yahoo2

2010/06/19

◇2010 6/19 教科書にかかれない日本史~兵庫開港

今日のお勉強会では前半は《奇兵隊内閣について》のたっぷりと光と影、そして色々な裏話を聞かせてくださいました。
この内容に関しては某週刊誌に記事が掲載されるということなので内容に関しましては発売後に記載させていただきます。

さて、孝明天皇の崩御 (慶応2年12/25 1867/1/30)によっていろんな歯車が動き出し、いよいよ幕末のクライマックスへ。

日米和親条約(嘉永7年3/3 1854/3/31)についで、日米修好通商条約(安政5年6/19 1858/7/29)の中で記された中でいまだに実現しない最後の案件であった「兵庫開港」問題。
兵庫は京都に近いことから孝明天皇は最後まで勅許を出すことなく崩御。
そして16歳で新天皇となられた明治天皇のご意見ははたして幕府寄りなのかそれとも倒幕寄りなのか。
ここぞと猛アタックをかける慶喜さん。なんども勅許を願い出てついには自分自らが直接御所へ乗り込んで開港の意義を唱え、勅許を得てしまう。(慶応3年5/24 1867/6/26)

当初、兵庫開港要求事件で諸外国と約束した期限は1863年。
とうてい間に合わないということで1862年に文久遣欧使節を派遣し、5年間の延期の約束をとりつけたので慶応3年12/7(1868/1/1日)となった。それでも幕府に残された期限はあとわずか。
大急ぎで体裁を整えようとしたが兵庫はすでに村があった為、その東隣の神戸に港を開くことで決定し大急ぎで普請をおこないギリギリで間に合う。


さてそんなドタバタのなかでも同時に行われていたのが大政奉還(慶応3年10/14 1867/11/9)。
政治を行う実権を天皇へ返し、合議による新政府が出来るまでは幕府が政治を代行するという内容。
慶喜さんは、いったん政権を返上し新たに合議の上でTOPになればいままでの政権を維持できると考えた。

そんな中で薩摩や長州は、慶喜さんがすでに新天皇に兵庫開港の勅許を得たということでこのままでは天皇が幕府側についてしまうと考えた。そこで打たれた次の手は。。。
武力倒幕として京都御所付近を固めた反幕府軍。新天皇による王政復古の大号令(慶応3年12/9日(1868年1/3日)を得ることに成功。これにより合議制で新政府の話しは吹き飛んでしまい徳川色を排除し、薩長が政治の中心となる新政府を樹立。
新政府は合議制ではなく、むりやり薩長が毟り取ったイメージなのか。