フランス風懐石料理中華風: 2010

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2010 12/31 年末を迎えるにあたり。


この27日にかねてより療養中の義父が他界いたしました。
急遽、大阪より夜行バス、ローカル線、タクシーを乗り継いで斎苑へ向かいました。
その会場からは瀬戸内海の島々が一望できる風光明媚な山頂にあり、故人が大好きだった釣りを楽しんだ場所でもあります。


式場から海を眺めると雲の切れ間から光の筋が幾重にも現れ、まるで天空への道が現れたようにさえも見えました。



義父が暮らした町は1800世帯でわずか人口は3600人前後の小さな漁村です。
そんな小さな町でも古くから瀬戸内海の交通の要所として栄えた貿易の中継地であり、またNHKの朝ドラ「鳩子の海」の舞台となりました。









さて、どなたの逸話であったのか忘れてしまいましたが、たしか豪商が有名な僧侶に新年相応しい言葉を書にしていただいたそう。

その僧侶が書いた言葉は・・

「祖父母逝き 父母逝き我逝き 子供逝く」

一見、新年には相応しくない言葉ですが、この世に生まれた限り死へのカウントダウンが始まっています。そしてその順番通りに逝くことが最大の幸せだとの事。
そんなこの世は四苦八苦して生きて行くもの・・すなわち生老病死(しょうろうびょうし)に愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)の四苦を加えたものだそうです。

どうせ世の中を四苦八苦しながら生きて行くのならば、少しでも気持ちよく生きて行きたい。
その為にはまず自分の気持ちを変えねばダメなのでしょう。

私には地位も財産も無いけれどそれでも少しでも快適に生きていく為に来年は<無財の七施>を忘れずに過ごして行きたいとおもいます。

眼施~いつも優しく温かい眼差しを忘れないようにする。
和顔悦色施~への字口の人には幸せは訪れません。微笑みを絶やさないようにする。
言辞施~心のこもった言葉を使う
身施~どんな小さな事でも構わないから社会奉仕や人助けをする。
心施~感謝する心を忘れないようにする。
床座施~他人に場所や席を出来るだけ譲る。
房舎施~来てくださった方の労を労い感謝する。

すべて当たり前のことなんだけれど、なかなか出来ない。
来年の今頃には少しでも前進できている事を亡き義父とお約束したいと思います。

読者の皆様。どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

2010 12/23 林家染二2010ファイナル 林家未来巨匠烈伝 

大阪市西成区の塚西駅の前にある壽光寺さんの新会館「じゅげむ」にて開催されました。
この壽光寺浄土真宗本願寺派のお寺さんでした。
初めて訪れる会場なので早めに到着、地元の寄席でだいぶ開催されているとのこと。またこの会場の新会館「じゅげむ」は本年秋に落成されたとのこと。

本来、お寺さんは人寄り場所であるべきという開けたお寺さんを目指されているのかすごく開放的な雰囲気がして好感がもてました。
受付をすませ、プログラムを拝見。さすがマニアックでなかなか聞く事ができないネタがありその嬉しさを胸に最前列に座られていただけました。またお客様は75人程度で超満員のぎゅうぎゅうでしたが、会場の熱気も手伝って非常に盛り上がった会となりました。

林家染二 :色事根問

落語のネタには前座さんがされるネタや、前座でしか出来ない噺家さんが居られるとおもうのですがいきなりTOPは林家染二さん。そしてネタは色事根問。そんな違和感を感じながらのスタートですがそれでも師匠さんが話される色事根問はまったく違いました。話しの内容はおんなじなんですが笑うポイントが違っていて・・と書くよりも本来の面白い箇所できっちりと笑うことができました。そんな鉄板ネタのような色事根問でした。染二さん自ら、「20年前の色事根問の映像を見てきたが、酷いものだった」といわれていました。
20年前というと入門されて6~7年目。やはり修行したらそれだけ結果が付いてくるものと妙に納得しました。

林家染吉:黄金の大黒
染吉さんの高座はたしか3回目かな?初めて聞いたのも「黄金の大黒」。
前回同様に汗をいっぱいかかれての熱演で、しかもこなれてきた感じがあって楽しめました^^

林家染左:堀川
染左さんが演じる酔っ払い息子と、喧嘩っ早い息子、その母親がリアルでその世界を描くことが出来ました。とくに年老いた母親は秀逸!
肩を落として表情を作られたのはお見事です。

林家卯三郎:三十石
「まってました!」の声がかかるくらいの固定ファンが居られる様子。
先日まで体長が悪かったという情報があったので心配していました。
乗船名簿のシーンで大道九間町~の件が無かったけど、お手本のようなキッチリとポイントを抑えた三十石でした。

林家染二:土橋万歳
卯三郎の三十石で笑いのシーンの中で船宿の2階で乗船名簿を作成するために番頭が聞いてまわるシーンがありますが、この中で弘法大師と円光大師は出てきてお経を唱えるシーンがあります。この箇所を「この真宗のお寺でよう言ったなぁ!」と会場は大爆笑!

また、三十石、堀川は林家のお家芸とのこと。
堀川は「猿回し」とも言われ二代目林家菊丸さんの作。また三十石は、「浮かれの舟歌」「夢の通い路」ともいわれ初代桂文枝さんが明治3年頃に「京名所」の後編として創作されたのがきっかけとのこと。それでも元のオチで聞くことはもう皆無。いずれも名作だとおもう。
※参考文献:上方落語の歴史(前田勇著)

さて、この土橋万歳は、米朝さんの古い音源があるだけでナマでは初めてでした。
メインの若旦那と番頭の会話でクライマックスに進み、最高潮でホロリとさせるとても良いお話です。
元のお話が古いのか、大和万歳でピンとこないとスッと落ちないのでしょう。もちろんわたしも実物の万歳は見たことがありませんが、同席の母は子供の頃に実際に見られたそうです。

次回、またタイミングがあえばぜひ寄せていただきたいそんな落語会でした。
本当にありがとうございました。

2010 12/19 最後の忠臣蔵

12月18日に封切公開された「最後の忠臣蔵」を鑑賞してまいりました。
この年末は時代劇がまとまって公開された珍しい年で、この映画で3本目の鑑賞となります。

日本人が大好きな「忠臣蔵」。
ご存知忠臣蔵は、元禄赤穂事件を元にして作られている。
元禄14年3月14日(1701/4/21)に江戸城の松の廊下で起った刃傷沙汰が原因で加害者の浅野内匠頭は切腹。
浅野家は改易となった。(地位を剥奪し領地没収の酷な処罰)。しかし被害者の吉良上野介はお咎めなし。
この処罰の不公正さと主君の名誉回復のために立ち上がった赤穂藩浅野家の家臣たち。
翌年の元禄15年12月14日(1703/1/30)大石内蔵助を筆頭に吉良屋敷に討ち入り吉良上野介をはじめ警護のものを殺害した。

この忠臣蔵四十七士で有名なお話の中で、今回の鍵となるのは、討ち入りのその惨劇の直後、大石内蔵助より寺坂吉右衛門が密命を受けことから始まる。
伝令役として戦場を走る回り隅々まで検分をした情報を国許へ報告の上、すぐに身を隠し今後は浅野家縁の者の家を将来にわたり訪ね歩き貧困へは金子を与えて回れとのこと。
そして石内蔵助の十七回忌の法要を直前に控え、ようやく東北にいた最後の1人に到達。無事に任務を終え京都へもどった寺坂は大石内蔵助の又従兄弟・進藤長保の家に滞在する事となった。

そして偶然にも瀬尾孫左衛門の姿を見かけることとなる。瀬尾孫左衛門は討ち入りの前夜に急に姿を消し「命が惜しいと逃げ出した卑怯者」といわれていた男。

以降ネタバレになるので詳しくは避けますが、討ち入りを後世に伝えるため逃がされた寺坂吉右衛門(佐藤浩市)とまったく正反対の運命を背負う瀬尾孫左衛門。
なぜ、瀬尾孫左衛門は討ち入りの前日に姿を消したのか?そしてどんな運命を背負っていたのかが解き明かされて行きます。キーワードとして使われた曽根崎心中のお初徳兵衛の人形浄瑠璃の世界と絡み合いながら進んで行きます。

中盤以降では、もう涙なしでは見られません、隣席の母もなんか嗚咽してはりました。

http://wwws.warnerbros.co.jp/chushingura/
そして瀬尾孫左衛門は・・・。あぁぁ・・しゃべりたい。。

2010 12/18 教科書に書かれない幕末史 江戸開城と彰義隊

戊辰戦争が始まった慶応4年1月3日。
鳥羽伏見で開戦。錦の御旗が翻り官軍の勝利に追い討ちをかけることとなった7日には徳川慶喜追討令が発せられた。
しかし慶喜さんはその前日には天保山沖合いより江戸へ逃げ帰る。
そのころ京都から各街道を22諸藩が慶喜追討を目的として進軍している。
さて、開戦か恭順か・・。

慶喜さん恭順を選んだ。1月12日には上野寛永寺の大慈院へ行き自ら謹慎生活を送った。
(※寛永寺は徳川の菩提寺で、皇族が歴代の住職を勤める天台宗の本山で当時は「輪王寺宮公現」。東叡山の号印をもつ)

ところがその思いは届かなかった。

1月12日には一ツ橋家に縁をもつ者17名が慶喜さんの復権や助命に関する話し合いを雑司ヶ谷の酒楼「茗荷屋」でおこなった。
次に2月17日には30人程度で円応寺で第2回目の会合。2月21日には67名に。
そして23日には130人が浅草の東本願寺に集まり「彰義隊」と命名。頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎と決まった。
名目は慶喜さんの警備と江戸の治安維持。そして隊員は膨れ上がり3000人・・・4月3日には江戸入りし拠点を寛永寺とした。

こんな背景の中で、何度かの会談で、ついに旧幕府は勝海舟に仲介を願い官軍の参謀の西郷隆盛との会談が成立し、4月4日についに江戸城が無血開城が実現。そして慶喜さんは開城の直前の4月1日には水戸へ行かれたために彰義隊は慶喜さんの護衛という目的がなくなった。
そこで今度は輪王寺門跡公現親王の警護に名目をかえさらに秩序は最低な江戸の町の空気は最悪。
不穏で、一触即発の江戸の町の状態を憂いた勝海舟は彰義隊の解散を促したが実現せずついに決戦の時を迎えてしまった。

官軍と彰義隊の衝突がおこれば江戸の町は火の海間違いなし。

官軍は慶応4年5月14日には輪王寺門跡公現親王に対し、心得違之徒とまで書かれた彰義隊攻撃の為に立ち退き令をおくるとともに、江戸の市民に対し脱走之輩を攻撃するのでかくまわないように書かれたビラをまいた。
官軍を指揮するのは大村益次郎さん。【海江田信義】が提唱する夜間攻撃に対し、「我々は官軍であるのだから白昼堂々と戦う」とのことで5月15日に開戦、寛永寺に籠もる彰義隊を攻撃した。官軍の兵器の佐賀藩が保有している3000mの射程距離を誇るアームストロング砲で攻撃しわずか1日で彰義隊は敗走することとなった。

と、ここまでが表の歴史。

色々と不思議な話があるもので、最大の謎は慶喜さんの予測できない行動だろう。
慶喜さんは大坂から逃げ帰り江戸城へ入ったものの自らが謹慎を選んでいる。
それは江戸の町を焼くのが偲びなかったのか、水戸の出身だけあって朝敵となるのを恐れたのか、鳥羽伏見で沢山の旧幕府軍のために戦った御霊がそうさせたのか。横浜に造られている居留地に住む外国人を代表してパークスが進言したともいわれている。

また、上野戦争の決めてとなったように言われているアームストロング砲は本当に威力を発揮したのか?これも疑問視されている。また資料によると戦いの真っ最中に彰義隊を応援するフリをして背面攻撃した集団があったらしいが、これが本当だとすると、昼間に正々堂々と攻撃を主張した正義を誇る大村益次郎さんはあまりに卑怯・・。

さて、江戸っ子はどんな気持ちだったのだろう。慶喜さんがようやく上方から帰ってきたのもつかの間で、薩摩や長州の官軍がドカドカと乗り込んできて我が物顔に将軍さんの護衛の軍隊であった彰義隊を攻撃する。
ところが、そんな江戸っ子も敗戦を期した彰義隊隊員を見つけ出すと殺害したということも起こっておいた。
その名残が松石隊の首塚、下谷の電電公社、儀石門塚、和田の十三塚など・・。
そして2年後の1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医ボードウィンが公園にすることを提唱し数年後にこの上野山は上野公園(上野恩賜公園)となった。そして、そこには西郷さんの銅像が建立(序幕式は明治31年12月18日)
多数の旧幕府軍の兵隊が眠っている上野山にお尻を向けている。

※一坂先生の講義に私が所感等を加えています。

2010 12/16 忘年会

久しぶりに会った友人やお世話になった方、そして大切に繋がりあってゆきたい仲間。
そんな方に恥じることの無い、おもてなしと心配りができる洋風の居酒屋がある。
このお店を知ったのはもう10年近く前です。

なにかにつけて利用させていただいていた。
そして、期待を裏切られた瞬間に崩れ、二度と行かないお店リストに入れることにしました。

当たり前のことを「ちゃんと」してくれる心地良いお店だったはずだけど随分居心地の悪いお店に変貌していて、帰りしなに店員さんにお伝えさせていただいたが、それも軽くスルーされた感じが否めない。

おいしいはずのお料理もなんとなく、味気なく感じ、それでも「おいしいね」って食べてくださった方々に申し訳ない思いでいっぱいです。
いままで、紋切り型のサービス風の事をするようなつまらないお店では無かっただけにに本当に残念でならない。

キーワード「ちゃんと」とは何なのか?そして「ちゃんと」すべきことは何なのか?
私がこのお店を選んだことが恥ずかしい。
お店がコストをかけないで出来ること・・それが「ちゃんと」。おもてなしってなんなんだろー。
いくらでもあるとおもうんだけどね。

ということで2時間でさっさと切り上げることとなりました。




写真は、大阪ミナミの真ん中にある「法善寺 水掛不動さん」。
すこし時間がありましたのでお参りしてきました。

2010 12/15 『高杉晋作の「革命日記」』 一坂太郎著

『高杉晋作の「革命日記」』 一坂太郎著

幕末の風雲児と異名をとる高杉晋作さん。
先日放映が終わったNHK「龍馬伝」でも奇兵隊を組織し四境戦争の小倉口の戦いでは三味線を弾きながら戦場を歩くという風雲児らしい演出を見せてくれました^^
しかしまぁ、昔の方ってなんでこう筆まめさんが多いのでしょう。しかもみなさん全てご達筆!
高杉晋作さんも例外では無く6つの日記を残されていますが、悲しいかな凡人には判読する事ができないのです。
ところがその日記を「高杉晋作さんの研究の第一人者」の「一坂太郎」先生が現代文に訳して出版してくださいました。
出版されたのは2010年の9月30日。
さっそく入手して一坂太郎先生にサインしていただきようやく読破に至りました(;・∀・)

後世に名を残した高杉晋作さんも普通の人なんだなぁっていうのが正直な感想。
中でも興味を引いたのは、23歳の晋作が父の小忠太さんの力で、毛利定広(定封)の小姓役として仕えることになり初出社。
いわば新入社員教習で、上役さんからいろんな礼儀等を教わっている。(○<※勢いの力が日>御日誌〔せつぎょにっし〕)。
24歳になった晋作が幕府の船で上海へ視察に行った際の日記の遊清五録。清国へのその船旅の様子や到着して体調を崩した様子。そして太平天国の乱まっさかりで、アヘン戦争で国力を失った国内を我者顔で闊歩する白人を見て相当なショックを受けたことでしょう。

2010 12/14 テレビ騒動

この11月のエコポイント騒動のおかげでどこの家電量販店も賑わった。
エコポイントの締切りが近づいたために沢山の方が一斉に押しかけたためで、御多分に漏れずわたしもその中の1人でした。
確かに、先月は商品の案内を聞くだけでも一苦労。そんな中、やっと自宅用と親元用の2台を買う事ができた。

親元用のテレビは関西で強力な販売網を持つ、ジョーシン電気
11月2週目に購入し、設置は12月14日とおよそ1ヶ月待ちとの事。
「まぁそれでもかまわないよ」ということでなんとかクリア。

その購入の際のドタバタぶりをみて数日後に我が家用を買うためにあわてて家電量販店に足を運びました。

まずは、数年前にナンバにオープンしたヤマダ電機。
すでに順番待ちの列が3桁突入で諦め、ウメダのヨドバシも似たような状況。
それなら・・・と小さめの家電量販店のコジマデンキに行ったところで、なんとか買う事ができた。
さて、そのテレビはいったい何時我が家にやってくるのか?と買った時点では月末頃の話であったのが待てど暮らせど連絡がない。シビレを切らして確認すると来年1月/末だそう。。「え~・・それはないやん・・」と抗議したら先週無事設置となった。
けして誤解して欲しくないのだけれど、電話口で恫喝したわけでもなく「それは、おかしいでしょ?」と確認しただけ。
きっとなにかの手違いだったと信じていたい。


そして親元のテレビは本日設置にきてくださるということで、ジョーシンからお電話があったそうで「夜の19時~21時になります」とのこと。
本当に設置に来てくださる方は寒い中大変だと精一杯ねぎらいの言葉と熱いお茶でも飲んでいただこうとおもっているけれどどうも私の中に疑問がフツフツと湧いてきます。

そんな配送や設置サービスでジョーシン電気は問題ないとおもっているんでしょうか?
ハンコだけで済む郵便小包や宅配便と違い、大きな車でやってきて担当員さんが荷物を抱えて梱包をばらし、リビングへ設置くださるわけで当然親元の家に入ることになる。
なによりも、19時から21時って夕食の時間帯から1日の仕事を終えくつろいでいる時間帯に他人が来ることへの抵抗も隠せないし、もし私が同じ立場でもすごく気兼ねすることでしょう。

電話でお話を聞いたところ、私の家のあとにもまだスケジュールが詰まっているらしい。
そんなハードなスケジュールを配達員さんに強いることで事故でも起こしたらジョーシンはどうするんだろう。
昨年を大幅に上回る販売をしたのだからナイトタイムに配達をさせなくてもいいような人材の確保はしていないのだろうか?

