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2010/07/17

◇2010 7/17 教科書に書かれない日本史 ~討幕密勅と大政奉還

教科書にかかれない幕末史 ~討幕密勅と大政奉還


いよいよ倒幕の山場へ向けて動き出す。

孝明天皇の突然の崩御により色々な歯車が回りだす。
徳川慶喜さんに非常な信頼を寄せていた天皇。居られる限り幕府は安泰であったはずだけにその死の原因はいまでも不明だそう。
そして次のキーマンとなった明治天皇争奪戦が幕府側と倒幕派で繰り広げられるところに前回のポイントだった兵庫開港の勅が下る。
これを知った倒幕派は、すでに慶喜さんと明治天皇の間にはなんらかの太いパイプがあるのでは?と不安になる。


慶応3年5月23日から24日にかけて直談判に行った慶喜さんは見事に勅を得ることに成功し暗礁に乗り上げていた開港問題に大きな進展を見せた。
実はその数日前の5月21日には<薩土盟約>なる会談が行われたと年表や教科書にある。土佐の中岡氏をはじめ乾(板垣)退助、薩摩からは西郷氏、小松氏に吉井友実。
あくまでも武力倒幕を主張する薩摩に対し、乾氏は「30日もあれば土佐から挙兵させる」と豪語する。
この話を盟約として捉えた土佐に対し薩摩藩はあくまでも酒の上での話し。


慶応3年6月22日には薩土会談が行われる。この席では後藤が必死で、大政奉還を説きその話に同調する素振りの薩摩藩。
ところが8月14日には京都の長州藩にて武力倒幕の方針であることを確認しあっている。

どうやら薩摩の西郷さんは大政奉還が成功するとは思っていなかったようで失敗したら即、武力倒幕に切り替えるつもりであったそう。

それでも必死に大政奉還を説く後藤を足止めしたのは7月6日に長崎でこった英国船イカロス号水夫の謎の死。
これは海援隊が疑われたが明治になってから福岡藩士の仕業であることが後に発覚。
9月には再び京都入りした後藤。新撰組にまで大政奉還の根回しをして準備を急ぐ。
芸州広島藩の辻将曹が非常に賛同し心強い見方を得たと見えた後藤。


9月7日に小松の屋敷で会ったが大政奉還ではなくあくまでも武力倒幕をねらう薩摩にとって後藤は邪魔者に。
一時は龍馬もお手伝いをしたが、成功しそうな気配を感じ取ると後藤を応援する龍馬さんってあまりにも世渡り上手な感じがします。

9月18日に、大久保が長州藩へ行き父子と会談し武力の方向性を確認。刀を拝領する。
9月20日には薩摩と長州に間で出兵の同盟を締結。
隣の広島藩を誘うが後藤FUNの辻氏は参加を渋り不参加になる。

●さてここからは日付が非常に大事な意味を持つ


10月3日 容堂さんが慶喜さんに大政奉還を建白
10月12日 慶喜さんが二条城に家臣を集めて話す
10月13日 同上
10月14日 朝廷にお話する
10月15日 朝廷はこれを勅許する。

※あくまでも政治の権限を返上するだけであり全国の25パーセントを占める天領はそのまま。また1回目の諸侯会議を天皇が招集するまでは政治はあくまでも徳川政権であることに注意!

10月24日 征夷大将軍の官位の返上を打診→朝廷はNO!


この日付を縫うように密勅が下る。
10月13日 倒幕の密勅 to 薩摩藩
10月14日 倒幕の密勅 to 長州藩

※長州が一日遅れたのは朝敵であることを取り消してからの勅であるためとされている。。

しかし・・この勅許ははたして本物かそれとも偽物か。。。

御画日と御画可が無く、また3人の公家のサインも同一人物のもの。偽物であることは明白。
ではなぜこんなことをしたのか?

長州、薩摩に公家を巻き込んだ共同正犯であり、長州では復権したことによる士気の向上、そして薩摩では
武力反対派の意見を封じ込める狙いがあったよう。

実際には12月8日に、長州父子の官位復旧の勅が出ていることからおもいっきり偽であったことがわかる。

そして12月7日の神戸開港のセレモノーがあった次の日に大事件が起こる。

12月8日の夜~翌日にかけて行われた御所での会議では七卿落ちの復権と長州父子の復権が決まり順に退席していったが
中山忠能、正親町三条実愛、徳川慶勝らは口実を設けて御所にのこる。
後に現れた岩倉具視が発表!

「王政復古の大号令」

薩摩、尾張、越前、土佐、芸州の五藩に御所の門を閉めさせた
これで、摂政、関白、将軍、等がなくなる代わりに総裁、議定、参与という維新仮政府が誕生した。

その夜に三職合同会議で議長の容堂氏「慶喜をいれろ」に対し具視の「NO!」が勝ってしまい挙句の果てには
天領の解体が実現してしまう。慶喜さんの手は怒りでわなわな震えていたに違いない。

そしてついに最大の悲劇・・・戊辰戦争へと続いてゆく。