろん無礼な話である。滝善三郎(第3砲撃隊長)はヤリで追い返した再に軽症を負わせてしまい、この事件が発端で発砲騒ぎにまで発展してしまう。(神戸事件)居留地を迂回する徳川道を通ればこんなコトにならなかったのに。

さて、この事態をチャンスと捉えたイギリス公使パークスはなぜか激怒。アメリカやフランス公使を炊き付け居留地以外の場所を占領した上に、港に泊まっていた各藩の船を拿捕してしまう。

そんな事態が発生した翌日に登場した伊藤氏。幸いにパークスや各公使と顔見知り。
事情を聞いて仲立ちをしようと向かった結果、パークスはこの事態を利用して新政府と各国の力関係をはっきりさせておきたかったコトを目的に、王政復古から1ヶ月以上経つのに各国へ通知の無いことに苛立ちをもっていたことがわかった。
伊藤はすぐさま大坂にいる東久世通禧(外国事務総督)に会い、事情を説明し、すぐさま神戸の運上所に各国公使を集めて<新政府の貿易の窓口>であることを宣言した。(対外和親の布告)
後にこの働きによって伊藤は外国事務係に就任し、政治の中枢へ入ってゆくラッキーな方。

さて神戸事件に対して外国側は岡山藩から責任者を出して死刑にすることを新政府に要望。
まさか、フランス兵2人の軽症に対して切腹を求めるってどうよ??

各国公使で話し合いが行われ、さすがに言いすぎた感のある弱腰になったパークスに発破をかけて切腹を譲らなかったフランス公使のロッシェ。
その結果が新政府に届きこんな無茶な要望は受理しないだろうとおもっていたが、まさか・・まさか新政府の交渉をおこなった伊藤はこの条件を飲んでしまい、岡山藩から【滝善三郎氏】が名乗りをあげついに切腹することになる。
そして2/9に切腹が行われた。(現在のカネテツの工場の辺り)

現在もその遺書は岡山と神戸の子孫の自宅に残っているらしい。
この様子はアーネストサトウ氏や様々な文献で様子が書かれており、<日本=ゲイシャ・フジヤマ・ハラキリ>のハラキリはこの滝善三郎氏の切腹を始めてみた外国人が比喩した言葉とのこと。

そのときの様子は文献に書かれているが実はそれらの文献にはあまり書かれていない下記の言葉を一番初めに呟いたそう。

「私は遠国の者(おんごくのもの)故、朝廷が外国人を大切に扱う方針になっていたとは知らなかった」二枚舌を持つ新政府を批判した痛烈な言葉。

一坂先生は実はこの「教科書にかかれない幕末史」の講座の初回にこんな事を言われています。

日本を始め世界中の歴史は強者や勝者の歴史。本当はそこのには敗者や弱者の歴史がうずもれています。その歴史を調べる事で事実を知る事ができると。

まさにそのとおり。今の政府も二枚舌にならないようにして欲しいものです。

※注意) この文章は一坂先生が言われた内容に対し、私が文脈を色々と追加した内容です。

2010 10/16 大切な言葉

2007年のクリスマスが終わった翌日から2008年の初めにかけて病院で過ごました。
年末年始を病院のい冷たいベッドの上で過ごしました。
あの、お米の形が無く、お碗に自分の顔が映るくらいのお粥を食べた年末の寂しさは忘れる事ができません。
あらら・・私・・何してるんだろ・・ってつい自暴自棄になりかけた年末。

そしてようやく2008年になり、ようやくベッドから起きる事ができて、ふと見つけた病院のロビーに掲げられていた額にかかれていた言葉がすごくショックで、おもわず写真を撮りました。
事務局へ訪ねたところ、院長さんがか海外へ行かれた際に
知ったそうでどうやらニューヨーク大学リハビリテーション科の患者さんがつくられた詩のようです。


大きなことをなし遂げるために
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙虚さを学ぶようにと弱さを授かった