どうぞコジマ電気さんもジョーシン電気さんも、配送に走り回っている係員さんへの配慮と、お客様への気配りを忘れないでくださいね。

2010 12/11 池田 落語ミュージアム寄席

落語ミュージアムでの落語会は今回で2回目。
前回通り、この会場はハード面では素晴らしいし、町おこしとしてのアイデアとしても申し分ない。
しかしそんなハードを生かすも殺すもソフト次第。
はたしてこのままでいいのかどうか?やはり疑問が残る。
主催者は気がついていなくとも、お客様は敏感に察知しているはず。


そんな思いと正反対に出演者の方々の実力は、この落語が盛んな池田の町では
浸透しておるとみえて、超大入り満員!
なっとくの落語会となりました。

笑福亭 たま 矢橋船

ひょっとしてたまさんの古典ネタで楽しませていただくのは初めてかもしれません。
マクラは海老蔵さんネタ。実はたまさんのBLOGが大好きで、今日のマクラの原案のようなのが書かれていたことから、おもわず一人でニンマリ^^
噺家の方って観察力がするどいんでしょうねー。

わたしのライブラリーでは桂米朝さんの音源があるので聴き込んでいたネタだけに
自分なりに色々と対比が出来ましたが、たまさんらしい若さと情熱のあるお話に仕上がっていました。
話の流れは色問答を経て、燗徳利からイケナイのを飲んでしまうところをヤマに2回繰り返し。
お武家さんも鳥かごも登場しないのでどう展開していくのか実は興味深々。
そのままの雰囲気を残しながら会場は大爆笑!そのままサゲとなりました。

印象的だったのが、比叡山の「ひぇ~!」の男が色問答に加わるキッカケの目つき。
これが繰り返しの面白さとなり、元々上下を切らないたまさんならではの、
目つきで会場に笑いが漏れていました。

(※)ちなみに矢橋船は「八橋舟雀丸之由来」だそう。

笑福亭 銀瓶 宿題

先日お引越しされたばかりの銀瓶さん。
尼崎とのことで、市長が変わったことを受け、阪急と阪神の比較の話で客席との距離感を縮められました。
たしかこの「宿題」は桂三枝さんの創作。まさによくできている話。

え?って考えてしまう問題を数回繰り返しそのたびに、宿題に色々ともんくをつける主人公。
この辺りは演者さん独自の部分が入っているのか銀ちゃんのベタベタな大阪弁が見事に調和しており会場に笑いを生んでいました。


桂 雀三郎 けんげしゃ茶屋

マクラは、楽屋内の悪戯のお話。
可愛そうなマジシャン、紙きり名人と故松鶴さんとのエピソードを紹介。
なによりも伝説となっている「焼肉食べ放題」でしょう。

独特の世界感をお持ちの雀三郎さん、きっちりと丁寧にお話を積み重ね、
お正月のお茶屋を風景を描き出されていました。
老舗の旦那さんが、新町に出入りできなくなったエピソードをはじめ、脳天の熊五郎とたくらんだ悪戯がお正月の茶屋の「けんげしさ」をぶち壊してゆくストーリーは悪戯好きも憎めない旦那さんの風格が伴う雀三郎さんにぴったりでした。

手元の所蔵書籍(※)で調べてみた。
この話に出てくる「のどかなる 林にかかる 松衛右門」という句は非常に古く、
延宝(1687-1681)上方板の「けらわらい」を江戸で改版。天和(1681-1684)~貞享(1684-1688)はじめの「けらけらわらい」に書かれているらしい。ひょっとしたら先日NHKでみた蔦屋重三郎さんが絡んでいるのかもしれない。

※ 参照 )S33発行上方落語の歴史 前田勇

2010 12/5 武士の家計簿

「武士の家計簿」を鑑賞してまいりました。
加賀100万石を支える役職の中に知られることのない「算用者」が150名ほどいたそう。いわゆる企業に置き換えるとさしずめ、経理部かな?
始業時間を知らせる太鼓が鳴ると一斉に帳面を睨みひたすらそろばんをはじく。


代々家督を継ぐことが善しとされてきた時代では算用者の家系に生まれると幼いときからそろばんを仕込まれて育つという。そんな家系に生まれた「猪山成之」は幕末の動乱時代に大村益次郎と知り合い明治の発展に寄与する。 親子3代にわたる笑いあり涙ありのエピソードが綴られていました。
堺正人さんの演技が冴えわたり、見事に主人公の猪山直行を演じています。
またその父は信之(中村雅俊さん)、直行の息子は成之(伊藤祐輝さん/大八木凱斗さん(子ども時代))。

江戸時代の泰平が続くと武士は困窮し両替商から借金を重ね無ければならないくらいに大変な生活を強いられていたのでしょう。もちろん陪臣(殿に仕えている役人の家来)ではなく、直参ともなると体面を保つのは大変。優れた経済感覚を持つ「直行」がいたからこそ、猪山家は持ち直し、また「成之」は明治政府に寄与することができたのでしょう。

映画としては長めの2時間オーバー、何度も「クスッ!」とする箇所や「ホロリ」とするシーンが盛りだくさんで 一息に鑑賞できました。

しかし、堺正人が演じる猪山直行の青年~壮年~そして老人へと変わってゆく役柄にしたがって見せ方が替わるその演技の幅には驚かされました。お見事です^^

http://www.bushikake.jp/

2010 12/1 大乗坊さんと暦


日本橋の毘沙門さんが祀ってある大乗坊へ寄ってきました。
来年の暦がありましたので頂いてまいりました。

暦には知らない事がいっぱいで、甲子(きのえね:大国天祭)や庚申(帝釈天の縁日・庚申参り)、己巳(つちのとみ:弁財天の縁日)、八専(何事もうまく行かない凶日)、土用(土を犯す作業や殺生はダメ)、天一天上(天一神が天に帰っているので天一神の祟りはなくなるがその代わりに日遊神が地上に降りてきて家の中に留まるので、家の中を清潔にしなければ日遊神の祟りがある。)等など。
一昨年、庚申の日の朝は四天王寺さんの庚申堂へお参りしたあと、境内に出ている北向きこんにゃくを食べるのを1年間続けたことがあります。これがなかなか良いもので、日常に様々なイベント感覚で取り入れられたら良いですよね^^

さて、なかでも最大の吉日とされている来年の【天赦日】(暦中で最大の吉日。百神が天に会合し、天が万物を許す日であり、万事にわたって吉)は、<立春から立夏の前日までの戊寅の日><立夏から立秋の前日までの甲午の日><立秋から立冬の前日までの戊申の日><立冬から立春の前日までの甲子の日>とのこと。

来年は下記が天赦日です。

1月9日(日) ・3月24日(木)・6月8日(水)・8月7日(日)・8月 21日(日)・10月20日(木)

ぜひ来年の手帳にお書き止めておいてくださいね。

2011 11/28  第7回笑好寄席


柏原笑好寄席、昨年に続き2回目です。
会場建物自体に駐車場があり、この会の場合は20分が50円になるらしいと後から知りました。(来年のために記載しておきますww)しっかし、今日のこのメンバーで¥1800は安いです^^
おもいっきり良心的なお値段で落語が楽しめます。ホントにありがたいことです。


喬介  つる
独特の雰囲気をもっている愛すべきキャラの喬介さん。つかみの小咄を二本したあとで「つる」へ。
キッチリと丁寧に演じられた上に、あのホンワカした雰囲気が加わり妙な笑いが生み出され好印象。

笑福亭たま  憧れの人間国宝
この落語会は昨年と同様で初めて落語を楽しまれるかたが多いように思えました。そのためか
いつものショート落語ネタで会場は大爆笑。あ・・初めてじゃなくってもたまさんのSRは大好きです。
さて、本題に入るつなぎで、会場に着メロが響き渡り、空気が一変。。、「電話に出たらどないしょうかおもてん」と笑いにかえましたがそれでも会場の空気が張り詰めてしまった。聞く側のマナーが悪いのは、初心者さんが多いからしょうがなかったとおもうが前座の喬介さんが会場に対して釘を指さなかったのが悔やまれます。
さて、本題の「憧れの人間国宝」。いつもながら奇想天外なお話に会場は大爆笑。

桂文三 高津の富
早いもので文三さんを襲名されてもう1年半になられるんですねー。昨年の七度狐に続いて
今年は<高津の富>。古典落語の世界を堪能させてくださいました。
因州鳥取の男が宿で盗人の話しをした後の笑顔、漬物石の話しの後の笑顔、これが文三さん独特の味ですねー。
また、一番の見せ場で笑いどころの、「子の千三百六十五番」を読み返したが、気が付かないで「辰の八百五十一番」へ行くあたりの描写はお見事、会場から爆笑がおこってました。

林家染雀 かけとり
染雀さんって二卵性の双子の弟さんで、お兄さんと文三さんが同級生だとか。色々と縁は不思議なものです。
さて、お話の方、さっすが狂歌、義太夫、歌舞伎で掛取りをするりとかわしてしまう、その長屋の情景が浮かんできました。

桂 竹林 仔猫
生で初めて聞くのは初めてのお話です。(CDでたしか枝雀さん版を聞いた記憶があります。)
心根の優しい力持ちの女衆のおなべさん。実は彼女は・・・ってストーリー。
お店が早仕舞いしたその夜の丁稚や番頭の噂話が元で旦那までもが「実はわしも・・・」と疑惑が広がり、ついに彼女の唯一の持ち物の葛篭を開けていくあたりがスリリングでドキドキ感が高まってゆきます。
竹林さんはスゥっと流された感があった為か、おなべさんの独白部分に、実はおなべさんは可哀想な女衆なんだっていうような気持ちが出ていました。

2010 11/27 これぞすみよしパワー!住吉大社1800年の歴史と美術


大阪市立美術館で開催・・終了(m´・ω・`)m

古くから「住吉さん(すみよっさん)」と呼ばれている住吉神社は平成23年(2011年)、御鎮座1800年を迎えます。
この由緒ある住吉さんには、海の神様の住吉三神の底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)と神功皇后(じんぐうこうごう)の四柱が祀られているとともに五大力さんや初辰さん等、商売や庶民信仰に根付いて今日まで続いています。


また白砂青松の風光明媚であった場所柄、和歌や短歌や様々な文学にも読まれるとともに、美術工芸品にも色々なモチーフとして住吉さんをシンボライズして取り上げられています。

大阪市立美術館では様々な住吉さんにまつわる美術工芸品や文献等を10/9から展示。そして11/28に終了しました。
もっと早く行きたかったんだけど、つい色々なことがあって終了間際の11/27に行って参りました。
時間があるときにゆっくりと鑑賞したかった・・(-。-) ぼそっ。





会場は信仰対象としている住吉三神や和歌や書画、工芸品、そして祭に対し構成されています。

なんとも言われぬパワーを感じる尾形光琳作「白楽天図屏風」の本物を見る事ができます。

2010 11/25 なぁみんな。ほんまにこんな街でいいん?

年末の声が近づいて街が一段と賑やかになってきた。
それにつれてキタでもミナミでも天王寺でも酷いもの。

「そこをどけ!」とばかりにベルを鳴らして後ろから近づく自転車。
出会い系のテッシュ配りをする男女。怪しげな募金活動の集団。
親しげに近づきアンケート・・・ポストカードを配りそのまま画廊へ。。
準風俗ばりのメイド喫茶の女の子が街角に立ち袖を引く。
生産業への勧誘。角に断つ売春婦。禁止薬物を平気で販売するチラシ。

なさけない。

音量を上げすぎの街頭ライブ。
弱者のコトをかんがえてへん。

目に付くところに張られた性的な写真やアニメ。
自分の子どものコト、わかってへんやろ。

電車の中では座席を譲ることもなく足を広げて座る若者。
住宅街では子どもの目の前で信号無視を平気でする親。
点字ブロックに自転車を停める・・。
車椅子の人が通れない道。

無灯火で二人乗りの自転車。
音楽を聴きながら、メールをしながら、傘をさしながらの自転車運転が
老人を押しのけてゆく。

お上が決めたコトもすぐに忘れさられ、禁煙の道の裏側の状態は酷く、
大阪の迷惑駐車は日本一。

なぁみんな。ほんまにこんな街でいいん?

大阪、なさけないね。大阪。
観光化もええけど、先にすることあるんちゃうん?

