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2010/09/18

2010 9/18 教科書に書かれなかった幕末史 戊辰戦争

王政復古の大号令から戊辰戦争へのわずか1ヶ月間の間には色々な駆け引きがあったことは教科書には書かれていない。

舞台は江戸。撹乱作戦が起ころうとしていた。
薩摩藩邸(芝浦の三田)付近に檄文がまかれ、相楽総三を中心として500人の浪人らが大集合。
薩摩藩邸が三田糾合所と名前を変え、その目的は天璋院 の護衛のはずが実体は御用強盗。ますます悪くなる江戸の治安。
当時江戸警備を担当していたのは庄内藩(酒井家)。12/25未明にこの三田糾合所を攻撃し50人あまりが死亡する事件が起こる。(江戸薩摩藩邸の焼討事件)首謀者は京都へ脱出し、12/28には大阪にいる幕府軍に伝わり、同時に1/1には薩摩藩邸の西郷に伝わる。これは、開戦の口実ということで大いに喜んだらしい。

場所はかわり京都。

12/9に発せられた王政復古の内容を二条城にいる慶喜さんに伝えに行く役は「松平春嶽」さん。
実に嫌な役。つい先日は後藤象二郎さんから、慶喜さんは<議定>にいるはずと聞いていたが結果はつまはじきにくわえて、官位の剥奪。。

12/10には慶喜さんは激怒。この時二条城には旗本5000人+会津3000人+桑名1500人が居たので即、会戦でもよかったが慶喜さんはぐっとこらえて大阪城へ移動。
彼の心の中には、「王政復古の内容は自分はつまはじきだが、かならず私は復帰できる」と信じていたから。
それが証拠に、お金の無い新政府。12/14には新政府の出納係の戸田忠至が5万両を借りに行き慶喜さんは貸し付けている。

慶喜さんの行いは色々と新政府に影響を及ぼし、12/28の三職会議が行われ、慶喜さんを前内大臣(さきのないだいじん)というポジションへ戻そうか?という話もあったらしい。
と・・そんな良い話の矢先に!・・・・・・・・・<江戸での話が飛び込んでくる。!>


慶喜さんの選んだ選択は京都へ攻め上ることを選んだ。
1/1には<討薩の檄(表)>が発行され、これは薩摩との私闘であり、朝廷には恨みはないことを表明。
薩摩を<奸臣>と呼び、ついに戊辰戦争に突入してしまう。
1/2には大阪から京都へ向かう15000人の兵。途中、鳥羽街道と伏見街道の二手に分かれて1/3の17時頃に開戦。

実は1/2には再度三職会議が行われており慶喜の新内閣入りの話がされていた矢先に出兵の情報が飛び込んできてすべてはNGとなってしまう。
元々、容堂さんや春嶽さんは慶喜さん側。この事態を知って怒り狂った容堂さんは、まわりに当り散らし、ついには議定を辞めると言い出し●●公家が懐のピストルでおもわず狙ったらしいが後藤に取り押さえられえる。

1/3は決着がつかずに淀城へ退却。
1/4は旧幕府15000人VS薩長5000人なので数の上では旧幕府側は楽勝。ところが東寺に錦旗が上がったことで情勢が変ってくる。旧幕府は賊軍で、薩長は官軍という図式になる。

1/5に淀城へ一旦退却を図った旧幕府。ところが淀城へは入れてもらえない。淀城は譜代大名因幡家。実はこの時、殿様は不在で城を守ったのは「田辺治之助」。一部、城の門が破られ、旧幕府が入ってしまったことの疑いがかけられるかもということで切腹してしまう悲劇がおこった。

イケイケ状態の官軍。1/4には三浦五郎(奇兵隊)が抜け駆けし淀の堤の千両松へ。この三浦五郎は明治になると梧楼と改名し韓国のミンピ暗殺の黒幕。反骨将軍と呼ばれた人。

1/6には山崎方面の津藩山崎家が官軍へ寝返りいきなり桑名藩を攻撃・・そんなときに またまた事件がおこる。

1/6 PM9:00に慶喜さんは大阪城を脱出して江戸へ逃げ帰ってしまい1/7には兵隊も大阪城から退散。1/9には城に白旗が上がる。

官軍との交渉には妻木田宮(つまきでんきゅう)が選ばれ、城内で旧幕府軍との交渉をおこなっている最中に不幸がおそう。
いまでも謎とされている大阪城の謎の炎上事件。この時点で大阪城は焼けてしまい戦後まで再建されない。大阪城のない大阪が始まった。

大正になり、「昔夢会」とよばれる渋沢栄一らを中心とした慶喜さんの聞き覚えを書き残す会が発足され当時の様子が書かれている。
大政奉還の真意はNG。<討薩の檄(表)>は原文はみたが私には責任は無い!とのこと。またなぜ、大阪から東京へ逃げ帰ったのか?については会津の家老<神保修理(じんぼしゅり)>に江戸へ帰って体制を立て直したら?と注進されたから。ということがわかっているそう。