より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱さを与えられた

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった

世の人の賞賛をえようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いは全て聞きとどけられた

神の意にそわぬもとであるにもかかわらず
心の中の言い表せないもの全て叶えられた

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ




甘えちゃダメなんです。
人は謙虚であるべきなんです。
そして感謝の心を持ち続けることなんですよね。

2010 10/15 見えない世界

日本橋毘沙門天 大乗坊へ寄りお参りをすませて出勤。
お賽銭入れの前にいつも「ぼだい」という葉書が積まれていて参拝者は自由に持って帰っています。
たしか葉書サイズではなくB4程度の小雑誌もあったとおもいますが、おそらく真言宗で発行されているのだと思います。
その内容はなかなか良い事が書かれいて、私の仕事用のデスクには、この葉書を写真立てにいれて時折読み返しています。




ちょうど昨日までは、いつしか某病院に掲げられていたあの言葉が。この言葉はまた次回で紹介しますがさっそく入れ替えた10月号には金子みすゞさんの精神を彷彿とさせる素晴らしい世界観が書かれています。

骨子としては先日まで放映されていたゲゲゲの女房の中で二女の善子が言ったセリフ「妖怪もすめない世の中では、人間だって住みにくいよね。」と茂に語りかえるところから始まります。
見える世界だけを基準にして物事を判断すると物欲やエゴに執着し世の中が荒れて行きます。私たちの知識で解明されているのはごくわずか。「見えない世界」の方が多いのです。ということを念頭に置く事も大切ではないか?という内容です。


~ 星とタンポポ ~

     作:金子みすゞ


  青いお空のそこ深く

  海の小石のそのように

  夜がくるまで沈んでる

  昼のお星は目に見えぬ

  見えぬけれどもあるんだよ

  見えぬものでもあるんだよ



  散ってすがれたタンポポの

  川原のすきにだぁまって

  春のくるまで隠れてる
 
  強いその根は目に見えぬ

  見えぬけれどもあるんだよ
 
  見えぬものでもあるんだよ




享年26歳でこの世をさった金子みすゞさん。
自然の中に広大な宇宙を見たり、また生き物すべての世界の中に世界観を見出す事ができた童謡詩人。
自らの命と引き換えにわが子の親権を手放すことを拒んだ女性。
明治36年(1903年)-昭和5年(1930)

高度経済成長時代に育った親達が、バブル時期に生んだ子供たち。ゆとり教育と対極にある教育熱。
みえるモノだけに捉われてしまった結果が今のような心が荒んだ世の中になってしまったのでしょうか。

2010 10/14 自分の感受性くらい

先日の休日の午後にたまたま見ていたテレビ番組。NHK全国学校音楽コンクールの決勝戦でした。
中学の部で決勝に残った11校が、課題曲と自由曲を歌い、そして審査のあと全国の頂点となる学校の栄誉をたたえるというものでした。

中学校時代の私たちのお遊びに似た合唱とはまったく違い、全員がきっちりと発声の基礎に裏づけされた素晴らしいハーモニーです。
そして番組は進み「島根大学教育学部附属中学校」の自由曲を聴いて、ドキッとしました。
これって昔、朗読したことがある詩。
ぜひこのBLOGをお読みになっている方も朗読ください。

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自分の感受性くらい

                       作:茨木のり子

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

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※島根大学教育学部附属中学校は銅賞となりました。

2010 10/13 サービスのお話Ⅱ

朝のラジオ番組で聞いたサービスにまつわるお話。
シュチエーションは少し違うかもしれないけれど本筋は同じ。

ある私鉄の定期券売り場に男性が駆け込んできた。
この私鉄の駅はJRの乗り換えも出来る混雑する駅だそう。


「コインロッカーはどこにありますか?」





その定期券売り場の女性はこう答えました。


「この売り場を出て右に曲がられた並びにありますが、もしいっぱいの場合は、一つ目の角を左に行かれて20mほどのJRの乗り場の右手にあります。」
この返事でもたいしたもの。