少なくとも私はそんな情けない事はしぃへん。
大阪がすっきゃもん。

2010 11/23 第九回 柳谷観音・泰聖寺 講談会~太閤記特集~


今まで沢山の落語会に行きました、その中で1席だけ講談を聞く機会がありいつも感心していました。で、前回のアシスト寄席の際に旭堂南左衛門さんからチラシを頂戴し、今日、はじめて講談だけの会に参加させていただきました。


第九回 柳谷観音・泰聖寺 講談会~太閤記特集~
会場は上町大地の寺町側にある泰聖寺さん。ここは眼の病に効く観音様がおられるお寺で有名です。

講談も落語も、聞き手の脳内にその映像がどれだけリアルに浮かび上がるか?が決め手の芸、そんな仮想の世界を楽しみにされている様々なお客様がお見えになっていました。


◇黄昏亭もみじ/真柄の秀

落語でも最近みかける女性の演者さん。
お話は、六尺以上の大柄な女性で力持ち、それでいて気の優しい女性のお話。
戦場では役に立たない優しい男の真柄勘内との出会いから結婚までのお話をイキイキと描く。


◇旭堂南斗/秀吉と利休

マクラでは、ご自身が講談の世界に入られたキッカケをお話されました。
噺の方はお茶の世界感を、傲慢な秀吉に理解させるための利休さんの機転が主題。


◇旭堂南舟/太閤の生い立ち

来年3月で年季明けとなりひとり立ちされる南舟さん。
独特の味のある方で実は南舟さんとは昨年5月から5回目になります。
普段のおしゃべりと講談の世界に入られてからの口調がここまで変られる方って、ホント珍しいかも・・です^^
応援してます♪


◇旭堂南左衛門/長短槍試合

歌舞伎の演目では<仮名手本忠臣蔵>。これが講談だと<赤穂義士伝>
忠臣蔵は忠義の家臣の蔵助の略であり、仮名手本の意味は
かな47文字すなわち四十七士を指す。もしくは忠義のお手本であるという
意図からだそう。なるほどーって感心。
来月から東京でのご出演には、参加させていただけませんが、この講談一門会は奇数月にこの会場で実施されているとのことで、これだけ講談にのめり込んだのだから、よほど予定がかぶらない限り参加したいとおもいます。


さて、噺の方は信長より槍が1000本不足している為に槍を作成するが長い槍がいいか?それとも短い槍がいいか・・の問いから槍術名人の上島主人と藤吉郎との対決を描く。互いに50人の足軽を借り受け三日間の訓練ののちの槍試合。藤吉郎は槍術の訓練ではなく「勝ための訓練」を行ったことが勝敗の分かれ目。圧倒的な勝利となる噺。


一気に4本の講談を聞いたのは初めて。
落語であれば時代性をぼやかしているものが多く何本でも平気だけど、講談は時代背景が明確なので脳内でややこしくならないか心配でした。
今日は太閤記を切り口にしたものなので問題なくイキイキと描くことができました。
次回は1月29日。ぜひ参加させていただきます。

2010 11/20 教科書に書かれない幕末史 ~堺事件

明治政府がようやく生まれ、さてこれからというときに起った【神戸事件】でいきなりダメージを食らったおかげで、各国に明治政府が貿易の貿易の窓口であることを専制して伊藤博文さんがようやく表舞台に立ってゆく。岡山藩からこの始末をつけるために悲劇の主人公となった滝善三郎さんが慶応4年2月9日(1868年3月2日)に切腹をし事態は収拾した。ところがまた悪夢が新政府を襲うことになる。
もちろん、この時の世相は攘夷熱が残っているために、以降様々な噂が流れたそう。神戸でフランス兵が錦の御旗を奪って逃げた?やら天保山にフランス海軍がやってきただの・・今回の中止のとなる土佐藩も現在の西区にある土佐藩邸で苦々しく聞いていたに違いない。そんな6日後の2月15日の出来事。

大阪から陸路で堺の町に入ろうとしていたフランス領事一行。ちょうど堺の警備を担当していたのが土佐藩。通行の事前の連絡が無かった為に堺へ入るののを不許可とし追い返した出来事があった。
実は前年12月には開町を行っているので外国人は堺町に入ることは問題ないのだが相次ぐ噂で憤懣していたのか・それとも本当に知らなかったのかは定かではない。さてその夕方、堺湾の測量を行う為に入港したデュプレックス号(フランス軍艦)。2艘の小船で数十人が分乗しそのうちの1艘が上陸をした。
あわてて通報を受けた土佐藩士らは箕浦猪之吉(25歳)を筆頭にした6番隊と西村左平次(24歳)を筆頭にした8番隊が急行した。その16時頃・・通訳もいないフランス兵らと口論になって半ば喧嘩状態に。フランス兵が土佐藩旗を手に取り走り去ろうとしたために、ついに発砲命令が下り4人が死亡、7人が海に落ちて行方不明となりました。

この事件を知った外国事務局の東久世通禮、五代友厚らはきっと「えぇぇ??まぢで?」って言ったのかもしれない。なにせやっと神戸事件のほとぼりが冷めかけた頃にまた、フランスと揉めてしまったのだから。
すぐさま、土佐藩の任務を解き、人足を集めて海中に落ちてしまった兵隊の遺体に30両の懸賞をかけて探させたおかげですぐさま見つかった。きれいな服を着せて大坂に運びロッシェの元に報告に行く。

翌日2/16には土佐藩から届出がされ事後始末に走ることになる。
さてフランスからの要望は以下の通り。

・発砲した20人を日本の責任者の前で打ち首にせよ。
・15万ドルラルの賠償金を払え。
・皇族の中からウエヌス船まで侘びにこい。
・土佐藩主はフランス船に侘びにこい。
・土佐人は外人の為に開いた港や居留地には入るなとのこと。


2/22には沙汰書を発行。
2/23にはロッシェに対し土佐を処分することを報告。

その内容は切腹命令だがその理由は「皇国の為に腹をきることを外人に見せ付けてやれ!」とのこと。まさにヾ(・・;)ォィォィな内容。

さてこの知らせをきいた西区の藩邸にいた土佐藩では、それぞれの隊長、副隊長は責任を取ることとなったが残り16人をどうするか・・で揉めた。「私が責任を取る!」という発言が絶えずついに、くじ引きが行われた。外れた者は残念ながら腹を切らなくても良いというまさに逆なくじびき。なんという忠誠心。恐るべし。
3/23には各藩400人に護衛され、土佐藩邸から、切腹の会場となった堺の妙国寺へ向かうことに。

さて、時はすでに夕方。一番初めに箕浦猪之吉さんが切腹をしたがその様が凄まじかったそう。この辺りは森鴎外の小説の描写を引用する。

*************************引用***********************
呼出の役人が「箕浦猪之吉」と読み上げた。寺の内外は水を打ったように鎮った。箕浦は黒羅紗の羽織に小袴を着して、切腹の座に着いた。介錯人馬場は三尺隔てて背後に立った。総裁宮以下の諸官に一礼した箕浦は、世話役の出す白木の四方を引き寄せて、短刀を右手に取った。忽ち雷のような声が響き渡った。

「フランス人共聴け。己は汝等のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」と云ったのである。

 箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手に取って、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入ったので、創口は広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創にさし込んで、大網を掴んで引き出しつつ、フランス人を睨み付けた。

 馬場が刀を抜いて項を一刀切ったが、浅かった。

「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。

 馬場の二の太刀は頸椎を断って、かっと音がした。

 箕浦は又大声を放って、

「まだ死なんぞ、もっと切れ」と叫んだ。この声は今までより大きく、三丁位響いたのである。

 初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭と畏怖とに襲われた。そして座席に安んぜなくなっていたのに、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とうとう立ち上がって、手足の措所に迷った。

 馬場は三度目にようよう箕浦の首を墜した。

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二人目・・三人目・・・そのたびに毛氈が引き直されるが血を吸った土に染み込んだ血はすぐに染み出してくる。ついに12人目の「橋詰愛平」が、今まさに切腹をはじめるときにフランス側から中心の申し入れがあった。この辺りの描写も森鴎外さんの小説を引用する。

*************************引用***********************
次は十二人目の橋詰である。橋詰が出て座に着く頃は、もう四辺が昏くなって、本堂には燈明が附いた。
 フランス公使はこれまで不安に堪えぬ様子で、起ったり居たりしていた。この不安は次第に銃を執って立っている兵卒に波及した。姿勢は悉く崩れ、手を振り動かして何事かささやき合うようになった。丁度橋詰が切腹の座に着いた時、公使が何か一言云うと、兵卒一同は公使を中に囲んで臨検の席を離れ、我皇族並に諸役人に会釈もせず、あたふたと幕の外に出た。さて庭を横切って、寺の門を出るや否や、公使を包擁した兵卒は駆歩に移って港口へ走った。

 切腹の座では橋詰が衣服をくつろげて、短刀を腹に立てようとした。そこへ役人が駆け付けて、「暫く」と叫んだ。驚いて手を停めた橋詰に、役人はフランス公使退席の事を話して、ともかくも一時切腹を差し控えられたいと云った。橋詰は跡に残った八人の所に帰って、仔細を話した。

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ちなみに、血を吸った服のままで控え室に戻った橋詰を見た8人は切腹をしくじったと罵倒したそうだがすぐに真実は明らかになった。

2/24には外国事務方が天保山沖に停泊中の船にロッシェを訪ねて侘びに行き正式に9人は切腹を免れることとなった。ちなみに賠償金15万ドルラルは3回の分割という約束になったがその後、藩は無くなったので完済したかどうかは不明。

さて11人の死体はカメに入れられて妙国寺の向かいにある宝珠院に埋葬されるが、なぜ妙国寺でなかったのかという理由は色々と考えられる。

やはり世相はまだまだ攘夷。皇国の為に切腹した11人はいわば英雄。無くなった11人のカメは「残念様」と呼ばれ、また使われなかった9個のカメは「生き運様」とよばれたらしい。当時は宝珠院の前には屋台が出て、関連グッズの簪が発売されるくらいの人気スポットとなる。この辺りは日本人のエゴイズムが出ちゃってます。
そこで妙国寺では、7月3日~の三日間に大供養が営まれ9月9日には「英氏割腹跡」の碑が建立されている。
さて、この様子を知った井上さんはその怒りを伊藤と木戸さんに書簡で述べています。
「西洋の言いなりになっている!外国の脅しに乗ってはダメだ。そんなことをすると国家を滅ぼすことになる」というまさに現代にも通じる内容でした。

※この内容は一坂先生の講演を元に私が脚色していますのでご注意ください。

2010 11/17 アザイズム ~ 戦国鍋テレビ ~

はまりまくってる戦国鍋テレビ!
<シズガタケの七本槍><天正遣欧少年使節>に続きこんどはアザイズム!浅井三姉妹♪

いまならサンテレビのケータイサイトからダウンロードができるみたい。
アザイズム(浅井三姉妹 チームA)/アザイズム(浅井三姉妹 チームZ)/
アザイズム(浅井三姉妹 チームI)/ベー・アンビシャス(兵衛’Z)の4曲!

ちなみに兵衛’Z は黒田官兵衛(ヴォーカル/マラカス)、竹中半兵衛(ギター/ヴォーカル)のユニットです。


<アザイズム>
http://www.tvk-yokohama.com/sengokunabe-tv/corner/azai/index.html

<お知らせ>
舞台「戦国鍋祭~あんまり近づきすぎると斬られちゃうよ~」大阪公演決定!
●大阪公演
【日程】2011年1月23日(日)
【開演】12:00~/17:00~(全2回公演)
【チケット料金】5800円(全席指定・税込)
【チケット発売日】12月11日(土)
http://www.tvk-yokohama.com/sengokunabe-tv/index.html

どうしよう。。。。行こうか・・・/(-_-)\ こまった~。

2010 11/14 高野山参詣

13日に九度山に行ったばったりなのですが今日、14日は高野山へ行ってまいりました。

はじめて奥の院まで行く事ができたくさんの元気を頂いてまいりました。

やはり幕末大好きな私的に「織田信長さん/豊臣秀吉」さんをはじめ各藩諸大名の中でも
「長州毛利家/長州益田家/薩摩島津家/土佐高知山内家」と「浅野内匠頭」さんはきっちり参拝。

お写真も撮らせていただきましたが掲載は悪しからず控えさせていただきます。
さて中でも私がお参りしたかったのは「大石順教尼の腕塚」。
無事めぐり合う事ができました。

優しいお顔の慈手観世音菩薩さんが居られ、その前には下記の碑文がありましたので
掲載いたします。


慈手観世音菩薩
この尊像は大石順教尼の発願による慈手観世音菩薩である。同尼が両腕を失って八十一才の天寿を全うできたのは有縁の人々から慈悲の手をさしのべていただいたお陰であると合掌している姿である。
順教尼はもと大阪堀江の舞妓「妻吉」といったが明治三十八年六月二十一日、大坂堀江六人斬りの大惨事のまきぞえで十七才の若い身で両腕を切り落とされた。人間としてこの上ない不幸を負う身となり苦難の道を仏道に求め高野山において出家得度し、その事件の犠牲者の追善と自分と同じ境遇にある障害者を救済することを仏に誓い一生の念願とした。
口に筆をくわえて書画を描くことに専念し日展にも入選するほどその非凡な才能を発揮した。また日本人としてはじめて世界身体障害者芸術家協会会員として選ばれた。
同尼の全国身体障害者の慈母として慕われたがおしくも昭和四十三年四月二十一日京都山科仏光院において入寂した。ここに同尼の遺骨を奉安したものである。


ちょうど高野山は紅葉の見ごろで大渋滞。
すっかり日が暮れてからの帰宅となりました。さすがに二日も続けてのロングドライブはキツイものがあります。それでなくても先月末から頭にかけては萩へ行ってきた疲れがようやく取れた頃^^
おかげで昨夜は爆睡しました。

2010 11/13 第4回 大収穫祭in九度山

第4回 大収穫祭in九度山が開催されました。


回を重ねるごとに大盛況で、広いグラウンドはすべて出展テントやフリーマーケットで埋め尽くされホントに運営側の熱意には頭が下がるおもいです。
岡本町長さんのお話にも出てまいりましたが、役員、スタッフのみなさんが手作りで運営する点に感激いたしました。
日本一の富有柿の産地、そして真田ゆかりの地の九度山へもう何度来たことでしょう。大阪市内からの道順もすっかり覚えてしまってカーナビを使う必要もありませんでしたww。
さて、昨年はじめてお目見えした<真田蕎麦>。ことしは真田庵の隣に店舗が出来たとのこと、また九度山の名物が増え、ホントに良かったですね。
残念ながら食べて帰る事が出来ませんでしたが、蕎麦が大好物な私、来年の真田祭の際にはぜひ食べてみたいものです^^

今回の出展ブースには、【大坂の陣を大河ドラマにする会】の際にお目にかかりました方々も多数参加されておられ実現に向けた署名コーナーも完備。信州上田ブースもたいへんな賑わいでした。あと、今回は私もすこしだけ関わりのある<柿の石鹸>が販売されていました♪

午後からは、すこし足をのばして【根来寺】へお参りして帰阪いたしました。

2010 11/4 大石順教尼の世界 口筆による書画作品展 開催のお知らせ

この初夏にお伺いさせていただきました九度山にある大石順教尼記念館様よりごあんないを頂戴いたしました。
この期間中は沢山の作品を見る事ができるそう。
ぜひ一度お伺いさせていただこうと思います。
おそらく沢山の来場者がお見えになられると思いますが九度山の大収穫祭の日になるとおもいます。






そしてまだ知識の無い方はぜひ少し調べてみてください。

心がすぅっと楽になって、頑張る心が顔を出してきます^^

***********記*****************

平成22年11月3日~21日 AM10:00~PM4:30
旧萱野家(大石順教尼記念館)
和歌山県伊都郡九度山町1327 南海高野線九度山駅下車7分


11月7日には大石順教尼の偉業と題したトーク&シンポジウムが開催されます。

http://www.town.kudoyama.wakayama.jp/dd.aspx?itemid=2632

2010 11/3 アシスト寄席

今回のアシスト寄席は第7回とのこと。回数が重なるに連れてお客様が増えれば良いのだけれど会場のキャパもあるし、そもそもこのアシスト寄席の主旨が長らく高座に掛けていないネタや最近覚えたネタをやってみるという主旨とのことなので、あんまり多数の前でするのもどうかな?と思われ中々悩ましいです。
喫茶店の店舗を利用して開催される落語会なので決して広くありませんし、高座のすぐ後ろにはお手洗いがあるし。しょうがないですね^^

さて、いよいよ開演ということでお囃子が鳴り、颯爽と後ろのお手洗いからマスターがご登場!これは不意打ちを食らった感があり笑いが止まりません。こんな天然系な笑いは卑怯ですってww
マスター曰く「お囃子が鳴ったんで早く済ませなきゃっておもったけど、ついタイミングを失ってしまった」そう^^

旭堂南舟 般若寺の焼き討ち

南舟さんの高座も何度か楽しませていただきましたが、いつもの事ながら本題に入るとスイッチが切り替わったように声に張りがでてくるんですよね。
たぶん奈良の般若寺のことだとおもうのですが講談ではこのような事件があったと扱われていたなんて知りませんでした。


露の雅 鉄砲勇助

女流噺家さんがだいぶ増えたようで私も年に何度か聞かせていただく機会があります。
新しい世界感を築けられたらいいですねー。がんばってくださいね^^

桂枝女太 寄合酒

寄合酒?って割とポピュラーなネタなのに?なんで?ってずっと疑問でした。
あとで聞いたのですが、ホントに初披露だったそうです。
主人公のあの「味噌をするさかい・・・」の件から怒涛の如く続くボケの数々は見事でした^^


旭堂南左衛門 佐野山権平

寛政力士伝の中から品格のある横綱谷風のエピソードの講談。
情け相撲といわれているが八百長試合ではあるものの谷風が行った美談。
圧倒的な強さと品格を誇る谷風が、親が病気で金銭に不自由している佐野山の事を知り情け相撲を取るお話。
佐野山を贔屓にしているタニマチの会話や、格下の佐野山と戦うことになった理由が愛人を取った云々っていう件が笑いを誘います。一瞬、落語の花筏を感じさせるシーンがありました。

笑福亭 仁嬌 宿屋仇

大ネタの部類に入る宿屋仇。
生では桂春駒さんや桂米輔さんでお聞きした事があります。仁嬌さんは数日後に独演会がひかえれているということで、その中できっちり宿屋仇が入っていました。
「いは~ち!」と何度も呼ぶあとにお定まりのセリフがはまりますが、何度も言わせる繰り返しのところがクスリってなるんでしょうねー。
また大宴会、相撲、色事と内容が変化し、ついには小柳彦九郎が登場!そういえば万事世話九郎って名前は怪しいですよねー。
よく出来たお話をきっちりと語ってくださいました。