まぁ、よほどこの手の質問が多いのでしょう。


男性は「ありがとう」と立ち去ろうとしたそのとき





後ろからまた声がかかりました。


「お客様、100円玉はおもちですか?」


この一言が言えるかどうかがサービスの決め手でしょう。


雨の日に来られたお客様に対し「いらっしゃいませ」に対し一言付け加えるなら

「お足元の悪い中、お越しいただき、ありがとうございます」
雨の降る日に傘を差してお店に来るお客さまはおもいっきり目的買。

いわばお得意さまか、お得意さま予備軍。


そんな百貨店の開店と同時に店内に入ろうとすると、左右両方に従業員さんが並んでお出迎えをしてくださいます。

「おはようございます、いらっしゃいませ」

心から言っているか、それとも本当にそう思っているかは疑問だけれど今の百貨店には、口先だけで言う余裕はない。


また話題の市内にある大手のディスカウントスーパーへ行く機会がありましたがその店内は酷いもの。

がさがさになった商品棚、歪んでいたりPOPが外れかかっている。

商品が前出しされておらず通路にはパッキンが放置されている。

挙句の果てに非常用非難通路には自転車が置かれている。

明らかに人手も指導者も不足してる。こんな店舗にはサービスという感覚はないのでしょう。

値段だけが安くてもサービスを語るレベルに達していないお店は淘汰されるでしょう。

2010 10/12 サービスのお話Ⅰ

辛口な文章を書くのはなかなか気持ちが辛いもので、出来れば避けて通りたいのですが、ここ数週間で色々と感じたことを気持ちを整理する意味で2日間にわたって書いてみることにします。

私は色々な施設を利用させていただく機会が多く、そのたびに色々なお勉強をさせていただいています。
展示物を見たり、お話を聴いたりして様々な感動と知識を得ていますが、どの施設でもそれぞれのスタッフの方々は非常に謙虚にサービスをしてくださいます。此処で言うサービスとはモノを下さったり特別扱いをしてくださることではなく自分の職務に忠実に、受付をされる方は丁寧に受付をいただき、案内をされる方などは親切に案内してくださるという当然の範囲を指しています。そしてそのスタッフの方々は一様に知識人で非常に心地よい印象を与えてくださいますが実はこれは当然の事。
なぜなら、不快な印象を与えてしまえば二度とその施設を利用しなくなることを知っているから・・・もありますが人が人に接する出会いに対する心配りという常識だからです。

ただし所がかわり、快適性を求めるホテルではそのサービスを受けることは当然だし、美味しさを前提とした飲食等であれば食事が美味しいのは当然でしょう。
でももし美味しくなく、食事を残してしまっても感謝の気持ちは忘れないことは利用する側の常識だし、私たちは美術館に行って、「絵や書」がつまらないからと言いって「お金を返して欲しい」などとは言いません。

私の大好きな落語会は最近毎日どこかで開催されるくらい人気です。
その内情はきっと場所代を払ってまで開催される噺家さんはホントに大変なご苦労をされているのでしょうし、また会場側も施設の維持のために様々な努力をされていることと察します。
その表れとしておのずから「お客様にせっかく来ていただいているのだから」という気持ちが強くなるのでしょう。

もちろんお客様側は「演者さんとそのスタッフへの心配り」を忘れてはなりませんが、特別な事をする必要なんてなにもなく、心からそれぞれのイベントを愉しめばいいのでしょう
仮に面白くない落語を聴いても「お金を返してほしい」とは言わないし言う必要は無く、ただその演者さんの落語会に二度と行かなければそれでいいのです。

もしも・・・
美術館の絵が素晴らしくても受付の方の態度が悪かったらどうしますか?
美味しいお料理でもウエイターがぞんざいな言葉であったらどうしますか?
ふかふかのベッドと清潔なお部屋でも、ホテルマンの態度がイヤミであったらどうしますか?