この後、お店からコーヒーとデザートを出していただきました。
かぼちゃのプリンだったのですが、まぢ!絶品♪甘すぎない上品な味。
ごちそーさまでした。

さて次回は会場が大きくなって、来年1月16日に新大阪イーグルボウルで行われます。
また柳谷観音・泰聖寺講談会は11月23日。今のところ両方参加の予定です。

2010 10/30 萩旅行

萩市内にて高杉晋作立志像の除幕式があるとの事。大阪より参加させていただきました。
前日に台風接近の中山陽道をひた走り。時折激しく降る雨や強い風が行く手を阻むようでなかなか大変な道中でしたが、萩は私のような幕末フェチにとっては聖地。風雨くらいには負けません^^


萩に到着するとまずは涙松を訪れそのままチェックイン。翌日の除幕式のために体力温存のはずが、つい新鮮なお魚が美味しくって、幕末談義をしながら遅くまで話しこんでしまいました。
さて、翌日の除幕式では龍馬伝で高杉晋作さんを演じた伊勢谷友介氏の参加があるため、早くから多くのファンが詰め掛けていました。
私も会場入りしたのは式典2時間前。で・・すでに50人は来ていましたww
式典の時間が迫る中、奇兵隊が錦の御旗と共に会場に参集。式典のムードを盛り上げます。
と、そのスキに会場の反対側の入り口から伊勢谷友介氏が到着!もう会場はフラッシュの嵐、歓声が飛び交っています。
伊勢谷友介氏の一挙一動に「きゃー~!」って声が響く中、一坂先生が会場入り。私たちだけが「一坂せんせー!」って手をパタパタさせると気がついた先生も手を振り返してくださいました。おそらく、すっごい勇気がいったことでしょう。なにせだいぶ照れて居られたご様子でしたので。
「会場での動画や写真撮影はお断りします」と何度も流れるもののまったく効果なしでもう写真撮影大会。
それでも式典が始まるとピタッとみなさん式典モードでした。市長さんのお話の途中からポツリ・・・にわかにかき曇り、大粒の雨がバラバラ!大急ぎで式典を進めあっというまに序幕式は終わりました。
 午後からの講演会は先着100名とのことで、早々に切り上げて最前列の私たちは人並みをかいくぐり脱出。背後に居られる奇兵隊さんの元へ行こうと移動したそのとき、山県有朋さんが肩を叩かれました。え??山県有朋さん・・・実は、昨日、往環道にある松蔭記念館でお世話になった方がなんと有朋さん役ってことでホントびっくりでした。
そのまま会場へ移動。美味しい昼食を頂いた後講演会場へ到着。関係者席の真後ろをGET♪じっくりと江里先生、一坂先生のお話を堪能いたしました。

その後、限られた時間の中の萩旅行。
各地をお急ぎで回りなんとか下記に行く事ができました。

松下村塾、松蔭神社、伊藤博文旧宅、別宅、松陰先生誕生地、松蔭先生のお墓、玉木文之進旧宅、東光寺、高杉晋作さんのお墓、菊屋横丁、江戸屋横丁、伊勢谷横丁、高杉晋作さん誕生地、木戸孝允さん旧宅、野山獄跡、岩倉獄跡、往環道道の駅、涙松、松蔭記念館、萩博物館・・。

そしていよいよ萩からのお別れ・・・。もちろん涙松を通り楽しかった萩旅行に終わりを告げました。

2010 10/31 高杉新作立志像建立記念講演会  ~晋作と龍馬

今回の目的の一坂先生の講演会が始まりました。
はじめの15分くらいはちょっと書けない内容ですが、この時は会場から大爆笑や、「え~?」っと言うような驚愕の声で包まれていました。
私もおもわず「え~?そ、それはないやろ・・」と驚きましたwwファン心理ちうのは非常に恐ろしいものです。
さて場内はすでに先生のペース。私の大好きな落語でいうところのマクラはOK。漫才だとつかみはOK状態。

某日、一坂先生の所に某週刊誌から連絡があり、インターネットでのアンケート結果で、大好きな歴史上は?の問いに対してなんと高杉晋作さんが1位になったそう。バブル期には10位にも入らなかった晋作さん。やはり現代人=組織人であり、殿様のために・・と最後まで紛争した姿が近代人の苦悩に重なったのか・・・ちょうど伊勢谷さんの出演された龍馬伝があったからのか。
長州人はいわゆる議論好きといわれている、なかでも松下村塾では色々なお話があったようだが王陽明の影響を受けた松蔭先生は意外と冗談が大好きで色々と文献に載っているらしい。いずれも松蔭先生の面影を感じさせる冗談であり近代の親父ギャグとは程遠いよう。

さてよく一坂先生のところに質問をいただく内容として、《晋作さんと龍馬さんは何度あっているのか?》が寄せられるらしい。
まず初回は会っているかもしれないというレベル。
文久2年 上海より帰国した晋作さんは江戸で龍馬とあっている可能性が高い。ちょうど久坂さんらが、攘夷で異人を切る案件が持ち上がり、土佐藩邸にいる武市に賛同を促す手紙を送る。この中に龍馬の名前があっている。この計画はその後、武市より毛利の若殿様へリークされ寸前のところで中止となってしまう。

2回目は長州にて、高杉さんは扇面に漢詩を書き、ピストルを添えて龍馬にあげている。
文献ではこのピストルは上海土産とされているがその真偽は不明。大村の日記にはピストル購入者の一覧に谷梅之助の名前があがっている。

そして3回目は慶応2年6月。小倉口の戦い。いわゆる四境戦争。薩摩名義の長州の船を返却に来た龍馬に奇襲をさせている。この功により、龍馬は慶親公よりラシャの背広と刀を拝領し、長崎に帰っている。
ということで最低2回、ひょっとしたら3回かもしれないとの事。もちろん龍馬さんは1835年、晋作さんは1839年生まれと年が近く、実は影響を与えた人物が共に吉田松陰先生であることから話しが盛り上がったかもしれません。

龍馬さんは15ヶ月の間に江戸への剣術修行へ出かけていますが、これはあくまでも条件付。
土佐藩に何かあれば組織に加わりなさいということ。実際、黒船の出現で品川の警備につかされている。
この時点では品川には松蔭先生もいたはず。
あくまでも外国の手の内を知ってから攘夷をおこなうという松蔭先生の方針に対し、過激派の龍馬さん。ともに佐久間象山塾に入門する共通点がある。

だれもが戦争になる・・とおもいきや・・なんと幕府は3月3日に和親条約を締結。
そして3月5日には密航事件が勃発。これが原因で佐久間塾はつぶれてしまい竜馬は四国へ帰っている。
《かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂》の松陰先生の句に対し
龍馬は《かくすれば かくなるものと われも知る なお止むべきか 大和魂》と読んでいる。

さて晋作さんは16才の2月に若殿様のお付として江戸に行っている。
そして松蔭先生の密航事件を知るわけだから、おそらく藩邸はその一件でごった返しているはず。
実は晋作さんはこの時点で松蔭先生と密接な関係がある。
松蔭先生が師事していた、晋作さんのおじさんにあたる「田上宇平太」(洋学者)が帰国することになり、佐久間象山先生を紹介いただき入門しているから。
晋作さんはあくまでも内戦により幕府崩壊をつぶすことを考えており、これは中岡氏の「時勢論」に影響を受けている、すなわち晋作さんと龍馬さんは方針が違いすぎるわけで双方のコミュニケーションは無かったのではないかと考えられる。

そんな晋作さんも亡くなる4ヶ月前の父に宛てた手紙では「親不幸ばかりすてきましたが唯一の孝は、孫を残せたこと」と書いている。
また直前には「萩に帰りたいが、かごに乗って帰る体力はもう残っていません。蒸気船が見つかったら帰りますのでひょっとしたら突然帰国するかもしれません」と送っている。
自分の命の灯火が尽きることをしっていたのでしょう。

※文章は一坂先生の言われたことを元に私が脚色している箇所がありますのでご注意ください。

やはり一坂先生のご講演は非常にわかりやすいことで大人気の様子。終了後30分以上たってもファンに取り囲まれていたちょっぴりはにかんだ一坂先生のお顔が印象的でした。
もちろん、江里先生とおなじおく、晋作さんの像の前で記念撮影をしていただきました^^

2010 10/31 高杉晋作立志像建立記念講演会 ~立志像ができるまで

午前中に開催された除幕式に続き、会場を変え萩博物館の講演会室にて銅像を製作いただいた江里敏明先生と一坂太郎先生の記念講演会が開催されました。

江里先生は通常公開を行わない銅像の製作工程を全て写真に映されており、今回の講演会ではその写真を元に解説をいただきました。
江里先生と、この萩の関わりは、6年前に開府400年記念で毛利像を作成したことに始まります。

さて、今回の高杉晋作像は、ポートレート等で有名な散切り頭ではなく、月代、ちょんまげ頭に紋付、袴に刀を携えた像で、これは20代前後をイメージされており、昼間は明倫館へ、そして夜には松下村塾へ通う若かりし高杉新作さんです。

【工程】
2009年6月に依頼があり、打ち合わせの後、イメージ膨らませてスタンド付の針金の芯が完成したのが2010年1月~2月。
そして2月末より粘土で肉付けをしていかれますが、このときの高杉さんはなんと裸像。
その肉体美は現代の男性の筋肉美に大差ありません。
この時点で粘土の重さは400キロ!そして次の工程ではこの裸像に草鞋や袴を付けていかれると同時に随所に芯柱を入れられます。
そして4月半ばにはようやく刀を持たせ、羽織を着せてゆかれます。

さてこの段階で当初の完成形のイメージが具現化されるわけですが、先生曰くなにかが足らない・・との事。

なにか力強さが足らないということで、江里先生のされたことは、なんと上半身をつぶして一から再作成。
このお話の瞬間、会場から一斉に「え~~?」という大きな驚きの声が聞こえました。
その後、首の位置を後ろにずらせ、胸を張った姿にされ、これでようやく今回の形となったわけですが時はすでに8月22日。

全体に石膏をまんべんなく振りかけては麻を貼り、石膏が1センチの厚みになるまで延々と続けられます。
次に石膏のそれぞれの端に打ち込んだ鋲から順にパーツごとに切りわけて、パカッと取り出して中の粘土をはずします。
そのはずした石膏の中面にはポリエステル樹脂を塗り、FRPを貼ってゆきます。そして元通り組み立てて石膏を割ることで原型がようやく完成となります。

鋳造所へ運び、その原型の上に覆いかぶさるような型を作成し、銅を流し込む4箇所の穴から一斉に銅を流し込みます。
実は純粋な銅ではなく、銅が90%、錫5%、亜鉛・・などの内緒の配合比とのこと。
冷えて固まったら原型を叩き出す作業でこれが細部にいたるまでの非常に緻密な作業でした。
さて、ようやく完成したら最後は硝酸を吹くことで緑錆を発生させることでようやくホントの完成となります。
この480キロの銅像は台座に2本のボルトで留められています。

最後に、先生より銅像の大半は触ってはダメと言われているが、本当はみんなが触ったほうがキレイに、そして好い風合いが出るといわれてお話は終了いたしました。

この萩博物館には銅像制作時点で型として残ったFRPの像が展示されています。せっかくなのでその前で先生と記念撮影させていただきました。
本当にありがとうございました。

2010 10/28 像建立記念講演会

松下村塾に通っていた頃の高杉晋作さんの立像(高さ1.8m 台座を含めて3m)が萩の晋作公園にできるそう。除幕式は10/31日。龍馬伝で晋作さんを演じられていた伊勢谷 友介さんもお見えになるらしいです。

■銅像建立記念講演会
10月31日(日)午後1時~3時30分 
萩博物館講座室 先着100名
「立志像ができるまで」 江里敏明(京都:日展評議員)
「晋作と龍馬」一坂太郎 (萩博物館特別学芸員)

もちろん♪台風なんでなんのその♪いってきまーすww
除幕式ってそう滅多に見られるもんじゃなし。

どうぞ台風さん。。。

消えてくださいww

2010 10/24 めふ乃寄席

毎年、この秋期開催のめふ乃寄席は会場であるピピア売布の開業イベントと重なりますのでスペシャルゲストが来られます。(昨年は桂春団治さん桂雀松さん)今年は桂小春団治さん、春野恵子さんということで特に初めてナマで聞く浪曲にはチケットを入手した前回の時点からすでに興味津々でした。

林家竹丸 桃太郎
すぅっと流した感のある桃太郎。それでも笑い所をちゃんと押さえて居られるため
笑いが頻繁に起こります。なんとなく堅かった場内の空気が和らぎました。

桂阿か枝 百人一首

上方落語家では誰もしないという珍しいお話。
広げてあった百人一首の歌を見つけた。持ち主に順に解説してもらうがその内容を
すかたんに捉えてしまういう話し。
天智天皇、持統天皇と進み西行法師がもともと佐藤義清(のりきよ)であった頃に身分の高い女官との逢瀬から「次は?」の問いに対し「あこぎじゃ」と言われた為に出家したエピソードを持ち出し落語で有名な<鼓ケ滝>の話しを交えながら進んで行きます。そこで百人一首の編纂画ある事をしった西行は・・。

本題もさることながらマクラの「われ泣きぬれて蟹とわはむる」の啄木の歌が耳について離れません。
あ・・ホントは書きたかったんですけど、残念ながら亀の甲羅の上に・・・の時の歌や逢瀬の際の歌のやり取りを覚えられませんでした(;・∀・)


桂小春団治 冷蔵庫哀詩

抱腹絶倒の爆笑ネタ話。掃除機やテレビの話しはおもいっきりあるあるネタ。そして
本題はどこの家にもありそうな冷蔵庫の中身がなんと擬人化したという奇想天外な世界観。
その世界の中で、ハーゲンダッツのラムレーズンアイスとグリコプッチンプリンが恋愛したり、マーガリンとジャムがケンカしたりのどたばた話し。冷静沈着な「ホタルイカの沖漬けはん」がいい味を出しています。
小春団治さんの創作落語にはいつも驚かされてしまします^^


春野恵子 好色五人女樽屋おせんの段

私がまだ子供だった時に朝5時頃から、祖父や祖母が小1時間くらいラジオで聴いていたのを思い出しました。なので浪曲ってすごく懐かしい記憶があります。
麹屋の法事のシーンから始まり、長左衛門が落とした小鉢が原因でおせんの結い上げた丸髷が
崩れてしまいます。そしてあらぬ疑いをかけられて・・。あとは映画を見ているようにイキイキと脳裏に情景が浮かんで参りました。
女流の浪曲士さんの芸にはまったく抵抗が無いのですが、なぜか女流の落語家さんのお話には抵抗があるのは何故だろう?ってふと頭の中を疑問がよぎりました。

林家染左 淀五郎

実は浪曲が終わって舞台が掃けた後にずっと独特な空気が漂っており、それは幾重にも織綴られた繊細な日本映画を見たあとの印象に似ていました。この空気を果たして染左さんはどうするのか?と心配にさえ思った程。まぁものの見事に染左さんの世界へ連れて行ってくださいました。
仮名手本忠臣蔵の初の大役である塩冶判官高貞を演じることになった淀五郎。見せ場である切腹のシーンに込められた強烈なダメだしに込められた意味を皮肉な言葉に込めながらも成長することを願う市川團蔵。そして見事に・・・。

今日のめふ乃寄席は実に見どころ、聴きどころ満載でした。

2010 10/23 トップリーグ第7節

昨年の4月に初めてラグビー観戦に行き、8回目の観戦です。
今日はトップリーグ第7節。

第一試合は豊田自動織機シャトルズVSリコーブラックラムズ。結果は13対46。

豊田自動織機シャトルズは今年からトップリーグの仲間入りをしたチームでご縁があってキレイな団扇に<織>と書かれた団体の中に紛れ込んで観戦していました。
私はトップリーグの場合は必ずラジオを携帯していて79.5Mhzで太田先生の解説を聞きながら観戦しています。

その解説の中でも頻繁に言われていたのがノックオンの多さでしょう。
ボールを前にこぼさない・・ってそんなに難しい事なんでしょうか。あ・・私は素人なので無理だけどどんな分野のスポーツや芸術にも似たようなチョンボってるとおもうんです。
そのチョンボで流れがブツブツと切れちゃって自滅した感があるようにおもいました。

事前にリコーの15番の「ラーカム選手」の事を聞いていたので自然と目が行ってしまいます。
おもいっきりトライに絡むナイスアシストがあって、後半は怒涛のリコーの攻撃でシャトルズにとっては厳しい結果となりました。

さて第二試合は近鉄ライナーズVSトヨタ自動車ヴェルブリッツ。結果は21対17。
ノット・ロール・アウェイが原因でシンビンとなり2番と9番が抜けたものの近鉄ライナーズが逆転を果たしました。元々シーソーゲームな展開な上に、5m手前からトヨタの波状攻撃を防ぐシーンが何度もありとっても盛り上がったゲームとなりました。
トヨタのアイイ選手がいきなりPGで得点を挙げましたが以降、近鉄に封じ込められてしまったようで残念した・・・って書くとどっちのファンやねん?となりますよね。
トヨタのイェーツさんが出ていなかったので近鉄の応援に加わったのでした^^

ミニFMで私の投稿が読み上げられたんで感激でしたww

2010 10/17 桜田門外ノ変

今から何年前になるでしょう。ある日、自分にまったく歴史の知識が無かったことに気がついたのは。
せっかく様々な歴史がうずもれている大阪に住んでいながら地元の歴史すらしらないなんてあまりに情けないっておもって、色々と学び出したのがキッカケです。
そんな当時の私が「桜田門外の変」に対して知っていたのは「大老 井伊直弼が桜田門外で過激な武士に暗殺された」だけ。おそらく歴史に興味の無い方々はこの程度の知識しか無いでしょう。

このテーマは「2009 7/18 安政の大獄と井伊直弼」で語られていますのでもう下知識はバッチリで鑑賞しにいきました。それでもこの事件の背景や様々な人とのかかわりと計画が緻密に描かれていてあらためて認識しました。
そして事後にに直接的にかかわった水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士、家族などの関係者が次々と壮絶な亡くなり方をしていくそのシーンは非常にスリリングで何度も目を伏せてしまいました。
実際は井伊直弼を護衛していた彦根藩の者のほぼ全員が切腹や斬首となっていることを考えると、安政の大獄で次々と命を奪ってゆく井伊直弼の命を奪う為にどれだけの命が失われたのかを考えると胸が痛くなります。

■教科書に書かれない幕末史
http://sweet-mikan.blogspot.com/2010/04/2009718.html

13代将軍就任後にすぐさま起こる跡目候補擁立問題で南紀派と一橋派の争いが水面下で繰り広げられるそんな中にまた大問題が勃発。
黒船来航による脅威とその対応問題を幕府のみで処理したのをチャンスとして一橋派は井伊直弼を非難。
ところが謹慎やらで逆襲されてしまう。そこで一橋派は朝廷に働きかけた結果、幕府の頭を飛びこた形で勅状が水戸藩に降りてしまう(戊午の密勅)。この事件の黒幕探しで一橋派に対する執拗弾圧が始まり(安政の大獄)勅状は偽者であるという事で水戸藩に返却を求める幕府に対し藩内では様々な意見が飛び交うことになり、ついに井伊直弼襲撃の話が持ち上がる。狙いは薩摩が3000人を京都へ挙兵、制圧し幕府を転覆させられる。ところが運命は皮肉なもので、了承を得ていた薩摩藩主の島津斉彬氏が急死してしまい島津久光は方向転換をしてしまい、計画はすべて頓挫してしまうことに。

生瀬 勝久演じる高橋多一郎は大阪寺町を抜け四天王寺近くの茶屋で見つかってしまった結果、執拗な追っ手からついにここまでと、壮絶な死を迎える。実際この親子のお墓は四天王寺さんにあり、墓標には<怨霊消滅>と描かれているくらいだからよほど凄まじい死だったのだろう。

■公式サイト
http://www.sakuradamon.com/

2010 10/16 教科書に書かれない日本史 神戸事件と伊藤博文

菅総理が奇兵隊内閣云々と言った件は色々アメディアを賑わしました。その後国会で色々な議員が幕末の志士を尊敬していることを話したらしいですがその実像を知らないで簡単に言葉にするのは足をすくわれる元となってしまいます。特に菅さんの奇兵隊のイメージ実際とは相当違うようです。特に間違って理解されやすいのは「奇兵隊は倒幕のために組織された軍でもなければ、有終の美を飾り円満に解散したわけでもない」
それでも固執するのは、歴代の総理大臣を8人?(菅さんを入れたとすると9人)排出した長州出身というネーミングは、いわば政治家の一流のブランドなのでしょう。
長州が輩出した総理大臣の中でも誰もが知っているのは伊藤博文氏。この伊藤氏は非常にラッキーな星を背負っていたらしい。

天保12年に生まれた林利助(ちなみに高杉さんは同10年、松蔭先生は元年生まれ)。父である十蔵と村とのトラブルにより萩へ出稼ぎに行くことに。その出稼ぎ先で下級武士(足軽:中間)伊藤弥右衛門に気に入られ、また男子が居ない為に伊藤家の養子となったので伊藤姓を名乗ることとなった。
そしてちょうど世間は黒船騒ぎ。萩藩は幕府より三浦半島の警備をおおせつかっていたので、もちろん伊藤少年も1年間の予定で警備に着いた。その先で赴任してきた来原良蔵に付いて学ぶ機会を得る。さて1年が経過する際に来原良蔵は、伊藤氏の勉強熱心さに打たれ、萩にある松下村塾を紹介したことがきっかけとなり伊藤氏の塾通いがはじまる。そしてまたまたラッキーなことに自宅から数百メートルしか離れていないので熱心に通うことができたらしい。

長州藩はとてもおもしろい藩で、表向きは攘夷を唱えながらも、裏ではイギリスへ留学生をおくっている。その中に入っていたのが伊藤氏。彼には実績が会ったが、それでもネーミング不足だったのか不思議なことに、王政復古の大号令で強引に樹立した新政府。その中に伊藤氏は入っていない。
再度留学を目指すための船を捜すために伊藤氏は下関から神戸に向かい慶応4年1/12に到着した彼が見たものは・・・・・・・・・・・・。

前年12/9に王政復古。1/1に慶喜さんの倒薩の檄。1/.3に鳥羽伏見の戦い、そして1/10に大阪城引渡しが起こっているそんな背景で、行動の読めない尼崎藩(譜代大名)を牽制するために新政府は岡山藩に西宮まで進軍する命令を出した。当時の岡山藩の家老は日置建帯刀(ひきたてわき)。2000名を出兵し西宮を目指したその中の分隊500人が、1/11に大倉谷の宿場を出発し正午頃に神戸村三宮神社辺りを通過したそのときに、居留地から神社側へ行く為に500人の行列横切ろうとしたフランス兵2人。もちろん無礼な話である。滝善三郎(第3砲撃隊長)はヤリで追い返した再に軽症を負わせてしまい、この事件が発端で発砲騒ぎにまで発展してしまう。(神戸事件)居留地を迂回する徳川道を通ればこんなコトにならなかったのに。

さて、この事態をチャンスと捉えたイギリス公使パークスはなぜか激怒。アメリカやフランス公使を炊き付け居留地以外の場所を占領した上に、港に泊まっていた各藩の船を拿捕してしまう。

そんな事態が発生した翌日に登場した伊藤氏。幸いにパークスや各公使と顔見知り。
事情を聞いて仲立ちをしようと向かった結果、パークスはこの事態を利用して新政府と各国の力関係をはっきりさせておきたかったコトを目的に、王政復古から1ヶ月以上経つのに各国へ通知の無いことに苛立ちをもっていたことがわかった。
伊藤はすぐさま大坂にいる東久世通禧(外国事務総督)に会い、事情を説明し、すぐさま神戸の運上所に各国公使を集めて<新政府の貿易の窓口>であることを宣言した。(対外和親の布告)
後にこの働きによって伊藤は外国事務係に就任し、政治の中枢へ入ってゆくラッキーな方。

さて神戸事件に対して外国側は岡山藩から責任者を出して死刑にすることを新政府に要望。
まさか、フランス兵2人の軽症に対して切腹を求めるってどうよ??

各国公使で話し合いが行われ、さすがに言いすぎた感のある弱腰になったパークスに発破をかけて切腹を譲らなかったフランス公使のロッシェ。
その結果が新政府に届きこんな無茶な要望は受理しないだろうとおもっていたが、まさか・・まさか新政府の交渉をおこなった伊藤はこの条件を飲んでしまい、岡山藩から【滝善三郎氏】が名乗りをあげついに切腹することになる。
そして2/9に切腹が行われた。(現在のカネテツの工場の辺り)

現在もその遺書は岡山と神戸の子孫の自宅に残っているらしい。
この様子はアーネストサトウ氏や様々な文献で様子が書かれており、<日本=ゲイシャ・フジヤマ・ハラキリ>のハラキリはこの滝善三郎氏の切腹を始めてみた外国人が比喩した言葉とのこと。

そのときの様子は文献に書かれているが実はそれらの文献にはあまり書かれていない下記の言葉を一番初めに呟いたそう。

「私は遠国の者(おんごくのもの)故、朝廷が外国人を大切に扱う方針になっていたとは知らなかった」二枚舌を持つ新政府を批判した痛烈な言葉。

一坂先生は実はこの「教科書にかかれない幕末史」の講座の初回にこんな事を言われています。

日本を始め世界中の歴史は強者や勝者の歴史。本当はそこのには敗者や弱者の歴史がうずもれています。その歴史を調べる事で事実を知る事ができると。

まさにそのとおり。今の政府も二枚舌にならないようにして欲しいものです。

※注意) この文章は一坂先生が言われた内容に対し、私が文脈を色々と追加した内容です。

2010 10/16 大切な言葉

2007年のクリスマスが終わった翌日から2008年の初めにかけて病院で過ごました。
年末年始を病院のい冷たいベッドの上で過ごしました。
あの、お米の形が無く、お碗に自分の顔が映るくらいのお粥を食べた年末の寂しさは忘れる事ができません。
あらら・・私・・何してるんだろ・・ってつい自暴自棄になりかけた年末。

そしてようやく2008年になり、ようやくベッドから起きる事ができて、ふと見つけた病院のロビーに掲げられていた額にかかれていた言葉がすごくショックで、おもわず写真を撮りました。
事務局へ訪ねたところ、院長さんがか海外へ行かれた際に
知ったそうでどうやらニューヨーク大学リハビリテーション科の患者さんがつくられた詩のようです。


大きなことをなし遂げるために
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙虚さを学ぶようにと弱さを授かった

より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱さを与えられた

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった

世の人の賞賛をえようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いは全て聞きとどけられた

神の意にそわぬもとであるにもかかわらず
心の中の言い表せないもの全て叶えられた

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ




甘えちゃダメなんです。
人は謙虚であるべきなんです。
そして感謝の心を持ち続けることなんですよね。

2010 10/15 見えない世界

日本橋毘沙門天 大乗坊へ寄りお参りをすませて出勤。
お賽銭入れの前にいつも「ぼだい」という葉書が積まれていて参拝者は自由に持って帰っています。
たしか葉書サイズではなくB4程度の小雑誌もあったとおもいますが、おそらく真言宗で発行されているのだと思います。
その内容はなかなか良い事が書かれいて、私の仕事用のデスクには、この葉書を写真立てにいれて時折読み返しています。




ちょうど昨日までは、いつしか某病院に掲げられていたあの言葉が。この言葉はまた次回で紹介しますがさっそく入れ替えた10月号には金子みすゞさんの精神を彷彿とさせる素晴らしい世界観が書かれています。

骨子としては先日まで放映されていたゲゲゲの女房の中で二女の善子が言ったセリフ「妖怪もすめない世の中では、人間だって住みにくいよね。」と茂に語りかえるところから始まります。
見える世界だけを基準にして物事を判断すると物欲やエゴに執着し世の中が荒れて行きます。私たちの知識で解明されているのはごくわずか。「見えない世界」の方が多いのです。ということを念頭に置く事も大切ではないか?という内容です。


~ 星とタンポポ ~

     作:金子みすゞ


  青いお空のそこ深く

  海の小石のそのように

  夜がくるまで沈んでる

  昼のお星は目に見えぬ

  見えぬけれどもあるんだよ

  見えぬものでもあるんだよ



  散ってすがれたタンポポの

  川原のすきにだぁまって

  春のくるまで隠れてる
 
  強いその根は目に見えぬ

  見えぬけれどもあるんだよ
 
  見えぬものでもあるんだよ




享年26歳でこの世をさった金子みすゞさん。
自然の中に広大な宇宙を見たり、また生き物すべての世界の中に世界観を見出す事ができた童謡詩人。
自らの命と引き換えにわが子の親権を手放すことを拒んだ女性。
明治36年(1903年)-昭和5年(1930)

高度経済成長時代に育った親達が、バブル時期に生んだ子供たち。ゆとり教育と対極にある教育熱。
みえるモノだけに捉われてしまった結果が今のような心が荒んだ世の中になってしまったのでしょうか。

2010 10/14 自分の感受性くらい

先日の休日の午後にたまたま見ていたテレビ番組。NHK全国学校音楽コンクールの決勝戦でした。
中学の部で決勝に残った11校が、課題曲と自由曲を歌い、そして審査のあと全国の頂点となる学校の栄誉をたたえるというものでした。

中学校時代の私たちのお遊びに似た合唱とはまったく違い、全員がきっちりと発声の基礎に裏づけされた素晴らしいハーモニーです。
そして番組は進み「島根大学教育学部附属中学校」の自由曲を聴いて、ドキッとしました。
これって昔、朗読したことがある詩。
ぜひこのBLOGをお読みになっている方も朗読ください。

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自分の感受性くらい

                       作:茨木のり子

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

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※島根大学教育学部附属中学校は銅賞となりました。

2010 10/13 サービスのお話Ⅱ

朝のラジオ番組で聞いたサービスにまつわるお話。
シュチエーションは少し違うかもしれないけれど本筋は同じ。

ある私鉄の定期券売り場に男性が駆け込んできた。
この私鉄の駅はJRの乗り換えも出来る混雑する駅だそう。


「コインロッカーはどこにありますか?」





その定期券売り場の女性はこう答えました。


「この売り場を出て右に曲がられた並びにありますが、もしいっぱいの場合は、一つ目の角を左に行かれて20mほどのJRの乗り場の右手にあります。」
この返事でもたいしたもの。


まぁ、よほどこの手の質問が多いのでしょう。


男性は「ありがとう」と立ち去ろうとしたそのとき





後ろからまた声がかかりました。


「お客様、100円玉はおもちですか?」


この一言が言えるかどうかがサービスの決め手でしょう。


雨の日に来られたお客様に対し「いらっしゃいませ」に対し一言付け加えるなら

「お足元の悪い中、お越しいただき、ありがとうございます」
雨の降る日に傘を差してお店に来るお客さまはおもいっきり目的買。

いわばお得意さまか、お得意さま予備軍。


そんな百貨店の開店と同時に店内に入ろうとすると、左右両方に従業員さんが並んでお出迎えをしてくださいます。

「おはようございます、いらっしゃいませ」

心から言っているか、それとも本当にそう思っているかは疑問だけれど今の百貨店には、口先だけで言う余裕はない。


また話題の市内にある大手のディスカウントスーパーへ行く機会がありましたがその店内は酷いもの。

がさがさになった商品棚、歪んでいたりPOPが外れかかっている。

商品が前出しされておらず通路にはパッキンが放置されている。

挙句の果てに非常用非難通路には自転車が置かれている。

明らかに人手も指導者も不足してる。こんな店舗にはサービスという感覚はないのでしょう。

値段だけが安くてもサービスを語るレベルに達していないお店は淘汰されるでしょう。

2010 10/12 サービスのお話Ⅰ

辛口な文章を書くのはなかなか気持ちが辛いもので、出来れば避けて通りたいのですが、ここ数週間で色々と感じたことを気持ちを整理する意味で2日間にわたって書いてみることにします。

私は色々な施設を利用させていただく機会が多く、そのたびに色々なお勉強をさせていただいています。
展示物を見たり、お話を聴いたりして様々な感動と知識を得ていますが、どの施設でもそれぞれのスタッフの方々は非常に謙虚にサービスをしてくださいます。此処で言うサービスとはモノを下さったり特別扱いをしてくださることではなく自分の職務に忠実に、受付をされる方は丁寧に受付をいただき、案内をされる方などは親切に案内してくださるという当然の範囲を指しています。そしてそのスタッフの方々は一様に知識人で非常に心地よい印象を与えてくださいますが実はこれは当然の事。
なぜなら、不快な印象を与えてしまえば二度とその施設を利用しなくなることを知っているから・・・もありますが人が人に接する出会いに対する心配りという常識だからです。

ただし所がかわり、快適性を求めるホテルではそのサービスを受けることは当然だし、美味しさを前提とした飲食等であれば食事が美味しいのは当然でしょう。
でももし美味しくなく、食事を残してしまっても感謝の気持ちは忘れないことは利用する側の常識だし、私たちは美術館に行って、「絵や書」がつまらないからと言いって「お金を返して欲しい」などとは言いません。

私の大好きな落語会は最近毎日どこかで開催されるくらい人気です。
その内情はきっと場所代を払ってまで開催される噺家さんはホントに大変なご苦労をされているのでしょうし、また会場側も施設の維持のために様々な努力をされていることと察します。
その表れとしておのずから「お客様にせっかく来ていただいているのだから」という気持ちが強くなるのでしょう。

もちろんお客様側は「演者さんとそのスタッフへの心配り」を忘れてはなりませんが、特別な事をする必要なんてなにもなく、心からそれぞれのイベントを愉しめばいいのでしょう
仮に面白くない落語を聴いても「お金を返してほしい」とは言わないし言う必要は無く、ただその演者さんの落語会に二度と行かなければそれでいいのです。

もしも・・・
美術館の絵が素晴らしくても受付の方の態度が悪かったらどうしますか?
美味しいお料理でもウエイターがぞんざいな言葉であったらどうしますか?
ふかふかのベッドと清潔なお部屋でも、ホテルマンの態度がイヤミであったらどうしますか?