あくまでもそれぞれのスタッフは影の存在でありサービスの対象である絵やお料理やお部屋の価値の足を
ひっぱったりすることはありえないのです。

先日行ったその会場はある有名な市の所有物。
会場を取り仕切る方がその部下に対し様々な指示を出す風景は小さな手作り寄席の会場では
よく見られることですが、すでに会場にお客様が居られる状態でその言動で不快感を与えては大きなマイナスです。
もちろんッスタッフがお客様へ上からの目線で命令口調で話したり、なれなれしく話しかけるなんて失礼の極みです。
そしてついに落語の途中でその会場の電話が鳴るなんて前代未聞でありえない会場ですが実際にありました。

あまりに素人臭い運営なんて恥ずかしい限りです。所詮、役人の天下り施設だから頭を下げることができない人達の集まりなんだと思われてもしようがないのでしょう。

2010 10/9 第四十七回 落語みゅーじあむ寄席

2010 10/9 第四十七回 落語みゅーじあむ寄席

池田落語みゅーじむ寄席に行ってまいりました。
池田に出来ていたのは知っていたのですがなかなか行くチャンスがありませんでした。
さて、池田は落語での街おこしやアマチュア落語によるイベントが盛んな場所。
落語大好きな私にとってはありがたい場所です。
会場のお客様もお見かけしたところ、リピーターが多いようで、演者さんもやりやすい場所だとおもいます。

朝から雨空で開場についた11時には完全に大降り。ホームページには11時開場ということで行きましたが、落語の開催される日は開場が遅いらしい。開場でお話を聞いたところ12時半頃であれば整理券をいただけるということで思いがけない1時間半ののんびりしたランチタイムをいただくことができました。

◇笑福亭生寿 花色木綿

マクラは婚約ネタ♪ホントにおめでとうございます。
さて、生寿さんのこのネタの花色木綿は何度もお聞きする機会があり、そのたびに完成度が上がってるなって感じます。表情や所作が豊かでよく通る声で、会場を笑いの渦に巻き込んで行きます。
生寿さんが楽屋入りされる際に初めて生寿さんをみたお客様が私に「生寿さんって中村獅童に似てるねぇー♪」って^^
そういえば・・細面にしたら似てるかもです。


◇林家染雀 七段目

そういえばたしか、町屋寄席でも生寿さんと一緒にご出演されていました染雀さん。あのとき同様に「阿呆の三寸間抜けの五寸」ってコトバ、すごく説得力があります。

歌舞伎に精通されている染雀さんの造詣の深さにはホントに驚きです。
歌舞伎で実際にあったとんでもないエピソードをお話されました。もちろん「七段目」の中でくりひろげられる劇中劇の仮名手本忠臣蔵の世界にまでも連れていってくださいました。


◇桂梅団治 ねずみ


梅団治といえば撮り鉄で有名な方。いきなり今日から山口県で走るはずの電車の撮影にいかれるはずだったそう^^すごく楽しそうにお話されていて、ホントに愛されてるんですねー。で、今日もご自身の30周年予告と同じくらいに、鉄道写真の個展の宣伝をされていました。
さて話はすすみ、内弟子時代の思い出。
修業は本来は3年あるが、2年で切り上げ、世間の風に当たることになったが冷たくなかったそう。とってもユニークな梅団治さんです。
さて、「ねずみ」は左甚五郎を扱ったネタの中の一つ。飛騨高山から出てきて天満の真砂楼に世話になっている甚五郎が今度は岡山へ出かけたその道中宿場での人情話。
大好きなお話のひとつです。

もちろん見せ場は、ねずみ屋の主と息子、分銅屋の主の会話。胸がきゅんきゅんと痛むくらいに落語の世界に連れて行ってくださいました。

さて、次回11月はすでに予定が入っていましたので次回は12月♪
楽しみにしています。

2010 10/4 四天王寺秋季大学余話

第47回四天王寺秋季大学の2日目は終了時には、激しい雨!
会場の五智光院から急ぐ姿が多くみられました。


この会場のすぐ裏手には<極楽浄土の庭>がありそれはキレイなお庭。
おそらくそのお庭を散策され終わった外人さんのの二人連れが雨の中、険しい顔つきで急いで山門をくぐろうとされている矢先に、世間一般で言う、大阪のおばちゃん3人組。