あくまでもそれぞれのスタッフは影の存在でありサービスの対象である絵やお料理やお部屋の価値の足を
ひっぱったりすることはありえないのです。

先日行ったその会場はある有名な市の所有物。
会場を取り仕切る方がその部下に対し様々な指示を出す風景は小さな手作り寄席の会場では
よく見られることですが、すでに会場にお客様が居られる状態でその言動で不快感を与えては大きなマイナスです。
もちろんッスタッフがお客様へ上からの目線で命令口調で話したり、なれなれしく話しかけるなんて失礼の極みです。
そしてついに落語の途中でその会場の電話が鳴るなんて前代未聞でありえない会場ですが実際にありました。

あまりに素人臭い運営なんて恥ずかしい限りです。所詮、役人の天下り施設だから頭を下げることができない人達の集まりなんだと思われてもしようがないのでしょう。

2010 10/9 第四十七回 落語みゅーじあむ寄席

2010 10/9 第四十七回 落語みゅーじあむ寄席

池田落語みゅーじむ寄席に行ってまいりました。
池田に出来ていたのは知っていたのですがなかなか行くチャンスがありませんでした。
さて、池田は落語での街おこしやアマチュア落語によるイベントが盛んな場所。
落語大好きな私にとってはありがたい場所です。
会場のお客様もお見かけしたところ、リピーターが多いようで、演者さんもやりやすい場所だとおもいます。

朝から雨空で開場についた11時には完全に大降り。ホームページには11時開場ということで行きましたが、落語の開催される日は開場が遅いらしい。開場でお話を聞いたところ12時半頃であれば整理券をいただけるということで思いがけない1時間半ののんびりしたランチタイムをいただくことができました。

◇笑福亭生寿 花色木綿

マクラは婚約ネタ♪ホントにおめでとうございます。
さて、生寿さんのこのネタの花色木綿は何度もお聞きする機会があり、そのたびに完成度が上がってるなって感じます。表情や所作が豊かでよく通る声で、会場を笑いの渦に巻き込んで行きます。
生寿さんが楽屋入りされる際に初めて生寿さんをみたお客様が私に「生寿さんって中村獅童に似てるねぇー♪」って^^
そういえば・・細面にしたら似てるかもです。


◇林家染雀 七段目

そういえばたしか、町屋寄席でも生寿さんと一緒にご出演されていました染雀さん。あのとき同様に「阿呆の三寸間抜けの五寸」ってコトバ、すごく説得力があります。

歌舞伎に精通されている染雀さんの造詣の深さにはホントに驚きです。
歌舞伎で実際にあったとんでもないエピソードをお話されました。もちろん「七段目」の中でくりひろげられる劇中劇の仮名手本忠臣蔵の世界にまでも連れていってくださいました。


◇桂梅団治 ねずみ


梅団治といえば撮り鉄で有名な方。いきなり今日から山口県で走るはずの電車の撮影にいかれるはずだったそう^^すごく楽しそうにお話されていて、ホントに愛されてるんですねー。で、今日もご自身の30周年予告と同じくらいに、鉄道写真の個展の宣伝をされていました。
さて話はすすみ、内弟子時代の思い出。
修業は本来は3年あるが、2年で切り上げ、世間の風に当たることになったが冷たくなかったそう。とってもユニークな梅団治さんです。
さて、「ねずみ」は左甚五郎を扱ったネタの中の一つ。飛騨高山から出てきて天満の真砂楼に世話になっている甚五郎が今度は岡山へ出かけたその道中宿場での人情話。
大好きなお話のひとつです。

もちろん見せ場は、ねずみ屋の主と息子、分銅屋の主の会話。胸がきゅんきゅんと痛むくらいに落語の世界に連れて行ってくださいました。

さて、次回11月はすでに予定が入っていましたので次回は12月♪
楽しみにしています。

2010 10/4 四天王寺秋季大学余話

第47回四天王寺秋季大学の2日目は終了時には、激しい雨!
会場の五智光院から急ぐ姿が多くみられました。


この会場のすぐ裏手には<極楽浄土の庭>がありそれはキレイなお庭。
おそらくそのお庭を散策され終わった外人さんのの二人連れが雨の中、険しい顔つきで急いで山門をくぐろうとされている矢先に、世間一般で言う、大阪のおばちゃん3人組。

キレイな傘の三本のうち、1本をその外人さんにあげて「じゃあねー!バイバイ!」って去っていかれるところを見かけました。

あぁ。。。今日はとっても良い行いを見させていただいたよ。
とっても清々しい気持ち。
大阪のおばちゃん!なにかと良いイメージがないんだけれど捨てたもんじゃないですよね。

ということで生まれて初めて「四天王寺夕陽丘前」から電車にのり梅田へ向かいHEPナビオへ。



どういういきさつか私が直通エレベーターのボタンの前に立ちボタンを押したりするはめに。
フロアについたら誰一人「ありがとー」の言葉も無く一目散に映画館やお店に向かって歩く若者達ww

あかんやろー。それ!ほんとに恥ずかしい光景でがっくりです。。

まぁ・・その夜は串カツに生ビールをむっちゃ頂いてなんとか帰宅。
夜中は気分が悪くなってまぢで危ないところでしたww

2010 10/3 ~第47回四天王寺秋季大学~ 2日目



第47回四天王寺秋季大学の2日目です。朝方はなんとか大丈夫でしたが開始時間に近づくにつれて


雨脚が激しくなり、終了間近になる頃には激しい雨となりました。





■第1講目 【現代思想としての仏教】末木 文美士 (国際日本文化研究センター教授 東京大学名誉教授)


福岡市博物館(金印のある博物館)のお話から始まった第1講目。国際日本文化研究センターでは現代の妖怪ブームのその前に妖怪データーベースを作成した。 http://www.nichibun.ac.jp/welcome.htm
1965年以降の現代ではキツネも人を化かす事が無くなり高度成長経済へまっしぐら。その中でもたんなる迷信とは言いきれない事象も数多くのこっている。

認知症の方々が体験する様々な出来事は、その内容を一方的に誤っているとは言いきれないのではないか?
夢で見る世界こそが現実なのでかもしれません。キリスト教的な世界観では科学が解明した範囲が現実であり特に「人の死」は誰もが体験する事ができない事象、つい蓋をしてしまう傾向にある。
この流れを受けてお葬式が簡略化される傾向にある。簡略化されるのはもはやとめる事ができないのかもしれないが亡くなった方との関係や死者との関わりあい方が重要となる。

様々なキーワードを通じて<顕>の世界と<冥>の世界をお話くださいました。
どうしても概念的で哲学的な内容はわかりにくいのですが興味ある事例を随所に用いてくださりわかりやすくお話をくださいました。



■第2講目 【四天王寺の亀井水と日想感】水野 正好(奈良大学名誉教授 大阪府文化財研究センター理事長)

非常に興味あるお話でメモを取るまもなく矢継ぎ早にお話される水野先生のお言葉を追うのに大変でした。
仏教の興りと飛鳥寺~大化の改新~飛鳥からこの難波宮に遷都した背景をお話されたのにいよいよ核心に迫ってゆきます。万葉文化館の建設に伴う裏話しは本当に驚きました。

第35代天皇 皇極天皇(642年-645年)・第37代天皇 斉明天皇(655年-661年)にまつわるお話で飛鳥宮の東の山上には巨大な建造物である離宮があったそう。その建築資材はおびただしい良質の石が使われていてこの石は奈良県の天理より運ばれたらしい。その為には運河を建設していたとのこと。この発掘調査で突如現れた不思議な形の石。この正体は??
なんと四天王寺の亀井にある。

斉明天皇の政治方針は協調政治。蝦夷(東北や北海道)や海外からの客をもてなす事をおこなった天皇は、当時はもちろん滅多に会う事の出来ない位の高い方。その方がこの外交施設としての離宮で客と会うわけだから、会うほうも失礼があってはならない。
一方、四天王寺の亀井水は様々な歌人が歌に詠んでいるくらいの古い昔からあったらしい。
その流れる清らかな水を白玉に喩え、手を編むようにして口をすすぎ手を洗う。今回出土した石は二段構造で亀の形状をしていることからどうやら同じことをしていたのではないか?ということ。

さて、日想感の話しではこの夕陽丘の名前にも残るとおり西にしずむ太陽に極楽浄土を見てたくさんの方々が集まっていたという話し程度の下知識の私。その歴史は奈良の元興寺にいる智蔵に師事していた頼光の突然死からはじまる。
無くなった頼光がその学友であった智光の夢の中にでてきて、極楽浄土は西方のかなたにありそこでの姿を伝えたそう。智光はその様子を絵師にかかせたものが智光曼荼羅とよばれており元興寺に残っている。(この絵には智光・頼光の姿も書かれている)

さてこの極楽浄土の考え方は急速に広がり素晴らしい立地にある當麻寺では東に仁王門があり西門はなく極楽院、奥院の裏にそびえる二上山の果てに太陽が沈んで行く様を多くの人々に説いたそう。さて四天王寺の有名な西門の石の鳥居には<釈迦如来 転法輪処 極楽浄土 東門中心>とかかれています。すなわちこの西門は極楽浄土の東門にあたることから鳥居より西は極楽に続くという意味ですぐ近くにまで迫っている海岸線の水平線のかなたに沈む太陽に極楽を重ねてみせていたのでしょう。
上には上がいるもので、四天王寺の真東にあるお寺はどこでしょう?



東大阪にある往生院で、この往生院では、安助上人が説いたとおり、四天王寺の真ん中にある五重塔の先端に太陽が沈むということでおなじく日想感が盛んであったとのことです。
当時の人々の極楽浄土に対する憧れは大変なもので有名なものに<西念>が上げられます。彼は多数の寺へ寄進をおこない四天王寺の西門から入水するが失敗(1146年)いろは歌などを紙辺に残した穴の中で亡くなったとのこと。

※私の好きな落語の世界では西念さんは「藁人形」「黄金餅」が有名でなんとなくダークなイメージがあります。

2010 10/2 ~第47回四天王寺秋季大学~ 1日目

第47回四天王寺秋季大学が開催されました。
会場は四天王寺本坊五智光院。めったに入ることのできない場所でもありとてもこの日を楽しみにしていました。

この五智光院は、大日如来を本尊とする五智如来を安置し、授戒灌頂会を修する道場で、灌頂堂ともいわれます。


また、徳川家代々の位牌を納めており、御霊舎(みたまや)ともいわれました。



五智とは、法界の自性を明確にする智、 鏡の如く法界の万象を顕現する智、諸法の平等を具現する智、 諸法を正当に追求する智、自他の作すべきことを成就せしめる智、とのこと。
会場の北側への立ち入りを禁止されていましたのでその場所にお位牌と五智如来さんがおられたのでしょう。


~第47回四天王寺秋季大学~ 1日目


■第1講目 【お墓まいり】奥田聖應 猊下  (四天王寺官庁)

日本人はやさしく有るべき。今回の参加者250名の中で50才以下はごく少数であった。
。大阪市では様々な犬を分けてくださるが室内犬は非常な人気だが近番犬になるような犬がいない。どうぞペットを飼っている方は精一杯可愛がってあげてください。

1987年に東京都が霊園に対する意識調査をした結果、霊園は死者を偲ぶところのイメージが非常に強い。明治6年~明治30年頃は国策として神道を推奨したことから火葬を禁止し土葬としたことから墓場には怖いイメージがある。現在の墓地は明るいイメージがあるがこれは海外の影響が強い。日本初の公園墓地である東京の多摩霊園はその後の公園墓地の見本となった。この多摩霊園はウィーンの協同墓地を参考にしておりベートーヴェンやモーツゥァルト等の著名な顕彰墓地などが500基あり全体では300万人(カトリック)が眠っている。この墓地は信仰、世界感、門地等の区別がないのでさらに多くの方々の慰霊がある。

一方多摩霊園には東郷平八郎氏、山本五十六氏、古賀峯一氏等の軍人をはじめ多くの著名人の御霊が祀られている。

墓に関する関わり方も時代により移り変わっており、薄葬の詔、大宝の喪葬令を経て都では埋葬する地区を決めたことで平安京の内部には墓地は存在しませんでした。以前は屋敷墓といわれ、自宅の庭や軒先等へ埋葬し常緑樹をうえていたそう。


■第2講目 【巡礼と四天王寺】北川 央 (大阪城天守閣研究副主幹)

北川先生は実は2回目となります。
前回は本年5/8に開催された「大阪の陣を大河ドラマにする会」の発会式の場で「徳川秀頼の権威」に関する話しを賜っています。

さて今回は「西国三十三所巡り」に関するお話で、まず最初に会場で実際に巡った方の挙手では大半。四国霊場八十八巡りも同じように多数の方が終わらせておられたので驚きました。

さて本題の三十三巡りは西国巡礼開祖縁起と呼ばれその起源は、718年に長谷寺の徳道上人が亡くなり冥府の入り口に来た際に閻魔大王に会い、最近地獄にくる者が増えて大変である。日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば功徳があるということを聞き、その内容を現世に伝える為にそれぞれの宝印をあずかって現世に戻ってきた。甦った徳道上人は人々に説いてまわったが広がらなかったために期が熟するのを待つためにこの宝印を中山寺の石棺に納めた。

その270年後、花山法皇は17歳で即位したが19歳で出家。3人の公家を連れて紀州那智山で修行をしていたところ熊野権現が姿を現して徳道上人の話しを知ることになる。中山寺で宝印をさがしだし、河内国石川郡の仏眼上人を先達として世間に西国三十三箇所巡りを広めた。

この由来から、三十三箇所巡りは、地獄へ行かない為の保証を取り付ける行為でその印のためにご朱印をいただくという意味を持ってる。
またこの由来とおりに三十三箇所意外に番外札所として下記が含まれている。

・三田市花山院(菩提寺) ※花山法皇がお祀りしてある
・桜井市 法起院 ※徳道上人の由緒
・山科区 元慶寺 ※花山法皇が出家されたところ。

また三十三箇所巡りの前には四天王寺、そして終わった報告を善光寺に行う事が
風習として残っています。

四天王寺と善光寺の関わりは、善光寺縁起絵巻に書かれておりこのご本尊の善光寺如来は最古の仏像であるといわれています。風習として1/7~15におこなわれる【御印文頂戴】では額にご印文をおしていただくと極楽往生できるとのこと。(落語にもなっています。)