キレイな傘の三本のうち、1本をその外人さんにあげて「じゃあねー!バイバイ!」って去っていかれるところを見かけました。

あぁ。。。今日はとっても良い行いを見させていただいたよ。
とっても清々しい気持ち。
大阪のおばちゃん!なにかと良いイメージがないんだけれど捨てたもんじゃないですよね。

ということで生まれて初めて「四天王寺夕陽丘前」から電車にのり梅田へ向かいHEPナビオへ。



どういういきさつか私が直通エレベーターのボタンの前に立ちボタンを押したりするはめに。
フロアについたら誰一人「ありがとー」の言葉も無く一目散に映画館やお店に向かって歩く若者達ww

あかんやろー。それ!ほんとに恥ずかしい光景でがっくりです。。

まぁ・・その夜は串カツに生ビールをむっちゃ頂いてなんとか帰宅。
夜中は気分が悪くなってまぢで危ないところでしたww

2010 10/3 ~第47回四天王寺秋季大学~ 2日目



第47回四天王寺秋季大学の2日目です。朝方はなんとか大丈夫でしたが開始時間に近づくにつれて


雨脚が激しくなり、終了間近になる頃には激しい雨となりました。





■第1講目 【現代思想としての仏教】末木 文美士 (国際日本文化研究センター教授 東京大学名誉教授)


福岡市博物館(金印のある博物館)のお話から始まった第1講目。国際日本文化研究センターでは現代の妖怪ブームのその前に妖怪データーベースを作成した。 http://www.nichibun.ac.jp/welcome.htm
1965年以降の現代ではキツネも人を化かす事が無くなり高度成長経済へまっしぐら。その中でもたんなる迷信とは言いきれない事象も数多くのこっている。

認知症の方々が体験する様々な出来事は、その内容を一方的に誤っているとは言いきれないのではないか?
夢で見る世界こそが現実なのでかもしれません。キリスト教的な世界観では科学が解明した範囲が現実であり特に「人の死」は誰もが体験する事ができない事象、つい蓋をしてしまう傾向にある。
この流れを受けてお葬式が簡略化される傾向にある。簡略化されるのはもはやとめる事ができないのかもしれないが亡くなった方との関係や死者との関わりあい方が重要となる。

様々なキーワードを通じて<顕>の世界と<冥>の世界をお話くださいました。
どうしても概念的で哲学的な内容はわかりにくいのですが興味ある事例を随所に用いてくださりわかりやすくお話をくださいました。



■第2講目 【四天王寺の亀井水と日想感】水野 正好(奈良大学名誉教授 大阪府文化財研究センター理事長)

非常に興味あるお話でメモを取るまもなく矢継ぎ早にお話される水野先生のお言葉を追うのに大変でした。
仏教の興りと飛鳥寺~大化の改新~飛鳥からこの難波宮に遷都した背景をお話されたのにいよいよ核心に迫ってゆきます。万葉文化館の建設に伴う裏話しは本当に驚きました。

第35代天皇 皇極天皇(642年-645年)・第37代天皇 斉明天皇(655年-661年)にまつわるお話で飛鳥宮の東の山上には巨大な建造物である離宮があったそう。その建築資材はおびただしい良質の石が使われていてこの石は奈良県の天理より運ばれたらしい。その為には運河を建設していたとのこと。この発掘調査で突如現れた不思議な形の石。この正体は??
なんと四天王寺の亀井にある。

斉明天皇の政治方針は協調政治。蝦夷(東北や北海道)や海外からの客をもてなす事をおこなった天皇は、当時はもちろん滅多に会う事の出来ない位の高い方。その方がこの外交施設としての離宮で客と会うわけだから、会うほうも失礼があってはならない。
一方、四天王寺の亀井水は様々な歌人が歌に詠んでいるくらいの古い昔からあったらしい。
その流れる清らかな水を白玉に喩え、手を編むようにして口をすすぎ手を洗う。今回出土した石は二段構造で亀の形状をしていることからどうやら同じことをしていたのではないか?ということ。