寺門高僧記行尊伝や覚忠伝に三十三箇所巡りが書かれていますが現代と順番が違うことに注意。もちろん四天王寺が入っています。元々寺門とは天台宗の比叡山に本拠を構えるのを山門派と呼ばれ、民寺に構えるのを寺門派とよばれていたことから、三十三箇所巡りは天台宗寺門派が広めたと考えられ、時代を追うごとに現代の順番となっていく。っまた近畿からみて西国は九州等をあらわすが西国と名づけられたのは東国から見てと考えられていると同時に色々な巡礼が成立してくる。

この巡礼はアマチュアであるが中にはプロフェッショナルな巡礼が存在する。様々な事情で巡る事ができない人々の替わりに三十三度行者は笈を背負って巡礼を行う。

中には三十三箇所を1年に3回×11年続けることでその供養等が四天王寺にも見られこれを三十三度行という。河南町の仏眼寺からこの笈が4つみつかっており、住吉で5つ見つかった。実際には昭和30年まではおこなわれていたそう。

さらに上をいく行もあり、六十六部廻国巡礼がありこれは日本最大の巡礼で、写経した法華教を各国々の霊場に一部づつ納める行となる。その文献には四天王寺もリストアップされている。

2010 9/27天正遣欧少年使節

天正遣欧少年使節は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団で1590年(天正18年)に帰国しています。伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルティノの4人。


で・・なぜ天正遣欧少年使節がデビュー曲を引っさげて帰ってきたからなのです。。



前回の「シズガタケの七本槍」も大好きでしたww

2010 9/26 堺探索

堺はほんとうに色々な歴史がつまっている町で、簡単に行けそうでなかなな行けなかった場所に行ってきました。


<天誅組義士上陸遺蹟碑>(写真右)

孝明天皇の攘夷熱にうまく取り入り国事周旋を働いた長州藩。
そのポストを利用し都合よく立ち回ればよかったものの、エスカレートした行動に孝明天皇もさすがに不安になったご様子。そんな中に出た次の勅は「大和行幸の詔」「攘夷親征の群議」。これでは幕府のメンツが丸つぶれ。

大和行幸に先立ち一足早く中山忠光卿(明治天皇の叔父さん)を筆頭とした天誅組は幕府天領の五條を目指した。

一方、孝明天皇が不安を漏らした相手が悪かった。
中川宮朝彦親王が京都守護職会津藩。聞き付けた薩摩藩とが結託し、目に余る長州藩と奸臣久家を御所からの閉めだし作戦をたてて決行された。

そうとは知らない天誅組は、京都方広寺に8/14に集合し川を下り大阪八軒家をへて天保山から堺の旭橋へ。
上陸し堺の栄橋通から西高野街道(310R)を通り、狭山の報恩寺から富田林甲田の水郡善之祐宅。8/17に河内長野の観心寺にお祀りしてある楠公さん参詣をすでに終えて、五條の町で大量殺戮を起こしてしまっている。この五條の町は、幕府の直轄領であり天領、しかも交通の要所であるのに警備が手薄ということで目を付けられてしまい静かな町が一夜にして大変なことになりました。

ところが閉め出し作戦である八月十八日の政変により孤立した天誅組は、天皇が幕府に駆逐せよとの命令を受けた津藩、紀州藩等に鷲家て壊滅させられましまいました。

http://sweet-mikan.blogspot.com/2009/12/20091219.html


<土佐十一烈士記念碑>(写真左)

森鴎外の書いた<堺事件>に詳しく書かれています。

簡単に開設しますと・・・・慶応4年にフランスの領事ら一行は大阪から堺へ入ろうとしたが
堺の警備を担当していた土佐藩に事前通告が無かった為に堺へはいらせるのを阻止。
この同日、この領事らと堺で待ち合わせをしていた士官らはデュプレクス号は堺港にはいり上陸。
通報を受けた警備の土佐藩士らは帰艦を促したが言葉がうまく通じず混乱。
フランス士官らの中に土佐藩の隊旗を倒し、奪おうとした様子が見受けられたために発砲し騒動となった。結果フランス側に数十人の死傷者がでた。
フランス代表のロッシュは日本側へ抗議し犯人の斬首、陳謝や賠償を求めた。


当時の土佐藩藩邸は西区にある土佐稲荷神社。この場所でくじで切腹する20人を決めて翌日、切腹の会場となる堺妙国寺へ移動。定刻の夕暮れに開始・・・以下森鴎外の凄まじい描写を引用します。。

切腹はいよいよ午の刻からと定められた。
***割愛***
切腹の座の背後《うしろ》に控えた。

 幕の外には別に駕籠が二十挺据えてある。これは死骸を載せて宝珠院に運ぶためである。埋葬の前に、死骸は駕籠から大瓶に移されることになっている。
 臨検の席には外国事務総裁|山階宮を始として、外国事務係伊達少将、同東久世少将、細川、浅野両藩の重役等が、南から北へ向いて床几に掛かる。土佐藩の深尾は北から東南に向いてすわる。大目附小南以下目附等は西北から東に向いて並ぶ。フランス公使は銃を持った兵卒二十余人を随えて、正面の西から東に向いてすわる。その他薩摩、長門、因幡、備前等の諸藩からも役人が列席している。

***割愛***

 呼出の役人が「箕浦猪之吉」と読み上げた。寺の内外は水を打ったように鎮った。箕浦は黒羅紗の羽織に小袴を着して、切腹の座に着いた。介錯人馬場は三尺隔てて背後に立った。総裁宮以下の諸官に一礼した箕浦は、世話役の出す白木の四方を引き寄せて、短刀を右手に取った。忽ち雷のような声が響き渡った。
「フランス人共聴け。己は汝等のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」と云ったのである。
 箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手に取って、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入ったので、創口は広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創にさし込んで、大網を掴んで引き出しつつ、フランス人を睨み付けた。
 馬場が刀を抜いて項を一刀切ったが、浅かった。
「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。
 馬場の二の太刀は頸椎を断って、かっと音がした。
 箕浦は又大声を放って、
「まだ死なんぞ、もっと切れ」と叫んだ。この声は今までより大きく、三丁位響いたのである。
 初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭と畏怖とに襲われた。そして座席に安んぜなくなっていたのに、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とうとう立ち上がって、手足の措所に迷った。
 馬場は三度目にようよう箕浦の首を墜》した。


ご興味あるかたはぜひ一読くださいませ。
<青空文庫>
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2547.html


ちなみに妙国寺には、この堺事件の様々な遺品が残っています。


<標柱石>
北波止の突堤近くからの出土品。港を出入りする舟に対し運行上の注意を促す為に
新地方(港の管理に当る役所)が慶応元年に建立したと考えられます。

<船かかり致すまじく、内へ乗り入れ申すべきものなり>

2010 9/23  やぐら寄席於:法山寺

2010 9/23  やぐら寄席於:法山寺

昨夜深夜未明から明け方にかけて激しい雷雨。どっちかといえば雷がすごくておそらく今まで生きてきた中で一番怖い雷でした。さて開演14時ですが12時半に現地に到着。本堂内はすでにキレイにセッティングされてまだひっそりしている中で
あらら・・雀太さんがすぅぅっと高座に上がられなんか物憂げな表情。
「今朝方はすごぃ雷でしたねー」とお話させていただきますと「そのころはまだ飲んでてん・・」のお話をかわきりに、ご自身の落語に関するいろんなお話をさせていただきました。先日の某寄席でサインをいただいたことをしっかりと覚えていただいているとのこと。噺家さんがお客さんをしっかりおぼえてくださってるとはホントにありがたいことです。
実はこのやぐら寄席に行く前に回転すしでお昼をしようと車で出かけたときにおもいっきり笑福亭生寿さんに遭遇^^。色々とお話をさせていただく機会がありました。

かさねがさね・・ホントにありがたいことで、お客さん冥利に尽きますねーww


桂雀太 天災

いままでのパターンでは導入は<離縁状書いてもらう>ためにやってくる主人公だけど今回のパターンはちょっと変えておられました。現代にわかりやすくするための工夫をされたのかもしれません。
表情も所作もダイナミックでよく通る声をされているので観客をグイグイと天災の世界にひっぱりこんでくださいました。


桂雀三郎 宿替え

やぐら寄席の由来から、京橋時代のおもろい飲み方のお客のお話の段階ですでに大爆笑。本題ではあのおっちょこちょいな主人公の人柄が随所にちりばめられていて前回同様、確実に私たちを笑わせてくださいました。


桂雀喜 蝦蟇の油売り

流暢な啖呵売。また端正なお顔立ちがよくマッチしていて昔懐かしい住吉さんの境内の風景を思い出します。そのあとの泥酔した商人の変貌振りが秀逸でした。


桂雀三郎 天王寺まいり

いまの季節にピッタリの天王寺まいり。
境内の様子の中を描写する江戸鮨屋、竹独楽、亀山のちょん兵衛はん、のぞきからくり(ホトトギス)に中でもお乞食さんの描写はご自身自ら、「一番上手い」といわれていただけのことはあります^^
笑いどころ満載でサゲは定番の<無礙性にはどつけんもんや>。

2010 9/20 しこく8「恋女房おりょう 龍馬を語る」

しこく8「恋女房おりょう 龍馬を語る」
放送日:2010年 9月20日(月)午後11:30~21日午前0:13
これは四国限定で9/10に放送された番組で、今回BShiで再度放送されました。

番組内容:幕末のヒーロー・坂本龍馬の実像を、妻のおりょうが晩年克明に語っている。女優の富田靖子さんが、おりょうの言葉を読み解きながらふたりの波乱万丈の人生をたどる。

詳細内容:幕末のヒーローとして注目される坂本龍馬。龍馬の魅力はこれまで数多くの小説や映画で語られてきた。しかし龍馬の妻おりょうの存在、そして彼女が晩年、龍馬との愛の日々を語った事実はあまり知られていない。番組では女優・富田靖子さんがゆかりの地の京都・下関・横須賀を旅しながら、おりょうの言葉を朗読。騒然とした時代を大胆に駆け抜けた龍馬と妻のおりょうの人生を、詩的に描いたヒューマン・ドキュメンタリー。

【出演・朗読】富田靖子, 【語り】鈴木省吾
http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=101-20100920-10-10468


で・・・なにが言いたいかというと、【わが夫 坂本龍馬 おりょう聞書き】の文章が朗読されているということで、著者は大好きな先生の一坂太郎さんです^^

2010 9/19 第545回田辺寄席~新・じっくりたっぷりの会-笑福亭恭瓶の段~

第545回田辺寄席・長月席・昼席~新・じっくりたっぷりの会-笑福亭恭瓶の段~

今回は5月以来の田辺寄席の参加となりました。
股ケ池の蓮が元気いっぱいに広がっていて、前に見えるのが「蛇島」。
私が子供のときは蛇島とはつながっていなくて、ジャブジャブと腰近くまで水に浸かりながら渡ったものでした。





笑福亭生寿 牛ほめ

生寿さんご自身の事で、なかなか口にだして褒める事が苦手という件から、料理好きな師匠のお料理に対して上手に褒められなかったということをさらっと話されて本題に入られました。
生寿さんはイキイキと話しをされる表情や口調、所作の変化に富んでいるので、見ている側をぐいぐいと話の世界に引きずり込んで行かれる良さがあります。

笑福亭恭瓶 何考えとんね

初めて聞かせていただいたこのネタ。桂三枝さんのエッセンスがいっぱい入っているネタですね。子供をもつ親であれば一度はぶつかったことがある内容でした。

桂米輔 宿屋仇

はじめてお目にかかった桂米輔さん。プロフィールを調べにサイトへお伺いしましたところ「噺家の手拭」に見入ってしまいました。
さてお話のほうは聞きなれた「宿屋仇」。落ち着いた声量でわりと淡々と話されている印象でした。

桂文太 鷺取り

文太さんの鷺取りは今回で2回目で前回は今年の昭和の日のイベントでした。お話の後半で賑やかに織り込まれる「俄じゃ♪俄じゃ♪」が一番の聞かせどころで内容は前回とおんなじ。それでもつい引き込まれてわらっちゃいますよねー。
またいつも話題になるサゲにはびっくり♪座布団が見台の上に。。

笑福亭恭瓶 宮戸川

あれ?この話し・・どこかで聞いた・・でも思い出せない。。
ちゃんとストーリーも記憶とおり。たぶん「日本の話芸」で聞いたんじゃないかな?
で、マクラで恭瓶さんが言われていた通り、江戸前落語。ホントはスリリングな後編に入っていくらしいんだけれど今回は全編で終了。

たしか初めて聞いた時も時代背景が飲み込めず、半七が2階に上がり行灯に火をともす件で、あ・・明治かな?って・・それと
話しの内容に宮戸川がでてこないのでつい???ってなっちゃいました。

2010 9/18 俺たちの明日 ~坂本竜馬、中岡慎太郎!!幕末に散った壮絶な青春~

俺たちの明日 ~坂本竜馬、中岡慎太郎!!幕末に散った壮絶な青春~
(1980/05/08 木曜ゴールデンドラマ 21:02-22:54 )

幕末時代に精一杯生き、そして散った坂本竜馬、中岡慎太郎を中心に、若者たちのエネルギーを描いていく。幕末の京都。土佐を脱藩した坂本竜馬(中村雅俊)と中岡慎太郎(勝野洋)は二年ぶりに再会した。そこで竜馬は薩長同盟の構想をうち明けた。その後、竜馬は江戸に下り、勝海舟(石原裕次郎)に会った。今度は大阪・薩摩屋敷で西郷隆盛(梅宮辰夫)と会談し、薩長同盟の手応えを感じるが…。

主な出演:中村 雅俊(竜馬)、勝野  洋(中岡)、森下 愛子(おりょう)、多岐川裕美(お登勢)、沖  雅也(沖田)、石原裕次郎(勝)、梅宮 辰夫(西郷)、キャシー中島、范  文雀、河原崎建三、東野 英心、山本 紀彦、加賀まりこ、(ナレーター・米倉斉加年(米倉斎加年))

1980年の5月8日に一度だけ放映された【俺たちの明日】。これは版権の関係でDVDにもVideoにもされていませんがなぜか鑑賞する機会がりまして。(;・∀・)
中村 雅俊さんの超黄金期に作られただけ有る映画で、【俺達~】の関連では、俺達の勲章(S50)・俺達の旅(S50)・俺達の祭り(S52)・そして、ゆうひが丘の総理大臣(S53)と続き今回の俺達の明日(S55)となります。また同時に石原裕次郎さんや勝野  洋さんの当時の有名な番組の太陽にほえろ!はちょうど絶頂期だが、3年B組金八先生と重なり苦戦となった時期でもあります。

さてお話のほうは色々と突っ込みどころ満載ですが、全体的には明るーい雰囲気をもったあの人懐っこい笑顔をお持ちの雅俊さんの魅力がいっぱいです。BGMもスタジオ録音。音楽シーンを変えてしまったDXサウンドは皆無でアナログしてました。また和気藹々と、鹿児島への新婚旅行のシーンはちょうどジャストなタイミングの竜馬伝とまったく対照的。川へ飛び込み魚を素手で捕まえ、川原で焼いて食べながらあるく3人、竜馬がブーツを川に流してしまいあわてて追いかけるお茶目なシーンなどおもわずクスッてしちゃいました。

2010 9/18 教科書に書かれなかった幕末史 戊辰戦争

王政復古の大号令から戊辰戦争へのわずか1ヶ月間の間には色々な駆け引きがあったことは教科書には書かれていない。

舞台は江戸。撹乱作戦が起ころうとしていた。
薩摩藩邸(芝浦の三田)付近に檄文がまかれ、相楽総三を中心として500人の浪人らが大集合。
薩摩藩邸が三田糾合所と名前を変え、その目的は天璋院 の護衛のはずが実体は御用強盗。ますます悪くなる江戸の治安。
当時江戸警備を担当していたのは庄内藩(酒井家)。12/25未明にこの三田糾合所を攻撃し50人あまりが死亡する事件が起こる。(江戸薩摩藩邸の焼討事件)首謀者は京都へ脱出し、12/28には大阪にいる幕府軍に伝わり、同時に1/1には薩摩藩邸の西郷に伝わる。これは、開戦の口実ということで大いに喜んだらしい。

場所はかわり京都。

12/9に発せられた王政復古の内容を二条城にいる慶喜さんに伝えに行く役は「松平春嶽」さん。
実に嫌な役。つい先日は後藤象二郎さんから、慶喜さんは<議定>にいるはずと聞いていたが結果はつまはじきにくわえて、官位の剥奪。。

12/10には慶喜さんは激怒。この時二条城には旗本5000人+会津3000人+桑名1500人が居たので即、会戦でもよかったが慶喜さんはぐっとこらえて大阪城へ移動。
彼の心の中には、「王政復古の内容は自分はつまはじきだが、かならず私は復帰できる」と信じていたから。
それが証拠に、お金の無い新政府。12/14には新政府の出納係の戸田忠至が5万両を借りに行き慶喜さんは貸し付けている。

慶喜さんの行いは色々と新政府に影響を及ぼし、12/28の三職会議が行われ、慶喜さんを前内大臣(さきのないだいじん)というポジションへ戻そうか?という話もあったらしい。
と・・そんな良い話の矢先に!・・・・・・・・・<江戸での話が飛び込んでくる。!>


慶喜さんの選んだ選択は京都へ攻め上ることを選んだ。
1/1には<討薩の檄(表)>が発行され、これは薩摩との私闘であり、朝廷には恨みはないことを表明。
薩摩を<奸臣>と呼び、ついに戊辰戦争に突入してしまう。
1/2には大阪から京都へ向かう15000人の兵。途中、鳥羽街道と伏見街道の二手に分かれて1/3の17時頃に開戦。

実は1/2には再度三職会議が行われており慶喜の新内閣入りの話がされていた矢先に出兵の情報が飛び込んできてすべてはNGとなってしまう。
元々、容堂さんや春嶽さんは慶喜さん側。この事態を知って怒り狂った容堂さんは、まわりに当り散らし、ついには議定を辞めると言い出し●●公家が懐のピストルでおもわず狙ったらしいが後藤に取り押さえられえる。

1/3は決着がつかずに淀城へ退却。
1/4は旧幕府15000人VS薩長5000人なので数の上では旧幕府側は楽勝。ところが東寺に錦旗が上がったことで情勢が変ってくる。旧幕府は賊軍で、薩長は官軍という図式になる。

1/5に淀城へ一旦退却を図った旧幕府。ところが淀城へは入れてもらえない。淀城は譜代大名因幡家。実はこの時、殿様は不在で城を守ったのは「田辺治之助」。一部、城の門が破られ、旧幕府が入ってしまったことの疑いがかけられるかもということで切腹してしまう悲劇がおこった。

イケイケ状態の官軍。1/4には三浦五郎(奇兵隊)が抜け駆けし淀の堤の千両松へ。この三浦五郎は明治になると梧楼と改名し韓国のミンピ暗殺の黒幕。反骨将軍と呼ばれた人。

1/6には山崎方面の津藩山崎家が官軍へ寝返りいきなり桑名藩を攻撃・・そんなときに またまた事件がおこる。

1/6 PM9:00に慶喜さんは大阪城を脱出して江戸へ逃げ帰ってしまい1/7には兵隊も大阪城から退散。1/9には城に白旗が上がる。

官軍との交渉には妻木田宮(つまきでんきゅう)が選ばれ、城内で旧幕府軍との交渉をおこなっている最中に不幸がおそう。
いまでも謎とされている大阪城の謎の炎上事件。この時点で大阪城は焼けてしまい戦後まで再建されない。大阪城のない大阪が始まった。

大正になり、「昔夢会」とよばれる渋沢栄一らを中心とした慶喜さんの聞き覚えを書き残す会が発足され当時の様子が書かれている。
大政奉還の真意はNG。<討薩の檄(表)>は原文はみたが私には責任は無い!とのこと。またなぜ、大阪から東京へ逃げ帰ったのか?については会津の家老<神保修理(じんぼしゅり)>に江戸へ帰って体制を立て直したら?と注進されたから。ということがわかっているそう。

2010 9/15 般若心経

先般の日記(2010 8/8)で<舎利禮文>に関して書きました。
たらったたったすったった♪と軽快なリズムにのせて読まれる<舎利禮文>に驚きました。

さてその後、第二段や第三段が有るとの事でさっそくチェック!
今回は<般若心経>シリーズです。

手法はなんでも良いとおもいます。
どんな形であれ若年層が興味を持つことが最初であり、いつか
本物のお経に触れたときに記憶の底から甦ってくるのですから。

新しい布教の手法でしょう。でも本人は布教と捉えていないから素晴らしいんでしょうね。

■ゴスペル風「般若心経」つのだ☆ひろ(コメ付)

ウーピーゴールドバーグ主演の「天使にラブ・ソングを」を彷彿させるような
ゴスペルサウンドに仕上がった般若心教。おみごとです。




■【初音ミク】般若心経ポップ【HD720p】

初音ミクを使ったシンプルかつクセになる画が特徴♪




■歌って覚える般若心

意味までちゃんと表してくれて、とっても親切・・・なの!

2010 9/6 幕末フェチに捧げるオススメの書籍

■維新風雲回顧録---最後の志士が語る (河出文庫)  田中 光顕


まず最初に著者の「田中 光顕」氏の経歴を読んで驚きました。


天保14年(1843)、土佐藩郷士。吉田東洋暗殺事件のひとり。那須信吾の甥にあたります。
土佐勤皇党に加盟、元治元年に脱藩し長州に身を寄せ大坂攪乱の失敗の後大和十津川に潜伏。
高杉晋作や木戸孝允と交わり倒幕運動に奔走。のち中岡慎太郎の陸援隊を継ぐ。維新後は兵庫県権判事や岩倉遣欧使節団、陸軍少将などを歴任し昭和14年(1939年)に没。


ということは96歳でお亡くなりになってるわけで幕末から昭和までを生き抜かれた事になります。そして驚くべきコトは、ドタバタの幕末の生き証人だったことになります。
最後の志士が語る維新風雲回顧録
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価格:840円(税込、送料別)

 



そしてあと1冊。。。これはまだ手をつけていません。(m´・ω・`)m ゴメン…。

■戊辰物語 (岩波文庫 青 431-1) 東京日日新聞社会部



 【中古】文庫 戊辰物語
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価格:150円(税込、送料別)

2010 9/4 彦八まつり

この週末は毎年恒例の「彦八まつり」。例年以上に暑い二日間となりました。


たしか昨年は11時からセレモニーでしたが今年は1時間繰り上がり10時からとなったためどのブースもドタバタで大変だったみたいです。

さて定刻になると昨年同様に笑福亭生喬さんの明るい声でスタート。そして今年の実行委員長の桂ざこばさんからご挨拶がありました。

「みなさん、おあよーございます。暑いけどどうぞ生きて帰ってください」の声に一同大爆笑で第20回彦八まつりが開始されました。

今年サインを頂戴したのは、(頂戴した順番)桂 枝女太さん・桂 坊枝さん・桂かい枝さん・笑福亭福笑さん・笑福亭福たまさん・林家染左さん・ABC芝田アナウンサーさん・林家染雀さん・笑福亭生寿さん・笑福亭小つるさん(来月には枝鶴さん襲名です)・桂小春団治さん・桂一蝶さん・笑福亭生喬さん・桂福丸さん・笑福亭銀瓶さん。

皆様本当にありがとうございました^^

そして戦利品は桂小春団治さんがツイッターで書かれていましたダーツに参加させていただきおっきなバッグを頂戴しました^^

2010 9/2 防災週間

淀屋橋で打ち合せがおわりツイッターを確認すると平松市長さんのメッセージが。。


そっかぁ。。。防災週間なので市役所の前にはしご車がきて。。。

ほぅ。。とりあえず行ってみようということで行ってきましたww








市役所の前ではしご車が鎮座してる横で口をあけて上を眺めていますと

横に居たおねーさんが一言。



「最後尾はここですよ」



うに?



なんだろ。。。ということでおねーさんのやや後ろに並んだ直後、私の後ろに

テープが張られ署員さんが「ここで終わりでーす」の声。


どうやらはしご車体験コーナーに並んだらしいwww



ヘルメットと腰に安全ベルトとカラビナをつけて地上40mの空のたびを楽しんできました。


最上部付近でひょっと左をみると、市役所最上階のフロアでデスクワークをされている職員さんの姿が

よくみえたので思わず撮影!

すると同乗してくださった署員さんいわく「そっちやなくて、風景を撮らなかんやん」と

突込みが(;・∀・)


あれから1時間たったいまでも足がガクガクしてますww

2010 8/28 染弥のそうかい落語会

初参加の落語会。大阪狭山市にあるSAYAKAホールが会場。立派な建物だし駐車場も完備されているので非常にありがたいです。
いつもながらの早めに到着。

林家染吉  金の大国

マクラを聞いて苦笑wwそれもそのはず、その不動産屋さんとは面識があるので話がおもいっきり身近なところ。
染吉さんは舌滑がよく聞き取りやすい声にオーバーぎみな上下なので好印象。おもいっきり若手でそのフレッシュな落語を堪能でしました。
さて、話のほうでは一枚の羽織の貸借りのシーンの間延びしがちな難所をうまく切り上げました
林家染吉さんの高座は昨年の秋以来(2009 9/27 染左開発計画)たしかに上手くなられたと感心しました。

笑福亭たま 陰陽師

目を引く羽織の紐。お洒落なたまさん、おもしろすぎです。マクラは自動販売機~新宿2丁目での話しでたまさんワールドに引き込んで行きます。
安倍野清明の子孫が現代にも陰陽師をしているという設定で取材に行く雑誌記者の男女と子孫が繰り広げるドタバタ劇。真剣におなかを抱えて何度も笑わせていただきました。
しかも実際の怨霊とのやりとりでサゲになだれ込んで行き大爆笑で終わりました。
もともと上下を振らないたまさんですが、数回ある怨霊の登場シーンなどで
ポイント的に使われることで迫力が倍増するんですね。
さてふと何気に、このネタはほかの噺家さんで出来るのかなって考えてみました。
おそらく出来るのはあと一人だけ。福笑さんだけでしょう^^

林家染弥 胴乱の幸助

ほんとに染弥さんの高座も久しぶり(前回は2008 11月「癪の合薬」)
マクラはパチプロとの会話でわりとあっさり目で切り上げて本題へ。
染弥さん「柳の馬場押小路 軒を並べし呉服店現金商い掛硯虎石町の西側に
主は帯屋長右衛門」お上手でしたが拍手のタイミングを逃してしまいました(^_^;)
さてお話のほうは途中色々とありましたが流れが途切れるようなこともなくサゲへ。
秀逸なのは帯屋の番頭と幸助の会話。番頭が京都弁で執拗に幸助の勘違いを笑うことで
幸助のトンチンカンぶりが浮き彫りになってきます。

2010 8/26 世界が回る!

あらら。。なんだか世界がまわってる。。



まわっているのは私の視界でした。



めまいが激しくて会社を休んでしまいましたww



熱中症と疲労かな。。。

2010 8/24 献花

2008年11月。

あるお取引先様のところで商談中に見せていただいた新聞の切り端。

そこにはお世話になった方がバイク事故で亡くなられたという記事が書かれていました。




それから1年半。

ようやくその現場へ行く事ができ手を合わせてきました。

8月お盆も過ぎ、ほんとうなら爽やかな風の一つでも吹いていそうなこの季節なのに
蝉の声すら聞こえない37度近くある神戸の山奥です。

本当に人の一生は短いもの。一歩先なんてだれも知る事ができないし、
幸せと不幸せは背中合わせ。

どうぞやすらかにお眠りください。

今日の日を一生忘れることはありませんから。

2010 8/22 三国アシスト亭 ~無茶修行の会~

第6回アシスト寄席が開催されました。正式には三国アシスト亭 ~無茶修行の会~というそうで、この会は、長い間演じられなかったネタや初めて高座にかけるそんなネタの予行練習的な意味を持っているとのこと。


だいたい私の落語情報はネットに頼るところが大部分でとくに【ねたのたね】は頻繁にチェックしています、しかし、このアシスト亭~無茶修行の会~は掲載されていないことから見逃してしまったり、また有名な地域寄席の田辺寄席と日程がかぶる事があったのでなかなか参加させていただ事ができませんでした。

今回はとてもラッキーなことに第1回にご縁があり参加させていただき1年3ヶ月ぶり。お葉書を頂戴した時点からとても楽しみにしていました。

会場は定員30名の喫茶アシスト。手作り感いっぱいの会場ですがそれでも第1回目のときよりも会を重ねるごとにスムーズな運営で今後が楽しみです。


旭堂南斗 : 角屋舟の由来 

旭堂南斗さんとお会いするのは初めてです。(開場には南舟さんもお見えになられていました。)
妙国寺で和尚とお茶を楽しんでいた時に本能寺の変がおこったことを知った家康。
どうやって畿内を脱出し三河に帰ったか。。。海路をふさぐ3箇所の関所をスリリングに突破したお話で心地よい緊張感が感じられる話し口調からすると初高座だったのかもしれませんね。



桂福丸 : 米揚げ笊

笑うところと違うところで笑ってしまって突っ込まれてしまいました(;・∀・)

笊=ザルであることが希薄になっていますが、今日の年齢層であればみなさんご存知でしょうね^^笑いどころだけどだれてしまう笊屋十兵衛さんの家を訪ね歩くシーンはスパッと削除し、ラストの上げ上げの会話は音楽で言うaccelerando!
次々とたたみかける会話がすべて笑いを誘いました。
「わからんことをわかると言うのがわからん わからんことをわからんと言うことがわかる」なるほど。。。そのとおり。。


旭堂南左衛門 :大久保彦左衛門・目擦りなます

「落雀の暑さ」(らくじゃくのあつさ)という言葉があるそうで、暑さでポトっと落ちた雀を猫が咥えたら火傷をしたらしい^^ 師匠の3代目旭堂南陵さんが戦争で中国へ赴任された際に様々なシーンで部隊長より講談をさせられたそう。WIKIで見ると1940年に真打に昇進されているので相当著名であったのでしょう。
大久保彦左衛門がしかけた賭け碁、景品は虎の皮100枚VS豹の皮100枚。とんでもない豹の皮のために珍しい目擦りなますを食べることに。。。見事にその光景が脳裏に再現されました。

笑福亭仁嬌:遊山船

仁嬌さんの話しは過去に何度かあり、印象深かったのは2010/2/21の田辺寄席の元犬と万国島巡り。いずれも楽しませていただき好印象。また会が終わったあとに話されていましたが、このネタは今日は初めてであったとのこと。まったくそんなことを感じさせることもなく笑いのツボをきっちりと押さえられていました。
さて、喜六清八それぞれの口調と上下できっちりと演じられていたのと、常に覗き込むようなその視線の先には本当に、げい衆、まぁ衆、なぁ衆、たぁ衆等が居るような。
浪速橋の上から喜六の家に帰ったシーンで戸惑いましたがそれでもちゃんと天窓やたらいに入る嫁の姿が浮かび上がりました。


桂枝女太:質屋蔵

この会とのご縁を作っていただいたのが桂枝女太さん。ネタは久しぶりに聞く質屋蔵 。
このお話も3年ほど前に1回やられただけとのこと。元々40分以上ある長いお話なので中々演じる機会が無かったとのこと。
私的にはいつも落語家さんには感心する内容に、それぞれのもち時間にあわせてお話をうまく編集するというところがあります。編集すると美味しい笑いどころがすっ飛んでいったり話の流れがいびつになったりするものですがこの質屋蔵はなかなか切り取る箇所が無いお話なのでしょうね。
マクラでちゃんと菅原道真公の話しをしておいて本題なのでなおさら長くなる傾向のあるお話なようです。
さて枝女太さん風の手伝いの熊五郎さんの描き方が面白しろく、昇り竜+下り龍のガマンを入れたいかにも腕っ節の強そうな男が呼びに着た定吉にまんまとしてやられたお茶目な面や、旦那に白状してしまう晩酌のお酒や漬物、味噌の一件、また夜更けに番頭さんと二人になったときに見せる怖がりで小心者な面がイキイキと感じる事ができました。


近年は落語ブームで、毎日たくさんの場所で落語会が開催されています、大ファンの私にとっては嬉しい限りです。そんな中で、落語を話す方からするときっと100人位入っていないと気が入らないのかもしれませんが、聞くほうからすると今日のような開場が良いのかもしれません。雰囲気が近いのが「町屋寄席」や「生野弁天寄席」かな?福丸さんってこんなに声量があったんだってビックリしたり、こまかい所作や視線を感じる事ができるのはやっぱり喫茶アシストさんくらいの広さなのでしょう。ぜひ次回11月のも楽しみにしています。

上方落語家名鑑ぷらす上方噺