さて、日想感の話しではこの夕陽丘の名前にも残るとおり西にしずむ太陽に極楽浄土を見てたくさんの方々が集まっていたという話し程度の下知識の私。その歴史は奈良の元興寺にいる智蔵に師事していた頼光の突然死からはじまる。
無くなった頼光がその学友であった智光の夢の中にでてきて、極楽浄土は西方のかなたにありそこでの姿を伝えたそう。智光はその様子を絵師にかかせたものが智光曼荼羅とよばれており元興寺に残っている。(この絵には智光・頼光の姿も書かれている)

さてこの極楽浄土の考え方は急速に広がり素晴らしい立地にある當麻寺では東に仁王門があり西門はなく極楽院、奥院の裏にそびえる二上山の果てに太陽が沈んで行く様を多くの人々に説いたそう。さて四天王寺の有名な西門の石の鳥居には<釈迦如来 転法輪処 極楽浄土 東門中心>とかかれています。すなわちこの西門は極楽浄土の東門にあたることから鳥居より西は極楽に続くという意味ですぐ近くにまで迫っている海岸線の水平線のかなたに沈む太陽に極楽を重ねてみせていたのでしょう。
上には上がいるもので、四天王寺の真東にあるお寺はどこでしょう?



東大阪にある往生院で、この往生院では、安助上人が説いたとおり、四天王寺の真ん中にある五重塔の先端に太陽が沈むということでおなじく日想感が盛んであったとのことです。
当時の人々の極楽浄土に対する憧れは大変なもので有名なものに<西念>が上げられます。彼は多数の寺へ寄進をおこない四天王寺の西門から入水するが失敗(1146年)いろは歌などを紙辺に残した穴の中で亡くなったとのこと。

※私の好きな落語の世界では西念さんは「藁人形」「黄金餅」が有名でなんとなくダークなイメージがあります。

2010 10/2 ~第47回四天王寺秋季大学~ 1日目

第47回四天王寺秋季大学が開催されました。
会場は四天王寺本坊五智光院。めったに入ることのできない場所でもありとてもこの日を楽しみにしていました。

この五智光院は、大日如来を本尊とする五智如来を安置し、授戒灌頂会を修する道場で、灌頂堂ともいわれます。


また、徳川家代々の位牌を納めており、御霊舎(みたまや)ともいわれました。



五智とは、法界の自性を明確にする智、 鏡の如く法界の万象を顕現する智、諸法の平等を具現する智、 諸法を正当に追求する智、自他の作すべきことを成就せしめる智、とのこと。
会場の北側への立ち入りを禁止されていましたのでその場所にお位牌と五智如来さんがおられたのでしょう。


~第47回四天王寺秋季大学~ 1日目


■第1講目 【お墓まいり】奥田聖應 猊下  (四天王寺官庁)

日本人はやさしく有るべき。今回の参加者250名の中で50才以下はごく少数であった。
。大阪市では様々な犬を分けてくださるが室内犬は非常な人気だが近番犬になるような犬がいない。どうぞペットを飼っている方は精一杯可愛がってあげてください。

1987年に東京都が霊園に対する意識調査をした結果、霊園は死者を偲ぶところのイメージが非常に強い。明治6年~明治30年頃は国策として神道を推奨したことから火葬を禁止し土葬としたことから墓場には怖いイメージがある。現在の墓地は明るいイメージがあるがこれは海外の影響が強い。日本初の公園墓地である東京の多摩霊園はその後の公園墓地の見本となった。この多摩霊園はウィーンの協同墓地を参考にしておりベートーヴェンやモーツゥァルト等の著名な顕彰墓地などが500基あり全体では300万人(カトリック)が眠っている。この墓地は信仰、世界感、門地等の区別がないのでさらに多くの方々の慰霊がある。

一方多摩霊園には東郷平八郎氏、山本五十六氏、古賀峯一氏等の軍人をはじめ多くの著名人の御霊が祀られている。

墓に関する関わり方も時代により移り変わっており、薄葬の詔、大宝の喪葬令を経て都では埋葬する地区を決めたことで平安京の内部には墓地は存在しませんでした。以前は屋敷墓といわれ、自宅の庭や軒先等へ埋葬し常緑樹をうえていたそう。


■第2講目 【巡礼と四天王寺】北川 央 (大阪城天守閣研究副主幹)

北川先生は実は2回目となります。
前回は本年5/8に開催された「大阪の陣を大河ドラマにする会」の発会式の場で「徳川秀頼の権威」に関する話しを賜っています。

さて今回は「西国三十三所巡り」に関するお話で、まず最初に会場で実際に巡った方の挙手では大半。四国霊場八十八巡りも同じように多数の方が終わらせておられたので驚きました。

さて本題の三十三巡りは西国巡礼開祖縁起と呼ばれその起源は、718年に長谷寺の徳道上人が亡くなり冥府の入り口に来た際に閻魔大王に会い、最近地獄にくる者が増えて大変である。日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば功徳があるということを聞き、その内容を現世に伝える為にそれぞれの宝印をあずかって現世に戻ってきた。甦った徳道上人は人々に説いてまわったが広がらなかったために期が熟するのを待つためにこの宝印を中山寺の石棺に納めた。

その270年後、花山法皇は17歳で即位したが19歳で出家。3人の公家を連れて紀州那智山で修行をしていたところ熊野権現が姿を現して徳道上人の話しを知ることになる。中山寺で宝印をさがしだし、河内国石川郡の仏眼上人を先達として世間に西国三十三箇所巡りを広めた。

この由来から、三十三箇所巡りは、地獄へ行かない為の保証を取り付ける行為でその印のためにご朱印をいただくという意味を持ってる。
またこの由来とおりに三十三箇所意外に番外札所として下記が含まれている。

・三田市花山院(菩提寺) ※花山法皇がお祀りしてある
・桜井市 法起院 ※徳道上人の由緒
・山科区 元慶寺 ※花山法皇が出家されたところ。

また三十三箇所巡りの前には四天王寺、そして終わった報告を善光寺に行う事が
風習として残っています。

四天王寺と善光寺の関わりは、善光寺縁起絵巻に書かれておりこのご本尊の善光寺如来は最古の仏像であるといわれています。風習として1/7~15におこなわれる【御印文頂戴】では額にご印文をおしていただくと極楽往生できるとのこと。(落語にもなっています。)


寺門高僧記行尊伝や覚忠伝に三十三箇所巡りが書かれていますが現代と順番が違うことに注意。もちろん四天王寺が入っています。元々寺門とは天台宗の比叡山に本拠を構えるのを山門派と呼ばれ、民寺に構えるのを寺門派とよばれていたことから、三十三箇所巡りは天台宗寺門派が広めたと考えられ、時代を追うごとに現代の順番となっていく。っまた近畿からみて西国は九州等をあらわすが西国と名づけられたのは東国から見てと考えられていると同時に色々な巡礼が成立してくる。

この巡礼はアマチュアであるが中にはプロフェッショナルな巡礼が存在する。様々な事情で巡る事ができない人々の替わりに三十三度行者は笈を背負って巡礼を行う。

中には三十三箇所を1年に3回×11年続けることでその供養等が四天王寺にも見られこれを三十三度行という。河南町の仏眼寺からこの笈が4つみつかっており、住吉で5つ見つかった。実際には昭和30年まではおこなわれていたそう。

さらに上をいく行もあり、六十六部廻国巡礼がありこれは日本最大の巡礼で、写経した法華教を各国々の霊場に一部づつ納める行となる。その文献には四天王寺もリストアップされている。